2024年3月31日日曜日

[ひとり「広島掃除に学ぶ会」] 3月31日(日)呉・堺川の投棄自転車を回収(途中まで)

 




呉掃除に学ぶ会の集合場所近くの堺川の川底に数年前からある自転車。

干潮時は干上がって目立ちます。

一念発起して回収することに。干潮時を狙って河岸まで回収。

一人ではロープで上げられなかったので次週最終挑戦します。

[積読立読斜読] (特別編)終活断捨離文庫100冊プロジェクト『大統領の晩餐』(小林信彦、角川文庫、1974年)

カバーは小林康彦


ちくま文庫版カバーは佐々木マキ


フリースタイルの単行本カバーは江口寿史



 70年代の小林信彦のカルト的な人気は唯一無二のもので今の作家の誰も代わりはできないと思います。角川文庫版で出ていた一連の作品はすべて揃え、一時期は単行本もすべて揃えておりましたが、終活の断捨離(文庫本100冊プロジェクト)で最終的にこの『大統領の晩餐』と『日本の喜劇人』を残しました。


『大統領の晩餐』は推理小説専門雑誌『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』(1972年)に

半年間連載され単行本化。当方の持っている角川文庫版は1974年。後にちくま文庫で復刊(1994年)。現在でもフリースタイル社からの単行本で『大統領の密使/大統領の晩餐(小林信彦コレクション)』(2019年)として入入手可能。エンターテイメント系の作品としては異例のロングセラー。カルトの残党の根強いファンが多いのでしょう。


もともとは少年少女向けのライトノベルとして始めた「オヨヨ大統領」シリーズを大人も楽しめるミステリ系のエンターテイメントに仕立てた作品ですが、オヨヨ大統領の設定自体が荒唐無稽な物なので、設定をどう現実の小説に落とし込むかが、作者の腕の見せ所でしょうか。


<内容紹介>

オヨヨ大統領が盗聴器を仕掛けたペルシャ猫が病気になった。さあ、大変。猫がエビにあたって腰を抜かしたと知って、

デコボココンビのニコライとニコラスに誘拐を命じた大統領だったが…。港横浜の中華街を舞台に、ドジな二人と猫解放運動の女史、

お馴染み鬼面警部が入り乱れて、猫探しの珍騒動。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480027955/

筑摩書房のサイトより


角川文庫版の稲葉明雄(いなば あきお、1934年 - 1999年、ミステリー翻訳家)の角川文庫版解説によると、

『宮本武蔵』『姿三四郎』『こころ』『草枕』に代表される「求道(ぐどう)小説」のパロディだそうです。


「求道小説」とは西欧の「教養小説(ビルドゥイングス・ロマーン)」が「西欧的自我の形成・発展」をテーマにしているのに対して、

「現世の煩悩のいっさいを断って隠忍刻苦、無我の悟りに達しようと非人間的な努力をかさねる過程」を描いた小説だそうです。


本作で「求道」の対象に選ばれたのは「料理」。中華料理の泰斗・高学林先生と、若き矢野源三郎との料理修行を軸に、当時の世相をふんだんに織り込んだスラップスティック・コメディー・ミステリー。


他のオヨヨシリーズに比べて著者のペタンディックな教養が惜しげもなく披露されていて、語句の解説だけでかなりの量になりそうです。


パロディとはいっても、芥川賞と直木賞の両方の候補になった著者ですから、「求道小説」にも敬意を払いつつも、東京の下町出身の独特の含羞ゆえのパロディなのでしょう。

昨今の底の浅いグルメ・ブームを先取りして揶揄している感じもします。


余談ですが、桂三枝(現・6代目桂文枝)の「オヨヨ」というギャグ(テレビ番組「パンチDEデート」 にて主に使用していました)を

小林信彦さんが盗用として訴え、三枝が使うのをやめた「オヨヨ事件」はもう少し鷹揚でもよかったような。


 

注)オヨヨ大統領シリーズ(角川文庫版)

<オヨヨ島の冒険/怪人オヨヨ大統領/オヨヨ城の秘密/大統領の密使/大統領の晩餐/合言葉はオヨヨ/秘密指令オヨヨ/オヨヨ大統領の悪夢〉 

2024年3月30日土曜日

[その他] 映画『オッペンハイマー』鑑賞 2024年3月30日(土曜日)20:00~ イオンシネマ広島(段原)

 ちょっと冗長すぎる。


第二次世界大戦終了後のアメリカ国内の政治権力に巻き込まれたオッペンハイマーの苦悩の部分が長すぎ、人類が制御できない大量破壊兵器の発明と使用に際しての解釈が不鮮明。

オッペンハイマーをギリシャ神話のプロメテウスになぞらえていた。


過去に原爆での被害者よりも数の多い東京大空襲の本を読みましたが、開発費用は原爆よりもB29のほうがかかっています。

 

第二次世界大戦中でのアメリカでの兵器開発の費用は、(1)B29の開発、(2)原爆、(3)照準器、という意外な事実を知りました。いずれもアメリカの陸軍兵力の被害を少なくするという視点での開発になっています。

 

   2023年3月22日水曜日

[積読立読斜読] 『ボマーマフィアと東京大空襲 精密爆撃の理想はなぜ潰えたか』(マルコム・グラッドウェル著、櫻井裕子訳、光文社、2022年)

 

 

プロメテウス  ( Prom^theus)

ギリシア神話のティタン(巨人)神の一人。その名は〈先に考える男〉の意。イアペトス Iapetos の子。アトラス,エピメテウス Epim^theus(〈後で考える男〉の意)の兄弟。デウカリオンの父。ヘシオドスの《神統記》によれば,かつて神々と人間が犠牲獣の分け前をめぐって争ったとき,彼は牛の骨を脂肉で包んだものと,肉と内臓を皮に包んだものをつくって,いずれを取るかゼウスに選ばせた。するとゼウスは前者に手を出したため,以後,犠牲獣の美味な部分は人間が食する定めとなった。その後,これを怨んだゼウスが火を人間から隠すと,プロメテウスはひそかに天上の火を大茴香(ういきよう)の茎に移して地上に持ち帰り,またもやゼウスの裏をかいて人間の苦境を救った。そこでゼウスは,人間どもの禍いの因となるべく,神々に命じてつくらせた人類最初の女パンドラをエピメテウスの妻に与える一方,プロメテウスをカウカソス(コーカサス)山の岩に鎖でつなぎ,肝臓を鷲についばませた。この肝臓は夜の間に元どおりになるので,彼の苦痛は絶えることがなかったが,のち英雄ヘラクレスに解放されたという。このほか,彼は粘土から人間を創造したとの伝承もあり,またアイスキュロスの悲劇《縛られたプロメテウス》では,天文,数,文字など,さまざまの技術を人間に教えた恩人とされている。彼を主題とした近代の文学作品では,イギリスの詩人シェリーの《プロミーシュース解縛》(1820),フランスの作家ジッドの《鎖を解かれたプロメテ》(1899)などが有名。                水谷 智洋


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オッペンハイマー  1904‐67

 J.Robert Oppenheimer

アメリカの理論物理学者。原子核,量子電磁力学,宇宙線など多くの領域で目覚ましい成果をあげ,教育者としても指導的立場にあり,多くの優れた物理学者をその門下から輩出し。 

 ニューヨークの生れ。父はユダヤ系ドイツ人で,若いときアメリカに移民として渡り織物輸入業を営む。裕福な家で何不自由なく学問,文学,芸術に親しんで育ち,1922年ハーバード大学入学。3年後に首席で卒業し,25‐26年ケンブリッジ大学へ遊学,量子力学の創成期に P. ディラックらの影響をうけ,研究を始める。

 26年 M. ボルンに招かれてゲッティンゲン大学にいき,共同でいわゆるボルン=オッペンハイマー近似を導き,27年春に学位を取得,その後29年までヨーロッパ各地で自由な研究生活をおくり,P. エーレンフェスト,W. パウリらと親交を結んだ。29年,カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学の教授にほとんど同時期に就任,以来,42年までの間に彼の主要な研究のほとんどが行われ,また両校で多数の物理学研究者を育成,カリフォルニアはアメリカ物理学の新しい拠点となった。

 30年代のオッペンハイマーの仕事は,量子電磁力学に関してディラック電子論・原子核の統計の研究,また宇宙線現象の研究,中間子論の発展,重陽子反応における中性子捕獲の理論の研究など,きわめて多領域である。またパサデナの天文学者と協力して,中性子星や重力崩壊の理論を提出した。オッペンハイマーの役割は,20世紀初めまで実験物理学優位のアメリカ物理学に,ヨーロッパで誕生したばかりの量子力学を踏まえた理論物理学という新機軸を導入した点でも重要であった。

 41年秋,A. H. コンプトンに招かれアメリカ科学アカデミーの専門委員会に参加し原爆製造計画に直接ふれ,以後,同計画の中心メンバーの一人となる。43年に設立されたロス・アラモス研究所の所長を45年まで務め,原爆製造の最終工程でその能力を発揮,〈原爆の父〉と呼ばれた。第2次世界大戦後大学へ戻るが,マンハッタン計画の中で果たした彼の役割は引き続き原子力委員会一般諮問委員会の議長(1947‐52)として果たされた。また同時期の47年にプリンストン高等研究所の所長となり,66年まで務め,アメリカの理論物理学研究の拠点としての同研究所の名を高めた。

 1950年代の冷戦構造の中でアメリカの水爆開発着手に対して反対の立場をとり,そのことを主要な原因として国家への忠誠を問われ,いっさいの公職から追放(1954)されるにいたった。61年,ケネディ大統領の時代に,アメリカ政府はこの措置の事実上の撤回をはかり,フェルミ賞を贈呈(1963)したが,この事件は現代の科学と国家,社会の間にはらむ緊張関係を象徴するものであった。                     

奥山 修平

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マンハッタン計画  

マンハッタンけいかく Manhattan project


第2次世界大戦中にアメリカによって行われた原爆製造計画のこと。この名称は,アメリカ陸軍に原爆製造がゆだねられ,工兵隊がその任にあたった際につけられた。初めこの特別工兵管区の名称は DSM(Development of Substitute Material)と呼ばれて準備作業が進められていたが,この計画についての陸軍の責任者である L. R. グローブスの提案によりマンハッタン工兵管区(ManhattanEngineer District,略称 MED)とされ,1942年8月13日に発足した。これはニューヨークにその事務所が開設されたことに由来する。以後原爆製造計画はマンハッタン計画と呼ばれることになった。その意味では狭義のマンハッタン計画はこの時期以後のことであるが,一般には広く原爆製造計画全体をさすものとされている。

 原子核物理学の進歩の結果,1939年になると核分裂によって生ずるエネルギーの利用の可能性については世界各地で論議の対象となった。この時点でドイツからの亡命科学者たちは,ナチス・ドイツの手によって原爆が開発される可能性を指摘し始め,この開発競争が世界大戦の帰趨(きすう)を決すると考えた。L. シラードはその中心にあり,さまざまなルートを利用してアメリカ政府に原爆開発を勧告した。その一つがアインシュタインによるローズベルト大統領あての書簡である。この書簡はシラードが起草し,アインシュタインを促して署名(1939年8月2日)させたものである。これを受けて同年10月21日に,アメリカ合衆国標準局長官である L. C. ブリッグスを委員長とし,亡命科学者を専門的検討の中核とするウラニウム諮問委員会が発足した。この委員会は同年11月1日に原子力と原爆の可能性を指摘し,それを確証するための実験研究を答申し,このグループに関係する科学者によって小規模な実験が行われ始めた。ただしこの研究は,天然ウラン石墨を利用した遅い中性子による連鎖反応であって,後の原爆に直接つながるものではない。このころ,アメリカ政府は,ヨーロッパ戦線の拡大のなかで戦時体制を整え,40年6月27日に V. ブッシュを責任者とする〈科学動員のための組織・国防研究会議〉(略称 NDRC)を設立した。先のウラニウム諮問委員会はこのNDRC の1委員会となる。この再編成に伴い,亡命科学者たちは計画の意志決定からしだいに遠い立場におかれるようになった。

 一方イギリスでは,40年3月に O. フリッシュ,R.E. パイエルスによりウラン235 235U を用いた速い中性子による連鎖反応の考えが提出され,それを受けて6月に原爆問題の検討のためのモード(MAUD)委員会が設置された。また,J. D. コッククロフトによりプルトニウムを利用した原爆の構想が考えられ,これが41年の初めにアメリカの E.O. ローレンスに伝えられた。これらのイギリス側の研究は初めから兵器としての研究に焦点が絞られていたことに特徴がある。

 アメリカでは,NDRC のブッシュの求めにより,全米科学アカデミー(NAS)の組織した計画再検討委員会において原爆開発の軍事的意義が検討されはじめた。この委員会は41年に三つの報告書を提出した。この報告書の初めのものは,先のウラニウム諮問委員会の流れを耀み,遅い中性子による連鎖反応,すなわち原子炉によって生じるエネルギーを艦船の動力として用いることに力点があった。また原子炉で生じた放射性物質を毒物として軍事利用しようとするものであり,原爆についてはその実現可能性を指摘する程度であった。これが原爆に結びついた原因は二つある。一つは,ローレンスによってもたらされたもので,これはウラン238 238U から製造されるプルトニウムが速い中性子で連鎖反応を起こす可能性を指摘した。これにより,動力を想定していた天然ウランの連鎖反応において,238U が中性子を捕獲しプルトニウムという原爆の材料を生産することが明らかになったのである。もう一つはイギリスのモード委員会の検討結果がアメリカに伝えられ,235U による爆弾の可能性がきわめて高いことがわかったのである。ここに天然ウランから235U を分離する計画と,ウラン・パイル(原子炉)を建設してプルトニウムを生産する計画とが轡(くつわ)をならべて進められることとなった。この41年の夏が原爆開発計画の転換期である。アメリカ政府の指導者たちが,兵器としての原爆開発に進む具体的方針を確定したのはこの時期以降であり,同年10月9日,大統領のもとに最高政策グループが発足した。全米科学アカデミーの第3次報告書は235U による爆弾が可能であると結論し,爆発的連鎖反応のための臨界量も算定された。この意味で先のアインシュタイン書簡を原爆開発の起点とする説はかならずしも正確とはいえない。

 この間,ブッシュを長官とする科学研究開発局(略称 OSRD)が,NDRC などによる戦時研究全体を包括するものとして41年6月28日に発足し,ウラニウム諮問委員会はこの OSRD のウラニウム部(S‐1部)となった。計画の本格化に伴い,陸軍に生産を移管する措置がとられ,いわゆるマンハッタン計画が展開される。そして翌42年1月には原爆の完成日程は45年初めとされた。そしてこの日程は計画全体のなかで変わることはなく目標とされた。

 原爆製造のためにはまず核分裂物質を精製する必要がある。つまり,濃縮ウランとプルトニウムの量産を実現することであるが,これにはウランやプルトニウムの抽出という化学技術的過程と,235U と238U との分離という物理技術的過程とが必要である。42年にはいるとウランの同位体の分離について,電磁分離法,気体拡散法,遠心分離法という3方法が想定され,並行して実験研究が行われた。またプルトニウムについては,サイクロトロンにより製造される微小量の試料を用いて,その原子核の特性や化学的性質を調べると同時に,ウラン・パイルの建設がすすめられ,大規模な連鎖反応の実験的確証と量産計画が実施された。42年12月2日のシカゴ大学で最初の原子炉が臨界に達し,また核分裂物質の量産のための用地買収準備がすすめられたことに象徴されるように,この年は原爆製造のための具体的準備が行われた年にあたる。

 43年にはロス・アラモス研究所で J. R. オッペンハイマーを中心に,精製された核分裂物質をどのように爆弾として構成するかという原爆開発の核心的技術問題を扱う研究が始められた。同時に実用規模の各生産工場の建設,運転が相次いで開始された。この原爆開発製造に従事した企業は,核分裂物質製造に必要な化学技術的過程と物理技術的過程とを担うために,デュポン,ユニオン・カーバイド,テネシー・イーストマン,ゼネラル・エレクトリック,ウェスティングハウス・エレクトリックなどの化学工業や電気メーカーの主要企業であった。また同年5月の段階で軍事政策委員会は,原爆の最初の使用対象として,集結した状態の日本海軍艦隊への攻撃を仮想定している。

 44年には,1月に航空機による投下訓練が始められるなど,原爆完成の時期は最終的に確定し,その投下問題と戦後の管理問題が,政策決定者にとってだけでなく計画に従事した科学者たちにとっても焦点となり始める。45年の春には原爆攻撃目標制定委員会の発足,また,原爆と原子力について戦後構想も含めてあらゆる問題を検討する暫定委員会の発足がなされた。これらの検討を経て,対日無警告早期使用が決定され,原爆製造で協力関係にあったイギリスも7月にこれに同意を与えた。

 45年7月16日アラモゴードの砂漠でプルトニウム原爆の実験が成功し,そして8月6日にウラン原爆が広島に,8月9日にプルトニウム原爆が長崎に投下された。この悲惨な結末をもってマンハッタン計画は終局を迎えるが,同時に核兵器に世界が覆われる時代の始まりを告げたのであった。なお陸軍が管理していた原爆製造の全生産施設は47年1月に発足した原子力委員会に引き継がれることとなり,現在もなお核兵器宜として核兵器の研究,開発,製造を続けている。マンハッタン計画の原爆製造技術は,戦後も継続して機密下におかれ,また他の戦時下の技術と異なり民生用として転用不可能なため,政府と民間企業との関係に従来にない影響をもたらした。政府契約の公開入札の原則の変更,また関連する財政支出の詳細が秘密にされるなどの事態は戦後もさらに進行した。そして独占企業と軍との癒着の構造が固定化し,後にはアメリカ大統領アイゼンハワーが軍産複合体と名付けてその暴走を案ずるほどとなった。

 今日の核軍備競争の直接的出発点にこの原爆製造計画があったがため,マンハッタン計画が与えた影響は一国にとどまらず戦後世界全体に及ぶものである。まず最も大きいものは,原爆が,戦後の冷戦そして水爆を含む核軍備競争の起源となり,現在の核に覆われた世界の状況の直接的原因となったことである。

 またマンハッタン計画は,国家と科学との新しい関係を創出する契機となった。つまり,科学者の国家動員が戦時だけでなく平時から常態化し,広く国家目的に科学を利用するための政策,すなわち科学政策の確立が戦後多くの国で叫ばれる契機となったことである。とくに戦後アメリカが行った原爆の独占的保有を最大限利用して進めた外交は,一般に原爆外交といわれ,アメリカの戦後世界での国際的地位を築くことになった。そのことは,現実化された軍事技術だけでなく,潜在的な科学,技術の研究開発能力が国際政治における交渉力に寄与するという今日の状況の遠因となっている。そして研究開発組織の面では,戦後のいわゆる巨大科学と呼ばれる宇宙開発,原子力開発,海洋開発といった国家主導型の研究開発システムのモデルとされ,個々の研究者の主体性よりも,全体の目標を達成するための効率に中心を置く形態が支配的となっていった。さらに科学者にとっては,科学の成果が広島や長崎の惨事に直結してしまったという現実は,科学と社会との関係を深く自覚することを迫られた。戦後の科学者運動の多くが,原爆開発に無自覚なままに携わったことへの反省,もしくは科学研究の成果が社会の中で果たす意味に無関心であってはならないとする立場から始められた。このようなマンハッタン計画は依然として現代の科学,技術と社会の問題を考える重要な起点となっている。   奥山 修平


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巨大科学  

きょだいかがく big science


巨大科学とは,1960年代以降アメリカで普及するようになったビッグサイエンスという語の訳である。この言葉の発案者は,アメリカの工学者アルビン・ワインバーグ Alvin Weineberg である。ワインバーグは61年,大規模科学 large scalescience という言葉を用いて,現代の科学が過去とは比較にならぬほど多くの科学者を動員し,巨額の研究費を必要とする活動となっている状況を表現し,またとくに大規模なプロジェクト研究の増加という現象に注意を喚起したのである。そして翌62年よりワインバーグは,大規模科学に代えて巨大科学(ビッグサイエンス)の名称を使い始めた。この言葉は63年,科学活動の歴史的推移を数量的に分析することを得意とするアメリカの科学史家プライス D. J. de Solla Price の著書《リトルサイエンス・ビッグサイエンス》に使われてのち,急速に全世界へと普及することとなった。

 巨大科学という言葉は今日,未踏的課題に挑戦するあらゆる大規模なプロジェクト研究を総称するものとして使われる。そこには高エネルギー物理学,宇宙空間天文学(X 線天文学など)のように,実利的目標をもたないプロジェクトばかりでなく,核融合,高速増殖炉,スペースシャトルのように,実用となる工学的成果の達成をめざすプロジェクトもふくまれる。どちらのタイプも科学と工学との間の密接な協力関係のもとで進められるものであるが,前者の場合,科学が目的で工学が手段であるのにたいし,後者の場合は逆となる。しかしどちらも巨大科学と呼ばれる。類語に巨大技術という言葉がある。これは未踏的課題に挑むプロジェクト研究よりもむしろ,すでにでき上がった巨大な工学的システム(原子力発電所,コンビナートなど)を指すことが普通である。しかしそれらの巨大技術をもすべて巨大科学にふくめて考える通俗的な用語法もある。大規模なプロジェクト研究の体裁をとっていても,実質的には通常規模の研究の寄集めである場合もある。癌研究,地震予知などがその例である。これらは巨大科学にふくめないほうがよい。巨大科学の特徴は,研究者の絶対数の大きさよりもむしろ,研究者1人当りの研究費がけた違いに大きいこと,言いかえれば,資本集約的であることにあるからである。

 巨大科学の嚆矢(こうし)とされるのは,第2次世界大戦時におけるアメリカの原爆製造計画である。それは戦後続々と出現する巨大科学の見本例となった。マンハッタン計画の斬新さは,単に投入された予算および人員の大きさだけにあるのではない。科学を従来のような,あらかじめ究極目標を定めない計画性・組織性を欠いた活動から,事前に決められた目標(マンハッタン計画の場合は,原爆を実戦に使える兵器として完成することであったが,そうした実利的目標でなくともかまわない)を達成することに向けて,さまざまの資源(資金,資材,人材など)を,高度の計画性にもとづき組織的に動員する活動へと変質させたことこそ,マンハッタン計画が科学界におよぼした最大のインパクトであろう。巨大科学は単に規模において従来の科学と異なるのではない。明確に設定された目標をもち,計画的・組織的に進められるのが,今日の巨大科学である。従来の科学のスタイルを散策型と名づけるならば,それは企業型と呼べるであろう。特筆すべきは,今日では巨大科学ばかりでなく,通常規模の科学までもが,企業型のスタイルをとって進められているという事実である。いわば現代科学全体が,マンハッタン計画のスタイルを模倣するようになったのである。

 巨大科学という言葉が考案された1960年代前半には,すでにそれに該当するプロジェクトがいくつも存在し,その言葉が普及する社会的条件が整っていた。とくに61年よりアメリカ航空宇宙局(NASA)が始めたアポロ計画(人類の月着陸を究極目標とする計画)は,巨大科学の新たな見本例とされた。巨大科学という言葉が1960年代,ジャーナリズムに乗って流行語となった背景として,アポロ計画の存在を無視することはできない。

 マンハッタン計画にせよ,アポロ計画にせよ,そうした超大型のプロジェクト研究を推進するためには,莫大な予算を支出できる強大な国家権力が存在せねばならず,また支出を正当化するための国家的使命が存在しなければならない。しかも国家的使命のなかでも軍事にかかわるものが,直接と間接とを問わず際だっている。第2次世界大戦後の科学は,国家主導・軍事中心の価値観にもとづいて進められてきたとされているが,巨大科学にはそうした価値観がいっそう顕著にあらわれており,いわば国力の象徴である。それゆえ反体制の科学思想が台頭した1960年代末以降,巨大科学は流行語としての地位を急速に喪失した。なお日本の科学界では,巨大科学の代りに巨費科学という言葉を使うことが慣例となっている。

                         吉岡 斉


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アポロ計画  

アポロけいかく 


アメリカの NASA(ナサ)によって行われた有人月探査計画。3人乗りアポロ Apollo 宇宙船を月周回軌道に乗せ,2人が月面に着陸して月探査を行い,作業終了後月を周回している司令船に戻り,この司令船で地球へ帰るというものである。この計画は人工衛星の打上げでソ連に遅れをとったアメリカの威信をかけたものでもあったが,月旅行という人類の夢を実現するとともに総計384kgの月の岩石および土壌をもち帰り,月の構造の解明や月の年齢の決定など人類の月に対する知識の向上に大きく貢献した。

[計画の推移]  アポロ計画は1960年7月のNASA の計画発表により本格的に始まり,61年5月,ケネディ大統領が,〈アメリカは1960年代に人類を月に着陸させ無事地球に帰還させることを国家ゴールとして宇宙開発を進める〉という,いわゆる宇宙教書を議会に送ったことで拍車がかかった。アポロ計画のかなめであるアポロ宇宙船および打上げ用のサターン V 型ロケットの開発が進められる一方,レンジャー,サーベイヤー,ルナ・オービターによる月面調査,マーキュリー宇宙船,ジェミニ宇宙船による有人飛行実験が行われ,多くのデータの蓄積がなされた。アポロ宇宙船による実験は66年サターン IB 型による弾道飛行から始まり,67年11月初のサターン V 型ロケットを使った無人のアポロ宇宙船(アポロ4号)の打上げに成功,68年には初の有人のアポロ宇宙船(アポロ7号)を地球周回軌道に乗せることに成功した。同年12月に打ち上げられたアポロ8号は人類史上初めて人間を乗せて月を周回,69年5月アポロ10号が月着陸船を月周回軌道に乗せ,人類の月着陸のための前作業をすべて終えた。そして同年7月16日3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号が打ち上げられ,7月20日 N. A. アームストロング船長が人類史上初めて月面に第1歩を降ろした。その後,アポロ13号の燃料電池の故障による月面着陸中止を除き計画は順調に進められ,アポロ15号(1971)による月面車の利用などの成果をあげ,72年12月に打ち上げられた17号でアポロ計画はそのすべてを終了した。なお,アポロ計画での大きな事故としては,1967年地上実験中のアポロ宇宙船の火災があり,船内の3飛行士が死亡している。

[アポロ宇宙船の構成と運用]  アポロ宇宙船は司令船(CM。command module の略),機械船(SM。service module の略)および月着陸船(LM。lunar module の略)からなり,司令船と機械船が結合したものを母船(CSM。command andservice modules の略)という。アポロ計画での代表的飛行順序は次のとおりである。まず,サターン V 型ロケットの第1段と第2段の推力で,第3段とアポロ宇宙船を地球周回軌道に乗せ,その後アポロ宇宙船を第3段の推力で月への軌道に乗せる。母船は第3段の格納部に収められている月着陸船とドッキングし,月着陸船を格納部から引き出して第3段から分離,月への飛行を続ける。月の引力圏に到着すると機械船のエンジンを噴射させ月周回軌道に乗り,月着陸船に2人の宇宙飛行士が移乗して月面に着陸する。2人の宇宙飛行士は月面での岩石採集や実験装置の設置など予定作業を終えた後,再び月着陸船で月面を飛び立ち,月を回っている母船とドッキング,宇宙飛行士が母船に乗り移った後,月着陸船を切り離し,機械船のエンジンを噴射し地球への軌道に乗る。地球付近で機械船を司令船から切り離し,司令船だけがパラシュートで減速されながら海面に着水する。アポロ計画で宇宙飛行を行った飛行士は33人,そのうち12人が月面に着陸した。

                      広浜 栄次郎


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[新聞記事] 日本経済新聞 なんでもランキング 世界経済50年 2024年3月30日(土曜日)

大変新聞切り抜きがしにくいレイアウト。新入社員向けの記事か。


年代順に並べ替えてみました。

20代の新入社員と

余命いくばくもない当方のような老人(1959年生まれ)では

記事の受け取り方が違うのでしょう。










[晴れときどき英語のお勉強] 5-1-5 can



 p208

5-1-5 can


[canの意味 核心:いつでも起こる]

①可能「~できる」

②許可「~してもよい」/(疑問文)申し出「~しましょうか?」

③(疑問文)依頼「~してくれる」

④可能性「ありえる」…英語ではこの範囲の意味がが強く、日本語の分類にこだわる必要はない



[例文]

①可能「~できる」

Penguins canm swim very fast.


He can do it if he tries.

(彼は本気になればできる人です)


[補足]

You cannot be too careful when you drive a car.

cannot ~ too...「いくら...しても、しすぎではない」


[+α] I can't wait. を使いこなそう。

I can't wait to see the movie.

(その映画を観るのがすごく楽しみ)


I can't help falling love with you.

help ~ing 「~せずにいられない」


②許可「~してもよい」/(疑問文)申し出「~しましょうか?」

You can borrow my car as long as you promise to drive carefully.

※許可のcan


A:Can I see your notes?

B:No problem.


Can I help you with anything?

(何かお手伝いできることはありますか)

※申し出のcan


③(疑問文)依頼「~してくれる」

Can you help me with my homework.


[まとめ]「許可・申し出・依頼」の意味の変移

可能「できる」→許可「~してもよい」→申し出「(してもいいなら)~しましょうか?」

       →依頼「(できるなら)~してくれる?」


④可能性「ありえる」

Accidents can happen.

((一般論として)事故は(いつでも)起こり得る)


疑問文「~がありえるだろうか?」(強い疑いを表す)

Can it be true?

(それ本当かなあ?)

※直訳「それは本当だということがありえるだろうか?」


否定文「ありえない・~のはずがない」

It can 't be true.

(それは真実のはずがない)

※会話文ではtrueが省略され、It can't be.になることもある。「そんなはずない」の意。


[+α]科学・医学分野で多用されるcan

Seemingly insignificant infections can cause medical complications if nolt treated right away.

(すぐに治療しなければ一見たいしたことがないような感染症が、合併症を引き起す可能性がある)



[canの代用表現] be able to~「能力の強調」

過去形のcould、意味が違う

未来形はwill be able to ~「~することができるはず」を使う


The doctor  won't be able to see you until next week.


[+α] be unable to ~「~できない」

I'm sorry, but I am unable to locate your reservation in the system.

※locate:探し出す


[カクシン]canの通常の発音は[kn]、強形がキャン

ofも同等(アに聞こえる)



[惹句どんどん] 松岡正剛(編集工学者)

 

しかし私が考えていたのは、
日本という国そのものが
「方法」であるということです。



 

[その他] a day in the life 帰省した弟一家と会食 堺町・としのや 3月29日(金曜日)

 



長野市から帰省中の弟夫婦と会食。お好み焼き(府中焼)の堺町・としのや。


弟夫婦、当方夫婦、母、叔母、隣家の孫(Yちゃん)。


臨家の孫(Tくん)は扁桃腺除去手術のため入院中。日曜退院予定。


[積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治二十九年


 176 種卸し種卸し婿と舅かな


177 春の江の開いて遠し寺の塔


178 手習や天地玄黄梅の花


179 奈良七重菜の花つづき五形咲く


180 草山や南をけづり麦畑


181 端然と恋をしてゐる雛かな


182 春風や吉田通れば二階から


183 登りたる凌雲閣の霞かな


184 想ひ出すは古白と申す春の人


185 家あり一つ春風春水の真中に


176~187まで句稿(その十四)にある句。


種卸し:種もみを苗代にまくこと。

種卸し婿:迎えたばかりの婿の意か。

天地玄黄:習字の手本として流布した『千字文』の第一句。

吉田:東海道五十三次の宿場。今の豊橋。「吉田通れば二階から招く。しかも鹿の子の振袖で」という俗謡があった。

凌雲閣:浅草公園にあった十二階の建物。明治二十三年の建造。

古白:自殺した子規の従弟、藤野古白。


[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)4月1日~4月7日




 ・相撲の世界には「三年先の稽古」という教えがあるそうです。

すぐには結果に結びつかない、地味な「しこ」や「てっぽう」をおろそかにしてはいけない。稽古の基本であるこの二つが、相撲を強くするという意味です。


・三浦梅園の教え

「華を識らんと欲すれば、先ず花譜を繙かんよりは、急ぎ花圃に趨(はし)れ」

身体を使って行動する大切さを説いた言葉です。


・「利は元(仕入れ)にあり」

原則として売れる分だけ仕入れる。


・不満を工夫改善につなげることで、私は成長の糧にしてきました。

よくないのは、不満を態度に表して不満のまま抱え込み、悪い氣を周囲の人に伝播させることです。









2024年3月29日金曜日

[その他] a day in the life 長野市在住の弟夫婦が帰省 広島アンデルセンで会食

3月は人事往来多数。3月28日(木曜日)は家族で食事。






こちらのレストランは改装前のほうがよかったです。旧帝国銀行を改装した広大な空間にモディファイド・カフェテリア方式の活気のあるレストランでした。二度と戻らない。




改装前のレストラン部分



 

2024年3月27日水曜日

[積読立読斜読](特別編)終活断捨離文庫100冊プロジェクト 志賀直哉『小僧の神様 志賀直哉短編集』(岩波文庫)



断捨離で本を文庫本100冊に絞るプロジェクト。志賀直哉の短編は何回か再読しており、その何度目かの再読ですが、読むたびに新鮮。キャリアからすると大文豪ですが長編は意外にも『暗夜行路』しかなく基本的には短編小説の作家なのでしょう。情景描写の秀逸な「城崎にて」や「たき火」よりは飄々とした「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「赤西蛎太」を好みます。

『暗夜行路』も100冊に入れました。


「赤西蛎太」(1936年(昭和11年))は伊丹万作監督で映画化されており、こちらも必見。当方は広島市のビデオライブラリーで観ました。




 <内容紹介>(岩波書店のサイトより)

志賀直哉(1883-1971)は,他人の文章を褒める時「目に見えるようだ」と表したという.作者が見た,屋台のすし屋に小僧が入って来て一度持ったすしを価をいわれまた置いて出て行った,という情景から生まれた「小僧の神様」をはじめ,すべて「目にみえるよう」に書かれた短篇11篇を収めた作者自選短篇集.(解説=紅野敏郎)


<収録作品>

小僧の神様

正義派

赤西蛎太

母の死と新しい母

清兵衛と瓢箪

范の犯罪

城の崎にて

好人物の夫婦

流行感冒

たき火

真鶴


<著者のプロフィール>(平凡社『世界大百科事典』より)

志賀直哉  1883‐1971(明治16‐昭和46)(しがなおや)


大正・昭和期の小説家。宮城県石巻に生まれ,東京山手で育つ。父直温(なおはる)は慶応義塾出身の実業家。直哉に強い影響を与えた祖父直道は旧相馬藩の家臣。長男夭折のため次男直哉は祖母留女(るめ)の手で育てられた。


学習院時代より内村鑑三の教会に通い,渡良瀬川の鉱毒事件被害地視察のことより父と対立。また落第したため武者小路実篤らと同級となる。1906年学習院から東大に進んだが中退。武者小路や木下利玄らと回覧雑誌を発行,これが下級の里見蟻や柳宗悦らに影響を与え,10年4月《白樺》の創刊となる。


直哉の文学の特質は短編小説において十二分に開花,とくに肉親と友人との愛憎を的確に摘出,これを簡潔にして適切な日本語を駆使して描きあげた。不快からはじまり対立,損藤を経て,調和に至る肉体的,生理的な感情の起伏が作品の基盤となる。


初期から中期にかけては,自分の周辺を見つめた作品群と客観小説とが交錯するが,《或る朝》(1908成立,1918発表)から《大津順吉》(1912)を経て《和解》(1917)に至る作品群が前者にあたり,《剃刀》(1910),《正義派》(1912),《清兵衛と瓢人》《范(はん)の犯罪》(ともに1913),《赤西蠣太(かきた)》(1917),《真鶴(まなづる)》(1920)などが後者にあたる。


父との対立が頂点に達したとき尾道に行き,その後も松江などに一時住む。14年には父の反対を押しきって武者小路の従妹の康子(さだこ)と結婚。京都,赤城などにも住み,柳宗悦,武者小路,バーナード・リーチなどとともに手賀沼のほとりの我孫子にも住む。直哉の場合にこのような転居がばねとなり次の作品が作られていく。


父と和解した後は《城の崎にて》(1917),《焚火》(1920)など心境小説の名作を発表。

《大津順吉》の延長線上の自伝的物語として私小説《時任(ときとう)謙作》に着手したが,父との和解のため変形を余儀なくされ,それが唯一の長編《暗夜行路》(1921‐37)となり,構想から数えれば二十数年を費やしてついに完成した。


その間我孫子から京都,ついで奈良に移る。内的モティーフを尊重,書きたいもののみを書き,夾雑物を切り捨て,圧縮の美を作り出した肉眼の作家として,広津和郎,芥川竜之介ら同時代作家,および後続作家に絶大な影響を与え,小林秀雄,谷川徹三や滝井孝作,尾崎一雄,網野菊,阿川弘之らに至る志賀山脈を形成した。同時に志賀直哉乗越えの試みが後代の作家の大きな課題となった。


晩年は熱海さらに東京渋谷に住み,《山鳩》(1950),《朝顔》(1954)などの一刷けの作品を発表。文体そのままのような清淡な日常生活を送り,88歳の生涯を閉じた。                    


紅野 敏郎

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2024年3月26日火曜日

[その他] 10日と25日は'Punk in'(パン喰い)の日 河内ベーカリー(中区幟町)

 近くで仕事だったので昼食時に寄ってみました。

古色蒼然たる昭和のパン屋さん。ビルの谷間に残ってます。

アンパン、カレーパンを購入。

焼き立ての時より2割がた小さくなり不思議です。


2024年3月25日月曜日

[その他] a day in the life 軽音楽部の練習日


 3月24日(日曜日)は皆実28期の同期生で組んでいるバンドの練習日。


本日は2名欠席で4名で練習しました。



おやつはポワブリエールのケーキ。おやつの会なのか練習なのかよくわからない。

2024年3月23日土曜日

[積読立読斜読] (特別編)終活断捨離文庫100冊プロジェクト 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治二十九年

『漱石俳句集』は終活断捨離文庫100冊プロジェクトのうちの1冊です。

 

<内容紹介> 出版社のサイトより
漱石は親友子規の感化で俳句をつくり生涯におよそ二六○○句を残している.明治二十八~三十二年はとりわけ熱心に作句にはげんだ時期で,子規はこの頃の漱石の俳句を評して意匠が斬新で句法もまた自在だといった.漱石の作品は俳句というこの簡便で小なるものの楽しみを多彩に示しているのである.八四八句を抄して脚註を付す.


10句づつ紹介してます。


 明治二十九年


166 菜の花を通りぬければ城下かな


167 海見えて行けども行けども菜畑哉


168 筵帆の真上に鳴くや揚雲雀


169 落つるなり天に向つて揚雲雀


170 雨晴れて南山春の雲を吐く


171 里の子の猫加へけり涅槃像


172 旧道や焼野の匂ひ笠の雨


173 春日野は牛の糞まで焼てけり


174 宵々の窓ほのあかし山焼く火


175 野を焼くや道標焦る官有地



あげ‐ひばり【揚雲雀】

〘名〙 ヒバリが空に高く舞いあがること。また、そのヒバリ。《季・春》

※俳諧・蓼太句集(1769‐93)春「朝凪やただ一すぢにあげ雲雀」

『精選版日本国語大辞典』


南山:陶淵明の「飲酒詩」にもとづき俗塵を離れたすまいから望む南方の山を言う。

吉野山、高野山の別称でもある。

本書解説より


涅槃像:釈迦の入滅のようすを描いたもの。陰暦二月十五日の涅槃会にかかげられる。

本書解説より


172~175まで句稿(その十三)にある句。

本書解説より


[その他] a day in the life 叔父・従弟の七回忌

3月23日(土曜日)母方の叔父・従弟の七回忌。同じ年に亡くなった。

市内の順教寺で法要。やくもで会食。 


三月は人事往来多く、孫二人の誕生日、もとの会社の部下(2回)、法事、長野の弟夫婦、

東京の義妹夫婦、春分の日の墓参、あり。






臨家の孫(女子)と戸坂に嫁いだ次女の長男は同じ主催のキャンプで一泊の予定。
次女と次男が里帰り。臨家の長女の長男(小3)と戸坂に嫁いだ次女の次男(年少)と風呂に入る。




[日々是不穏 like a rolling stone] 過疎地「ライドシェア」着々 

2024年3月23日(土曜日)日本経済新聞。

諸外国に比べて道路交通法で原則禁止の日本では導入の速度が遅すぎます。

都市部と過疎地ではライドシェアの手段を変える必要があろうかと思います。

「自動運転」「シェア」「交通インフラ」「環境配慮」などのキーワードで
再編が進むのでしょうか。







セグウェイが中国企業に買収されて、かなりよい製品のようなので、いっそのこと
ハブ・アンド・スポーク方式にして、重要路線は自動運転バス、ハブからはセグウェイで自宅まで。呼出、回収は自動、ぐらいにしたらどうでしょうか。運転手不要。




<追加>
2024年3月28日(木曜日)




<追加>
2024年3月27日(水曜日)