スローリーディング中の中公新書『日本近現代史講義 ― 成功と失敗の歴史に学ぶ』(2019年)やっと読了しました。
本日は「第5章 近代日中関係の変容期 (川島真)」を読みました。
著者の川島さんの記述は日本側からの論点ではなく、中国側、日中関係と取り巻く関係国すべての視点を丁寧に読み込んでの記述となっていて良心的な書き手と思いました。
他の章と比べてテーマが大きく、また時期も長期間に渡っています。この時期の自民党が真摯に中国との関係と構築していこうという姿勢が見られます。
↓こちらのサイトで中国を理解するための手法が語られていますのでご参考まで。
2017年05月19日 15:32一般メディアが語る「中国」はわかりやすすぎる!
東京大学大学院総合文化研究科 川島 真 教授
https://www.data-max.co.jp/article/16791
<著者プロフィール>
川島 真(かわしま・しん)
1968年神奈川県横浜市生まれ。1997年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程、単位取得退学、博士(文学)。現在、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻教授(国際関係史)、専攻は中国近現代史、アジア政治外交史。世界平和研究所上席研究員、nippon.com企画編集委員長、内閣府国家安全保障局顧問などを兼任。
著書として『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞)、『近代国家への模索 1894‐1925』(岩波新書)、『中国のフロンティア』(岩波新書)、『21世紀の「中華」』(中央公論新社)他多数。編著として、『東アジア国際政治史』(共編、名古屋大学出版会)、『チャイナ・リスク』(岩波書店)他多数。
https://www.data-max.co.jp/article/16791
第5章 近代日中関係の変容期 (川島真)
1.日中関係のパワーバランスの転換
◆「平等」から不平等へ
1871年、日清修好条約
近代の日中関係の開始点
平等条約だが交渉の過程は、老大国の清朝が主導権
1880年代前半
清は朝鮮に袁世凱を派遣、朝鮮との冊封(さくほう)関係を維持
1880年代半ば
清はヨーロッパから大型艦を購入、北洋海軍を増強
日清戦争で日本が勝利(装備と訓練で勝る)
1895年、下関条約
台湾の植民地化、賠償金(二億両)
敗戦後も清の知識人は日本に学ぶという姿勢だった
◆義和団事件と列強協調
1900年、義和団事件
8か国連合が清に勝利(北京議定書が締結)
清に近代国家建設
1905年、科挙が廃止
新たな学制の学歴が官吏登用条件になる(日本に留学が増加)
◆中国ナショナリズムの形成
1900年代の最初の10年は中国ナショナリズムの勃興の期間
◆日露戦争と南満州利権
義和団事件後もロシアが満州から撤兵せず
(中国、対清協調の列強からも批判
<日本側日露戦争開戦理由>
三国干渉(臥薪嘗胆)
<中国側日露戦争開戦理由>
ロシアが清に対する列強間協調を崩した
日英同盟後もそれを継続
日露戦争後ロシアに代わって日本が南満州利権を獲得
(ただし期限付きで脆弱→延長を画策→日中間、列強との対立を生む)
◆辛亥革命前後の状況
1911年、辛亥革命(清の滅亡、中華民国成立のプロセス、1913年まで続く)
1912年、孫文が南京で中華民国を建国(南北両政府が対峙)
列強は袁世凱を支持
日本は日清・日露戦争で勝利し、一等国という意識が過剰(日英同盟のイギリスの意向にも全面的には従わず)
2.二十一ヵ条要求という転換点
◆第一次世界大戦と中国
第一次世界大戦で袁世凱政府は中立を宣言
参戦した日本は中国と協議の結果、イギリス軍とともにドイツ利権地を攻撃・奪取
山東半島を占領、日本が、統治を継続
日中関係の転換点→二十一ヵ条要求につながる
◆二十一ヵ条要求とは何か
末尾の資料編参照
◆二十一ヵ条要求はなぜ転換点なのか
日露戦争後の中国に対する優位意識
日英同盟に拘束されない対中政策の展開
(欧米列強は第一次世界大戦中で東アジアの情勢に介入する余裕なし)
ドイツ利権だった山東半島の返還の条件
第5号要求がなければ中国、列強からの反発はなかったという歴史家の指摘あり
◆袁世凱外交をめぐる問題
二十一ヵ条要求の受諾は、袁世凱の売国外交(中国内の評価)
◆中国の第一次世界大戦参戦
<北京政府の利点>
①ドイツ、オーストリアとの不平等条約改正の可能性
②二十一ヵ条要求や、山東半島の奪還の可能性
③国際連盟への加盟
④義和団事件の賠償金(対ドイツ)の減額
◆参戦の果実と試練
第一次世界大戦に中国は参戦し戦勝国となった
(国際連盟に加盟)
1919年、パリ講和会議に参加(成果を上げられなかった)…外交官はアメリカ留学経験者
(日本留学経験者は失脚)
1919年5月4日、五四運動
3.中国から見たワシントン体制とその問題
◆9か国条約と中国
1921年、ワシントン会議で、中国に対する列強間協調が再構築(ワシントン体制)
山東半島の問題は一時解決
◆ワシントン体制と中国
1920年代の中国
北京政府の衰退、国民党が擡頭
◆北伐と革命外交
この時期には従来以上に、両国政府にとって世論が重要な政策要因になっていた
◆南京国民政府
◆満州事変と列強間協調の瓦解
1931年、満州事変
◆日中戦争と「十四年戦争論」
<中国側教科書>
1931年から1945年を日中戦争の時期と記載
(抗日戦争を長期的に捉えて、近代化よりもナショナリズムを基軸に歴史を再構築する政権側の意図)
<日本側見解>
本格的な戦闘は、1937「年8月13日、第二次上海事変から
P136
「日中戦争は日中二国間関係の破綻を意味したが、それでも多くの和平交渉がもたれた。だが、多くの場合、満州国の承認問題や信頼関係の問題から不振に終わった。中国をめぐる列強間関係はすでに満州事変などで破綻していたが、1941年のハル・ノート(日米交渉最終段階で、国務長官ハルが提示したアメリカ側の対日提案)にあるように、満州国の存在などが焦点となって日米間でも合意点は見出せなかったのである。」
<資料編>
二十一ヵ条要求
にじゅういっかじょうようきゅう
第1次大戦中に日本が中国に要求した政治的・経済的諸利権の要求。対華二十一ヵ条要求ともいう。
1914年第1次大戦の勃発によりヨーロッパ勢力が中国から後退したすきをねらって第2次大隈重信内閣は中国本部での利権獲得の準備に着手した。加藤高明外相は政府,軍部,財界などの諸要求をとりまとめ,5号21ヵ条の要求を作成した。
その内容は,第1号で中国山東省の旧ドイツ利権の継承に鉄道新線要求など4ヵ条,第2号は旅順・大連の租借期限,満鉄安奉線の租借期限の99ヵ年延長と満蒙における日本人商租権など7ヵ条,第3号は漢冶萍煤鉄公司(かんやひようばいてつコンス)の日中合弁要求,第4号は中国沿岸港湾および島嶼の不割譲(以上を絶対必要条項とした)。
第5号は中国政府の政治・財政・軍事顧問に日本人を招くこと,日中兵器の統一等7ヵ条で,中国主権侵害の政治的要求であり,これを希望条件であるとした。15年1月加藤外相は,日置(へぎ)益駐華公使を通じて袁世凱大総統に直接この要求書を手渡し,秘密保持と一括交渉を要求した。
イギリスやアメリカの干渉に期待した袁は内容をアメリカ駐華公使にもらし,また中国の新聞にも報道された。しかしヨーロッパ戦況の重大化でイギリス,フランス,ロシア諸国は干渉の余裕がなく,アメリカだけは日本政府に抗議したが,きわめて妥協的なものにすぎなかった。
中国民衆はこの日本の屈辱的要求にたいして日貨排斥,救国院金などの形で抗議運動を展開し,民族運動は急速に高まった。しかし,日本は青島(チンタオ)占領の日本軍を増派し,その圧力で袁政府に要求の受諾をせまり,第5号要求を保留したまま,5月9日には袁政府にこれをのませ,同月25日には諸条約・交換公文に調印した。
中国民衆は5月9日を国恥記念日としてはげしい抗議運動を展開,アメリカも,中国の条約上の諸権利と門戸開放主義に反する場合はこれを認めないとの〈不承認主義〉を通告してきた。21ヵ条要求の結果は,中国の民族運動(五・四運動)およびアメリカの利害との対立をいっそう深めたばかりか,1921,22年のワシントン会議により,21ヵ条要求のうち満蒙利権をのぞくほとんどの要求は無効におわった。 由井 正臣
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袁世凱 1859‐1916
えんせいがい Yu⊂n Sh≒ k∞i
中国の軍人政治家。河南省項城県の人。字は慰庭(亭),号は容庵。大地主の家に育ち,科挙になんどか失敗して軍伍に身を投じた。祖父の代に淮軍(わいぐん)の将(袁甲三)を出した縁もあり,朝鮮で甲申事変を鎮圧して李鴻章にみとめられた。日清戦争に敗北した清朝は近代兵制の採用にふみきるが,その新軍の監督に任ぜられた袁世凱は,義兄弟の徐世昌をはじめ息のかかった若手将校を各部門の責任者に抜禽配置し,強力な私的人脈を形成する。李鴻章没後,袁世凱はその後継者として直隷総督兼北洋大臣となり,さらに政界の各方面に勢力を扶植した。趙秉釣(ちようへいきん)に警察,梁士詒(りようしい)に鉄道・銀行,楊士雫に汽船・電報,周学熙に炭鉱をやらせる,といったぐあいである。もちろん,満州貴族にもぬけめなく取りいったのであって,戊戌(ぼじゆつ)政変のさいには維新派を裏切って最高権力者西太后の寵を得た。〈内ニ親貴ト結ビ,外ニ党援ヲ樹(た)ツ〉と評されるゆえんである。義和団事変では列強の利益を最優先して帝国主義者の信用を獲得した。彼のおさえる北洋新軍は1905年(光緒31)には6鎮(鎮は師団)にまで拡大されたし,内外のバックの力はきわめて強力だったから,天津の袁世凱の役所は〈第二中国政府〉とよばれた。しかし08年に西太后が死ぬと,袁世凱はすべての役職を奪われた。光緒帝の弟の摂政王が戊戌の袁世凱の裏切りに報復したのである。辛亥革命の勃発が失意の彼に再起の機会をあたえ,袁世凱は内閣総理大臣となって北京政府の大権を掌握した。北洋新軍は全国的に蜂起した革命軍を鎮圧できず,革命軍は精鋭の北洋軍を打倒できないという対峙状況のもとで,講和会議がはじまり,12年2月,袁世凱は清帝退位とひきかえに中華民国臨時大総統となった。孫文らの革命派は,王朝制度をたおし,民主的な憲法(臨時約法)をつくっておけば,袁世凱と協調して富強の共和国を建設できると考えたのである。権力をにぎった袁世凱はまず各地の革命軍を解散した。しかし,国会選挙では袁世凱の与党が敗北し,国民党が多数派となった。そこで袁世凱は国民党が国務総理に擬した宋教仁を暗殺し,あれこれと国民党を挑発した。孫文,黄興らは反袁の武装蜂起(第二革命)に決起したが,簡単に鎮圧された。13年10月,初代正式大総統に就任した袁世凱は,その独裁支配をさらに強固にすべく帝制復活に乗り出した。辛亥革命の産物である民主的法制はつぎつぎと廃止され,〈祭天祀孔令〉(天と孔子をまつる儀式)の公布に象徴される旧制度の復活があいついだ。二十一ヵ条をのむことにより日本の支持もとりつけ,籌安会(ちゆうあんかい)などが世論の喚起につとめた。15年12月,袁世凱は国民代表によって満票で皇帝に推戴された。しかしこれは茶番劇だった。岱鍔のひきいる雲南の護国軍が蜂起(第三革命)すると反袁の動きが一挙に表面化した。翌年元旦を期として洪憲元年と改元されたが,即位できぬまま83日間で帝制は取り消され,6月,四面楚歌のうちに袁世凱は病没した。彼の死ほど人びとに歓迎された死はない,と当時の新聞に報道された。 狭間 直樹
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五・四運動
ごしうんどう W¢ s≒ y≫n d≪ng
1919年5月4日,中国北京の学生が敢行した反日示威運動とそれに続いて全国各地で展開された一連の愛国運動をいう。大衆運動の力によって北京政府にベルサイユ条約の調印を拒否させた中国近代史上の画期的事件で,旧民主主義革命から新民主主義革命への転換点とされる。
第1次世界大戦が協商国側の勝利におわると,戦勝国の一員に列した中国では,勝利は公理の強権に対する勝利であり,講和会議でも公理を原則に戦後処理が行われようとの楽観がみなぎった。しかしその願望はうらぎられ,ドイツの山東権益はイギリス,フランス,アメリカ等大国の利害から日本に引き渡されることになった。人々はこの事態を亡国の危機ととらえ,5月4日,北京の学生がまっさきに決起し,デモのあと,親日派高官曹汝霖邸を焼き打ちした。運動は各都市,各階層にひろがり,授業拒否の学生,救国十人団に結集した市民が商品ボイコットを始め,反日運動を展開した。十人団とは,職場や地域単位で10人ずつの行動隊を編成してピラミッド型の組織としたもので,このときの運動に重要な役割を果たした。6月3日,北京で運動の突破口を求めて大規模な街頭行動をくりひろげた学生に対し,親日派の牛耳る政府は根こそぎ逮捕の大弾圧で報いた(六・三運動)。この報道が伝わると,全国の運動は一挙に反政府的色彩を強めて高揚した。とりわけ中国経済の中心をなす上海では,5日に商店が閉店ストに突入し,8日夜から労働者の大規模なストが始まったため,ゼネストともいうべき状態が出現した。この大衆的高揚に直面して,北京政府はやむなく曹汝霖ら親日派3高官を罷免して世論に譲歩をしめした。またベルサイユ講和会議の中国代表は6月28日,講和条約調印を拒否した(図)。
このような新しい大衆運動の展開が可能となったのは,学生を中心とする進歩的な知識分子と労働者階級の登場があったからである。後者は第1次世界大戦中における産業発展の結果として,200万人を数えるにいたっていた。前者は辛亥革命後の軍閥支配に抗して中国の出路をもとめていたインテリたちである。もっとも有名なのは,《新青年》に拠って新文化運動を展開した陳独秀,李大二(りたいしよう),胡適,魯迅らのグループである。彼らは,民主と科学の旗をかかげ,中国の封建倫理の中核である孔子の教えを根底から否定しようとした(打倒孔家店)。その変革の主張は社会生活のもろもろの面にかかわり,家族の否定から女性の解放まで含んでいたが,その要は近代的自我をそなえた自覚的個人の確立にあった(孔子批判)。また新文化運動の重要な一つの内容は文学革命,すなわち文語文ではなく口語文(白話)による文学の確立だった。現実に即した明解な文学を提唱した胡適の〈文学改良芻議〉が火をつけ,魯迅の《狂人日記》が実作第1号として江湖の注目をあびた。
五・四運動の前には,《新青年》のみならず,北京大学の《新潮》や学生救国会の《国民》のグループ,また長沙で毛沢東が組織した新民学会など多くの実践的団体が各地に生まれていた。なかでも注目すべきはアナーキストのグループで,彼らは労働を神聖とする人道主義的見地からロシアの十月革命を賛美し,社会主義の宣伝に従事した。ロシア革命の成功により,〈能力に応じて働き,必要に応じて受け取る〉理想社会の建設の夢が進歩的知識人の心をとらえた。1918年12月の北京の大戦祝勝会で,岱元培が〈労働神聖〉を,李大二が〈庶民の勝利〉を演説したのは,そのような社会思潮の反映だったが,同時に民主と科学が社会主義と結びつけられはじめたことの象徴でもあった。ロシア革命ないし働くものの社会に共感を示すようなものは,支配階級からは過激派(ボリシェビキの当時の訳語)とみなされていたが,五・四運動の経験をふまえて実際に中国の共産主義者の隊列が形成される。その中心となったのは,新文化運動の中心的指導者であり,五・四運動のなかで〈北京市民宣言〉を配布して逮捕投獄された陳独秀だった。五・四運動の影響は単に中国の過激派のみならず,進歩分子全般に及んだのであって,たとえば辛亥革命の立役者だった孫文らの革命派も,中華革命党を中国国民党と改称して新たな革命への準備を始め,やがて国共合作のもと,国民革命へと踏み出すことになるのである。 狭間 直樹
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ワシントン体制
ワシントンたいせい
第1次世界大戦後,西方におけるベルサイユ体制と対応し,東アジア・太平洋地域に樹立された国際秩序。ワシントン会議(1921年11月~22年2月)で成立した諸条約・決議を基礎としたのでこの名がある。
[背景] 第1次大戦は東アジア国際関係に大きな変化をもたらし,とくに日本の大陸進出は著しかった。戦後,日本がこの地歩を維持しようとする一方で,ヨーロッパ列強は勢力回復をめざし,戦勝国の一員となった中国は民族自決主義の台頭に力づけられて,大戦中日本に対して失った権益を回復しようとし,またアメリカは門戸開放政策を中心とする新秩序を,東アジアに樹立しようとしていた。以上の対立と並行して,列国とくに日米間には大戦末期以来海軍軍拡競争が進行中であり,各国の戦後復興にとって大きな負担となっていた。ここに W. G. ハーディング・アメリカ大統領は,軍備制限と東アジア・太平洋問題のための国際会議を提唱し,日本,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ポルトガル,中国の9ヵ国が参加することとなった。アメリカは,日本の中国進出の一支柱であった日英同盟が1921年に満期となることに着目し,これを終了させて新たな列国関係をつくり出すことを意図して,会議を提唱したのであった。
[日本の対応] 以上の背景から,日本では会議が日本封じ込めの性格をもつことをおそれる者が少なくなかった。しかし同盟国イギリスがかつての力を失って対米傾斜を強め,協約国ロシアをロシア革命で失っていた日本にとって,対米協調以外に外交的孤立を避ける道はなかった。しかも日本経済にとってアメリカとの貿易・資本関係は不可欠であった。ここに戦前からの対米協調論者であった原敬首相は,戦後の反軍国主義世論を背景に,可能な限り対米協調を貫く方針を樹立した。海軍大臣加藤友三郎,貴族院議長徳川家達,駐米大使幣原喜重郎の全権も,この方針で選ばれたものであった。原は会議直前に暗殺されたが,原の方針は続く高橋是清内閣にも引き継がれた。
[会議の成果] 軍備問題では,会議議長 C.E. ヒューズ・アメリカ国務長官の提案を基礎に,主力艦について10年間建造を中止し,既存艦の一部を廃棄し,保有総トン数の上限をアメリカとイギリス52万5000トン(5),日本31万5000トン(3),フランスとイタリア17万5000トン(1.67)に定めることを骨子とする海軍軍備制限五ヵ国条約が結ばれた。日本海軍の中には日米戦に備えて対米7割が不可欠であるとの意見が強かったが,加藤全権は日本の国力からみて対米戦は不可能と考え,これを抑えた。もっとも条約中には西太平洋での海軍基地増強禁止の規定があり,補助艦数制限の欠如とあいまって同地域での日本海軍の優位を高めた面もあり,条約は必ずしも日本にとって不利なものではなかった。
東アジア・太平洋問題については,太平洋に関する四ヵ国条約と中国に関する九ヵ国条約がおもな成果であった。前者によって日英同盟の終了,日米英仏協調体制の樹立が約され,また後者によって,軍事力を背景とする〈旧外交〉から,門戸開放政策を中心とする平和的経済主義的〈新外交〉への転換が約された。これに対応して日本は,山東権益を中国に返還し,満蒙借款における優先権等の放棄・二十一ヵ条要求中留保項目の放棄・シベリアからの撤兵を声明し,またアメリカが中国における日本の特殊地位を承認した石井=ランシング協定を廃棄することとした。しかしここでも,日本が最重視した満蒙権益の主要部分については暗黙の支持を与えるなど,アメリカは予想外に妥協的であった。つまりアメリカは対日抑制だけではなく,日本を含む列国協調体制の樹立を重視していたのであり,アメリカのこの態度と,日本における対米協調・平和的経済主義的外交論者の政治指導とが,ワシントン体制を可能としたのであった。
[崩壊] ワシントン体制は確かに東アジアと太平洋に新時代を画した。しかしそれは,在華外国権益の存在を前提とし,また中国と深い関係をもつソ連の参加を排除してつくられたものであった。つまり中国ナショナリズムもソ連も弱体であることが,その成立条件であった。しかし1920年代末には,中国国民党は中国統一を完成して国権回収を主張し,またソ連は政治的軍事的に無視しえぬ力となっていた。満蒙を対ソ国防上の〈生命線〉とみていた日本陸軍は,ここに,対米英協調から離脱してでも満蒙権益を擁護・強化すべきだとの主張を打ち出す。海軍においても,軍備制限条約以来補助艦建造に力を入れてきたことから,1930年ロンドン軍縮会議の補助艦制限に大きな不満をもち(統帥権干犯問題),ワシントン体制からの離脱を主張する勢力が力を増した。こうした背景に,日本は31年満州事変を引き起こし,さらに満州国建国・承認(1932),国際連盟脱退(1933),ワシントン海軍軍備制限条約廃棄通告(1934)によって,ワシントン体制を崩壊させたのである。 北岡 伸一
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