2024年6月30日日曜日

[積読立読斜読] 『「黒い雨」訴訟』(小山美砂著、集英社新書、2022年)




 旧刊です。HIPの月例会で江波の「シュモ―ハウス」「江波山気象台」を見学しました。江波山気象台で原爆被害・台風被害に自らも被災しながらも観測を続けた観測者の人たちに焦点を当てたノンフィクションの傑作『空白の天気図』(柳田邦男著)を読み、気象台のスタッフが「黒い雨」の聞き取り調査を行っていたことを初めて知りました。

広島の原爆では直接被害にあった被爆者は救済の道が(全部ではありませんが)ありましたが、間接的な被爆である「黒い雨」の被爆者の救済は長らく行われていませんでした。


本書は毎日新聞記者で、希望して広島支社勤務となり、「黒い雨」訴訟を最初から丹念に追った労作。(なんと現在は退社してフリー、広島市在住だそうです)。


「黒い雨」被爆者について語り続けることは、核兵器以外の「ヒバクシャ」(原子力発電所、ウラン鉱山、核兵器の実験場)救済につながり、核兵器の拡散防止に繋がります。


「黒い雨」被爆者による集団訴訟の高裁の判決を受け「科学的知見がない」として上告しようとした厚労省・法務省の考えを退け、広島県知事・広島市長との面談を控えた、当時の菅首相が一転、上告を取り下げ、被爆者(健康)手帳の交付を伝えたのは、2021年7月26日。


p233

原爆投下から76年。戦後史の陰に追いやられてきた黒い雨被爆者に、やっと光が差した。否定され、後ろ指を指されても、確かに雨は降ったと証言することをやめなかった。

 

彼らは声を上げ続けることで「真実の訴えは届く」と、証明してみせた。


旧亀山村で雨を浴びた森園カズ子は、テレビ画面に大写しにされた菅を見つめて、なおも毅然としていた。そして、いつもの言葉を繰り返す。

 

「事実を訴えてきたんじゃけえ、当然よね。私たちは、嘘はつけないんだから」





<出版社のサイトより>

「黒い雨」訴訟

著者: 小山 美砂

      

なぜ、被爆者たちは切り捨てられたのか――。


広島の原爆投下から70年以上を経て、ようやく語られ始めた真実の数々。

「黒い雨」による被ばく問題を記録した、初めてのノンフィクション。


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原爆投下直後、広島に降った「黒い雨」。

多くの人がその放射線を帯びた雨による深刻な健康被害に苦しめられていながら、「被爆者」と認めて救済する制度はなかった。

雨を浴びた住民らは国に援護を求めて訴訟提起したが、解決までの道のりは長く険しいものだった。

なぜ、国は黒い雨被爆者を切り捨てたのか――。


本書は当事者の歩みをたどるとともに、米軍の被害軽視に追従した国の怠慢、非科学的な態度をあぶり出していく。

戦後70年以上を経て、ようやく語られ始めた真実の数々。

「黒い雨」による被ばく問題、その訴訟の全容を記録した初めてのノンフィクション。


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なぜ、黒い雨被爆者は戦後七五年余りもの間、置き去りにされてきたのか。

そこには、被ばくの影響を訴える声を「切り捨てる」論理があった。

これに疑義を唱え、被ばくを巡る救済のあり方を問うたのが、「黒い雨」訴訟だった。

黒い雨被爆者がなぜ、どのように切り捨てられ、そして何を訴えて援護を勝ち得たのか。

本書は、黒い雨被爆者が「切り捨てられてきた」戦後を記録した、初めてのノンフィクションである。

その記録は長崎で、福島で、そして世界中で今も置き去りにされている放射線による被害者を救う道しるべになると確信している。

(「序章 終わらない戦後」より)


【目次】

序章 終わらない戦後

1章 “降らなかった” 黒い雨

2章 選別される被爆者

3章 雨が「卵形」に降るか!

4章 「黒い雨」訴訟

5章 私たちは、嘘はつけないの

終章 切り捨てられる被ばく


【著者プロフィール】

小山美砂(こやま みさ)

毎日新聞記者。

1994年、大阪府生まれ。

2017年に入社し、希望した広島支局に配属。

被爆者や原発関連訴訟の取材に取り組んできた。

原爆報道キャップとなった2019年秋から、当事者の証言や思いを伝える連載「区域外の被爆者を訪ねて 『黒い雨』の原告は訴える」を開始。

以降、100人近くへの取材を通して被爆者援護の課題を発信してきた。

2022年4月~大阪社会部在籍。



<著者プロフィール>wikipediaより

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こやま みさ

小山 美砂

生誕 1994年

大阪府大阪市

国籍 日本の旗 日本

職業 ジャーナリスト、新聞記者

受賞 第66回JCJ賞


小山 美砂(こやま みさ、1994年 - )は、日本のジャーナリスト、新聞記者。元毎日新聞社記者。


来歴・人物

大阪府大阪市出身[1]。2017年毎日新聞社に入社した[2]。本人の希望により広島支局に配属され勤務し、広島原爆投下による被爆者などの取材活動をした[2]。2019年秋に広島支局で原爆報道キャップになり「区域外の被爆者を訪ねて 『黒い雨』の原告は訴える」と題する記事を連載し、被曝した当事者とその支援者計約100人に取材し、その証言を伝え、被爆者を援護する上での課題を明らかにしようとした[1][2][3]。この問題について2022年7月に集英社新書の1冊として『「黒い雨」訴訟』を刊行し[2]、2023年9月に第66回JCJ賞を受賞し、「日本の被爆者運動全体の歴史を含む(中略)「黒い雨をめぐる被爆者運動の俯瞰図」をまとめ上げた初めてのドキュメント」と評された[4]。大阪社会部勤務を経て、2022年12月末に毎日新聞社を退社。2023年1月からフリーランスとして広島を拠点に取材活動を続けている[2][5]。


趣味は焚き火、料理、酒[5]。

[その他] 10日と25日は'Punk in'(パン喰い)の日 Notte Bianca (中区昭和町)

6月25日(火曜日)にパン屋さんに行けなかった。

本日近くのケーキ屋さんに行ったので向いのパン屋さんでも買い物。

3組までの入店制限があり、結構な列でした。 





[同窓会] ほぼ皆(ほぼ皆実28期軽音楽部)の練習日

6月30日(日曜日)、月に2回練習してます。年に1回発表会。

本日は新メーンバーのNさん(ヴォーカル)も参加。




[新聞記事] 書評『男はなぜ孤独死するのか』、『政治はなぜ失敗するのか』

 



新聞は中国新聞と朝日新聞を定期購読。

土曜日だけ日本経済新聞をコンビニで買っています。

6月29日(土曜日)の日本経済新聞から書評2つ。

書評で読んだ気になる。


●『男はなぜ孤独死するのか』(トーマス・ジョイナー著)

著者はフロリダ州立大学心理学教授。


年間の男性の自殺者数、女性の約4倍(アメリカ)。

約2倍(日本)。キーは男性の「孤独」。


単身高齢者男性は女性の半分、男性孤独死は女性の約5倍(日本)。


本書は、豊富な臨床事例と心理学の知見に基づき、男性が女性に比べて、歳を重ねるにつれて

社会的なつながりを失い孤独になっていく理由を解き明かし、解決策を提示する。


「愛する人とつながり、お互いに助け合いたい」態度への移行が重要。



●『政治はなぜ失敗するのか』(ベン・アンセル著)

著者はオックスフォード大学政治学教授。


政治はなぜ失敗するのか。


個々の利益や選考と集団にとっての目標や最適解が食い違うことで生じる、

社会科学の最も基本的な知見である「集合行為問題」を怪傑出来ないため。


煩雑な政治の意思決定をあきらめた時、市場原理主義やポピュリズムが台頭する。


「民主主義を機能させるには私たちは議論の作法を学ぶ必要がある」




2024年6月29日土曜日

[積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治三十年 305—314




  [積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治三十年 305—314


305 馬の蠅牛の蠅来る宿屋かな


306 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂


307 夏来ぬとまた長鋏(ちょうきょう)を弾ずらく


308 若葉して手のひらほどの山の寺


309 菜種打つ向い合せや夫婦同志


310 麦を刈るあとを頻りに燕かな


311 大手より源氏寄せたり青嵐


312 青葉がちに見ゆる小村の幟かな


313 落ちて来て露になるげな天の川


314 冷ややかな鐘をつきけり円覚寺


長鋏を弾ず―剣のつかをたたくこと。待遇や地位に不平をいうことのたとえ。

[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)7月1日~7月8日

言志録

西郷隆盛が座右の書にしていた
『言志録』(佐藤一斎著)に、
次のような一節があります。

「真に大志ある者は克(よ)く小物を勤め、
真に遠慮ある者は細事を忽(ゆるがせ)せにせず」

「ほんとうに志のある人は、
小さなこともおろそかにしないで励むものである。

そして、真に遠大な考えを持っている人は、
些細なこともいい加減にしない」

という意味です。











 

[その他] 『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』



 加藤和彦のドキュメンターリー映画『トノバン』を観ました。


6月28日(金曜日)八丁座19時の回。年配の女性連れ、年配の夫婦、

が多く若い人はいませんでした。


映画はほぼ時系列で、加藤和彦と関係のあったきたやまおさむ、泉谷しげる、松山猛らの証言と、

加藤和彦の曲を交互にはさんで行く構成で、日本の音楽シーンの先端を走りながら、実際にはあまり知られていない功績の再評価の意味があります。


映画からの小ネタ。


プロデューサー・アレンジを担当した吉田拓郎の『結婚しようよ』(1972年)、『あの素晴らしい愛をもう一度』(1971年)のタン・タタンという特徴的なパーカッションは、サイモンとガーファンクルの『ボクサー』(1969年)の影響だそうです。『結婚しようよ』のパーカッションは加藤和彦(林立夫という説もあり)のインド土産の椅子を叩いて鳴らしたものだそうです。



https://youtu.be/_92IP7dJ1_w?si=68lmlbZCz71Vp9l0

THE BOXER - Simon & Garfunkel | lyrics【和訳】サイモン&ガーファンクル「ボクサー」1969



2024年6月27日木曜日

[あの頃のレコード] Fairport Convention "Liege & Lief" (1969) 

 



名前だけ知っていてちゃんと聴いてなかったフェアポート・コンベンション。

代表作が再発の180g重量盤でアマゾン経由で簡単に入手でき(良い時代になりました)、通して聴いてみました。


メンバーの出入りが激しく、バンドにとって1969年は3枚ものアルバムを発表する充実した年でした。この3枚のアルバムすべてでヴォーカルをとっていたのが、サンディ・デニー。


伝統的なイギリスのフォークソング(あまり音程の高低がない)、堅実なリズム隊とバイオリンの淡々としたリズムに、巫女的な幻想的なヴォーカルで、癖になります。


Liege & Liefとは、Wikipediaによると「忠実であり、準備ができている」。本作は英国南岸のハンプシャー州の州都ウィンチェスターに近いFarley Chamberlayneのカントリー・ハウスで1969年に録音された。当時の彼らの愛聴盤はザ・バンドの“Music From Big Pink”だったとのこと。オリジナルLPは全8曲で、うち5曲は英国のフォークソング、3曲はオリジナルである。トラディショナル曲のうちの1曲“Tam Lin”は、スコットランドのバラッド(Ballad:物語や寓意のある歌)であり、Tam Linはその登場人物名。


このアルバムの発表前に、サンディ・デニー(シンガー)はフェアポート・コンベンションを去る。


AllMusicでのレビューです。


Liege & Lief Review by Mark Deming

In the decades since its original release, more than one writer has declared Fairport Convention's Liege & Lief the definitive British folk-rock album, a distinction it holds at least in part because it grants equal importance to all three parts of that formula. While Fairport had begun dipping their toes into British traditional folk with their stellar version of "A Sailor's Life" on Unhalfbricking, Liege & Lief found them diving head first into the possibilities of England's musical past, with Ashley Hutchings digging through the archives at the Cecil Sharp House in search of musical treasure, and the musicians (in particular vocalist Sandy Denny) eagerly embracing the dark mysteries of this music. (Only two of the album's eight songs were group originals, though "Crazy Man Michael" and "Come All Ye" hardly stand out from their antique counterparts.) Liege & Lief was also recorded after a tour bus crash claimed the lives of original Fairport drummer Martin Lamble and Richard Thompson's girlfriend, Jeannie Franklyn. As the members of the group worked to shake off the tragedy (and break in new drummer Dave Mattacks and full-time fiddler Dave Swarbrick), they became a stronger and more adventurous unit, less interested in the neo-Jefferson Airplane direction of their earlier work and firmly committed to fusing time-worn folk with electric instruments while honoring both. And while Liege & Lief was the most purely folk-oriented Fairport Convention album to date, it also rocked hard in a thoroughly original and uncompromising way; the "Lark in the Morning" medley swings unrelentingly, the group's crashing dynamics wring every last ounce of drama from "Tam Lin" and "Matty Groves," and Thompson and Swarbrick's soloing is dazzling throughout. Liege & Lief introduced a large new audience to the beauty of British folk, but Fairport Convention's interpretations spoke of the present as much as the past, and the result was timeless music in the best sense of the term.

2024年6月24日月曜日

[その他] 写真で川柳 アマゾンをもののふ抜き手で泳ぎきり

 


ヤマト運輸の一応ユニフォームを着た女性のドライバー。

三輪原付きにカゴをたくさんつけて配送中。

座席の荷物は運転中は膝の上です。あっぱれ大和魂。


[積読立読斜読] 『原爆ドーム 再生の奇跡』(古川修文著、南々社、2022年)

 


平和公園を英語でガイドするHIPに先ごろ復帰しました。
平和公園のガイドでは当然、必ず、原爆ドーム、がガイドに入ります。
あまり詳しいことを知らなかったので通読してみました。


<内容紹介>アマゾンより

戦後20余年放置され、煉瓦は次々に崩れ、瀕死の状態だった原爆ドーム。

ドームを見事に生き返らせた奮闘の記録!


原爆によって平和な建物としての生命を失い、戦争破壊物として20余年放置された。

その間いろいろな苦難を経て修理保存されたドーム。

原爆ドームの主治医と呼ばれた建築家・佐藤重夫をはじめ、

全国から優秀な技術者と技能者たちが広島に結集する。


残すのか? 壊すのか?

戦後、市民は原爆ドームのことなど考える

余裕はなかったであろう。

しかし、60%の市民はドーム保存を望んでいた。

20余年、放置されて存廃にゆれた。

広島県物産陳列館とは、いったいどんな建物だったのか?

原爆ドームの数奇な運命をたどる。


巻頭口絵10ページ。貴重な写真や図版、資料が満載! !


<著者プロフィール>

【著者紹介】

古川修文 : 北海道伊達市出身。元法政大学工学部建築学科教授、博士(工学)。日本民俗建築学会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


<目次>

目次 : 第1章 建築観と戦後への決意―佐藤重夫の進む道/ 第2章 平和記念式典と平和記念公園の成り立ち/ 第3章 原爆ドームの運命/ 第4章 ドーム調査と広島市の決断/ 第5章 原爆ドームの回生/ 第6章 保存工事の検証―二つの大きな実績



https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%8F%A4%E5%B7%9D%E4%BF%AE%E6%96%87_000000000906359/item_%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0-%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1_13100067


2024年6月23日日曜日

[広島掃除に学ぶ会] 藤の木小学校トイレ掃除の会 6月23日(日曜日)




 6月23日(日曜日)藤の木小学校のトイレ掃除の会。児童・保護者、教職員、PTA、地域の方、雨の中、多数の方の参加をいただきました。皆様一所懸命トイレ掃除に取り組まれ、大変意義のあるトイレ掃除の会になりました。ありがとうございました。なお今回「ふるさと」「今日の日はさようなら」の斉唱にウクレレ・トリオがデビューしました(トリオ漫談ではない)。

2024年6月22日土曜日

[積読立読斜読] 『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』(ベンド・フリウヒア、ダン・ガードナー著、櫻井祐子訳、サンマーク出版、2024年)

 



[積読立読斜読] 『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』(ベンド・フリウヒア、ダン・ガードナー著、櫻井祐子訳、サンマーク出版、2024年)



原題は"How big things get done"、翻訳題名は少し品がない。


たまにはビジネス書を。書店でカバーが可愛かったので購入。


1000億ドルを超えるメガプロジェクト1万6千件以上のデータを分析し、成功と失敗の要因を探求したもの。プロジェクト成功の鍵は「3つの拍子」が揃うこと。


<3つの拍子>

戦略的整合性: プロジェクトが企業の戦略と整合していること

オペレーショナル・エクセレンス: プロジェクトを効率的に実行する能力

リーダーシップ: プロジェクトを成功に導くリーダーの存在


<成功事例>

アップルのiPod : 革新的な製品と戦略的なマーケティングによって、大成功を収めたプロジェクト。

ボーイング787プロジェクト: 新しい素材と製造技術を採用することで、燃費と性能を向上させたプロジェクト。

ヒトゲノム計画: 国際的な協力によって、ヒトゲノムの解読を成功させたプロジェクト。


<失敗事例>

ベルギー高速鉄道プロジェクト: コスト超過と工期遅延が発生したプロジェクト。

スペースシャトル計画: 莫大な費用をかけて開発されたが、安全性に問題があったプロジェクト。

ベルリン・ブランデンブルク空港建設プロジェクト: 10年以上工期が遅れ、巨額の費用がかかったプロジェクト。


<奇跡のプロジェクト>

トヨタ生産方式: 製造業における効率化と品質向上を実現したプロジェクト。

アポロ計画: 人類を初めて月に送り込んだプロジェクト。

マンハッタン計画: 原子爆弾の開発に成功したプロジェクト。



英語版のビジネス書では図解でまとめてくれている人がいて助かります。

2例紹介。


https://twitter.com/Rob_Dimeo/status/1736105398485004313




https://forums.ft.com/future-forums-megaproject-management-how-big-things-get-done




[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)6月24日~6月30日




 













[積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治三十年 295—304

 

301 すすめたる鮨を皆まで参りたり


302 不出来なる粽と申しおこすなる



 [積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治三十年 295—304



295 埋もれて若葉の中や水の音


296 漢方や柑子(こうじ)花さく門構(もんがまえ)


297 妾宅や牡丹に会す琴の弟子


298 虚無僧に犬吠えかかる桐の花


299 鞭鳴す馬車の埃や麦の秋


300 折り添て文にも書かず杜若(かきつばた)


301 すすめたる鮨を皆まで参りたり


302 不出来なる粽と申しおこすなる


303 五月雨や小袖をほどく酒のしみ


304 五月雨や四つ手繕う旧士族


295から311まで句稿(その二十五)にある句。


304 四つ手—四つ手網。四隅を竹で張り拡げたもので、水中に

沈めておき、時々引き上げて魚を捕る。

[広島掃除に学ぶ会] 平和大通り街頭清掃+平塚公園公衆トイレ清掃

 



6月22日(土曜日)、平和大通りの街頭清掃+平塚公園公衆トイレ清掃を行いました。15名の参加がありました。参加された皆様ご苦労様でした。ごみの量は以前に比べてかなり減ってきました。サミットを契機にたくさんのボランティアの方々が継続的に活動されているようです。平和大通りと周辺の京橋川護岸は緑の多い美しい街です。いつの日かごみゼロになることを願っております。

[写真で川柳] 短冊に世界平和とそっと添え

 ゆめタウン広島で七夕の飾りつけ。

短冊に勝手に書いて吊るしてもよいそうで。

個人的には願い事はあまりなく「世界平和」と控えめに書きました。




2024年6月20日木曜日

[新聞記事] 東京都知事選挙 N党によるポスター枠販売?!

賛同はしませんが、着眼点は面白い。




[ちらし・同窓会] 千田小学校100周年 一緒に演奏しよう 千田パンフルート合唱隊

 皆実28期の生徒会長だった島本君が代表の千田パンフルート合唱隊。

小学校の音楽の先生を長く勤め、

同期会でも校歌斉唱の指揮をとってもらったことがあります。

精力的に活動されています。




[同窓会] 皆実28期・谷山さん 広島地下開発の社長を退任

 


任期満了に伴う退任。

皆実28期の同期生の皆さんも65歳になって一線を退く時が来ました。

ご苦労様でした。

2024年6月18日火曜日

[積読立読斜読] 『グラマン戦闘機 零戦を駆逐せよ』(鈴木五郎著、光人社NF文庫、2024年)

 




以前アニメ映画の『この世界の片隅に』及び原作を熱心に読んだ時期があって、呉市内の戦争遺跡も何度か訪れました。

呉市の広に海軍の航空機を作っていた「第11海軍航空廠」があり(舅の円太郎さんの勤務先)門柱だけ残ってます。反対側の法面にはグラマン(F6F)の機銃掃射跡がそのまま残っています。1945年3月からの呉軍港空襲での被害です。機銃掃射は知っていたのですがグラマンのF6Fは艦載機で、問題はどこから来たかという点です。

ウキペディアによると室戸岬沖80kmから発艦したそうです。室戸岬から呉市まで約185kmですので、グラマンF6Fは往復で約600kmを飛び(1時間ぐらい)低空での機銃掃射を行って帰還したことになります。日本側も残存兵力で応戦はしたようですが、室戸岬沖まで航空母艦が進行でき、高高度を飛ぶ爆撃機ではなくて艦載機からの攻撃を受けたという時点で敗戦は避けられないことであり、終戦の決断が遅れた軍部・政府には憤りを感じます。

本書は店頭でみかけて購入。よくゼロ戦のライバルとされるF6Fですが、両機の設計思想の違いが、大きくは太平洋戦争の戦略的な違いから発生していることであり、その比較に興味があり読んでみました。F6Fに限らずグラマン社の創立から現在まで丹念な取材による良書です。

ゼロ戦が出現当時は傑作機だったとはいえ、総力戦下ではしょせん兵器の一つにすぎず、艦載の戦闘機は空母の運用も含め、戦略・戦術も含めての評価が必要です。F6Fにとって有利だったのはアメリカの太平洋上での戦略にブレがなかったこと。戦闘面での仮想的がゼロ戦ということでハッキリしていたことだと思います。一対一の巴戦を避け、複数の戦隊での運用に適した機体だったのでしょう。

米海軍が太平洋戦争中に空中戦で撃墜した日本軍機の実に80%近くは、F6Fヘルキャットが挙げた戦果だそうです。やぼったい外観、際立ったスペックを持たないF6Fヘルキャットは「偉大なる凡作」とのそしりを受けていますが「戦争に勝つ」にはゼロ戦も大和も必要ない、ということでしょう。


<内容紹介>
グラマン戦闘機 “強敵・零戦を駆逐せよ
(鈴木五郎著)

<目次>
  1 ビヤダル型戦闘機のデビュー
  2 F4F苦難の開発
  3 『零戦』と対決して敗退
  4 F6F「ヘルキャット」誕生
  5 日米、空の死闘
  6 太平洋の空を制す
  7 “零戦神話”の崩壊
  8 朝鮮戦争とグラマン
  9 その後のグラマン社

あとがき  グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機は、大空の王者「零戦」を、最初に地獄へと葬った戦闘機だった。
 同じグラマンF4F「ワイルドキャット」や、ブリュースター「バッファロー」を、1 対 1 でなら、ものともしなかった日本の「零戦」が、不意に現れたこの強敵によって、次から次へと撃ち落とされていく。
 太平洋を血の海に変えた米海軍奇跡の名機「ヘルキャット」とは、一体どのような戦闘機だったのか。

第二次世界大戦ブックス58

著者 鈴木五郎(すずき・ごろう)
1924年京都府生まれ。1943年学習院高等科在学中に、水上機の操縦訓練を受ける。
1944年三重海軍航空隊に入隊。1948年東京大学文学部卒業。翌年8月小学館児童編集部に入社。
1958年3月読売新聞社出版局入社、現在に至る。
日本航空機操縦士協会の機関誌「パイロット」に『世界航空事件史』を連載中。

  はじめに  米海軍の名機「ヘルキャット」 top

 第二次世界大戦を通じて登場した戦闘機は、交戦した各国のもの全部あわせれば、一〇〇機種をこすが、一応の成果をあげる活躍をしたのは、その半分といえよう。
 それをさらに“名機”という枠で絞っていくと、わずか一〇機種くらいになってしまう。
 アメリカのノースアメリカンP51「ムスタング」、リパブリックP47「ザンダーボルト」、ヴォートF4U「コルセア」、グラマンF6F「ヘルキャット」、イギリスのスーパーマリン「スピットファイア」、ホーカー「ハリケーン」、ドイツのメッサーシュミットMe109、フォッケウルフFw190、日本の零式艦戦(いわゆる「零戦」)、キ84「疾風」といったところが、それに属する。
 もちろん、各機にたいする評価は、各国により、また世界の航空評論家の見方によっていろいろちがっている。
 たとえば、性能的にはAクラスでも、その国への貢献度(戦闘実績)がBクラスならば、性能的にややおとっていても、貢献度Aクラスのものより評価がさがることもあるし、また、出現のタイミングが悪ければ、よいタイミングのものより損をする。
 さらに、局地迎撃用と長距離進攻用の違いとか、火力、稼動率、生産量などの点も、考慮にいれなければならない。
 このような観点から、総合的に採点してみると、P51「ムスタング」、スーパーマリン「スピットファイア」、メッサーシュミットMe109、零式艦戦などが、第二次大戦の戦闘機ナンバーを競うことになる。
 「ムスタング」は、時速七〇〇キロを上まわるスピード、ダッシュカ、上昇力および航続力で、日本の戦闘機よりおとる運動性をカバーして余りある戦闘力を保持していた。

 また「スピットファイア」は、潮のごときドイツの攻勢から“イギリスを救った戦闘機”としてジョンブル(イギリス人)の信頼を一身に集め、Me109は、高速一撃離脱の戦闘法と世界一の量産(三万五〇〇機)で、ナチの野望を一時的にではあるが可能にした。
 さらに「零戦」は、ずばぬけた運動性で、太平洋戦争初期から中期にかけ連合国空軍を徹底的に痛めつけている。
 いずれも第二次大戦当初から働き、改良されながら長期にわたって活躍したことが、他の機体よりポイントを稼いだきめ手となっている。
 その他、フォッケウルフFw190にしても、ヴォートF4U「コルセア」、グラマンF6F「ヘルキャット」、リパブリックP47「ザンダーボルト」にしても、それぞれ長所を大きく活かしての活躍が、名機に数えられる要素となっている。
 それらの中で、本来ならもっと高く評価されてもいいはずなのに、意外に地味な存在なのが、グラマンF6F「ヘルキャット(化猫)」である。
 「ヘルキャット」は、日本人にとって、終戦まぎわ「ムスタング」とともに本土を銃爆撃した憎い敵機だった。
 しかし、アメリカ人にとっては、おそるべきゼロ・ファイター「零戦」をばたばたと叩きのめし、太平洋の制空権を完全に奪ってくれた勝利の立役者なのだ。
 それなのに、アメリカで大もてにもてないのは何故だろう。
 その理由は、第一に、“ゼロ”の真の対抗馬として造られたグラマンF8F「ベアキャット」の方が、戦闘には参加しなかったものの、戦後もスピードレーサーとして活躍するほどの傑作機だったこと、第二に、「ヘルキャット」がせりおとしたライバルで、アメリカ人好みの高速機F4U「コルセア」のまもない復活の陰に隠れて、“出現のタイミングのよかった働き蜂”といった印象を一般にあたえたことだろう。
 しかし、性能の点での論議はともかく、太平洋で、反攻する米海軍機動部隊の主力機として、F8F「ベアキャット」にバトンを渡すことなく、日本機群を壊滅させた実績は偉大である。
 また、英海軍にも供与され「ヘルキャット2」の名で重宝がられていたことは、本機の使い良さを物語っている。
 「ヘルキャット」は、単に幸運のみでは果しえない、厳とした実力の賜物であり、十分に大関クラスの“名機”としての資格を備えている。
 もし“幸運の凡作機”だったなら、あれほど優位を保っていた「零戦」が、たやすく形勢を逆転されることもなかっただろう。
 昔から、日本人は身びいきする癖が強く、欧米人のお世辞や謙遜にすぐ悪のりする。
 たしかに「零戦」は、あらゆる要素を兼ね備えた万能戦闘機として、欧米人の度胆をぬき、「グレート・ジーク(偉大なる零戦)」とたてまつられた名機中の名機だった。
 しかし、重量の徹底的軽減に伴う構造の弱さやダッシュ力の不足、いつまでもパワーアップされないエンジンとスピード不足、防弾装置の欠陥というウイークポイントをもっており、これをカバーできるベテラン・パイロットのいるうちはよかったが、彼らを失いはじめるとともに、急速にその弱点をさらけだしてきた。
 「零戦」がよく戦ったということと、日本の勝利とがつながらないように、「零戦」につぐ新型機の登場があったところで、戦局にはさして影響がなかっただろう。
 そこには、国力が作用しなければどうにもならない問題があり、善戦した「零戦」は、まさに“悲劇の名機”とよばれるにふさわしい。
 その点、「ヘルキャット」は、偉大な国力をバックにして、性能をフルに発揮できた“幸運の名機”といえるかもしれない。
 それでは、この「ヘルキャット」は、どのような過程をへて“零戦キラー”になったのだろうか。
 それは単に、前作F4F「ワイルドキャット」を改良したというだけのものではなく、それより一〇年以上も前から、航空母艦用の戦闘機を主体としたグラマン社の、たゆみない研究と開発の成果がもたらしたものである。
 「零戦」を主体とした軽戦闘機に対抗するのに、艦載戦闘機としては大きすぎ、運動性もよくな誘うであるが、頑丈さと火力、防衛力で相手の小わざをはね返して圧倒するアメリカ的戦法は、結果的に成功をおさめ、その合理性を立証した。
 しかし、格闘性能にすぐれた「零戦」の優秀性を十二分に認識したアメリカは、アリューシャンで捕獲した、ほぼ完全な不時着「零戦」を徹底的に解明させ、アメリカ流ブラス日本芸としてF8F「ベアキャット」に具体化させた。
 それが太平洋戦線に投入される直前、戦争が終結して威力を発揮することはできなかったが、軍用機、特に戦闘機はこのような経過をたどって、常に相手より優位に立つよう、しのぎをけずるのだ。
 第二次大戦の終結で、F8F「ベアキャット」の生産が中止されると、グラマン社はすぐにジェット・エンジンつきのF9F「パンサー」を開発して、おりからの朝鮮戦線におくり、アメリカ軍の作戦を海上からたすけた。
 続いて超音速のジェット戦闘機ながら、運動性にすぐれたF11F「スーパータイガー」を造り出したが、これは昭和三十四年、日本の国防会議で航空自衛隊次期戦闘機の座をロッキードF104「スターファイター」とあらそい、「ロッキードか、グラマンか」で大きな話題となった。
 ごく最近も、F4「ファントム」(現航空自衛隊主力戦闘機)の後継機として、可変後退翼のマッハ二・五級双発艦載戦闘機F14A「トムキャット」を開発、ソ連のミグ25に対抗できるものとして生産に入り、すでに原子力空母「エンタープライズ」へ積みこまれている。
 グラマンの艦載戦闘機造りの手腕は、ますます冴えているといっていい。
 (ついでながら、アポロ宇宙船の月着陸船LMも、やはりグラマン社が製作した)
 こうしてみると、一九三〇年代から手がけられてきた艦戦のひとつのピークである、F6F「ヘルキャット」も、運ばかりではない実力の名機だったといえるだろう。

  あとがき top

 太平洋戦争でアメリカ海軍のグラマン「ヘルキャット」が、「零戦」のライバルとして闘ったことは余りにも有名である。
 しかし日本では、戦後三十年たった今日、なお「零戦」の勇戦譜のみが戦記ものや映画で派手に取上げられ、グラマン「ヘルキャット」の真の実績についてはほとんど知られていない。
 これは敗戦の結果、勝利を収めた部分や善戦したという過去をなつかしむとともに、手ひどくやられた古傷には、もうふれたくないという心理作用によるものと思われる。
 もちろんそれはそれでいいのだが、もう一歩踏込んで敗れた相手を大局的見地からよく見極め、正しく評価することによって謙虚に反省するとともに、将来への心の糧としなければ意味がないのではないか。
 徹底的に痛めつけられたグラマンF6F「ヘルキャッ卜」艦上戦闘機を、単に“憎いあん畜生”ではなく、“日本の恥部”をえぐりとってくれたメスと考えて書いた本編なのである。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/JP/gurman0.htm


<呉軍港空襲>
呉軍港空襲(くれぐんこうくうしゅう)は、太平洋戦争中、1945年の3月19日、7月24日、7月25日、7月28日、7月29日など複数回に渡って行われたアメリカ海軍を中心とした連合国軍空母機動部隊航空隊、及び、沖縄伊江島のアメリカ陸軍航空軍による呉軍港および瀬戸内海西部への空襲作戦。なお、この空襲とは別に、1945年5月5日に隣接地域にある広工廠空襲、6月22日に軍港内の呉工廠造兵部空襲、呉市街地が7月1日深夜から2日未明にかけて戦略爆撃(呉市街空襲)を受けている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2

<九州沖航空戦>
戦闘経過
3月18日、空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いるアメリカ第58任務部隊艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海に現れ、九州、四国、和歌山などの各地域を襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率いる第五航空艦隊(指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属する四式重爆撃機「飛龍」を含む)が反撃を開始した。神風特別攻撃隊を含めた日本軍機の攻撃で空母「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」が小破した。しかし、この日、日本軍は特攻機69機を含む攻撃部隊全193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上で損傷を受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機も47機の損害を出した。アメリカ軍機の損害は29機撃墜され、2機が損傷したにとどまった。

翌3月19日には、米機動部隊の一部は高知県室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近。艦上機部隊は主に瀬戸内海を空襲し、呉の軍港に停泊中の日本の水上艦艇の一部を攻撃。軽巡洋艦大淀が中破、空母天城、龍鳳及び戦艦榛名、日向、巡洋艦利根が小破するなどの被害が出た。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6

<『永遠のゼロ』>

小説には、当時のパイロットがどれほど過酷な戦闘をしていたかを表す記述があります。

ある戦闘では、一個中隊でゼロ戦に乗って約10時間かけて戦場に向かいます、その間、常に敵への警戒を怠るわけにいかず気が抜けません。実際に戦場に付くと、数多くの敵戦闘機を相手に物凄い集中力で空中戦をおこないます。この間30分から1時間です。その後、戦闘を終えたら、また10時間かけて帰路につきます。往復の燃料を確保するために、当時のゼロ戦は、極限まで機体を軽くするようにしていたため、動きは素早かったそうですが、その分装甲が薄く、被弾すると途端に脆く墜落するリスクがありました。

https://zero-animelife.com/eien-0



2024年6月17日月曜日

[同窓会] ほぼ皆軽音楽部ライブのお知らせ 11月17日(日曜日)16時から

 ちょっと気が早いですがライブのお知らせ。

東区の東区民文化センターで堂々開催。



2024年6月16日日曜日

[その他] a day in the life 6月16日(日曜日)父の日

 


隣家の長女が主催。

父の日なのか祖父の日なのかは不明。

家族で食事会。



孫の智博君は最近書道教室に通っています。

[同窓会] 6月16日(日曜日)皆実28期軽音楽部(ほぼ皆)の練習日

 女性3名、男性2名、孫のT君(カホン)が参加。


採れたて野菜の差し入れあり。


1人を除いて皆実28期なのでバンドの略称は

「ほぼ皆(=ほぼ皆実28期軽音楽部)」です。





[積読立読斜読](終活断捨離文庫100冊プロジェクト)『アメリカの鱒釣り』(リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳、新潮文庫)

 [積読立読斜読]『アメリカの鱒釣り』(リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳、新潮文庫)


終活断捨離文庫100冊プロジェクトの一冊。


『アメリカの鱒釣り』は60年代カウンターカルチャーのカルト作家、リチャード・ブローティガンの代表作。


実際に執筆されたのは1961年から62年にかけて。アメリカでの単行本は1967年。注目したいのは日本語訳が1975年で、

世界同時出版がめずらしくない昨今と比べて、インターネットがない時代のオリジナル言語から翻訳までの時間が結構かかること。

ブローティガンの受容は日本ではこの時間差が逆に良い方に向い今日でもスタンダードとして文庫で手軽に読むことができる作品として残りました。


日本の読者が幸福だったのは、(1)藤本和子という稀代の翻訳家が翻訳したこと、(2)日本での出版社が70年代のカウンター・カルチャーの一翼を担った晶文社であったこと、

(3)装丁者が平野甲賀であったこと、という点で、アメリカ本国のビートニク・ブームに乗ってすぐに別の編成で日本語版が出たら、本国と同じように一時のブームとして終わった可能性が高いのでは。



ここらあたりの事情は同じリチャード・ブローティガンの新潮文庫版『芝生の復讐』で翻訳家・岸本佐和子の解説が理解しやすいです。


p265

リチャード・ブローティガンは、本国アメリカではビートニク文学を代表する作家として一時期もてはやされ、そしてビートニクと一緒にほとんど忘れ去られてしまった。

だがその間も日本では熱心なファンによって読み継がれ、ここ数年で相次いで復刊され、再評価の動きが高まっているのは、ひとえに藤本和子という理想の紹介者を得たからだろう。

この翻訳でなければ、そして『アメリカの鱒釣り』のあのすばらしい訳者あとがきがなければ、ブローティガンが日本でも進化を理解されないまま、単にちょっとシュールで幻想的なことを書くユーモア作家として、

面白がられ、すぐに忘れられていたかもしれない。私は藤本和子のいなかったアメリカの読者を、気の毒に思う。(2008年2月)。



ブローティガンが『アメリカの鱒釣り』で目指したのは巨大なアメリカの既存体制を「鱒釣り」に置き換え、柔かい反体制小説としての救済と思いますが、

ブローティガンは自分の書いた作品で自分を救済することができず、1984年にピストルで自殺してしまったのが残念です。


<内容紹介>

二つの墓地のあいだを墓場クリークが流れていた。いい鱒がたくさんいて、夏の日の葬送行列のようにゆるやかに流れていた。――涼やかで苦みのある笑いと、神話めいた深い静けさ。街に、自然に、そして歴史のただなかに、失われた〈アメリカの鱒釣り〉の姿を探す47の物語。大仰さを一切遠ざけた軽やかなことばで、まったく新しいアメリカ文学を打ちたてたブローティガンの最高傑作。


<著者プロフィール>

リチャード・ブローティガン(Brautigan,Richard)

(1935-1984)1935年ワシントン州タコマ生れ。1956年、ケルアック、ギンズバーグらビート・ジェネレーションの作家が集うサンフランシスコへ。だが彼らとは一線を画し、7年におよぶ長い詩作の時間をすごす。1960年代はじめ、初の小説『アメリカの鱒釣り』を執筆。1967年に刊行された同書は世界中で200万部のベストセラーに。ブローティガンは一躍カウンターカルチャーのイコン的存在となる。その後、『芝生の復讐』『西瓜糖の日々』『ビッグ・サーの南軍将軍』(いずれも藤本和子訳)など、イメージの万華鏡ともいわれる風変わりで愛すべき傑作を執筆。1984年、ピストル自殺。


<訳者紹介>

藤本和子(フジモト・カズコ)

1939年東京生まれ。翻訳家・作家。1975年、初めての訳書、ブローティガン『アメリカの鱒釣り』を刊行。作品の魅力をまっすぐに伝えるその斬新な訳文は、のちの翻訳にも大きな影響を与える。訳書に、ブローティガン『芝生の復讐』『西瓜糖の日々』『ビッグ・サーの南軍将軍』『ホークライン家の怪物』『東京モンタナ急行』ほか、トニ・モリスン『タール・ベイビー』、レイチェル・ナオミ・リーメン『失われた物語を求めて』など多数。著書に『リチャード・ブローティガン』『ブルースだってただの唄』『イリノイ遠景近景』ほか。編訳書に、シドニー・W・ミンツ『〔聞書〕アフリカン・アメリカン文化の誕生』がある。イリノイ州在住。


<装丁者のプロフィール>

平野甲賀(ひらの・こうが)

1938年、京城(現ソウル)生まれ。武蔵野美術学校デザイン科卒業。グラフィックデザイナー、装丁家。高島屋宣伝部、京王百貨店宣伝部を経てフリーデザイナーとなる。64年から晶文社の装丁を手がける。73年「ワンダーランド」創刊。78年「水牛通信」「水牛楽団」参加。84年「講談社出版文化賞」ブックデザイン賞受賞。92年「文字の力」展。2013年「平野甲賀の仕事1964-2013」展。著書に『平野甲賀 装幀の本』(リブロポート)、『平野甲賀〔装丁〕術・好きな本のかたち』『文字の力』(晶文社)、『僕の描き文字』(みすず書房)などがある。

https://book.asahi.com/jinbun/article/14336182