2021年7月31日土曜日

[惹句どんどん] 太宰治『斜陽』より

 



「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね人間の指で握りしめて作るからですよ。」とおっしゃった事もある。



おむすびといえば、料理研究家・土井善晴さん。NHKの料理番組で「しおむすび」の作り方だけを紹介するという蛮行。添付画像はその料理番組をCMに再現した象印のCM。


[積読立読斜読] 『斜陽』(太宰治、1947年)

 


2021年後半の読書テーマ、太宰治の主要作品を読む。

本日は『斜陽』(岩波文庫版)を読みました。

初出は『新潮』の1947年7月から同年10月まで4回にわたって連載され、12月に単行本化。

時代の世相を敏感に読み、題名も秀逸で太宰治の代表作となりました。

題材はよく知られているように、太宰の愛人の太田静子さんの日記がもとで、完全な創作ではありません。

一読して記憶に残る警句(アフォリズム)を散りばめた構成と、女性を主人公にした時の語りの文体は余人をもって代えがたく、現在まで続く太宰の人気の原因なのでしょう。

『斜陽』は何度目かの再読ですが、今回は没落して東京の邸宅を売り払い、伊豆の小さな山荘でままごとのような生活を送る母と娘と、見守る周辺の地元民の困惑が面白かったです。


<岩波文庫の内容紹介>

敗戦直後の没落貴族の家庭にあって,恋と革命に生きようとする娘かず子,「最後の貴婦人」の気品をたもつ母,破滅にむかって突き進む弟直治.滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は,昭和二十二年に発表されるや爆発的人気を呼び,“斜陽族”という言葉さえ生み出した.同時期の短篇『おさん』を併収. (解説 阿部 昭)


華族  (かぞく) 

華族はもともと清華(せいが)(清華家)の別称だったが,1869年(明治2)の版籍奉還により,従来の公家と諸侯を合わせて華族と称し,士族の上位におかれて,天皇より四民の範となるよう諭された。71年の廃藩置県で華族は政治的特権を失った。また,海外へ洋行する者も多く,同年の岩倉使節団に同行した留学生には多数の華族が含まれていた。この使節団はヨーロッパの貴族制にも関心を払い,これは帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策となった。74年創立の華族会館(当初は当時の全華族427家中の約4分の1が参加。1876年開館)は,華族組織化の第一歩であった。76年,華族は6部に分けられ,正副督部長および部長がおかれ,督部長に岩倉,副督部長に池田慶徳がなった。同年,華族は宮内省所管となり,〈華族類別録〉が編製され,78年完成,刊行された。これでは華族は皇別・神別・外別に分けられている。この間,75年設立の元老院には有功の華族を議官に任じ,また,華族教育のために学習院が77年に開校された。

 すでに岩倉具視は,岩倉使節団の米欧回覧時,鉄道敷設に関する意見書を提出していたが,華族を中心に出資された日本鉄道会社が,政府保護下に1881年設立された。また,華族の金禄公債証書を資本とした第十五国立銀行も,77年につくられた。これは国立銀行条例によるものであるが,俗に華族銀行とよばれ,特別な保護を政府から受けていた。

 1884年7月7日,華族令が出された。当初は10ヵ条だが逐次追加され,1907年に全面改正された(全28条)。華族令は華族を公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けた。公爵は五摂家と徳川旧将軍家のほか維新に勲功のあった公家や旧藩主など11家,侯爵は旧清華家と中山家および15万石以上を原則とし,維新に功のあった旧藩主と旧御三家および大久保・木戸家など24家,伯爵は5万石以上,旧三縁など,子爵は5万石未満の旧藩主と大臣家以下の公家と士族の功臣など,男爵は公家・諸侯の支族分家の特別な者,1868年に諸侯に列せられた者,大社・大寺の神官・僧侶ならびに特別な功臣の子孫などであった。84‐87年に華族となった者は,総数で566名,うち旧華族483名(旧華族の分家などを含む),新華族83名で,新華族は醍長出身者が過半を占めた。この華族の創出は,近代天皇制において,これらの華族を皇族の〈藩潅〉にするためであった。したがって,ヨーロッパの貴族が,王権に対して事実上相対的独自性をもっていたのに対し,日本の華族は,維新当初いったん特権を否定され,近代天皇制強化のためあらためて創出された存在だったのである。この華族は〈大日本帝国憲法〉(1889)で貴族院にくみこまれた(34条)。華族には政治的,社会的,経済的特権が与えられたが,そのおもなものは,礼遇,世襲財産,家範の制定などが認められ,また,30歳以上の公・侯爵は全員,伯・子・男爵は互選によって貴族院議員になることが認められていた。また,1910年の韓国併合にあたっては,華族令に準じた〈朝鮮貴族令〉が制定された。これらの華族は敗戦後の〈日本国憲法〉の施行(1947)で消滅した(14条2項)。ちなみに,28年の華族数は956家(公爵18,侯爵40,伯爵108,子爵379,男爵411。《現代華族譜要》による)とされ,戦後の消滅時は,913家が数えられている。⇒士族 田中 彰

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2021年7月30日金曜日

[ひとり「広島掃除に学ぶ会」] 通勤途中のゴミ拾い 7月26日(月曜日)~7月30日(金曜日)

 






[新聞記事] オピニオン&フォーラム 人口減日本の未来図 地域エコノミスト・藻谷浩介さんインタビュー記事

 





日本経済の停滞の真因は円高不況・産業競争力の衰退や、財政出動・金融緩和の不足ではなく、生産年齢人口の減少と喝破した『デフレの正体』から10年。地域エコノミストの藻谷浩介さんに改めて聞く「人口減少国家の現在と未来」。

本日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」はエコノミストの藻谷浩介さんのインタビュー記事。「人口減日本の未来図」。相変わらずシャープな論調。日本国内はもちろん世界114か国を訪問したという行動派です。


この記事とは直接関係ありませんが、藻谷さんの御兄弟の経歴が凄まじい。全員が東大出身で各分野のエキスパートとして活躍中。長兄俊介さんの配偶者・藻谷ゆかりさんも含めて「賢人を生む家庭」として誰が著書にしてください。

当方が著作を読んだことがあるのは藻谷浩介さんだけですが。



■藻谷浩介さん



1964年生まれ。山口県周南市(旧徳山市)出身、徳山高校卒業。1983年東京大学文科一類入学。日本総合研究所調査部主席研究員。地域エコノミスト。


■藻谷俊介さん




スフィンクス・インベストメント・リサーチ代表取締役
1962年山口県生まれ。85年東京大学卒業、住友銀行入行。ハーバード大ビジネス・スクールに派遣されMBA取得。92年ドイツ銀証券会社へ。96年にスフィンクス・インベスト・リサーチを設立。膨大な数の統計を定点観測し、巷のコンセンサスに一石を投じる分析を持ち味とする。

https://weekly-economist.mainichi.jp/%E8%97%BB%E8%B0%B7%E4%BF%8A%E4%BB%8B%E6%B0%8F/

週刊エコノミスト・オンラインより


■藻谷亮介さん



1967年9月1日、山口県の出身。1986年東京都立戸山高校を卒業。
東京大学理学部地学科で古生物学を専攻し、1991年に卒業。
トロント大学大学院動物学科で進化生物学を専攻、1994年に修士課程を修了。
1997年、カリフォルニア大学バークレー校においてミラー・フェローに就任。
1999年、王立オンタリオ博物館においてポストドクトラル・フェローに就任しました。
2002年には、オレゴン大学地質学科助教授、2004年には、カリフォルニア大学デービス校地質学科助教授、2006年には、カリフォルニア大学デービス校地質学科准教授を歴任。
2009年、カリフォルニア大学デービス校地質学科教授に就任して、現在に至っています。

藻谷亮介さんのもっとも有名な功績は、新種の魚竜であるカートリンカス・レンティカーパスを発見したこと。今日に至るまで、藻谷亮介さんは、複数のジャンルの研究に取り組んでいます。

それらは、主竜類の視覚と進化、白亜紀鳥類の遊泳方法とその進化、首長竜の首の機能といった、いずれも非常に重要な問題ばかり。

生物学界をはじめとして、社会にも多大な影響を与えた藻谷亮介さんの、さらなる研究に注目していきましょう。

https://www.things-todo.org/motani-ryosuke-career/
恐竜や海棲爬虫類を始めとした古生物や深海魚等とそれに関わる人物や博物館等に関する情報を発信中
「ヤルコト」より


■藻谷ゆかりさん(藻谷俊介さんの配偶者)



1963年、横浜市生まれ。東京大学経済学部卒業後、金融機関に勤務。1991年ハーバード・ビジネススクールでMBA課程修了。外資系メーカー2社勤務後、1997年にインド紅茶の輸入・ネット通販会社を起業(2018年に事業譲渡)。2016年から昭和女子大学グローバルビジネス学部客員教授、2018年同大学特命教授。2002年に家族5人で長野県北御牧村(現東御市)に移住。2019年5月現在は地方活性化や家業のイノベーション創業を支援する「巴創業塾」を主宰。
https://www.shinchosha.co.jp/writer/6408/
新潮社のサイトより

2021年7月29日木曜日

[惹句どんどん] 三島由紀夫

 



戦艦大和は、依って以って人が死に得るところの一個の古い徳目、一個の偉大な道徳的規範象徴である。 その滅亡は、一つの信仰の死である。


吉田満『戦艦大和ノ最後』(1952年)の跋文。


『戦艦大和の収支決算報告 建造費・維持費・戦費から見た戦艦大和』(青山誠著、彩図社、2021年)より孫引き。



戦艦大和、竣工80周年だそうです。(真珠湾奇襲攻撃と同年です)。



[積読立読斜読] 『鍵山秀三郎「一日一話」』7月29日~8月4日


昨年はイエローハットの創業者で「日本を美しくする会」の相談役、鍵山秀三郎氏の『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著、PHP、2019年)を年間を通じてスローリーディングしました。今年はその前著にあたります『鍵山秀三郎「一日一話』を1週間ごとに投稿していきます。







[惹句どんどん] 江口寿史(漫画家・イラストレーター)



すまなんだジョー


『weekly 漫画アクション』(1989年1月31日号)掲載。





 朝日新聞の文化人版「私の履歴書」の『語るー人生の贈りもの―』に漫画化でイラストレーターの江口寿史さんが登場。現在各地の美術館で「江口寿史イラストレーション展 彼女 ー世界の誰にも描けない君の絵を描いているー」を開催中。





江口さんの引用は過剰演出のスポーツ根性漫画をパロディ化したものに秀逸なものが多く、過去にも投稿しております。


2018年4月4日水曜日

[惹句どんどん] 江口寿史(日本の漫画家)

アチラを立てればコチラが立たず



2019年8月3日土曜日

[惹句どんどん] 江口寿史(漫画家)再投稿

アチラを立てればコチラが立たず

原作漫画画像添付版



2020年9月3日木曜日

[惹句どんどん] 花形満(マンガ『巨人の星』)

「優雅に水に浮かぶ白鳥は、水中で必死に水をかいている」







2021年7月27日火曜日

[その他] オリンピックをカラーで見よう

 



1964年の大卒初任給の三か月分の価格。


2021年のオリンピックはテレビで観てません。


ネットで結果を見て、興味深いものだけYouTubeの特別チャンネルで観てます。




2021年7月25日日曜日

[その他] a day in the life 宮島包が浦でキャンプ 孫と弥山登山

 7月24日(土曜日)~25日(日曜日)は家族で宮島の包が浦でキャンプ。

24日(土曜日)は海水浴とBBQ、25日(日曜日)は孫2人(小一、保育園年中)と弥山に登りました(登りは登山、下山はロープウェイ)。孫たちの体力は年々増加。当方は年々減退しています。



弥山山頂。午前7時に登山開始。到着は9時頃でした。



栗原心平さんのキャンプ料理に特化した料理本『栗原心平のごちそうキャンプ』(小学館、2021年)に、メスティン(最近の飯盒)、スキレット(小型のフライパン)、ダッチオーブン(鉄製の大きな鍋)を使ったキャンプ料理が美味しそうだったので挑戦しようと道具だけは揃えましたが、都合で少人数のキャンプになったのと、宿泊したケビンがキッチン付きで、大手間をかけて屋外で料理をするメリットがないので、今年はあきらめました。来年挑戦します。


ダッチオーブンを吊るすトライポッドは
ホームセンターにある素材(鉄筋・チェーン等)
で適当に自作。買うと5千円以上します。

焚き火だけは毎年豪快に。遠方でシカが見守ってくれてます。宮島ならでは。






[その他] 10日と25日は 'Punk in' (パン喰い)の日 島旨PAN(宮島)

 7月24日(土曜日)~25日(日曜日)は家族で宮島・包が浦にキャンプに行きました。

朝食用に宮島港ターミナル前にあるベーカリー「島旨PAN」で朝食用にパンを買いました。

ホテル宮島別荘内にあるホテル直営のベーカリーのようです。

価格は観光地価格でした。






2021年7月24日土曜日

[その他] 広島掃除に学ぶ会 平和大通り街頭清掃

 


7月24日(土曜日)は広島掃除に学ぶ会の活動で、平和大通りの街頭清掃に参加しました。

20名の参加がありました。夏休みなので子供さんの参加もありました。

後期高齢者から保育園児まで、幅広い年齢層の清掃活動になりました。



2021年7月23日金曜日

[新聞記事] 国立競技場 黄昏の時代の象徴


本日開会式。

オリンピック・万博はその国のおかれた状況で象徴となる場合もあり、そうでない場合もあり。成熟した人口減の国家で開催される式典の意味は?数十年後に分かるかも知れません。


1940年 札幌冬季オリンピック(返上)

1940年 東京オリンピック(返上)

1964年  東京オリンピック

1970年 大阪万博

1972年 札幌冬季オリンピック

1998年 長野冬季オリンピック

2020年(2021年)
東京オリンピック

2025年  大阪万博

2030年  札幌冬季オリンピック


 

[積読立読斜読] 『日本海軍戦史 海戦からみた日露・日清・太平洋戦争』(戸高一成著、角川新書、2021年) 第二部 日清戦争


今年2021年は日米の太平洋戦争開戦(1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃)80周年記念(?)ということで関連書籍が8月に向けて多数出版予定のようです。本書もそのひとつ。呉の大和ミュージアムの館長で日本海軍史研究家の戸髙一成さんによる『日本海軍戦史―海戦からみた日露・日清・太平洋戦争』(戸髙一成著、角川新書、2021年)です。もともとは日露・日清・太平洋戦争ごとに1冊の新書でしたが今回の版は3冊の新書の合本です。


本日は第二部の日清戦争(黄海海戦)を読みました。


日清戦争の遠因は百科事典の記述に譲って、純粋に軍艦の数と能力比だけで見た場合は清国のほうが海戦時には日本より勝っており、清国に一方的に勝利できたのは、近代化の総合力だったという結論です。日清戦争の勝利によって列強の仲間入りかと思いきや、列強にとっては競争相手が増えただけなので、三国干渉によって最初の芽をつぶしにかかりました。


日本は日清戦争(黄海海戦)から多くのことを学び、戦後経営につとめ、10年後の日露戦争に奇跡的に勝利(引き分け)し、列強の末席に加わります。ただし列強間のパワーバランスを読み違え、太平洋戦争で明治維新以来築きあげてきた明治日本は終焉を迎えます。



黄海海戦(こうかいかいせん) 

(1)1894年9月17日,日清戦争のときに黄海北部で起こった海戦。速力と速射砲数で勝る日本艦隊(14隻,約4万トン)は清国北洋艦隊(18隻,約3万5000トン)を破り5隻を失わせ,日本は1隻も失わなかった。これで日本は黄海の制海権をえて戦勝の基を開いた。世界最初の甲鉄汽走艦隊の決戦で,後の近代的海軍用兵への端緒をなした。

(2)1904年8月10日,日露戦争中に旅順のロシア東洋艦隊がウラジオストクに脱出しようとするのを日本の連合艦隊が迎え撃って撃破し,ロシア艦隊は再び旅順港へ逃げ込んだ。

一般に黄海海戦という場合,(1)が有名であり,これと区別するため(2)を八月十日の海戦ともいう。         栂 博

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日清戦争(にっしんせんそう) 

1894年(明治27)から翌年にかけての日本と中国(清朝)との戦争。明治二十七・八年戦役ともいう。中国では甲午中日戦争と称する。


[戦争の期間]  日清両国の正規軍が戦闘を開始したのは1894年7月25日(宣戦布告は8月1日)で,講和条約が発効して日清両国の関係が回復したのは95年5月8日であり,国際法上の日清戦争の期間はこの約9ヵ月間である。しかし日本軍が外地で軍事行動をとったのは,朝鮮王宮を攻撃して朝鮮国軍を撃破,朝鮮政府を親日派に交代させた1894年7月23日に始まる。また日本が戦時大本営条例による大本営を設置して,戦時状態に移行したのはそれよりさらに以前の6月5日であった。講和発効後も講和条約で日本に割譲された台湾の軍民は日本の占領を認めず武力で抵抗したから,日本の軍事行動は公式にも95年11月18日の台湾鎮定宣言までつづき,大本営復員による日本の平時状態への復帰は翌96年4月1日である。


以上のように戦争期間が不明確な理由は,日清戦争が次の三つの戦争の複合だったからである。

(1)朝鮮に対する宗主権の維持をはかる清国を朝鮮から排除して,朝鮮を保護下におこうとした日清間の武力紛争,


(2)その目的を達成したのち日本が戦場を旅順,威海衛,澎湖島という東アジアの戦略要地にひろげたために生起した中国分割をめぐる列強との紛争,


(3)朝鮮,中国東北,台湾など日本占領地域における民族的抵抗を抑圧するための朝鮮国や台湾民主国に対する民族抑圧戦争。


(1)は国際法上の戦争であり,(2)はロシア,ドイツ,フランス3国の武力干渉を誘発しながら日本が屈服したために未発に終わった帝国主義戦争であり,(3)は事実上の戦争でありながら,事変もしくは内戦とされたものである。


[戦争の原因]  清国は壬午(じんご)軍乱(1882)以後従来の朝鮮との宗属関係を事実上の保護属邦関係に変ずるとともに,日本を想定敵国として北洋艦隊とその根拠地である旅順軍港を建設し日本を威圧しようとした。これに対し日本は朝鮮を食糧と資源の供給地としてだけでなく大陸膨張の基地として支配下におこうとした。山県有朋首相は第1帝国議会冒頭の施政方針演説で朝鮮を利益線と規定し,日本が存立するために不可欠で,他国の進出を許すことはできぬ地域と強調した。このため日本は6個師団の野戦軍と快速巡洋艦を中心とする新式艦隊を組織し,1893年4月には川上操六参謀本部次長に清国,朝鮮を視察させ,5月には戦時大本営条例を制定して開戦に備えた。当時,朝鮮問題とならぶ日本の重要な外交目標は,不平等条約を改正することにより欧米諸国に対等な主権国家として承認させることであったが,ロシアの東アジア進出により脅威をうけたイギリスが日本に接近してきたため,成功の可能性が高まった。陸奥宗光外相はこの情勢をとらえて改正交渉を進めたが,世論は完全な対等条約の一挙実現をのぞむ一方,居留地制度撤廃にともなう内地雑居をおそれ,政府を軟弱外交と批判する対外硬派を支持した。政府は対外硬派提案の条約励行建議案可決が排外主義を高進させ,対英交渉を挫折させることをおそれて衆議院を解散した。しかし,その結果反政府熱はかえって高まった。


 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。

[開戦外交]  金暗殺事件は日本の世論を激高させ,対外硬派は政府批判を強めて,5月末日内閣弾劾上奏案を衆議院に提出・可決した。日本政府は深刻な危機に直面した。同じころ参謀本部は清国が反乱鎮定のため出兵すると判断し,その場合は日清両国勢力の均衡を維持するため日本も出兵すると決定した。6月2日全羅道の首邑全州が反乱軍の手中に帰し,朝鮮政府が清国に援兵を請うたという急報を受けると,日本政府は反政府熱を外に向ける好機とみて衆議院の解散と公使館および居留民保護を名目とする混成旅団の派遣を決定し,まだ宣戦布告もなく戦時になっていないのに,5日には派遣軍統轄のために大本営を設置し,これで作戦用兵については軍が全権を握り政府の容喙(ようかい)を許さないことになった。10日日本軍は仁川に上陸したが,日清両軍の出兵をまえに農民軍は政府と和約し全州から撤兵していたため,すでに出兵理由は消滅していた。清国代表袁世凱は日清両軍の同時撤兵を提案し,大鳥圭介公使もそれに同意して本国に増兵の中止を上申したが,無為の撤兵が反政府運動を再燃させる危惧と作戦用兵権が大本営設置により政府の手から脱していたことなどから,政府は既定の派兵計画を変更できなかった。陸奥外相は駐兵継続の理由を得るために朝鮮内政の日清共同改革を提案し,清国が拒絶したときは清国を排除して日本が単独で改革を実行すると決定した。日本は政治的に受身の姿勢をとりつつ増兵をつづけ,軍事的優勢を確保して開戦の時期をうかがった。これに対し外戦の準備のできていなかった清国では実権を握る西太后と李鴻章は,戦争の回避に努め,〈以夷制夷〉策をとりロシアに調停を依頼した。ロシアは日本に撤兵を勧告したが,ロシアの干渉が戦争の決意に裏づけられていないと見ぬいた日本は干渉を逆手にとって英清離間を策しつつイギリスとの条約改正交渉を有利にすすめ,7月16日ロンドンで改正条約(日英通商航海条約)の調印に成功した。これでイギリスの支持を確保した日本は翌17日御前会議を開き,朝鮮と中国にそれぞれ22日と24日を期限とする最後通牒を送ることを決めた。

[戦争の経過]  朝鮮に対する回答期限が満ちた7月23日早暁,日本軍は朝鮮王宮を守備する朝鮮軍と交戦し閔派政府を倒して大院君を執政とする親日政権を樹立し,暫定合同条款締結のほか清国との条約廃棄を強要し,清軍攻撃の口実をえた。同日日本艦隊は出撃し,25日,牙山に清兵を輸送中のイギリス船籍の商船高陞(こうしよう)号を撃沈,護衛艦を撃破した(豊島沖海戦)。増援軍海没のため劣勢の清国軍は29日成歓でも敗北した。海陸の勝利をおさめた日本は8月1日,朝鮮の独立維持を戦争目的とした宣戦の詔勅を布告したが,閣議は他方で事実上は朝鮮を保護国とする方針を決め,鉄道,電信,鉱山の利権獲得をはかった。9月15日大本営は天皇親率のもと広島に進出し,国民に長期戦の決意を示した。翌16日の平壌攻略により全朝鮮を制圧し,17日の世界最初の汽走艦隊の海戦である黄海海戦に勝利して黄海の制海権を握ると,大本営は中国本土に侵入を指示し,戦争は中国分割戦争に転じた。天皇は開戦から復員まで87回にわたり大本営御前会議を催し,終始積極的に戦争を指導した。イギリスは戦火の拡大が貿易を混乱させることをおそれ,朝鮮独立の保障と戦費賠償の2条件で日本に講和を勧告したが,政戦両略を一致させるためとくに大本営に列することを許された伊藤博文首相は,即時講和と陸軍の主張する北京攻略にともに反対し,威海衛攻略による残存清国艦隊の全滅と台湾進攻を進めて講和条件を有利にせよと主張した。日本が戦争目的を転じた結果民衆の抵抗が激化すると,日本軍は旅順で住民虐殺事件を起こし,朝鮮でも抗日反乱が再起した。


[講和と三国干渉]  清国はたび重なる敗戦により講和を望み使節を派遣したが,占領地域が不十分なため講和はなお時期尚早とみた日本は全権委任状の不備を理由に交渉を拒否,李鴻章の任命をまって3月20日下関春帆楼で講和会議を開いた。会議は日本が過大な条件を固守したため難航したが,李全権を狙撃・重傷を負わせる事件が起こり,国際世論の非難をおそれた日本の条件緩和をへて4月17日調印をみた。


この講和条約は下関条約といわれるが,その内容は,(1)朝鮮の独立承認,(2)遼東半島,台湾,澎湖諸島の割譲,(3)軍費賠償金2億両(約3億円)の支払い,(4)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権を日本に認める新条約の締結,などであった。通商上の特権中にはイギリスが希望していた開港場における製造業従事権が含まれているが,これは予想されるロシアの干渉にイギリスの参加を阻止する含みから挿入されたといわれる。


日本が中国の心臓部に分割の刃をいれ遼東半島を割取したとき,列強はまだ中国分割の準備が整っていなかったことから,日本を抑えて分割を先にのばす道を選び,4月23日ロシア,ドイツ,フランスは武力を背景に日本に遼東半島の還付を勧告した(三国干渉)。ドイツはロシアが東アジアに鉾先を向ければ東方国境が安全となり露仏同盟に〈くさび〉を打ち込めるとみて同意した。東アジア情勢がヨーロッパ政局に緊密に結合するという帝国主義時代の特徴があらわとなった。そこで陸奥外相はイギリス,アメリカ,イタリア3国を後援として三国干渉に対抗しようとしたが,イギリスの拒否により,5月4日遼東還付を余儀なくさせられた。戦争の軍事的勝利にもかかわらず,戦争目的の重要部分を達成できなかったことで,国民は深刻な挫折を味わった。政府は民間に燃え上がった遼東還付の責任論を国力不足にすりかえ,〈臥薪嘗胆(がしんしようたん)〉のスローガンのもとで,国民を対露報復とそのための軍備拡張に動員した。


[台湾占領と朝鮮支配]  日本は朝鮮から清国を排除したが,日本は朝鮮を単独で支配するだけの資本輸出能力をもっていなかった。強大なロシアの進出を阻止するために陸奥外相は朝鮮に列強の利権を引き入れようとしたが,陸軍が撤兵と朝鮮の開放に反対したため,民衆の抗日運動(義兵闘争)はひろがり日本の影響力は減退した。中国から割取した台湾で住民は日本の領有に反対し,1895年5月25日台湾民主国(大総統唐景館,副総統兼義勇統領邱灯甲)を設立した。このため日本は台湾に5万の陸兵と艦隊を送り込み,5000人の死者と1万7000人の病者の犠牲を払い,4ヵ月の戦闘後ようやく全土占領を宣言したが,抗日武装闘争はつづいた。


 清国から流入した遼東還付の代償金を含めた約3億5000万円の償金はロシアを標的とする軍備拡張のための戦後10年計画の資金となり,また日本を国際金融市場に登場させるために不可欠な金本位制の基金となった。軍隊の先頭に立って戦勝を導いた明治天皇制は日清戦争の勝利で社会的基盤を確立した。日本は戦後,中国への地理的近接性と相対的に強力な軍事力で資本の不足を補いつつ列強に伍して中国分割競争に参加した。一方,清国は敗戦によって弱体性を暴露し,さらに償金支払いのための巨額な借款によって列強からつぎつぎと利権をむしり取られ,急速に植民地化を深めた。こうして日清戦争は東アジアにおける帝国主義時代の開幕を決定した。

                        藤村 道生


【日清戦後経営】

 日本は,日清戦争で軍事的勝利をおさめたものの,たちまちロシア,フランス,ドイツによる三国干渉(1895年4月23日)にあって,遼東半島を返還せざるをえなかった。この三国干渉は,世界がすでにバランス・オブ・パワーの帝国主義の時代に入っていることを日本の支配層に思い知らせた。こうして,1895年4,5月ころを境に〈戦後経営〉という言葉が,政界,軍部,財界,ジャーナリズムなどで盛んに使用されるようになった。〈戦後経営〉とは,一言にしていえば来るべき対露戦に備えての日本社会の帝国主義的編成替えの総体を指すが,具体的には軍備拡張,殖産興業,教育の振興,植民地経営の四つを基本的な柱としていた。


 〈戦後経営〉の基軸は,軍備拡張であった。陸軍大臣山県有朋はロシアを仮想敵国として,攻撃的軍事力を飛躍的に増強する必要を説いた。この主張にもとづいて,陸軍では,従来の6師団から12師団への増強,騎兵および砲兵各2旅団の増設,砲台建設と兵器の製造・改良を骨子とする軍拡計画が作成された。また海軍では,甲鉄艦隊を主体とする主力艦隊と巡洋艦,駆逐艦,水雷艇による補助隊の拡張計画が作成された。しかし,この拡張計画を実現するためには陸軍で約9000万円(8ヵ年計画),海軍で約2億1300万円(10ヵ年計画)の巨費を必要とした。この巨額の財源をだれの負担において,いかに調達するかが大問題となった。


 戦後財政計画を担当したのは大蔵省である。松方正義,阪谷芳郎らの大蔵官僚は軍部と異なって,軍拡に応じられるだけの国力の発達,民力の培養に重点をおいた。官営八幡製鉄所の建設,鉄道・電話の拡充,勧業銀行・農工銀行の創設などが大蔵省の構想にもとづいて行われた。また金子堅太郎を中心とする農商務省も商工立国論を唱え,綿糸,生糸,茶などの輸出産業の振興策を打ち出した。教育の面では,官界・財界への人材養成機関として,東京とは別個に京都に帝国大学が設立(1897)され,実業教育の拡充もはかられた(1902年,東京高等商業学校(一橋大学の前身)の拡充改組)。


 第4の柱である台湾経営については,台湾領有後,日本は台湾人による武装抗日運動に直面した。日本政府の台湾出兵費・総督府民政費は膨張し,財政危機をまねいた。日本政府は地租,酒税などの増税によって,この財政危機をのりきろうとしたが,地主勢力の激しい抵抗にあって何度も内閣が倒れるという事態がつづいた。結局,1899年,第2次山県有朋内閣が増税を実現したが,台湾領有は政局不安定の要因とさえなったのである。反抗鎮圧後,日本政府は海運・鉄道網を整備したり,99年には台湾銀行を設置した。また台湾のショウノウ・砂糖取引をめざして,日本資本が台湾へ進出していった。こうして,〈戦後経営〉は日本資本主義の帝国主義への転化を促す契機となったのである。            中村 政則


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