日清戦争 (にっしんせんそう)
1894年(明治27)から翌年にかけての日本と中国(清朝)との戦争。
明治二十七・八年戦役ともいう。中国では甲午中日戦争と称する。
[戦争の期間]
日清両国の正規軍が戦闘を開始したのは1894年7月25日(宣戦布告は8月1日)で,講和条約が発効して日清両国の関係が回復したのは95年5月8日であり,国際法上の日清戦争の期間はこの約9ヵ月間である。
しかし日本軍が外地で軍事行動をとったのは,朝鮮王宮を攻撃して朝鮮国軍を撃破,朝鮮政府を親日派に交代させた1894年7月23日に始まる。また日本が戦時大本営条例による大本営を設置して,戦時状態に移行したのはそれよりさらに以前の6月5日であった。講和発効後も講和条約で日本に割譲された台湾の軍民は日本の占領を認めず武力で抵抗したから,日本の軍事行動は公式にも95年11月18日の台湾鎮定宣言までつづき,大本営復員による日本の平時状態への復帰は翌96年4月1日である。
以上のように戦争期間が不明確な理由は,日清戦争が次の三つの戦争の複合だったからである。
(1)朝鮮に対する宗主権の維持をはかる清国を朝鮮から排除して,朝鮮を保護下におこうとした日清間の武力紛争,
(2)その目的を達成したのち日本が戦場を旅順,威海衛,澎湖島という東アジアの戦略要地にひろげたために生起した中国分割をめぐる列強との紛争,
(3)朝鮮,中国東北,台湾など日本占領地域における民族的抵抗を抑圧するための朝鮮国や台湾民主国に対する民族抑圧戦争。
(1)は国際法上の戦争であり,(2)はロシア,ドイツ,フランス3国の武力干渉を誘発しながら日本が屈服したために未発に終わった帝国主義戦争であり,(3)は事実上の戦争でありながら,事変もしくは内戦とされたものである。
[戦争の原因]
清国は壬午(じんご)軍乱(1882)以後従来の朝鮮との宗属関係を事実上の保護属邦関係に変ずるとともに,日本を想定敵国として北洋艦隊とその根拠地である旅順軍港を建設し日本を威圧しようとした。これに対し日本は朝鮮を食糧と資源の供給地としてだけでなく大陸膨張の基地として支配下におこうとした。
山県有朋首相は第1帝国議会冒頭の施政方針演説で朝鮮を利益線と規定し,日本が存立するために不可欠で,他国の進出を許すことはできぬ地域と強調した。このため日本は6個師団の野戦軍と快速巡洋艦を中心とする新式艦隊を組織し,1893年4月には川上操六参謀本部次長に清国,朝鮮を視察させ,5月には戦時大本営条例を制定して開戦に備えた。
当時,朝鮮問題とならぶ日本の重要な外交目標は,不平等条約を改正することにより欧米諸国に対等な主権国家として承認させることであったが,ロシアの東アジア進出により脅威をうけたイギリスが日本に接近してきたため,成功の可能性が高まった。
陸奥宗光外相はこの情勢をとらえて改正交渉を進めたが,世論は完全な対等条約の一挙実現をのぞむ一方,居留地制度撤廃にともなう内地雑居をおそれ,政府を軟弱外交と批判する対外硬派を支持した。政府は対外硬派提案の条約励行建議案可決が排外主義を高進させ,対英交渉を挫折させることをおそれて衆議院を解散した。しかし,その結果反政府熱はかえって高まった。
朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。
[開戦外交]
金暗殺事件は日本の世論を激高させ,対外硬派は政府批判を強めて,5月末日内閣弾劾上奏案を衆議院に提出・可決した。日本政府は深刻な危機に直面した。同じころ参謀本部は清国が反乱鎮定のため出兵すると判断し,その場合は日清両国勢力の均衡を維持するため日本も出兵すると決定した。6月2日全羅道の首邑全州が反乱軍の手中に帰し,朝鮮政府が清国に援兵を請うたという急報を受けると,日本政府は反政府熱を外に向ける好機とみて衆議院の解散と公使館および居留民保護を名目とする混成旅団の派遣を決定し,まだ宣戦布告もなく戦時になっていないのに,5日には派遣軍統轄のために大本営を設置し,これで作戦用兵については軍が全権を握り政府の容喙(ようかい)を許さないことになった。
10日日本軍は仁川に上陸したが,日清両軍の出兵をまえに農民軍は政府と和約し全州から撤兵していたため,すでに出兵理由は消滅していた。清国代表袁世凱は日清両軍の同時撤兵を提案し,大鳥圭介公使もそれに同意して本国に増兵の中止を上申したが,無為の撤兵が反政府運動を再燃させる危惧と作戦用兵権が大本営設置により政府の手から脱していたことなどから,政府は既定の派兵計画を変更できなかった。
陸奥外相は駐兵継続の理由を得るために朝鮮内政の日清共同改革を提案し,清国が拒絶したときは清国を排除して日本が単独で改革を実行すると決定した。日本は政治的に受身の姿勢をとりつつ増兵をつづけ,軍事的優勢を確保して開戦の時期をうかがった。これに対し外戦の準備のできていなかった清国では実権を握る西太后と李鴻章は,戦争の回避に努め,〈以夷制夷〉策をとりロシアに調停を依頼した。ロシアは日本に撤兵を勧告したが,ロシアの干渉が戦争の決意に裏づけられていないと見ぬいた日本は干渉を逆手にとって英清離間を策しつつイギリスとの条約改正交渉を有利にすすめ,7月16日ロンドンで改正条約(日英通商航海条約)の調印に成功した。これでイギリスの支持を確保した日本は翌17日御前会議を開き,朝鮮と中国にそれぞれ22日と24日を期限とする最後通牒を送ることを決めた。
[戦争の経過]
朝鮮に対する回答期限が満ちた7月23日早暁,日本軍は朝鮮王宮を守備する朝鮮軍と交戦し閔派政府を倒して大院君を執政とする親日政権を樹立し,暫定合同条款締結のほか清国との条約廃棄を強要し,清軍攻撃の口実をえた。同日日本艦隊は出撃し,25日,牙山に清兵を輸送中のイギリス船籍の商船高陞(こうしよう)号を撃沈,護衛艦を撃破した(豊島沖海戦)。増援軍海没のため劣勢の清国軍は29日成歓でも敗北した。海陸の勝利をおさめた日本は8月1日,朝鮮の独立維持を戦争目的とした宣戦の詔勅を布告したが,閣議は他方で事実上は朝鮮を保護国とする方針を決め,鉄道,電信,鉱山の利権獲得をはかった。9月15日大本営は天皇親率のもと広島に進出し,国民に長期戦の決意を示した。翌16日の平壌攻略により全朝鮮を制圧し,17日の世界最初の汽走艦隊の海戦である黄海海戦に勝利して黄海の制海権を握ると,大本営は中国本土に侵入を指示し,戦争は中国分割戦争に転じた。
天皇は開戦から復員まで87回にわたり大本営御前会議を催し,終始積極的に戦争を指導した。イギリスは戦火の拡大が貿易を混乱させることをおそれ,朝鮮独立の保障と戦費賠償の2条件で日本に講和を勧告したが,政戦両略を一致させるためとくに大本営に列することを許された伊藤博文首相は,即時講和と陸軍の主張する北京攻略にともに反対し,威海衛攻略による残存清国艦隊の全滅と台湾進攻を進めて講和条件を有利にせよと主張した。日本が戦争目的を転じた結果民衆の抵抗が激化すると,日本軍は旅順で住民虐殺事件を起こし,朝鮮でも抗日反乱が再起した。
[講和と三国干渉]
清国はたび重なる敗戦により講和を望み使節を派遣したが,占領地域が不十分なため講和はなお時期尚早とみた日本は全権委任状の不備を理由に交渉を拒否,李鴻章の任命をまって3月20日下関春帆楼で講和会議を開いた。会議は日本が過大な条件を固守したため難航したが,李全権を狙撃・重傷を負わせる事件が起こり,国際世論の非難をおそれた日本の条件緩和をへて4月17日調印をみた。この講和条約は下関条約といわれるが,その内容は,(1)朝鮮の独立承認,(2)遼東半島,台湾,澎湖諸島の割譲,(3)軍費賠償金2億両(約3億円)の支払い,(4)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権を日本に認める新条約の締結,などであった。通商上の特権中にはイギリスが希望していた開港場における製造業従事権が含まれているが,これは予想されるロシアの干渉にイギリスの参加を阻止する含みから挿入されたといわれる。日本が中国の心臓部に分割の刃をいれ遼東半島を割取したとき,列強はまだ中国分割の準備が整っていなかったことから,日本を抑えて分割を先にのばす道を選び,4月23日ロシア,ドイツ,フランスは武力を背景に日本に遼東半島の還付を勧告した(三国干渉)。ドイツはロシアが東アジアに鉾先を向ければ東方国境が安全となり露仏同盟に〈くさび〉を打ち込めるとみて同意した。東アジア情勢がヨーロッパ政局に緊密に結合するという帝国主義時代の特徴があらわとなった。そこで陸奥外相はイギリス,アメリカ,イタリア3国を後援として三国干渉に対抗しようとしたが,イギリスの拒否により,5月4日遼東還付を余儀なくさせられた。戦争の軍事的勝利にもかかわらず,戦争目的の重要部分を達成できなかったことで,国民は深刻な挫折を味わった。政府は民間に燃え上がった遼東還付の責任論を国力不足にすりかえ,〈臥薪嘗胆(がしんしようたん)〉のスローガンのもとで,国民を対露報復とそのための軍備拡張に動員した。
[台湾占領と朝鮮支配]
日本は朝鮮から清国を排除したが,日本は朝鮮を単独で支配するだけの資本輸出能力をもっていなかった。強大なロシアの進出を阻止するために陸奥外相は朝鮮に列強の利権を引き入れようとしたが,陸軍が撤兵と朝鮮の開放に反対したため,民衆の抗日運動(義兵闘争)はひろがり日本の影響力は減退した。中国から割取した台湾で住民は日本の領有に反対し,1895年5月25日台湾民主国(大総統唐景館,副総統兼義勇統領邱灯甲)を設立した。このため日本は台湾に5万の陸兵と艦隊を送り込み,5000人の死者と1万7000人の病者の犠牲を払い,4ヵ月の戦闘後ようやく全土占領を宣言したが,抗日武装闘争はつづいた。
清国から流入した遼東還付の代償金を含めた約3億5000万円の償金はロシアを標的とする軍備拡張のための戦後10年計画の資金となり,また日本を国際金融市場に登場させるために不可欠な金本位制の基金となった。軍隊の先頭に立って戦勝を導いた明治天皇制は日清戦争の勝利で社会的基盤を確立した。日本は戦後,中国への地理的近接性と相対的に強力な軍事力で資本の不足を補いつつ列強に伍して中国分割競争に参加した。一方,清国は敗戦によって弱体性を暴露し,さらに償金支払いのための巨額な借款によって列強からつぎつぎと利権をむしり取られ,急速に植民地化を深めた。こうして日清戦争は東アジアにおける帝国主義時代の開幕を決定した。
藤村 道生
【日清戦後経営】
日本は,日清戦争で軍事的勝利をおさめたものの,たちまちロシア,フランス,ドイツによる三国干渉(1895年4月23日)にあって,遼東半島を返還せざるをえなかった。この三国干渉は,世界がすでにバランス・オブ・パワーの帝国主義の時代に入っていることを日本の支配層に思い知らせた。こうして,1895年4,5月ころを境に〈戦後経営〉という言葉が,政界,軍部,財界,ジャーナリズムなどで盛んに使用されるようになった。〈戦後経営〉とは,一言にしていえば来るべき対露戦に備えての日本社会の帝国主義的編成替えの総体を指すが,具体的には軍備拡張,殖産興業,教育の振興,植民地経営の四つを基本的な柱としていた。
〈戦後経営〉の基軸は,軍備拡張であった。陸軍大臣山県有朋はロシアを仮想敵国として,攻撃的軍事力を飛躍的に増強する必要を説いた。この主張にもとづいて,陸軍では,従来の6師団から12師団への増強,騎兵および砲兵各2旅団の増設,砲台建設と兵器の製造・改良を骨子とする軍拡計画が作成された。また海軍では,甲鉄艦隊を主体とする主力艦隊と巡洋艦,駆逐艦,水雷艇による補助隊の拡張計画が作成された。しかし,この拡張計画を実現するためには陸軍で約9000万円(8ヵ年計画),海軍で約2億1300万円(10ヵ年計画)の巨費を必要とした。この巨額の財源をだれの負担において,いかに調達するかが大問題となった。
戦後財政計画を担当したのは大蔵省である。松方正義,阪谷芳郎らの大蔵官僚は軍部と異なって,軍拡に応じられるだけの国力の発達,民力の培養に重点をおいた。官営八幡製鉄所の建設,鉄道・電話の拡充,勧業銀行・農工銀行の創設などが大蔵省の構想にもとづいて行われた。また金子堅太郎を中心とする農商務省も商工立国論を唱え,綿糸,生糸,茶などの輸出産業の振興策を打ち出した。教育の面では,官界・財界への人材養成機関として,東京とは別個に京都に帝国大学が設立(1897)され,実業教育の拡充もはかられた(1902年,東京高等商業学校(一橋大学の前身)の拡充改組)。
第4の柱である台湾経営については,台湾領有後,日本は台湾人による武装抗日運動に直面した。日本政府の台湾出兵費・総督府民政費は膨張し,財政危機をまねいた。日本政府は地租,酒税などの増税によって,この財政危機をのりきろうとしたが,地主勢力の激しい抵抗にあって何度も内閣が倒れるという事態がつづいた。結局,1899年,第2次山県有朋内閣が増税を実現したが,台湾領有は政局不安定の要因とさえなったのである。反抗鎮圧後,日本政府は海運・鉄道網を整備したり,99年には台湾銀行を設置した。また台湾のショウノウ・砂糖取引をめざして,日本資本が台湾へ進出していった。こうして,〈戦後経営〉は日本資本主義の帝国主義への転化を促す契機となったのである。 中村 政則
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