2021年の年間読書テーマは「谷崎潤一郎の主要作品を読む」が7月初旬には終わってしまいそうなので、食わず嫌いの太宰治の作品を読むことに。谷崎のほうはまだちょっと残ってますが、先行して『津軽』をちょっと読み始めたところ、予想に反してすこぶる痛快であり読了しました。
1948(昭和23)年に39歳で入水自殺した太宰の、1944(昭和19)年、35歳の時の作品です。小山書店から「新風土記叢書」の一環として依頼を受け、5月12日東京を出発、6月5日帰京というスケジュールの津軽地方の探訪記です。
昭和19年5月は戦局は国民に知らされていなかったとは言え、敗色濃厚で、国内では食料が逼迫していた時期だろうと思います。
「探訪記」ではありますが、多分に脚色が強く、ルポルタージュに名を借りた自分探しの旅の小説をいう解釈でよいかと思います。
東北地方の一般的なイメージは「冬の厳しさ」でしょうが、旅の時期を初夏に設定し、食料も配給の酒もまだ逼迫しておらず、友人知己を訪ねて歩く旅と、初夏の花が一斉に咲き誇る津軽の景色は優雅そのものです。
幼少期の思い出の「序編」を前振りに、「本編」に入りますが、所々に東北の厳しさを思わせる記述があり、全体の飄々とした諧謔的な探訪記をひきしめています。
P4
津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みづ雪
かた雪
ざらめ雪
こほり雪
(東奥年鑑より)
P31
本編
一 巡礼
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
「さうして、苦しい時なの?」
P75
延々と続くN君の調べた津軽凶作の年表
太宰治はイメージと違って秀才勉強家らしく、本作を表すのに相当数の郷土資料を読み込み、事前に行程を立案し、立ち寄りたい友人知己親戚に事前にはがきを出しています。
ルポ(=小説)の構成も相当練られた感じがします。
『津軽』の白眉はクライマックスの乳母の「越野たけ」との国民学校の運動会での再開です。
P182
国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議は大宴会が催されている。海を越え山を越え、母を探して三千里歩いて、行き着いた国の果ての砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公になったような気がした。
P188
ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことがなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちのことを言うのであろうか。もし、そうなら、私はこのとき生まれてはじめての心の平和を体験したと言ってもよい。先年亡くなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議は安堵感を私に与えてはくれなかった。
<内容紹介>
太宰文学のうちには、旧家に生れた者の暗い宿命がある。古沼のような“家”からどうして脱出するか。さらに自分自身からいかにして逃亡するか。しかしこうした運命を凝視し懐かしく回想するような刹那が、一度彼に訪れた。それは昭和19年、津軽風土記の執筆を依頼され3週間にわたって津軽を旅行したときで、こうして生れた本書は、全作品のなかで特異な位置を占める佳品となった。
新潮文庫のサイトより
<タイトロジー(タイトルを読む)>
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ」
私もいい加減にとしをとったせいか、自分の気持の説明などは、気障な事のように思われて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言いたくないのである。
津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言われていたし、私も生きているうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のような姿で東京を出発した。(本書32~33ぺージ)
津軽 (つがる)
青森県西半部の地域総称名。津刈,都加利,都加留,津加呂,東日流,東鍛流,東海路とも書く。呼称が先行し漢字をあてたとみられ,《日本書紀》斉明1年(655)7月11日条記事を初見として,正史その他に頻出する。阿倍比羅夫の北征時に津軽郡領を任命したとするが,古代国家では郡を制度化せず,11世紀末まで蝦夷地として扱い,出羽秋田城の管轄下においた。この間に水田耕作も不十分ながら展開した。12世紀初期,鎮守府と平泉の管轄の下で,津軽四郡および西浜,中浜,外浜,湊などの中世的領域を形成。鎌倉幕府は蝦夷地支配上から特別の配慮を示し,北条氏を津軽全域の地頭に任命した。幕府滅亡後もこの政治的位置は変わらず,説話などにも特別に記載。十三湊日之本(ひのもと)将軍安東氏は代表的人物である。室町後期の南部氏支配を経て,戦国末期に津軽を統一した津軽為信が津軽藩祖となり,津軽も近世的秩序に組み替えられた。 遠藤 巌
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