2024年1月29日月曜日

2024年1月28日日曜日

[その他] a day in the life 自作大型スピーカーの処分

2024年1月28日(日曜日)。

なんだかんだで毎年1作品自作スピーカーを作っています。


写真は大型のバックロードホーンを聞きたくなり作ったものですが、

さすがに持て余し処分することに。


配偶者が持ち込み無料の大型ゴミ処分場まで運ぶことになりました。


大変申し訳ない。




[新聞記事] 医療を阻む謎の距離規制 

 2024年1月27日(土曜日)付け。日本経済新聞。



GHQ発祥説?。


医療行政は縦割りの官庁組織と、地域割りの地方行政に壁の前で「高齢化と人口減が加速する日本にとって、住宅医療の強化や市販薬へのアクセス確保は極めて重要な課題。遠隔対応などもフル活用し、限られた担い手で何とか実現しなければならないはずだ」という編集委員のオピニオンの実現が難しいようです。


[新聞記事] 2024年1月27日(土曜日)日本経済新聞社説 北欧のNATO加盟で結束を

 日本は意図せざる漁夫の利でしょうかね。





NATO  

ナトー 


北大西洋条約機構 North Atlantic TreatyOrganization の略称。北大西洋地域の北アメリカ,ヨーロッパ両大陸の西側諸国が調印した北大西洋条約に基づいて設立された集団防衛機構。

 第2次世界大戦後,東西の冷戦が激化した1949年4月,ベルギー,カナダ,デンマーク,フランス,アイスランド,イタリア,ルクセンブルク,オランダ,ノルウェー,ポルトガル,イギリス,アメリカの12ヵ国は北大西洋条約に調印,同条約は同年8月に発効した。52年にはギリシア,トルコ,55年に西ドイツ,82年にスペインが加盟した(1997年現在の加盟国は16ヵ国)。冷戦体制下ではアメリカを中心とする西側同盟体制の中軸となってきた。このうち,フランスは1966年に軍事機構から脱退しており,スペインは軍事機構に参加していない。一方,ソ連・東欧諸国は1955年にワルシャワ条約機構を設立,集団防衛体制をとった。

 北大西洋条約のおもな目的は,5条に規定された集団防衛で,加盟国に対する攻撃を全加盟国に対する攻撃とみなして,国連憲章51条によって認められた個別的または集団的自衛権に基づき,軍事力の行使を含む必要な行動をとるという点にある。条約の適用地域はヨーロッパ,北アメリカの加盟国の領域,トルコ領土,北回帰線以北の大西洋地域における加盟国の管轄下にある諸島となっている。

 NATO の最高機関は,加盟国の閣僚で構成される理事会で,年2回開かれる。NATO は超国家機関ではなく,加盟国の主権と独立性を尊重し,すべての決定は全会一致を原則としている。その補助機関として,大使級代表によって構成される常任理事会がベルギーのブリュッセルにおかれている。軍事問題は加盟国の参謀総長で構成される軍事委員会で検討し,理事会に助言する。その補助機関として,将官級代表によって構成される常任軍事委員会がブリュッセルにおかれている。このほか,政治,経済,社会,文化の各分野の問題を検討するため,非軍事分野で18の委員会が設けられている。

 西側同盟の中軸でありつづけた NATO は,冷戦の終焉とワルシャワ条約機構の解体,ソ連崩壊,ユーゴスラビアでの民族紛争など欧州の安全保障環境の激変のなかで,その機能の根本的な転換をはかることになる。1991年11月ローマでの首脳会議は,対ソ核抑止から欧州地域における危機管理と平和維持活動へと重心を移す〈新戦略コンセプト〉を採用し,95年には武力紛争が泥沼化していたボスニア・ヘルツェゴビナでその存在感を示した。また〈社会主義共同体〉の消滅とワルシャワ条約機構の解体で生じた力の真空を埋めるべく,旧ソ連・東欧諸国との政治的・経済的・軍事的な対話と協力の場として北大西洋協力評議会(NACC)を創設し,さらに94年1月,とくにNATO 加盟を求める中欧諸国の不安に対処するために〈平和のためのパートナーシップ(PFP)協定〉を実現させた。この延長線上で97年5月,ロシアとの協力関係を確認する基本議定書に調印し,中・東欧諸国への拡大(NATO の東方拡大)に乗り出せる条件を整えた。とはいえ,アメリカ主導のNATO がヨーロッパ全体の安全保障装置としてよく機能できるかどうかは予断を許さない。

                        高柳 先男

【冷戦体制下の NATO】

[NATO 軍]  NATO は加盟国の軍事力によって,地域別に編成された連合軍(NATO 軍)を保有している。主要兵力は,ヨーロッパ全域の防衛にあたるヨーロッパ連合軍(司令部所在地はベルギーのモンス),大西洋の海上防衛にあたる大西洋連合軍(同,アメリカのバージニア州ノーフォーク),英仏海峡一帯の防衛にあたる海峡連合軍(同,イギリスのノースウッド),アメリカ,カナダの防衛計画を担当するカナダ・アメリカ計画グループ(ワシントン)で構成されている。ヨーロッパ連合軍は,北欧,中欧,南欧の各連合軍に分かれている。総兵力は約66個師団相当,アメリカの核弾頭約5000発をもち,司令官は初代のアイゼンハワー(のちアメリカ大統領)以来,アメリカ軍人が任命されてきた。

 一方,ワルシャワ条約機構は,加盟国の提供する兵力でワルシャワ条約機構統合軍を編成することになっていた。また,モスクワにある統合軍司令部の業務はソ連国防省の指導のもとにソ連幕僚によって行われており,東欧諸国は連絡将校を出しているにすぎなかった。ワルシャワ条約機構軍は,NATO のように,加盟国の兵力提供により常時作戦可能な軍ではなく,平時は東欧諸国やソ連西部に展開するソ連軍を主体とした軍事力であったといえる。ワルシャワ条約機構軍と NATO 軍の戦力を比較すると,84年時の総兵力で617万人対502万人,戦車で5万両対2万両,航空機で5800機対1万2000機,艦艇で1300隻対1300隻であった(《ミリタリー・バランス》による)。

[NATO の戦略]  NATO の戦略は,かつて米核戦力に依存する大量報復戦略をとっていたが,1967年12月以来,柔軟反応戦略を採用してきた。この戦略は,通常戦争から限定的核戦争,全面的核戦争まであらゆる種類の戦争に有効に対処できる軍事力をもつことによって,侵略の抑止をはかろうとする戦略で,ソ連・東欧からの侵略に対しては国境地帯で防衛する前進防衛態勢をとった。侵略に対しては,侵略された地域で主として通常兵力で反撃する直接防衛,さらに限定的核使用を含む慎重なエスカレーション,侵略者の戦略能力を破壊する全面的核反撃の3種類の反撃を想定した。⇒核戦略

[NATO の内部対立]  NATO は結成以来,何度か分裂の危機を経験してきた。1955年の西ドイツの再軍備・NATO 加盟に対して,フランスが強い警戒心を示し,推進派の米英両国との対立を深めた。その後フランスは,自国の安全をアメリカの核兵器に依存することはできないとして,独自の核戦力保有にのりだし,核不拡散の立場からフランスの核武装に反対する米英両国との対立がさらに深まった。このためフランスは64年にまず大西洋連合軍,つづいて海峡連合軍から艦艇を引き揚げ,さらに66年7月,NATO 軍から全フランス軍を引き揚げ,軍事機構からの離脱を決定した。さらにフランスは,パリにおかれていたヨーロッパ連合軍の国外移転を要求,同司令部はベルギーのモンスに移転した。

 また1974年7月,中東キプロスで軍事クーデタが発生,トルコがギリシアへの併合阻止とトルコ系住民保護を理由にして軍事介入した際,NATO は何ら具体的な解決案を提示できなかった。このためギリシアはこれを不満として同年8月,NATO の軍事機構から脱退した。さらに79年12月,NATOはアメリカの中距離核ミサイル,パーシング II 型と巡航ミサイルを83年末からヨーロッパに配備することを決定したが,これに対してヨーロッパ各国で反核運動が起こり,イギリス,西ドイツ,イタリアは配備を支持したのに対し,ベルギー,オランダ両国はあいまいな態度を示し,NATO のヨーロッパ諸国を二分する結果を招いた。

 NATO がこうした複雑な対立をかかえながらも分裂を回避してきたのは,NATO が加盟国の主権と独立性を尊重し,すべての決定を加盟国の自由意思にゆだねるという柔軟性から生まれている。加盟国の意見が対立する際は,NATO は何も決定できないが,その反面,対立があるとしても分裂までには発展しない。さらに NATO は,集団防衛機構であるだけでなく,北大西洋地域の自由主義諸国の政治,経済,社会,文化のあらゆる面にわたって協議を行ってきた。NATO のない西側諸国の協力は考えられなかったのである。こうした点が,NATO が内部の対立をはらみながらも分裂しなかった大きな原因であろう。

【冷戦終結後の NATO】

第2次世界大戦以後,世界を二分してきた東西対立は,冷戦の終結とそれに続くソ連の解体によって名実ともに終結した。ヨーロッパでは NATO とワルシャワ条約機構(WPO)の厳しい対立が続いてきたが,1991年3月,WPO は解体し,ヨーロッパの冷戦構造は崩壊した。東西対立が終結したなかで,ヨーロッパでは新しい安全保障体制を構築する模索が始まっている。しかしながら,NATO,ヨーロッパ共同体(EC)から発展してヨーロッパ統合を目指すヨーロッパ連合(EU),冷戦期に発足した西欧10ヵ国の同盟である西欧同盟(WEU),全ヨーロッパの諸国を網羅した安全保障についての対話機構であるヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)などの諸機構がどのような相互補完的関係を発展させていくのか,また現在のアメリカ主導型の安全保障体制のなかでヨーロッパの独自性をどのように見せていくのかなど,複雑かつ困難な問題に直面している。

 冷戦の終結は西側同盟の中核であった NATOの再編成を促進した。NATO はかつての敵対国であったロシア・東欧諸国との間で安全保障協議を進め,97年7月,マドリードで開かれた NATO首脳会議では,ポーランド,ハンガリー,チェコの東欧3ヵ国との間で,NATO 加盟交渉を開始することを決定した。NATO はヨーロッパ新秩序建設へ向けて歴史的な第一歩を踏み出している。

[新しい安全保障体制の構築への模索]  東西ドイツが統一した直後の1990年11月,ヨーロッパの東西両勢力と中立・非同盟諸国など34ヵ国首脳が参加して,パリでヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE,現在はヨーロッパ安全保障協力機構OSCE,1997年9月現在で55ヵ国が加盟)を開き,パリ憲章を採択して〈欧州の対立と分断の時代は終わった。これからのわれわれの関係は尊敬と協力を基礎とする〉と冷戦の終結を高らかに宣言した。

 冷戦後のヨーロッパの安全保障は,冷戦期のNATO とワルシャワ条約機構の双極的対立の構造と異なり,NATO,ヨーロッパ連合(EU),西欧同盟(WEU),OSCE など,さまざまな目的を持った機構が重なりあった重層的構造となっている。また,旧ワルシャワ条約機構(WPO)は1991年3月に解体したが,NATO とロシアや旧 WPO 加盟国の間で欧州・大西洋パートナーシップ会議(EAPC)など,さまざまな協議機構が生まれ,これらの諸機構の相互補完的関係をどのように発展させるかが重大な問題になっている。

 冷戦期の CSCE は,ヨーロッパの東西両勢力と中立・非同盟諸国が安全保障,経済,人権など,幅広い課題を検討する対話の場として発展した。冷戦終結後の1992年7月,CSCE は首脳会議を開き,CSCE の制度化・機能強化などをうたった〈ヘルシンキ文書1992〉を採択,また軍縮・軍備管理面では〈信頼・安全醸成措置(CSBM)ウィーン文書1992〉を採択するなど,軍縮・軍備管理の分野で成果をあげた。94年12月の首脳会議では,自ら欧州域内の地域紛争を解決していく機関と位置づけ,名称をヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)に変更,首脳会議などの定例化,事務局などの常設機関の設置など,機構の強化を図った。

 NATO(北米・西欧の16ヵ国加盟)は1991年11月,ローマ首脳会議で〈新戦略コンセプト〉,〈平和と協力に関するローマ宣言〉を発表した。ローマ宣言では,CSCE,NATO,EC(現在はヨーロッパ連合=EU),WEU などの機構が,それぞれ補完できるような新しいヨーロッパ安全保障機構の構築を目指すことを明らかにした。同時にヨーロッパの同盟体制である WEU の性格について〈EU の将来の防衛を担い,EU 発展の構成要素〉と〈NATO のヨーロッパにおける柱〉の二つの意味で,その役割を強化するとの方針を打ち出した。

 NATO は1991年11月,ロシアを含む旧ワルシャワ条約機構(WPO)との協議機関として北大西洋協力会議(NACC)を設立し,両者間の対話・協調・協力を推進した。また1994年1月,〈平和のためのパートナーシップ(PFP)〉計画が発足,同計画に参加する東欧諸国は個別に NATO と協力協定を結び,国連や OSCE による活動への貢献,平和維持活動・救難活動・人道支援のための防衛計画,演習を行うことを決めた。

 PFP 計画にはロシアを含むほとんどの東欧諸国が参加,OSCE 加盟の55ヵ国のうち PFP 計画に参加しているのは44ヵ国に上っており(1997年9月現在),NATO と東欧諸国の間で平和維持活動に関する演習が実施されるなど,双方の軍事力の相互運用や信頼醸成の側面で大きな効果をあげている。NATO 主導のボスニア・ヘルツェゴビナの平和執行部隊(IFOR)でもロシアや東欧諸国を含む多くの PFP 参加国が協力し,大きな成果を挙げた。

 1995年9月には NATO は〈東方拡大〉に乗り出し,その目的として欧州・大西洋全域の安全と安定の強化を図ることをかかげ,新規加盟国に求められる条件としては,軍隊の文民統制の確立,民族問題・国境問題の平和的解決などをあげた。97年5月には,NATO とロシアの協力関係を規定した〈基本文書〉に合意を見た。また,NATO とロシア・東欧諸国との関係を強化するため,NACC に代わる協議機関として欧州・大西洋パートナーシップ会議(EAPC)が設立された。

 ヨーロッパ統合への動きも活発化した。EC 加盟国は1992年2月,ヨーロッパ統合を目指してヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)に署名,同条約は93年11月に発効し,EC はヨーロッパ連合(EU)に発展した。EU は統一通貨や共通外交・安全保障政策を持つことを定めているが,マーストリヒト条約では西欧の同盟体制である WEU を EU の防衛面における〈不可欠の要素〉と規定し,〈NATO のヨーロッパにおける柱〉として発展させることを規定した。

 WEU では1992年5月,ドイツとフランス両国は,WEU の中核となる欧州合同軍を創立,93年にはベルギーも参加した。WEU が NATO の指揮通信システム,司令部などを共同資産として使用することに NATO も同意した。

[〈新戦略コンセプト〉と NATO 軍の改編]  NATO の冷戦期における中心的任務は,ヨーロッパにおける対ソ防衛と核拡大抑止(〈核の傘〉)の維持であった。このため NATO は柔軟反応戦略と前方防衛戦略をとり,通常戦力から核戦力にいたるまで,想定される東側のすべての攻撃のスペクトラムに対応できる軍事態勢を保持し,主力戦力を前方に配備することによって,ソ連の攻撃を抑止・防衛することを基本としてきた。冷戦の終結は,この NATO 戦略を転換させることになった。1991年11月,NATO ローマ首脳会議は冷戦後の NATO 戦略として〈新戦略コンセプト〉を採用したが,これは従来の柔軟反応戦略と前方防衛戦略を実質的に放棄したものであった。

 〈新戦略コンセプト〉は,NATO をヨーロッパの安定の基礎の一つと位置づけ,その機能として加盟国に対する攻撃を阻止・防衛し,ヨーロッパにおける戦略均衡を維持することを挙げた。また,冷戦の終結によって〈ヨーロッパ前面の全戦線に対する同時・大規模攻撃の脅威は去った〉としたが,それに代わって中欧・東欧における〈民族的抗争,地域紛争を含む深刻な経済・社会・政治的苦境〉から,〈多面的,多方面的危険〉が存在していることを確認した。こうした認識にしたがって,NATOの中心的課題は,大規模侵攻に対する抑止・防衛から,危機阻止外交と危機管理の役割へとその強調点を変化させており,軍事力も,冷戦期の主力防衛部隊と増援部隊を中心とした構成から,危機に対する即時・緊急対応態勢を重視する編成へと改編することが決定された。このため,NATO 加盟諸国が提供する約5000人で構成される即時対応軍(Immediate Reaction Force,IRF),ヨーロッパ諸国の4~5個師団と,米空軍部隊の支援を受ける7万人から10万人の兵員で構成される緊急対応軍(Rapid Reaction Force,RRF)を新しく編成し,これを支援する6~7個軍団によって構成される主力防衛軍(Main Defense Force),アメリカ本国ならびにヨーロッパ諸国の予備兵力で構成される増強戦力(Augumentation Force)に改編する方針を決めた。

 〈新戦略コンセプト〉に基づく NATO 改編計画の進展とともに,NATO 加盟諸国の軍備削減が行われた。アメリカのブッシュ政権は,冷戦の終結にともないグローバル・ウォー(世界的規模の戦争)に備えた戦略を〈地域防衛戦略〉に転換して,約25%の兵員削減を決定した。1993年1月に登場したクリントン政権は〈二つの地域紛争〉対処の戦略を打ち出し,さらに兵力削減を進め,冷戦期の1985年に215万人に上った米軍を95年には145万人へと32%の削減を実行した。アメリカは冷戦期,ヨーロッパに32万5000人の米軍を展開したが,その3分の1の10万人の兵力に削減することを決定した。

 ヨーロッパの NATO 加盟国でも大幅な兵力削減が実施された。フランスは85年に46万4000人を95年には40万9000人へ12%の削減を実行した。引き続き2002年を目標に徴兵制を廃止し,核戦力についても地上発射型核ミサイルを全廃し,新型の潜水艦搭載核ミサイルを開発して,核戦力の近代化を推進する方針である。ドイツでは47万8000人を34万人へ29%の削減を実施し,兵役義務を12ヵ月から10ヵ月に短縮した。イギリスでは32万7000人を24万人へ27%の削減を行い,兵力削減を補完するために即応予備役制度の導入を図っている(軍事力の推移は国際戦略研究所《ミリタリー・バランス1996~97年》による)。

[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争と NATO]  冷戦の終結後の1991年中ごろから,旧ユーゴスラビア連邦はスロベニア,クロアチア,ボスニア・ヘルツェゴビナなど5共和国に分裂し,それをきっかけとして各共和国で民族紛争が激化した。特にボスニア・ヘルツェゴビナ(以下,ボスニア)ではムスリム,セルビア,クロアチアの3民族間の激しい戦闘に発展した。ヨーロッパ諸国はユーゴスラビア内戦がバルカン半島に拡大することを懸念したが,当初の和平工作は国連,ヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE),EC を中心に展開され,NATO は不介入の姿勢を貫いてきた。

 しかし,ボスニア内戦の激化にともなってNATO は1992年7月,アドリア海における経済制裁・武器禁輪の監視,さらに同年10月にはボスニア上空に飛行禁止の監視に着手した。さらに95年にはボスニアの国連が設定した〈安全地帯〉や国連保護軍(UNPROFOR)に対する支援の目的でボスニアのセルビア人勢力に対する空爆を実行した。こうした NATO の軍事的介入を背景に,クリントン大統領が紛争調停に乗り出し,1995年11月,対立勢力がアメリカのオハイオ州デイトンに集まり,ボスニア停戦協定(デイトン協定)に調印した。

 これを転機にして,NATO は国連保護軍に代わって平和執行部隊(IFOR)として NATO 主導の重武装地上部隊のボスニア派遣を決定し,1995年12月から配備を始めた。IFOR は NATO のアイスランドを除く全加盟国15ヵ国,ロシアや東欧諸国の〈平和のためのパートナーシップ〉計画への参加国など,総計33ヵ国による約6万人で構成され,停戦監視や人道的援助物資の護送にあたるだけでなく,必要があれば戦闘作戦を行う能力を保有した部隊であった。IFOR が派遣されて以来,組織的敵対行動が見られず,軍事的には成功と評価された。1996年12月,IFOR の規模を2万5000人に縮小した NATO の主導の安定化部隊(SFOR)が任務を引き継ぎ,18ヵ月間ボスニア駐留を継続する。

 IFOR は NATO がその条約地域外へ軍事力を展開した初めてのケースであったが,NATO 主導によるボスニア和平実現に成功したことは,今後のヨーロッパ安全保障のモデルとして大きな影響を与えることが予想される。

 注目される第1は,冷戦終結後においてもNATO がヨーロッパ安全保障構造の中心に位置していることが確認された点である。OSCE は安全保障の対話・協力機構であり,軍事能力を欠いている。このため欧州の安全維持には有効な手段とならないし,WEU も地域紛争に対処するには軍事能力が十分でなく,当面は NATO に依存するほかないことが明らかになった。

 IFOR は約6万人で構成されているが,この中核になっているのは米軍2万人と NATO の欧州加盟国のイギリス,フランスなど3万人である。この全般的統制は NATO 欧州連合軍最高司令官(SACEUR),作戦指揮は南欧コマンド司令官(いずれもアメリカ軍人)があたっている。

 第2の点は,IFOR はアメリカを含む西側諸国とロシアや東欧,スカンジナビア諸国との安全保障協力のモデルを提供したことである。ロシアはIFOR に旅団規模の約2000人の兵員を参加させた。ロシア軍の指揮については特別協定によって戦闘指揮はロシア側が分担するものの,現実的にはサラエボ(ボスニアの首都)の IFOR 司令部司令官(アメリカ軍人)の指揮下に置かれ,SFOR にも約1200人を派遣している。また NATO の軍事機構から離脱しているフランスも NATO の指揮下に部隊を派遣した。

 第3は,ボスニアへの IFOR の展開は,アメリカの空・海両部隊の支援下に行われたもので,ヨーロッパ諸国だけでは大規模な戦闘部隊を NATO条約地域外へ派遣することは不可能であることが認識された。大規模な戦闘部隊を派遣するには,統一した指揮・管制機構と空・海の支援部隊を必要とするが,その能力を保有しているのはアメリカだけであることが認識され,ヨーロッパの安全保障におけるアメリカの役割が再確認された。

[NATO の〈東方拡大〉]  冷戦終結以来,NATO は東方へ向けての実質的な拡大を続けてきた。東欧の共産主義政権の崩壊に続いて,1990年10月には東西ドイツが統一され,翌91年3月,東側の軍事同盟であったワルシャワ条約機構(WPO)が解体した。東西ドイツ統一は,旧東ドイツ内に外国軍隊と核兵器を配備しないことを条件としたものとはいえ,結果として NATO の防衛線はドイツ,ポーランドまで前進したといえよう。

 NATO の〈東方拡大〉の背景にあるものは,冷戦の終結と WPO の解体の結果として中・東欧地帯に〈力の空白地帯〉が生まれたことに対する不安感である。ドイツは中・東欧諸国に〈安全保障の傘〉を提供して,ドイツとロシアの間に〈力の空白地帯〉を作らないことを希望した。またポーランド,ハンガリーなどの中・東欧諸国は,ロシアの軍事力の復活に対する懸念が強く,それが NATO 加盟の希望を強めた。特に1993年10月,ロシア軍による下院砲撃事件以来,ロシアの内政が不安定化し,ロシア議会に極右勢力が登場したり,ロシア軍がチェチェンを軍事攻撃するなどの事件が発生した。こうした事件がロシアの将来に対する不安感をかきたてた。

 こうしたことを背景に,1994年1月,ブリュッセルで開かれた NATO 首脳会議は〈ヨーロッパ全体の政治・安全保障を展望したプロセスの一環として,東欧の民主主義国への NATO 拡大を希望する〉と声明して,〈東方拡大〉のプロセスを開始した。翌95年9月には NATO の《拡大報告書》を発表し,NATO を通じて欧州・大西洋地域の安定を拡大することの必要性を強調した。さらに同報告書は新規加盟国に期待される条件として,民主主義,自由主義,法の支配の順守,集団防衛の支持,意思決定への参画などをあげた。さらに新規加盟国に対して核兵器配備と外国軍隊の駐留を加盟の条件としないことを明記した。

 NATO の〈東方拡大〉に対して,ロシア側は強く反発したが,NATO はロシアの懸念に配慮し,1991年12月には NATO 加盟諸国と旧ワルシャワ条約(WPO)加盟諸国のとの安全保障協議機関として北大西洋協力会議(NACC)を設立した。さらに94年1月の〈平和のためのパートナーシップ(PFP)〉計画も,ロシア側の懸念解消のための努力の一環となった。また1995年12月,ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に NATO 主導の平和執行部隊(IFOR)を派遣したが,ロシアもこれに参加,これも NATO とロシアとの関係改善を進めた。

 ロシアは実質的側面では NATO と協力関係を深めながらも,表面的には〈東方拡大〉に対して強い反発を示し,エリツィン大統領は〈NATO 拡大はヨーロッパを戦火に巻き込むことになろう〉と激しい言葉で非難し,ロシア議会・軍部もまた強く反発した。アメリカでも,冷戦期に共産圏封じ込め政策の提唱者であったジョージ・ケナンらは〈ロシアの民主主義の発展を逆行させることになる〉と手厳しく批判した。

 ロシアの不安を解決するため,NATO はロシアとの間で1997年5月,NATO とロシアの協力関係を規定した〈基本文書〉に調印,NATO16ヵ国とロシアの間で安全保障政策についての協議と協力のために NATO・ロシア常設合同会議(PJC)を設置することに合意した。また NACC を通じた政治的協力関係と PFP 計画による協力を強化するため,NACC に代わる機関として欧州・大西洋パートナーシップ会議(EAPC)を創設した。

 こうした措置を積み重ねた上で,NATO は同年7月,マドリードで開催した首脳会談で,東欧の新規加盟の第1陣としてポーランド,ハンガリー,チェコの3ヵ国と加盟交渉を行うことを確認し,1999年4月の NATO 条約50周年までに加盟手続を完了することを確認した。さらにこのマドリード宣言では,加盟の第1陣にもれた諸国に配慮して〈NATO の門戸は開かれている〉と述べ,〈ルーマニアやスロベニアなどでの民主化への動きを認識している〉と具体的に言及,さらにロシアが強硬に反対しているバルト三国についても〈安定と協力に向けた進展が達成されている〉と述べて,NATO へ道が開かれていることを確認した。

 ロシアがその安全保障上,重要としているウクライナとの間でも〈パートナーシップ憲章〉が調印された。同憲章はロシアとの間で調印された〈基本文書〉と同じく NATO とウクライナ間の合同委員会の設立,ウクライナの NATO 常設代表部の設置などが規定された。

 NATO の〈東方拡大〉の政治的意義は単にNATO 加盟国数が増加することではない。NATO拡大は,ヨーロッパ新秩序形成の第一歩を意味する。ロシアとの新しい協力関係の模索,NATO,EU,WEU,OSCE などのヨーロッパの重層的安全保障構造の相互補完性の強化などによる,新秩序の建設が開始されている。      阪中 友久

【NATO をめぐる米欧関係】

1981‐83年の INF(中距離核戦力)問題は,冷戦下の NATO 最大の試練となった。この問題の直接の源泉は,1979年12月の NATO 二重決定にある。これは,一方でアメリカ製新型中距離核ミサイル計572基の西欧配備を83年末より開始することを決定し,他方でこれを〈てこ〉に西欧諸国に軍事的不安を与えてきたソ連の SS20ミサイルの削減を目的とする INF 制限交渉を米ソに促すことを決定したものである。交渉は83年11月まで続けられたが,合意が得られず,中断されるとともに,西ドイツ,イギリス,イタリア,ベルギーへの配備が着手された。反核世論の強いオランダだけは,配備受入れの最終決定ができないままであった。NATO 二重決定が西欧諸国,とくにこの決定のイニシアティブをとったシュミット西ドイツ首相の思惑どおりに運ばなかったのは,1979年末以降の米ソ間の〈新冷戦〉的状況の高進と,安全保障政策についての西欧諸国の国内的コンセンサスの動揺,あるいは崩壊が急速に生じたからであった。ことに NATO 核近代化がヨーロッパを舞台にする〈限定〉核戦争につながりかねないとみて二重決定の撤回を要求し,さらには核抑止戦略に頼らない安全保障体制を模索しようとするヨーロッパ各国の市民による反核運動はかつてない規模で高揚し,各国の安全保障政策の根本的な再検討を促したのみか,米ソ関係にも大きな影響を与えた。

 だが,この危機も本質的には NATO の構造に起因していたといえる。アメリカの核抑止力と在欧米軍への安全保障の依存は,つねに西欧諸国にアメリカの意図と行動に対する不安感を与えてきた。それは,一方でアメリカの慎重を欠いた行動によって世界戦争に巻き込まれかねないとの不安であり,他方では米ソの〈共同支配〉の利益追求のなかで防衛の約束を放棄されかねないという,あるいはヨーロッパを舞台の通常戦争による〈防衛〉という名の破壊という悪夢であった。したがって,西欧諸国が経済の復興を遂げてアメリカとの間が相互依存関係に入るや,安全保障面でのアメリカへの依存からの離脱を模索するのは自然であった。ド・ゴールのフランスがアメリカの核抑止の意図に疑義をいだき,自前の核戦力の開発に踏み切り,NATO 軍事機構から脱退したことはその例である。またブラントの西ドイツが東方政策を追究し,対ソ・デタント(緊張緩和)を構築したのも,安全保障の問題についての独自のアプローチだったといえよう。INF 問題をめぐる米欧ないし各国内世論の亀裂も,西欧諸国のこうしたアンビバレントな心理と論理を反映したものにほかならなかった。

 だからこそ,ヨーロッパの安全保障の主導権をめぐるアメリカとフランスの対立は,単純に米欧対立の構図にはならず,西欧内部にもアメリカの力に全面的な信頼を寄せるイギリス,オランダ,イタリアと,ヨーロッパの独自性を模索するフランスや,それとは違ったスタンスにあるもののフランス寄りであるドイツやベルギーという,二つの潮流が存在していた。

 一方,西欧諸国の世論の底流にあった当時の平和主義ないし中立化志向を西側同盟の危機とみるアメリカには,ヨーロッパ防衛の主導権と責任をヨーロッパ側に移して,ヨーロッパ防衛体制の根本的な再編成を主張する有力な声が聞かれるようになった。

 しかし冷戦の終焉は,欧州防衛の主導権をめぐるこれまでの米仏の対立関係に転機をもたらすことになる。NATO におけるアメリカのヘゲモニーをきらい,欧州独自の防衛共同体の構築を企図してきたフランスは,一方で冷戦時代,休眠状態にあった西欧同盟(WEU。西ヨーロッパ連合ともいう)をヨーロッパ連合(EU)の基礎に据え,それを発展させることにより NATO の〈ヨーロッパの柱〉とすることを目指している。92年仏独合同軍の創設の決定はその第一歩であったが,フランスはこの仏独合同軍を有事の際には NATO 指揮下に置くのを認める米仏独立間協定に調印し,NATO への再接近をはかった。合同軍はベルギーの参加を得て93年欧州合同軍として正式に発足し,スペイン,ルクセンブルクも合流している。さらにフランスは,ボスニア上空飛行禁止強化措置の協議を機に NATO 軍事委員会に議決権をもつ正規メンバーとして復帰している。逆に96年 NATO 合同統合機動部隊(CJTF)を WEU 指揮下で使用することについて米欧間の調整が終わったが,これは,アメリカ主導の NATO とフランス主導のWEU との機能上の補完性の模索にほかならない。                     高柳 先男


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[新聞記事] 食の履歴書 世良公則

 2024年1月27日(土曜日)付、日本経済新聞。

なかなかロック・ミュージシャンの良い年の取り方は難しいようですが。

世良公則さんの記事。見習いたいですね。





[書評] 『経済学レシピ』『不自然な自然の恵み』

 2024年1月27日(土曜日)付、日本経済新聞。

『経済学レシピ』は楠木健さんが評者。

『不自然な自然の恵み』は、自然にまったく手を加えないで、人間が収穫物を得ている例から、真の自然保護、フェアトレード、についての考察。ジャコウネコの排泄物から採取したコーヒー豆が貴重品というのは知っていましたが、いろいろ例があるようです。









ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン主演。"The Bucket List"(邦題:『最高の人生の見つけ方』2007年)より。


2024年1月27日土曜日

[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)1月29日~2月4日


 ・逃げると、どこまでも追いかけられます。耐え忍ぶと、たとえ目の前の状況は変わらなくても、自分自身が清め高められていく効果があります。


・「困難に遭遇」「やるべきことが見つからない」心が折れる。この心境を切り替える方法は「下座におりて身の回りをきれいに掃除すること」









[積読立読斜読] 『野生の棕櫚』(ウィリアム・フォークナー著、加島祥造訳、中公文庫、2023年)


 おそらく映画『Perfect Days』の公開に併せて復刊させたものと思います。映画の主人公、トイレ清掃員の平山さん(役所広司)が読んでいる文庫本の一冊。アメリカの大御所、ヘミングウェイ、スタインベック、フォークナーの読者が現代日本でどの程度いるのかは不明です。当方もまったく熱心ではありません。映画化に併せて初めて読みました。中公文庫版の訳者自身による解説では日本語の語感の「棕櫚」とミシシッピ川流域に生息するcabbage palm(高さは20m、幹は1m弱)ではスケールが全く違うためタイトルに「棕櫚」は使わないほうがよいとのこと。ちょうど日本の河川と大陸のミシシッピ川の様な大河と同じ「川」という語感で理解するようなものなのでしょう。訳者解説によれば「(作中の)二つの物語ともニューオーリンズやミシシッピイ州各地にわたっている。ある人はこれを、『蚊』『パイロン』についでニューオーリンズ物第三作と分類している。」(p436)だそうです。そういえば映画の劇中場末のスナックのママ役がなぜか石川さゆりで、常連客役のあがた森魚のギターに合せて『朝日のあたる家』を歌いますが、そうですか、ニューオーリンズつながりということで納得。


               ミシシッピ川流域のCabbage Palm 20m超の大木

日本の棕櫚 観葉植物


出版は1939年、フォークナーが41歳の時の作品だそうです。時代背景はもちろん古びていますが、登場人物の思考回路はむしろ現代的で古びておらず、充分魅力的でありました。トイレ清掃員・平山さんに習って、同じ作品を何度でも読んでみたいですね。本書もその一冊となりそうです。


<アマゾンの解説より>

「悲しみ(grief)と虚無(nothing)しかないのだとしたら、ぼくは悲しみのほうを取ろう。」

1937年――人妻シャーロットと恋に落ち、二人の世界を求めて彷徨する元医学生ウイルボーン。(「野生の棕櫚」)

1927年――ミシシピイ河の洪水対策のさなか、漂流したボートで妊婦を救助した囚人。(「オールド・マン」)

二組の男女/二つのドラマが強烈なコントラストで照射する、現代の愛と死。


アメリカ南部を舞台に、実験的かつ斬新な小説群を、洪水的想像力で生涯書き継いだ巨人、ウィリアム・フォークナー。

本作は、「一つの作品の中で異なる二つのストーリーを交互に展開する」という小説構成の先駆となったことで知られる。原著刊行(1939)の直後、ボルヘスによってスペイン語訳され(1941)、その断片的かつ非直線的な時間進行の物語構成により混沌とした現実を表現する手法は、コルタサル、ルルフォ、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサなど、その後のラテンアメリカ文学に巨大な霊感を与えた。

他方、現代日本の小説にも、大江健三郎(『「雨の木」を聴く女たち』)や村上春樹(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)、叙述トリックを用いたサスペンス小説(連城三紀彦は本作を生涯の10冊に挙げている)など、本作の影響は数多見受けられる。

また、ゴダール(『勝手にしやがれ』)、ジャームッシュ(『ミステリー・トレイン』)における言及で本作を知る映画ファンも多いだろう。

その意味では、文学のみならず20世紀カルチャーにおいて最大級の方法的インパクトを与えた、世界文学史上の重要作にして必読の傑作だといえる。


これまで日本の新刊書籍市場ではなかなか入手できなかった本作を、『八月の光』『サンクチュアリ』『兵士の報酬』などの名訳によって定評のある、加島祥造訳にて復刊する。


<著者について>

フォークナー

一八九七年アメリカ合衆国ミシシッピー州生まれ。第一次大戦で英国空軍に参加し、除隊後ミシシッピー大学に入学するが退学。職業を転々とする。地方紙への寄稿から小説を書きはじめ、『響きと怒り』(一九二九年)以降、『サンクチュアリ』『八月の光』などの問題作を発表。米国を代表する作家の一人となる。五〇年にノーベル文学賞を受賞。一九六二年死去。


加島祥造

一九二三年、東京・神田生まれ。早稲田大学文学部卒業。信州大学、横浜国立大学、青山学院女子短大にて英米文学を教える。詩人、タオイスト、墨彩画家。四七年、北村太郎、田村隆一らとともに詩作グループ「荒地」に参加。壮年期まで翻訳を中心に行い、フォークナーをはじめ百作近くを手がける。その後、英訳された漢詩によって「老子」を知り、老荘思想関係の著作を刊行。『タオ 老子』『求めない』などがロングセラーとなる。二〇一五年死去。


<新潮文庫版、アマゾンの解説>

『野生の棕櫚』(やせいのしゅろ、原題:The Wild Palms )は、アメリカ合衆国の小説家ウィリアム・フォークナーの南部ゴシック小説である。1939年に発表された。二つの物語が交錯する二重小説で、ひとつは医師である中産階級の白人男女が不倫、妊娠、堕胎のすえ、悲劇的な結末を迎える話が語られ、もうひとつは囚人である貧しい南部人が洪水に巻き込まれ、妊婦を救い、出産を助け生還する話が語られる。

ウィリアム・カスバート・フォークナー(William Cuthbert Faulkner, 本名:Falkner, 1897年9月25日 - 1962年7月6日)は、アメリカ合衆国の小説家。ヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠であり、南部アメリカの因習的な世界を「意識の流れ」を初めとする様々な実験的手法で描いた。代表作に『響きと怒り』、『サンクチュアリ』、『八月の光』、『アブサロム、アブサロム!』など。1949年度ノーベル文学賞受賞。 フォークナーはその生涯の大半をミシシッピ州ラファイエット郡の田舎町オックスフォード(英語版)にある自宅「ローアン・オーク(英語版)」(Rowan Oak)で過ごしており、彼の作品の大部分は同地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしている。これらの作品はオノレ・ド・バルザック的な同一人物再登場法によって相互に結び付けられ、その総体はヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる。

[広島掃除に学ぶ会] 1月27日(土曜日)平和大通り街頭清掃

 


1月27日(土曜日)平和大通りの街頭清掃を実施しました。20名の参加がありました。参加された皆様ご苦労様でした。ありがとうございました。平和大通りのゴミは少なくなりましたが、周辺の護岸、緑地帯の中、などにはまだまだ多くのゴミがありました。

2024年1月26日金曜日

[新聞記事] アメリカ大統領選2024 混迷を歩く アイオアにて

かつては日本人にとって、アメリカの大統領があこがれの存在であった時代がありました。




2024年のアメリカ大統領選挙。おそらくトランプさんがなるのでしょうが。

日本人にはなかなか理解できないアメリカ国内のトランプ支持派について、丹念な取材の記事でした。(一部記事欠損あり)。














2024年1月25日木曜日

[その他] 10日と25日は'Punk in'(パン喰い)の日 THE STANDARD BAKERS (南区松原町)

午前中光町で仕事だったので広島駅のJPビルにあるベーカリーへ。

レストラン・物販も含めた複合施設ですが、あまりライブ感なく残念。

クロワッサンが324円という強気な価格設定ですが。

 



2024年1月23日火曜日

[積読立読斜読] 『カワセミ都市トーキョー』

めったに褒めない成毛眞さんが大推薦の本。キンドル版で。

水清き溪谷に住むと勝手にイメージしていたカワセミですが、環境が整えば大都会・東京にも生息できるという観察記録です。著者はなぜ身近に存在するカワセミに気づかなかったのか。

「環世界」という概念で説明されています。これが狭いと周囲が見えない。
拡げていると生きるのが楽しくなりそうな。









  以上 の 街 には、 3つ の 共通点 が ある。   いずれ も 東京 を 代表 する 高級 住宅街 で ある。 同時に、 すべて「 小 流域」 の 源流 = 湧水 の ある 街 で ある。 そして、 以上 の 街 すべて に、 カワセミ が 暮らし て いる。


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.30). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


する 東京 都心 の 豊か な 生態系 の 構造 について、


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.31). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


  そもそも カワセミ は どんな 鳥 か。   そして い つ 東京 から 姿 を 消し た のか。 どうして 東京 に 戻っ て き た のか。


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.34). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


1980 年代 に 入る と、 カワセミ は 徐々に 東京 都内 に 戻っ て くる。


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.52). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


  どうやら 東京 の カワセミ たち は、 皇居 や 白金 自然教育園 の よう な「 古い 野生」 が 生き残っ た 場所 ばかりでは なく、 神田川 の よう な 都市 河川 の「 新しい 野生」 が


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.65). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


  花見 客、 つまり 多く の 都市 住民( 東京 人 も 地方 人 も 外国人 旅行者 も) にとって、 カワセミ は 都市 河川 には「 生息 する はず の ない 生き物」 なの だ。   繰り返そ う。 自分 の 世界 に い ない もの を、 人 は 見る こと が でき ない。   メス


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.181). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


都市 空間 と 自然 の 中 での カワセミ の 暮らし の 違い   東京 の カワセミ の 暮らし ぶり は、 3つ の 川 の ケース スタディ で だいたい お わかり いただけ た のでは ない かと 思う。 高度成長 期 以前 の 東京 の カワセミ の 暮らし。 あるいは 自然 豊か な 場所 での カワセミ の 暮らし と、 現在 の 東京 の カワセミ とは どこ が 違う のか。   違い は 明確 に 3つ ある。 ① 食事、 ② 繁殖 場所、 ③ 人 の 有無 だ。   東京 の カワセミ は、 ① 食事 ─ ─ ─ ─ 外来生物 と 汽水 魚 が メイン ディッシュ で ある。 ② 繁殖 場所 ─ ─ 巣 穴 は コンクリート 壁 の 水 抜き 穴 を 利用 し て いる。 ③ 人 の 有無 ─ ─ たくさん の 人間 と共に 暮らし て いる。 自然 豊か な ところ に 暮らす カワセミ は、 ① 食事 ─ ─ ─ ─ 河川 に 生息 する さまざま な 魚介 類 を 獲物 に し て いる。 ② 繁殖 場所 ─ ─ 川 の 侵食 で でき た 土手 に 穴 を 掘っ て 巣 穴 と する。 ③ 人 の 有無 ─ ─ 人 が 近 よる こと は ほぼ ない。  


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.210). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


東京 で カワセミ が 繁殖 する ため の 条件 は 3つ だけ?   東京 で カワセミ の 生態 を 観察 し 続け て いる と、 カワセミ という 種 が 繁殖 する ため の「 最低 条件」 は、 清流 が 流れ て いる こと でも、 里山 風景 が 広がっ て いる こと でも、 フナ や オイカワ の よう な 在来種 の 魚類 が たくさん いる こと でもなさ そう で ある。 カワセミ が 暮らす 上 での 最低 条件 は 何 か? ① 親 と ひな にとって 必要 な 餌 と なる 水生 生物 が 豊富 に いる こと。 ② 巣 穴 を つくる 場所 が ある こと。 ③ 十分 ななわ ばり の 範囲 が 確保 さ れ て いる こと。


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.222). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


東京 で カワセミ が 繁殖 する ため の 条件 は 3つ だけ?   東京 で カワセミ の 生態 を 観察 し 続け て いる と、 カワセミ という 種 が 繁殖 する ため の「 最低 条件」 は、 清流 が 流れ て いる こと でも、 里山 風景 が 広がっ て いる こと でも、 フナ や オイカワ の よう な 在来種 の 魚類 が たくさん いる こと でもなさ そう で ある。 カワセミ が 暮らす 上 での 最低 条件 は 何 か? ① 親 と ひな にとって 必要 な 餌 と なる 水生 生物 が 豊富 に いる こと。 ② 巣 穴 を つくる 場所 が ある こと。 ③ 十分 ななわ ばり の 範囲 が 確保 さ れ て いる こと。


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.222). 株式会社平凡社. Kindle 版. 


カワセミ も 人間 も、 小 流域 源流 の 谷 が 大好き   2021 年 から 2023 年 にかけて、 私 は 都内 3 ヵ所 で カワセミ の 生態 を 観察 し た。   オス と メス が 出会い、 巣 穴 を 探し、 交尾 し、 産卵 し、 抱卵 し、 巣立っ た ひな の 面倒 を 見 て 旅立つ までを 追いかけ た。   カワセミ の 暮らす エリア を うろうろ する うち に 気づい た こと が ある。   いずれ も、 周辺 が「 高級 住宅街」 なの だ。   A 川 沿い の 武蔵野 台地 は、 江戸時代 から 有力 大名 の 巨大 な 下屋敷 が ある 場所 で ある。 明治 以降 は 元勲 たち が 住み、 戦後 も 政治家 や 実業家 の 邸宅 街 として 知ら れ て いる。   B 川 沿い の やはり 武蔵野 台地 一帯 は、 大正 時代 に 開発 さ れ た 住宅街 で ある。 日本 を 代表 する 著名 経営者 の 屋敷 が いくつ も ある。   C 川 両岸 の 台地 は、 どちら も 現代 の 東京 屈指 の 人気 住宅街 だ。 著名 経営者 は もちろん 文化人 や 芸能人 の 住まい も 多い。 川 沿い で セレブリティ を 見かける こと も ある。


柳瀬博一. カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049) (p.226). 株式会社平凡社. Kindle 版. 

2024年1月20日土曜日

[新聞記事] GDP4位に転落 「経済大国=豊か」の幻想の先へ


 


より良い暮らし指標(ベターライフインデックス BLI)  
[Better Life Index] 2011/06 イミダス編

経済協力開発機構(OECD)が2011年5月24日に発表した、加盟各国の生活の豊かさや幸福度を評価するための新指標。

現在、豊かさを示す世界共通の指標として国内総生産(GDP)が使われているが、数値が生活の実感を反映していないとの批判も強く、国民総幸福量(GNH;Gross National Happiness)など、GDPに代わる新たな指標を求める声があがっていた。

「より良い暮らし指標」は、11年に創立50周年を迎えたOECDが、機構が掲げる「より良い政策、良い暮らし」のスローガンを加盟各国が実現するための支援活動の一環として、国民の実感に近い豊かさを数値化する仕組みとして7年かけて策定した。

指標は、住居、収入、仕事、健康など、生活と密接にかかわる11項目からなり、各項目を0~10の範囲で数値化し、加盟国間の比較を可能としている。今回の評価では、11指標の平均でのトップ3は1位オーストラリア、2位カナダ、3位スウェーデンの順で、日本は加盟34カ国中19位という結果だった。

日本の11項目の結果は、住居6.1、収入3.7、雇用7.5、共同体5.7、教育8.8、環境6.7、ガバナンス4.8、健康5.1、生活の満足度4.5、安全9.7、ワークライフバランス(仕事と生活の調和)4.1で、安全や教育の評価が高い半面、収入やワークライフバランスの低さが目についた。

[あの頃のレコード] Perfect Days サウンド・トラック カセット・テープ版

 レコードでなくカセット・テープですが。




映画『Perfect Days』は公式のサウンド・トラックが発表されず。

You Tube 等からダウンロードしてカセット・テープ版の

私家版のサウンド・トラックを作りました。

映画の主人公、平山さんは常にカセット・テープで音楽を聴いていたので。


(1)PCにダウンロード

(2)CDに焼く

(3)ラジカセでCDからテープに録音


という工程です。

カセット・テープはかろうじて家電量販店まで行けば売ってました。


2024年1月2日火曜日

[あの頃のレコード] 映画『Perfect Days』サウンド・トラック


<収録曲>

アメリカのフォークソング「朝日のあたる家」(The House of the Rising Sun)

アニマルズ「朝日のあたる家」

浅川マキ「朝日のあたる家」(映画では原曲は流れない)

※アニマルズと浅川マキの2つのバージョンが用いられている。後者は、歌唱:石川さゆり ギター伴奏:あがた森魚。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「Pale Blue Eyes」

オーティス・レディング「ドック・オブ・ベイ」((Sittin' On) The Dock of the Bay)

ルー・リード「パーフェクト・デイ」(Perfect Day)

パティ・スミス「Redondo Beach」

ローリング・ストーンズ「めざめぬ街」((Walkin' Thru The) Sleepy City)

金延幸子「青い魚」[30]

ヴァン・モリソン「ブラウン・アイド・ガール」(Brown Eyed Girl)

キンクス「サニー・アフタヌーン」(Sunny Afternoon)

ニーナ・シモン「Feeling Good」


[その他] a day in the life 1月20日(土曜日) 献血に行く

健康管理もかねて、年に2回程度献血してます。

(1)健康な血液でないと献血を断られる
(2)献血ルームまで行く元気があれば健康である
(3)献血後、簡単な血液検査を送ってくれる




 「献血」は命をつなぐボランティア あなたもご協力を!
https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201307/3.html
政府広報オンライン

<年齢制限>
通常の献血は69歳まで可能。
(ただし65~69歳に関しては、60~65歳の間で採血をした人に限る)

<血液検査サービス>
7項目の生化学検査成績と8項目の血球計数検査成績


[追記]
2024年2月4日(日曜日)
2週間ぐらいで血液の検査結果が届きます。当方は特に異常がないようです。






[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著)1月22日~1月28日






 

2024年1月17日水曜日

[新聞記事] 8がけ社会(生産年齢人口減少問題) インタビュー 低賃金労働ありき脱却を 歴史社会学者・小熊英二さん

 



<小熊英二さん関係の投稿>

2019年8月3日土曜日
[積読立読斜読]『日本社会のしくみ』(講談社現代新書、小熊英二著、2019年)

https://28minami-owaki.blogspot.com/2019/08/blog-post_3.html


2015年12月27日日曜日
[積読立読斜読] 『生きて帰ってきた男 -ある日本兵の戦争と戦後』(小熊英二著、岩波新書、2015年)

https://28minami-owaki.blogspot.com/2015/12/blog-post_27.html



2019年8月14日水曜日
[新聞記事] 昭和の人生すごろく

https://28minami-owaki.blogspot.com/2019/08/blog-post_46.html

2024年1月16日火曜日

[積読立読斜読] 『ロゴスと巻貝』(小津夜景著、アノニマ・スタジオ、2023年)

 


[積読立読斜読] 『ロゴスと巻貝』(小津夜景著、アノニマ・スタジオ、2023年)


なぜかフランス・ニース在住の俳人、小津夜景さんによる読書エッセイ。選書には体系がなく、本の背景の説明がほとんどなく、本の一節、極端な場合は単語のみから、自身の身辺のエッセイに繋げる、繊細な言語感覚が魅力的です。

巻末に小津さんが本書のために選んだ「引用書一覧」が掲載されていますが、当方の読書傾向とはまったく一致せず、唯一漱石の『坊っちゃん』が引用されていました。本に対する微分的アプローチは新鮮でした。


『坊っちゃん』の紹介では、結末の数行にある接続詞「だから」に関しての考察。

ここでは『坊っちゃん』の執筆された歴史的背景とか、あらすじとか、漱石の文壇的な位置とかは、一切感心がないようです。

p103

接続詞の効用

 清の事を話すのを忘れていた。―おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落とした。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない。東京で清とうちを持つんだと云った。

 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付の家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒なことに今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

夏目漱石『坊っちゃん』


 右は、(注:本文は縦書きのため)小説のすじがすっかり片付いたあと、尾ひれとして語られた『坊っちゃん』のラストシーン。最期の最後にあらわれるたったひとつの接続詞「だから」が、砂浜に埋もれたガラス玉みたいにきらきらと光っている。

 このそっけなくもゆるぎない「だから」には希死念慮をはらいのける力がある。これまでとこれから、そしていまここ、その全方位に向けて大きく手をふっている。あんまり体いっぱいふるものだから、虹が生まれてしまうくらいの力。わたしは本をとじた。そして、ごろんと仰向いて天井をながめながら、もしも人間を癒す究極のひとことがあるとしたら、それはこの「だから」だ、と思った。


<内容紹介>(出版社のサイトより)

小津夜景さんはフランス・ニース在住の俳人です。綴る文章は言葉のつながりが瑞々しく、しなやかな連想に魅力があります。これまでの著作では谷川俊太郎さんなどから帯の推薦コメントをもらい、書籍が文庫化するなど注目が集まっています。新刊『ロゴスと巻貝』は単なる読書エッセイではなく、これまでの小津さんの人生と、そこから結びつく本の記憶を手繰り寄せ、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせ、過去と現在、本と日常、本の読み方、人との交際などについて綴った一冊になっています。


<著者プロフィール>(出版社のサイトより)

小津夜景(おづやけい)

1973年北海道の生まれ。俳人。2000年よりフランス在住

2013年「出アバラヤ記」で攝津幸彦記念賞準賞

2017年『フラワーズ・カンフー』(2016年、ふらんす堂)で田中裕明賞

2018年『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)

2020年『いつかたこぶねになる日 漢詩の手帖』(素粒社)

2022年『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』(素粒社)共著、『花と夜盗』(書肆侃侃房)

2023年11月『いつかたこぶねになる日』(新潮文庫)


<編集者のおすすめポイント>(出版社のサイトより)

小津さんの本との付き合いは自由。流行りの本や気に入った著者にのみ傾倒するのではなく、時にそのときどきの境遇で出会った本に身をまかせ、時にその本の味を咀嚼できるまで何度も開くこともする方です。単なる読書エッセイではなく、本から生活の記憶を手繰り寄せ、当時の心情を豊かな語彙で結びつける、これまでの苦い生活の記憶も美化せずに切り取る潔さもある、この著者だからこそ選ぶことができる言葉が詰まったエッセイ。松岡正剛氏、池澤夏樹氏、谷川俊太郎氏という読書家が注目する俳人の、言葉と想像の糸の紡ぎ方が魅力の一冊です


[書評] 『「家庭」の誕生』

本は買ったけど、まだ読んでません。

書評が先に出た。

 


[積読立読斜読] 『女二人のニューギニア』(有吉佐和子著、河出文庫、2023年)

 


雑誌名は失念しましたが本書の解説を書かれているエッセイストの平松洋子さんが復刊希望の文庫本として挙げて、河出書房の編集者の目にもとまったのか、意外な復刊。

オリジナルは1969年1月、朝日新聞社。文庫化は1985年朝日文庫。

解説によるとニューギニアへの紀行(よりも冒険に近い)に出かけたのは1968年。友人の文化人類学者・畑中幸子。ニューギニア高地人調査の原動力を自著で語っています。「われわれは高度な機械力の下で人間としての自主性を喪失し、個人の存在はかなり影の薄いものとなった。わたしの接してきたニューギニア高地人社会では、人々が機械に隷属することなく、人間の尊厳が十分に保たれていた。近代化に超スピードで向かっているとはいえ、文化に対する個人の比重はいまなお大きいものがある」(『われらチンプー ニューギニア高地人の生命力』(三笠書房、1974年)。本書解説より。

作家的想像力から畑中の誘いに乗ったものの、未開のジャングルを徒歩で移動しなければならず、ニューギニア高地のシシミンの狩猟民族がいるフィールド・ワークの地にやっとのことでたどり着いたものの、疲労で動けなくなった。偶然にも航路に迷ったSIL(聖書を各国語に訳す団体)の探索ヘリコプターに拾われ奇跡に単身日本に帰国する。

白人による近代文明が入ってからわすか7年、2年後には独立を控えた1968年のニューギニア高地の紀行記録は平松洋子さんの言葉を借りれば「稀有な文化誌」に違いありません。

奇跡的な帰国後、マラリアを発病し、これまた奇跡的に治癒した入院中の有吉のもとに見舞いに来た出入りの呉服屋の主人の言葉。

「ニューギニアだなんて、あんなところは、私たちは戦争だから、兵隊だから、命令で、いやいやながら行ったところですよ。折角戦争放棄をした日本で、兵隊にとられる心配のなくなった御時世に、遊びや冗談なんぞで出かけるところじゃありませんよ。私が知ってたら、絶対お止めしましたね、ええ。私はまた外国とばかり思っていたものだから」。

オリジナルの刊行から半世紀。現地では近代化が進み本書の内容のような狩猟民族の風俗は無くなっているものと想像されます。

それにしても作家の行動力、文化人類学者の行動力には敬服します。












2024年1月14日日曜日

[積読立読斜読] 『フィッツジェラルド10 傑作選』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹編・訳、中公文庫、2023年)


 『フィッツジェラルド10 傑作選』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹編・訳、中公文庫、2023年)


中公文庫創刊50周年記念企画。村上春樹さんのフィッツジェラルド既訳の作品から10作品を選んだもの。

訳者のあとがきによるとフィッツジェラルドは生涯で178編の短編小説を書き、生前に146編が発表されているそうです。


当時のメディアが限られていた背景もあり、短編小説の稿料が大変高かったそうで、ゼルダとの狂乱生活を維持するために、大量の短編小説を書かざるを得なかったようです。


フィッツジェラルド自身が自嘲気味に述べているように「そのことごとくを読み終えた後にわかるのは、名作と呼ぶべき作品はひとつとして見あたらないという歴然たる事実である。

暇つぶしの娯楽小説というところ。今となっては少々時代遅れですらある。しかしながら、歯医者の待合室での退屈な30分を共に過ごすには確かにうってつけであったはずだ。」(「残り火」p9)。


全作品を通読したわけではありまんせんが精緻な長編小説に比べると、1920年代のアメリカの世相と、中西部出身の成りあがり者の栄光と挫折、という共通したテーマの理解が、現代日本人にはかなり難しいと想像され、

村上春樹訳の冠がなければ文庫化は難しかったかもしれません。時々気の利いた一節には出会いますが、長編小説と比べれば大変失礼ながら粗製乱造の誹りは免れたく思いました。



村上さんが選んだ10編は下記の通り。


村上春樹のベスト3

リッチ・ボーイ(金持ちの青年)

バビロンに帰る

冬の夢


世評高い短編

メイデー

クレイジー・サンデー


初期の佳品

残り火

氷の宮殿

カットグラスの鉢


村上さんが初めて英文で読んだ作品(晩年)

風の中の家族


エッセイ3部作

壊れる

貼り合わせる

取扱い注意



詳細な年譜と、当時の時代背景の解説が欲しかったです。



[新聞記事] 孤立しない老後 かぎは「調理力」!?

 本当かなあ?