2024年2月29日木曜日

[惹句どんどん] 太宰治

 内田樹先生のツイッター(?)からの引用。

太宰治の小説は苦手なのですが、こちらは良い「学問のススメ」。



2024年2月26日月曜日

[その他] a day in the life 2月25日(日) 軽音楽部の練習日

 


2月25日(日曜日)


第2第4日曜日は当方の自宅で「ほぼ皆実28期軽音楽部」という

高校の同期生で組んだバンドの練習をしています。

本日は練習日でした。

練習する場所がなくて母親の華道教室(日本間)を借りてます。


<本日の練習曲>

・遠い世界に

・あの素晴らしい愛をもう一度

・竹田の子守歌

・まちぶせ

・カントリーロード

2024年2月25日日曜日

[写真で川柳] あの人は今 猿猴川のドブネズミ

 字余りで恐縮です。現在毎週火曜日に掃除に行っている物件が猿猴川沿いにあります。

昔ラジオネーム「猿猴川のドブネズミ」という方がおられましたが。



昨今はドブネズミは生息していないようです。周辺地域の方失礼があればご容赦の程。

2024年2月24日土曜日

[晴れときどき英語のお勉強]『真・英文法大全』 CHAPTER 5-1 基本助動詞の詳説

しばらくサボっておりましたが再開します。


 CHAPTER 5 助動詞

5-1 基本助動詞の詳説


p201

5-1-2 may


[mayの核心] 50%半々

①許可「~してもよい」(してもしなくても良い)

②推量「かもしれない」(そうじゃないかもしれない)


①許可

You may spend up to $50 per day on meals when traveling for business.


②推量

It may or may not be true.


[FAQ]「~かも」などの英文の予想系の意味はどう判断(日本語訳)するのか?

「文脈判断」だが傾向がある


基本:助動詞の後に「状態動詞」がある→「予想」の意味を考える

例)may be 「かもしれない」 / must be 「違いない」

can't be 「ありえない」


注意:be動詞にも「動作」の意味があるため「予想」の意味にならない例外がある


I'll be back. 「(必ず)戻るよ」(beは「移動する」の意)


応用:be ~ing なら予想の意味が多い(進行形にすることで動作動詞を状態動詞化している)


p202

[会話で使われる May I ~?(「許可」を求める丁寧な聞き方)


May I have your name again?


May I take a five-minute break?


[答え方の例]

(許可)Sure. / Yes, of course. / Go ahead.

(許可しない)I'm sorry, but you can't. / I'm afraid not.


[応用] 許可のmayは目上の人には使わない

親子の会話

A:May I play on the swing?

B:You may.


You may go now. (退出していいですよ)試験会場などで


You may kiss the bride.(それでは誓のキスを)結婚式で


[資料]mayの細かい用法

①may not ~「~を許可しない・~じゃないかもしれない」

You may noto read the letter.「その手紙を読んではいけません」

He may not be sick.「彼は病気じゃないかもしれない」


②祈禱文(文語調)

May God bless America, and my God protect out troops. Thank you.

アメリカ大統領・バイデンの勝利宣言(2020年)


<追記>

20240227



[その他] 10日と25日は 'Punk in'(パン喰い)の日 ミスタードーナツ幟町店

 25日でもないしパン屋さんでもありませんが。

一時期安売りに走って業績低迷していたドーナツ屋さんですが最近は高級コラボ路線で復活だそうです。バレンタイン近くはゴディバとのコラボ商品が。

当方は「やっぱり古い人間でござんしょうかね。」(@鶴田浩二)なので、

フレンチクルーラーとオールドファッションで。





記事はこちらから。

https://biz-journal.jp/2023/02/post_333344.html






[広島掃除に学ぶ会] 2月24日(土曜日)平和大通り街頭清掃(ゴミ拾い)

 2月24日(土曜日)平和大通り街頭清掃を実施しました。15名の参加がありました。皆様ありがとうございました。平和大通りには以前に比べてゴミが少なくなりましたが、周辺の街路、中央分離帯、護岸などにはまだまだゴミが多いです。先川さんチームは飲み屋街の薬研堀地区(特別2時間コース)を担当されました。ご苦労様です。思いがけない場所に梅の花が満開。桜はまだかいな春遠からじ。引き続き活動を続けていきます。




2024年2月23日金曜日

[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)2月26日~3月3日

 日本を美しくする会の相談役、鍵山秀三郎さんの『凡事徹底「一日一話」』。

一週間ずつ読んでます。









[その他] a day in the life 宝くじふるさとワクワク劇場 in 呉

2024年2月23日(金曜日)、14時~、呉信用金庫ホール。

所要のあった呉でたまたまチラシを見たので。

配偶者と行ってきました。

おやつはもちろん「福住」のフライケーキを食べました。




2024年2月18日日曜日

[積読立読斜読](特別編)文庫本100冊プロジェクト開始

65歳になったのでそろそろ終活活動をしないと周囲が迷惑か。

義母を先日亡くしたのですが大量のモノがあり実家整理がまだ終わっていない。

映画『Perfect Days』の役所広司扮する主人公の平山はどうも小型定型化が好きで、

文庫本、カセットテープ、小さな鉢植え、モノクロ写真、などなど。

量が増えないので自分の手の届く範囲で生活できる。

朝日新聞記者の近藤康太郎さんの『百冊で耕す』を読んだのですが、「本は100冊あればよい」そうです。「百冊読めばよい」」ではありません。

しばらく読書会に通っていましたが、課題本を義務のように読むのが辛くなり、止めてしまいました。

というわけで自分の好きな「文庫本100冊で暮らす」プロジェクト開始します。(入れ替えがあるのでいつも定番とは限りませんが)。


↓こちらがスタート時点のラインアップです。


プロジェクト開始時の文庫本

『ナイン・ストーリーズ』
『日本世間噺体系』
『食は広州に在り』
『細雪』
『女のいない男たち』
『ロビンソン・クルーソー』





[その他] サウンドバーガーでコンポを組む

 昨年のクリスマスで、セルフ・プレゼントとして購入した「サウンドバーガー」ですが、出力がブルーツゥースとミニプラグの対応になっており、ダイソーでブルーツゥースのスピーカーを買ってみましたが、さすがにひどい音なので、いろいろ眠っていたスピーカーやアンプのキットを使ってコンポを組んでみました。





<アンプ>

エレキットの20Wステレオ・デジタルアンプ、PS-3246がなぜか眠っていたので組み立てました。(はんだごてが使えれば可能です)。



<電源>

これもなぜか眠っていたモバイルバッテリーを使用。「アマゾンでUSBーバラ線」コードを購入して基盤に直結しました。





<スピーカー>

雑誌『ステレオ』別冊のスピーカーキットが、これもなぜか眠っていたので使ってみました。(これは組み立て済でした)。



ばらばらで持ち運びは難しいですが、電源コードがないので屋外でも使用可能です。


音は予想以上によかったです。


ミントキャディー缶でいろいろな電子機器を作る人が多いようで、挑戦してみようと思いましたが、ミントキャンディー缶が近くのスーパーになく、あきらめました。ALTID'Sというミントキャンディー缶の作例が多いようです。






[新聞記事] 酒商山田 東広島酒どころに念願の出店

 


社長の山田さんは国泰寺中学の同級生でした。精力的に店舗拡大中で頑張っておられます。



↓過去に本も出版されていて同窓会でサインをもらいました。


2018年5月21日月曜日

 [積読立読斜読] 『戦わない経営』(山田淳仁著、ザメディアジョン刊、2016年)

https://28minami-owaki.blogspot.com/2018/05/blog-post_21.html


[積読立読斜読] 『日本の飛行艇』(野原茂著、光人社NF文庫、2021年)

 


単行本は2007年、光人社刊行。中学生の頃、当時の少年の通過儀礼としてプラモデルに凝ってましたが第二次世界大戦中の日本海軍の飛行艇「二式大艇」を作ったことがあります。仕事などでよく行く呉にあった日本海軍の直営工場・広海軍工廠では海軍の飛行艇も作っておりアニメ映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』では片渕須直監督の執念の時代考証で空襲被害から逃れた飛行艇が描かれています。映画では主人公すずさんの義理のお父さんの勤務先になっていました。




というわけで飛行艇には前々から興味がありました。前置きが長くなりましたが、文庫版の精密なイラストの表紙に惹かれて購入。


・大型の水上機を飛行艇、小型のを水上機と呼ぶ

・軍用としては現在使われていない

・真珠湾攻撃にも参加していた

・映画『紅の豚』の水上機は実際に運用されていたもの

・大艦隊同士の直接対決での勝利に固執した日本海軍の硬直した戦略から「大和」「飛行艇」を生んだ?

・第二次世界大戦中の日本の水上機・飛行艇の性能は世界のトップレベル


YouTubeで偶然見つけたのですが、イランには奇怪な小型の水上機(空は飛べないそうです)Bavar2という軍用機があるそうです。「表面効果翼機」という水上機だそうです。



民間では飛行場の建設が困難な地域や、観光用としては現役だそうです。



<書籍の説明>

内容説明

戦後もなお継承され、対潜哨戒飛行艇を生んだハイレベルな航空技術力―膨大な資料、写真、図面、データにより解明する超大型機の詳細!大海原上空を長時間飛翔して任務を遂行した巨人機たちの実力を明らかにする決定版。カラー口絵、精密四面図、詳細解剖図入り。


目次

第1章 世界の飛行艇興亡史

第2章 日本海軍飛行艇の系譜

第3章 九六式水偵、九七式飛行艇、二式飛行艇の機体構造(九六式水上偵察機;九七式飛行艇;二式飛行艇;二式飛行艇の機体細部写真集)

第4章 日本海軍飛行艇の塗装とマーキング/使用部隊慨史


著者等紹介

野原茂[ノハラシゲル]

1948年、栃木県生まれ。1978年以降、フリーの航空機イラストレーターとして、雑誌、単行本を中心に活動。仕事の対象は大戦中の日、独、米、英機が主だが、


https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784769813637

紀伊國屋書店のサイトより

             


飛行艇  

ひこうてい flying boat


水上に発着する飛行機のうちで,胴体を直接水につけて浮くもの。飛行艇の胴体は艇体と呼ばれ,水密構造に作られていて,下面はモーターボートの底と似た形をしている。これで水上を滑走して離水や着水をする。その際に上がる水しぶきからエンジンや翼を保護するため,主翼を高翼式に艇体の上に取り付け,尾翼も高い位置に置き,艇体は陸上機の胴体に比べると高さが高いのが外観上の特色となっている。また水上で横に倒れるのを防ぐため,翼端近くに補助フロート(小型の舟形のうき)をつけたものが多い。

 飛行艇は1912年アメリカのカーティス GlennCurtiss(1873‐1930)によって初めて作られ,第1次世界大戦から第2次大戦にかけては,各国の海軍や民間で,海上億戒や海上航空輸送に盛んに使われた。これは当時は今のような長い滑走路をもつ飛行場がなかったため,積荷と長距離飛行に必要な多量の燃料を積んだ重い機体を出発させるには,長い滑走のできる水面が各地に得られる飛行艇が有利であったことと,飛行中にエンジン故障などで不時着する場合の安心感などが理由であった。とくに1930年代は飛行艇の黄金時代で,プロペラ式4発・数十席・全幅40m程度の大型飛行艇により,北アメリカ~アジア間の太平洋横断,北アメリカ~ヨーロッパ,ヨーロッパ~南アメリカ間の大西洋横断などの,郵便や旅客の定期航空便が開設された。しかし第2次大戦中に大型陸上長距離機が発達し,世界各地の飛行場も整備されるに伴い,飛行艇は陸上機に比べ,空気抵抗が大きく,水上での取扱いや整備に手間がかかり,海水による腐食もあることなどで不利となり,戦後は陸上機に地位を譲った。今日,飛行艇は少数機が水上に発着できる特性を活かして,海上救難や億戒,空港のない離島への輸送,山林火災の消火(水面を滑走して水を機内に取り入れ,火災上空から投下)などに使われている。⇒水上機

                        久世 紳二


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水上機  

すいじょうき hydroplane∥seaplane


水上に発着するように作られた飛行機。ふつうの飛行機(陸上機)と違って車輪式の着陸装置がなく,代りにフロート float と呼ぶ舟形の浮きを機体の下につけていて,これで水に浮き,水上を滑走して離水や着水をする。胴体がフロートを兼ね,舟形の艇体となっているものは,ふつう飛行艇と呼んで水上機とは区別する。また水上機や飛行艇に車輪式の着陸装置をつけ,水上にも陸上にも発着できるようにしたものは水陸両用機と呼ばれる。水上機は整備された飛行場がなくても,海,湖,川など一定の面積をもつ水面さえあれば運用できるので,第2次世界大戦までは各国の海軍や民間で盛んに使われた。陸上機に比べフロートの空気抵抗が大きく不利なので,各地に飛行場が整った現在では,陸上機に比べその数は少なくなっているが,カナダ北部など地上交通が不便で湖や川の多い地方では,主要交通機関としてもっぱら利用されている。             久世 紳二


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ワシントン体制  

ワシントンたいせい 


第1次世界大戦後,西方におけるベルサイユ体制と対応し,東アジア・太平洋地域に樹立された国際秩序。ワシントン会議(1921年11月~22年2月)で成立した諸条約・決議を基礎としたのでこの名がある。

[背景]  第1次大戦は東アジア国際関係に大きな変化をもたらし,とくに日本の大陸進出は著しかった。戦後,日本がこの地歩を維持しようとする一方で,ヨーロッパ列強は勢力回復をめざし,戦勝国の一員となった中国は民族自決主義の台頭に力づけられて,大戦中日本に対して失った権益を回復しようとし,またアメリカは門戸開放政策を中心とする新秩序を,東アジアに樹立しようとしていた。以上の対立と並行して,列国とくに日米間には大戦末期以来海軍軍拡競争が進行中であり,各国の戦後復興にとって大きな負担となっていた。ここに W. G. ハーディング・アメリカ大統領は,軍備制限と東アジア・太平洋問題のための国際会議を提唱し,日本,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ポルトガル,中国の9ヵ国が参加することとなった。アメリカは,日本の中国進出の一支柱であった日英同盟が1921年に満期となることに着目し,これを終了させて新たな列国関係をつくり出すことを意図して,会議を提唱したのであった。

[日本の対応]  以上の背景から,日本では会議が日本封じ込めの性格をもつことをおそれる者が少なくなかった。しかし同盟国イギリスがかつての力を失って対米傾斜を強め,協約国ロシアをロシア革命で失っていた日本にとって,対米協調以外に外交的孤立を避ける道はなかった。しかも日本経済にとってアメリカとの貿易・資本関係は不可欠であった。ここに戦前からの対米協調論者であった原敬首相は,戦後の反軍国主義世論を背景に,可能な限り対米協調を貫く方針を樹立した。海軍大臣加藤友三郎,貴族院議長徳川家達,駐米大使幣原喜重郎の全権も,この方針で選ばれたものであった。原は会議直前に暗殺されたが,原の方針は続く高橋是清内閣にも引き継がれた。

[会議の成果]  軍備問題では,会議議長 C.E. ヒューズ・アメリカ国務長官の提案を基礎に,主力艦について10年間建造を中止し,既存艦の一部を廃棄し,保有総トン数の上限をアメリカとイギリス52万5000トン(5),日本31万5000トン(3),フランスとイタリア17万5000トン(1.67)に定めることを骨子とする海軍軍備制限五ヵ国条約が結ばれた。日本海軍の中には日米戦に備えて対米7割が不可欠であるとの意見が強かったが,加藤全権は日本の国力からみて対米戦は不可能と考え,これを抑えた。もっとも条約中には西太平洋での海軍基地増強禁止の規定があり,補助艦数制限の欠如とあいまって同地域での日本海軍の優位を高めた面もあり,条約は必ずしも日本にとって不利なものではなかった。

 東アジア・太平洋問題については,太平洋に関する四ヵ国条約と中国に関する九ヵ国条約がおもな成果であった。前者によって日英同盟の終了,日米英仏協調体制の樹立が約され,また後者によって,軍事力を背景とする〈旧外交〉から,門戸開放政策を中心とする平和的経済主義的〈新外交〉への転換が約された。これに対応して日本は,山東権益を中国に返還し,満蒙借款における優先権等の放棄・二十一ヵ条要求中留保項目の放棄・シベリアからの撤兵を声明し,またアメリカが中国における日本の特殊地位を承認した石井=ランシング協定を廃棄することとした。しかしここでも,日本が最重視した満蒙権益の主要部分については暗黙の支持を与えるなど,アメリカは予想外に妥協的であった。つまりアメリカは対日抑制だけではなく,日本を含む列国協調体制の樹立を重視していたのであり,アメリカのこの態度と,日本における対米協調・平和的経済主義的外交論者の政治指導とが,ワシントン体制を可能としたのであった。

[崩壊]  ワシントン体制は確かに東アジアと太平洋に新時代を画した。しかしそれは,在華外国権益の存在を前提とし,また中国と深い関係をもつソ連の参加を排除してつくられたものであった。つまり中国ナショナリズムもソ連も弱体であることが,その成立条件であった。しかし1920年代末には,中国国民党は中国統一を完成して国権回収を主張し,またソ連は政治的軍事的に無視しえぬ力となっていた。満蒙を対ソ国防上の〈生命線〉とみていた日本陸軍は,ここに,対米英協調から離脱してでも満蒙権益を擁護・強化すべきだとの主張を打ち出す。海軍においても,軍備制限条約以来補助艦建造に力を入れてきたことから,1930年ロンドン軍縮会議の補助艦制限に大きな不満をもち(統帥権干犯問題),ワシントン体制からの離脱を主張する勢力が力を増した。こうした背景に,日本は31年満州事変を引き起こし,さらに満州国建国・承認(1932),国際連盟脱退(1933),ワシントン海軍軍備制限条約廃棄通告(1934)によって,ワシントン体制を崩壊させたのである。   北岡 伸一


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2024年2月17日土曜日

[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)2月19日~2月25日

 







[その他] 東広島市立美術館「美は暮らしのなかにある 民藝」展に行きました

 2月17日(土曜日)東広島で夢拾いに参加したあと、東広島市立美術館で開催中の「美は暮らしのなかにある 民藝」展に行きました。昔から芹澤圭介さんの染色が好きだったので興味が湧きました。

名もなき人々によって長い年月をかけて完成した日用品には「実用の美」があり、物の少ない時代だったからこそ、数は少なくとも長く使える物を使っていたのでしょう。






芹沢葱介  1895‐1984(明治28‐昭和59)
せりざわけいすけ 

染色工芸家。静岡市生れ。1916年東京高等工業学校図案科を卒業。昭和に入って柳宗悦と親交を重ね,35年ころから民芸運動に参加,再三沖縄を訪れて紅型や赤絵を研究し,その手法をとり入れて型絵染を創始した。芹沢の型絵染は量産のための型染を超えて,型の表裏の利用,繰返しなどによって卓抜した意匠が構成される。また日本民芸館の家具設計,大原美術館の内外装,家具設計,装丁,版画など,その活動は多岐にわたり,民芸蒐集家としても知られる。第2次大戦後は多摩美術大学,女子美術大学などで後進の育成に当たり,58年型絵染技法による重要無形文化財保持者の指定をうけた。大原美術館芹沢館,静岡市の市立芹沢葱介美術館に多くの作品が集められている。                 伊藤 敏子

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民芸  
みんげい 

〈民芸〉という言葉は大正時代末に初めて用いられた新造語である。外国語でこれにあたる言葉がないので,フォーク・クラフト folk‐craft という言い方も日本で用い始められたのである。もっとも西洋にはフォーク・アート folk‐art とか,ポピュラー・アート popular‐art とかいう言葉は用いられているが,近ごろはピープルズ・アート people’s art という言い方も現れ始めた。アートは〈美術〉にも用いられるが,民芸という場合は,美術品ではなく民衆的工芸をさすので,西洋の用語と多少違う。
 工芸というのは実用的な生活的なもので,他の美術のように鑑賞を目的としたものではない。それゆえ工芸の美しさは〈用に即した美〉ということにその特性がある。日本で民芸という場合,この実用性を重要視するから,西洋でいうフォーク・アートやポピュラー・アートとはおのずから内容の違いが生じる。われわれ民芸運動にしたがっている者がアートという字を避けたのは,アートが主として美術品をさし,とかく個人的作品を意味するのに対し,〈民芸〉は非個人性を特色とするのであって,この無銘性にこそ,われわれは大きな価値を認めだしたのである。西洋でのものの考え方は個人中心に傾きやすく,在銘品を偏重する傾向が強いために,どうしてもアート,すなわち美術という文字を用いたがるのであろう。それゆえ内容的には,日本でいう民芸も,西洋でいうフォーク・アートも近似しているのだが,価値認識のうえからはたいへん違うのである。日本では民芸にみられる非個人性や無銘性に価値をおくが,西洋ではこの面の認識が遅れているのである。それというのも,個人中心の文化で,在銘品を尊ぶ習慣が濃いからである。もっとも日本でとくに無銘の民芸品の価値が西洋に先んじて重くみられるにいたったのは,歴史的背景がある。第1は茶の湯で,茶の湯では用器を尊び,そのうちの名器はほとんどいっさい無銘品であったのである。第2は日本は歴史が古く,したがって伝統が根強く残り,今も各地にすぐれた民芸品が数多く残る。ヨーロッパの事情は日本に比べるならはなはだ悪い。しかし民芸は過去の伝統品ばかりにみられるわけではなく,新しい時代に正しい健康な実用品,すなわち新民芸の伝統が栄えなくてはならない。この意味で民芸の必要は世界的要請だといえる。
 そこで各国の美術館では,在来のいわゆる大美術品の展観ばかりでなく,しだいに民俗的な作品や,未開民族の作品などが展示される傾向が強くなってきた。特に北ヨーロッパの諸国は野外美術館の施設が盛んで,世界のさきがけをなしたが,そこに展示されているものは必然に民衆的作品が主体になる。ただしどちらかというと,集められている品々は民俗学的興味が主で,美的価値の認識による選択ではない。東京にある日本民芸館はこの点,世界のさきがけをなすもので,民衆の日常生活に交わったもろもろの無銘品の美しさをみつめて,そのまま,質のうえから取捨選択を施してある。こうした美術館は他にまだ例がない。なぜ日本からこういう動きが生まれたか,それは茶の湯につちかわれた〈日本の目〉が働いたからで,おそらく個人主義的な論理的なヨーロッパではそう簡単にはいかないであろう。つまり民芸の美への認識には直観が何より先行しなければならない。ヨーロッパは理論的であるから,民俗学の対象としての民衆作品が,ひとしお注意されているのである。民俗学と民芸学とが著しく違う点は,民俗学が経験学なのに対し,民芸学は価値学たらんとする点にある。ところが後者にはどうしても直観的基礎がいる。ここで日本の目(考える頭脳よりも,見る目)が大いにものをいって,民芸品の価値がどこよりも早く,また深く認められだしたのである。しかし世界の動静をみると,民芸美学はしだいに広められるであろう。そうして〈用と美との関係〉〈民と美との結縁〉〈無銘品の価値〉(すなわち非個人性の意義)などは今後好個の題材として論じられるであろう。ただし〈抽象論〉よりも〈具象論〉のほうが先に現れないと,種々の誤りが起こりやすい。さいわいにも日本の民芸品の物としての値うちは,ようやく海外に認められ,その輸出額は年々増大しつつあるのである。また近ごろ東京の各百貨店で競ってヨーロッパの実用工芸品を輸入し展示する傾向もはなはだ興味深い。そうしてその多くが相互的に交換展の形をとっているのも留意されてよい。
 さて,民芸品の特色であるが,実用性とか無銘性のほかに,民衆性や民族性や固有性もその特色に数えられるべきで,しかもその健康性や尋常性も大いに見直されてよい。とかく近代文化は異常な変態なものに流れやすく,各国ともしだいに固有性を失いつつあり,ここに民芸への要求が起こる原因もあろう。
 興味深いことは,民芸品は国民性が一方に強いが世界的共通性も強く,一種の世界語的性質をもち,これを通して各国が互いに理解し交友し合える特質をもっているのである。民芸品には東西があるままに,東西のないものがある。ここに大いにその社会的値うちがあろう。
 次に民芸の〈民〉であるが,今日は民主主義が台頭し,社会主義諸国でも大衆の位置を重くみるにいたった。しかし今日まではとかくしいたげられた民衆への擁護という意味が強く,平民たるそのことへの積極的価値認識が不思議に遅れているように思うが,民芸美学は民衆性そのものの意義を認めるのであって,しいたげられたものへの弁護ではない。むしろ,けっしてしいたげられない自由性が〈平の者〉たる〈民〉にこそあることを知らせようとするのである。逆にいえば,力の圧制者にはかえって心の自由がまったく乏しいことを裏書きするものが貴族品であるといいたいのである。民芸品はけっして貴族品への反律として価値があるのではなく,それ自身のもつ自由性においてたたえられるべきであるというのが,日本における民芸論の強調する点なのである。資本家を倒して,民衆を立てようとするのではなく,民衆それ自身の本来の面目に輝きをみるのである。こうした意味でも,日本における民芸運動ははなはだ特色あるものといえよう。かつては共産主義者から,封建時代・搾取時代の過去の民芸品などなんの値うちがあろうか,といわれた。しかし民衆の心にはしいたげられても失われない自由があるということを留意したいのである。また,かつては朝鮮人から,無銘の民の手になった作品になんの値うちがあるのか,そんなもので朝鮮の美を語られては困る,と抗議をうけた。しかし凡夫にして,なおかつこんな自由な美を生みうることを誇りとすべきだと思うのである。また,ある人から,井戸茶碗を雑器というが,作者の審美眼を疑うのか,という詰問をうけた。審美眼などにとらわれていない自由が井戸の美を生んだのであるというのがその答えである。以上三つの抗議は,平の民衆をはじめからつまらぬ者と思うか,あるいは美は偉大な天才だけのものだという考えに定着しているのである。そうでなく民芸美の示唆するところは,平凡な平の民衆そのものの値うちなのである。法然は〈一文不知〉の者をかえってたたえたが,大いに理があろう。                   柳 宗悦
[民芸運動]  日本の民芸運動は,柳宗悦(やなぎむねよし)によって〈民芸〉という言葉とともにはじめられ,彼を中心とする同志的結合による活動によって発展した。白樺派の創始者の一人であった柳宗悦は,生活と深い結びつきのある工芸の世界へと情熱を向け,民衆の日常生活のなかに厳然と生きている美の世界,すなわち民衆の工芸のうちに工芸そのものの真の姿のあることを強く提唱した。その第一歩として,1926年河井寛次郎や浜田庄司とはかり,すでに集められていた民芸品を公に展示すべく〈日本民芸美術館設立趣旨〉を発表するとともに,その理論づけとして《工芸の道》を刊行した。その後正しい民芸の意義づけが,地方的な風土や伝統の問題からも論じられるようになり,31年には月刊雑誌《工芸》を発刊,各地の民芸品の紹介が活発におこなわれ,それをもとに,さらに地方の伝統的な民芸品の復興と新作活動も各地でおこなわれるようになった。34年には〈日本現代民芸品大展観〉が東京で開かれて一般の認識を高め,関心を深めた。36年には大原孫三郎の援助によって東京駒場に日本民芸館が設けられ,民芸運動の拠点が確立された。やがてこの運動の展開領域は36年と37年には北朝鮮から南朝鮮にのび,ついで38年以来沖縄調査がおこなわれ,さらに満州と華北にまで広げられた。39年にいたって《月刊民芸》が発刊されて,民芸運動はよりひろく各地に普及されることになった。日本の民芸運動は多くのすぐれた民芸品を発見し,また現存する各地の民芸品保存と育成に力をつくしてきたが,今日,この民芸の歴史と精神とを自己の制作の背景としようとする幾多の個人作家が生まれてきている。本来民芸運動が無名の職人の仕事であって個人作家の世界ではなかったことから,これを民芸運動の自己矛盾とする批判の声もあるが,民芸精神を自覚した個人作家が出てきたことは,今の社会の動きからは当然といえるであろうし,むしろこのことは今後の民芸運動の一つの課題といってよい。そしてまた,生活用具が機械生産によって画一化されている現在,郷土的な手工業的な領域をどう守り育てていくか,またニュー・クラフト・デザインをどうむかえ入れていくか,これも民芸運動の大きな課題であろう。
                        村岡 景夫

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柳宗悦  1889‐1961(明治22‐昭和36)
やなぎむねよし 

哲学者,民芸運動の創始者。東京に生まれた。父は海軍少将で数学者の柳絃悦(ならよし),母は勝子(柔道家嘉納治五郎の姉)。学習院高等科のころ同窓生と《白樺》を創刊。その美術面をうけもち,宗教哲学,心霊学についての論文を寄稿。《科学と人生》(1911)を東大在学中に刊行。1913年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。翌年,声楽家中島兼子と結婚。学生時代からウィリアム・ブレークを研究し,14年《ヰリアム・ブレーク》を出版。この研究は後に寿岳文章と協力して創刊した書誌学的専門誌《ブレイクとホヰットマン》(1931‐33)で続けられる。また神秘主義の研究は宗派をこえて,《宗教とその真理》(1919),《宗教的奇蹟》(1921),《宗教の理解》(1922),《神に就いて》(1923)をへて《南無阿弥陀仏》(1955)にむかい,初期のキリスト教から仏教に関心が移る。両者に通底するものを求め続けたことは後年の〈神と仏〉(1956)に明らかである。
 1909年,柳は李朝の壺に心をひかれ,やがて朝鮮在住の浅川伯教(のりたか)と巧(たくみ)の兄弟と親しくなり,朝鮮を旅行し,日本の朝鮮政策を批判する文章を発表。22年には光化門取壊し反対の文章〈失はれんとする一朝鮮建築のために〉を《改造》に発表した。19年の朝鮮の独立運動弾圧,23年の関東大震災での朝鮮人虐殺をかなしみ,29年にはそれまであつめていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂に朝鮮民族美術館を開設した。李朝の工人のつくった陶磁器の美しさに目ざめた後,柳はひるがえって日本の日常雑器の中に,無名の工人のみごとな作品を見いだした。雑器をつくりだした人々の無心の仕事,雑器を日常生活の中に使うという〈用の美〉が,柳に信仰と結びついた生活美学への構想をいだかせた。それは千利休以来の茶道の受継ぎであり,現代の茶道の改革への提言でもあった。《茶と美》(1941),《茶の改革》(1958)へ連なる仕事の系列である。
 1926年陶芸家浜田庄司,河井寛次郎とともに高野山に旅して〈日本民芸美術館〉設立の構想を得て,設立趣意書を発表。すぐれた器の蒐集,実作の調査にのりだし,31年に雑誌《工芸》を創刊して49年までに120冊を出して終わった。これらの冊子は,軍国日本の中にあって柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て,36年に日本民芸館を創立。その後,日本のさまざまな場所に民芸館ができ,民芸風は各地のみやげ物店や料理屋のスタイルに影響をおよぼした。その間,初期大津絵,木喰,円空仏,沖縄の民芸の研究への道をひらいた。敗戦後の48年に京都の相国寺でおこなった講演〈美の法門〉は,美と醜の区分をこえて世界を見わたす視野の成立を説いて,仏教の信仰に根をおろす美意識のあり方を示した。これは《妙好人因幡の源左》(1950),《仏教と悪》(1958),《心偈》(1959)に連なる仕事である。⇒民芸                   鶴見 俊輔

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中国新聞で特集記事が始まりましたので添付します。