9月29日(日曜日)は月に2回の練習日でした。
本日は男性3名、女性4名が揃っての練習でした。
(当方はTOEIC試験会場から遅れて参加)。
11月のライブ(発表会)まで時間がないので追い込みをかけます。
9月29日(日曜日)は月に2回の練習日でした。
本日は男性3名、女性4名が揃っての練習でした。
(当方はTOEIC試験会場から遅れて参加)。
11月のライブ(発表会)まで時間がないので追い込みをかけます。
断腸亭日乗
断膓亭日記巻之二大正七戊午年
荷風歳四十
正月元日。例によつて為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ちそこら取片づけ塵を掃ふ。
正月二日。暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蝋梅の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断膓亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。
正月三日。新福亭主人この日余の来るを待つ由。兼ての約束なれば寒風をいとはず赴きしに不在なり。さては兼ての約束も通一遍の世辞なりし歟。余生来偏屈にて物に義理がたく徃※(二の字点、1-2-22)馬鹿な目に逢ふことあり。倉皇車に乗つて家に帰る。此日寒気最甚しく街上殆人影を見ず。燈下に粥を煮、葡萄酒二三杯を傾け暖を取りて後机に対す。
正月七日。山鳩飛来りて庭を歩む。毎年厳冬の頃に至るや山鳩必只一羽わが家の庭に来るなり。いつの頃より来り始めしにや。仏蘭西より帰来りし年の冬われは始めてわが母上の、今日はかの山鳩一羽庭に来りたればやがて雪になるべしかの山鳩来る日には毎年必雪降り出すなりと語らるゝを聞きしことあり。されば十年に近き月日を経たり。毎年来りてとまるべき樹も大方定まりたり。三年前入江子爵に売渡せし門内の地所いと広かりし頃には椋の大木にとまりて人無き折を窺ひ地上に下り来りて餌をあさりぬ。其後は今の入江家との地境になりし檜の植込深き間にひそみ庭に下り来りて散り敷く落葉を踏み歩むなり。此の鳩そも/\いづこより飛来れるや。果して十年前の鳩なるや。或は其形のみ同じくして異れるものなるや知るよしもなし。されどわれは此の鳥の来るを見れば、殊更にさびしき今の身の上、訳もなく唯なつかしき心地して、或時は障子細目に引あけ飽かず打眺ることもあり。或時は暮方の寒き庭に下り立ちて米粒麺麭の屑など投げ与ふることあれど决して人に馴れず、わが姿を見るや忽羽音鋭く飛去るなり。世の常の鳩には似ず其性偏屈にて群に離れ孤立することを好むものと覚し。何ぞ我が生涯に似たるの甚しきや。
正月十日。歯いたみて堪へがたし。
正月十一日。松の内と題する雑録を草して三田文学に寄す。
正月十二日。寒気甚しけれど毎日空よく晴れ渡りたり。断膓亭の小窗に映る樹影墨絵の如し。徒然のあまりつら/\この影を眺めやるに、去年十一月の頃には昼前十一時頃より映り始め正午を過るや影は斜になりて障子の面より消え去りぬ。十二月に入りてよりは正午の頃影最鮮にて窗の障子一面さながら宗達が筆を見るが如し。年改りて早くも半月近くなりたる此頃窗の樹影は昼過二時より三時頃最も鮮にして、四時を過ぎても猶消去らず。短き冬の日も大寒に入りてより漸く長くなりたるを知る。障子を開き見れば瑞香の蕾大きくふくらみたり。
正月十三日。園丁五郎を呼び蝋梅芍薬瑞香など庭中の草木に寒中の肥料を施さしむ。蝋梅二株ある中其の一株去年より勢なく花をつくる事少くなりたれば今より枯れぬ用心するなり。此日いかなる故にや鵯群をなして庭に来り終日啼き※[#「口+斗」、U+544C、21-10]びぬ。
正月十四日。西北の風烈しく庭樹の鳴り動く声潮の寄来るに似たり。
正月十五日。歯痛未止まず。苦痛を忘れむとて市中両国辺を散歩す。夜唖々子来訪。
正月十六日。毎夜月あきらかなり。厠の窗より夜の庭を窺見るに霜を浴びたる落葉銀鱗の如く月色氷の如し。寒気骨に徹す。
正月十七日。築地に清元梅吉を訪ひ帰途新福亭に立寄る。亭主風労にて打臥しゐたり。
正月十八日。花月主人書肆新橋堂主人とは相識の由。新福のはなしにより花月主人を介して同書店に赴き主人に面晤し、拙著腕くらべ一千部の販売方を委托す。
正月二十日。堀口大学来訪。其著昨日の花の序を請はる。
正月廿一日。松莚子の書柬を得たり。
正月廿三日。朝まだきより小雪ちら/\と降りそめしが昼過ぎて歇む。寒気甚し。夜堀口氏詩集の序を草す。
正月廿四日。鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。
正月廿五日。夜松莚君来訪。
正月廿七日。田舎の人より短冊を請はれ已むことを得ず揮毫すること四五葉なり。余両三年来折々沢田東江の書帖を臨写すれど今に至つて甚悪筆なり。三味線と書とはいつも思ふやうに行かず。よく/\不器用の生れと見ゆ。
正月廿八日。過日断膓亭襍稾を知友に贈呈す。其返書追追到着す。馬塲孤蝶氏懇切なる批評を寄せらる。
二月朔。清元梅吉本日より稽古始める由言越したれば徃く。清心上げざらひをなす。
二月二日。立春の節近つきたる故にや日の光俄に明く暖気そぞろに探梅の興を思はしむ。午後九段の公園を歩み神田三才社に至り新着の小説二三冊を購ひ帰る。
二月四日。立春。
二月五日。夜九穂子来訪。
二月六日。終日雨。本年になりて始めての雨なり。
二月七日。植込にさし込む朝日の光俄にあかるく、あたり全く春めき来りぬ。鵯の声に交りて雀の囀りもおのづから勇しくなれり。
二月八日。早朝築地に行き権八鈴ヶ森の段稽古はじむ。清元浄瑠璃の中にて此の鈴ヶ森刑塲の段、殊に二上りの出、余の最も好む所なり。浦里三千歳なぞよりも遥によし。午後歌舞伎座に立寄る。延寿太夫父子吉野山出語あればなり。
二月九日。家に在りて午後より腕くらべ続篇の稾を起す。去冬思立ちし紅箋堂佳話二三枚は※[#「くさかんむり/聿」、U+831F、23-12]すゝまざれば裂棄てたり。
二月十二日。腕くらべ製本二部を添へて出版届をなす。久振りにて新福亭を訪ふに花月楼主人在り。款晤日暮に至る。
二月十三日。樹間始めて鶯語をきく。福寿草花あり。今村次七君金沢より出京、断膓亭を訪はれ浮世絵の事を談ぜらる。
二月十五日。三田文学に書かでもの記を寄す。
二月廿四日。新演藝過日市川左団次のために懸賞脚本の募集をなす。此日選評者一同を東仲通鳥屋末広に招飲す。余も選評者中の一人なれば招れて徃く。帰途新福にて八重次唖々子と飲む。
二月二十五日。梅花未開かざれど暖気四月の如し。貝母の芽地中より現れ出でたり。
二月廿七日。風再び寒し。夜窗雨を聴きつゝ来青閣集をよむ。
二月廿八日。昨夜深更より寒雨凍りて雪となる。終日歇まず。八ツ手松樹の枝雪に折れもやせむと庭に出で雪を払ふこと再三なり。
三月朔。雪歇み空晴る。築地に行く。市街雪解け泥濘甚し。夜臙脂を煮て原稿用罫紙を摺ること四五帖なり。
三月二日。風あり。春寒料峭たり。終日炉辺に来青閣集を読む。夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く。市ヶ谷谷町より津ノ守阪のあたり、貧しき町々も節句の菱餅菓子など灯をともして売る家多ければ日頃に似ず明く賑かに見えたり。貧しき裏町薄暗き横町に古雛または染色怪しげなる節句の菓子、春寒き夜に曝し出されたるさま何とも知れず哀れふかし。三越楼上又は十軒店の雛市より風情は却て増りたり。
三月三日。園梅漸開く。腕くらべ印刷費壱千部にて凡金弐百六拾円。此日東洋印刷会社へ支払ふ。
三月九日。微風軽寒。神田電車通の古書肆をあさる。
三月十日。春※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)鶯語を聞く。午後烈風雨を誘ひしが夜半に至り雲去り星出づ。
三月十一日。風寒し。風邪の心地にて早く寝に就く。
三月十二日。臥病。園丁萩を植替ふ。
三月十六日。唖※(二の字点、1-2-22)子令弟梧郎君病死の報に接す。大雨。
三月十七日。雨晴れ庭上草色新なり。病未痊えず。終日縄床に在り。
三月十九日。いまだ起出る気力なし。終日横臥読書す。此日天気晴朗。園梅満開。鳥語欣々たり。
三月二十日。北風烈しく寒又加はる。新福亭主人病を問ひ来る。
三月廿二日。風烈しく薄暮雹降り遠雷ひゞく。八重次訪来る。少婢お房既に家に在らざるが故なり。
三月廿三日。病既によし。唖々子米刃堂解雇となりし由聞知り、慰めむとて牛門の酒亭に招いで倶に飲む。
三月廿五日。暴風大雨。落梅雪の如し。
三月廿六日。雨晴れしが風歇まず。お房四谷より君花と名乗りて再び左褄取ることになりしとて菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。お房もと牛込照武蔵の賤妓なりしが余病来独居甚不便なれば女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いさゝかの借金支払ひやりて、家につれ来りしなり。然る処いろ/\面倒なる事のみ起来りて煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片づきて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ。
三月廿七日。母上訪来らる。
三月廿八日。風邪全癒。園中を逍遥す。春草茸※(二の字点、1-2-22)。水仙瑞香連翹尽く花ひらく。春蘭の花香しく桃花灼然たり。芍薬の芽地を※[#「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE、26-7]くこと二三寸なり。
四月朔。唖※(二の字点、1-2-22)子及び新福亭主人と胥議して雑誌花月の発行を企つ。
四月二日。雑誌花月の表紙下絵を描く。
四月三日。腕くらべ五百部ほど売れたりとて新橋堂より金四百円送り来る。
四月四日。半※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)半晴。桜花将に開かむとす。
四月九日。花月第一号草稾大半執筆し得たり。
四月十日。雨烈しく風寒し。築地けいこの帰途新福に立寄り、主人と雑誌花月の用談をなす。
四月十二日。八重次と新福亭に会す。夜木挽町田川に徃き浦里を語る。三味線は延園なり。
四月十三日。微雨薄寒。唖※(二の字点、1-2-22)子新福主人来りて花月第一号の編輯を畢る。
四月十四日。風気順ならず。
四月十五日。暴に暖なり。袷に着かへたき程なり。
四月十六日。支那産藍菊の根分をなす。白粉花鳳仙コスモスの種を蒔く。午後富士見町の妓家に徃く。靖国神社の桜花半落ちたり。
四月十七日。松莚子宅にて玄文社懸賞脚本の選評をなす。
四月二十日。服部歌舟に招がれ采女町三笑庵に徃く。円右、小さん、喜久太夫、山彦師匠、各得意の技をなす。
四月廿三日。常磐木倶楽部にて梅吉弟子梅初名弘の会あり。余野間翁と共に招がれ、梅之助の三味線、梅次上調子にて浦里を語る。翁は得意の青海波を語る。
四月廿六日。午後より雨ふる。清元会なり。
四月廿七日。晴又※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)。花月第一号校正終了。
四月廿八日。唖々子来訪。杜鵑花満開。
四月晦日。黄昏地震。雨忽降来る。風暖にして心地わろし。
五月朔。※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)雨空濛たり。
五月二日。花月校正手廻しのため新福に徃く。
五月三日。西南の風烈しく遽に薄暑を催す。冬の衣類を取片つけ袷を着る。衣類のこと男の身一つにては不自由かぎりなく、季節の変目毎に衣を更るたび/\腹立しくなりて人を怨むことあり。されど平常気随気儘の身を思返して聊か慰めとなす。
五月四日。築地けいこの道すがら麹町通にて台湾生蕃人の一行を見る。巡査らしき帯剣の役人七八名之を引率し我こそ文明人なれと高慢なる顔したり。生蕃人の容貌日本の巡査に比すればいづれも温和にて※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)険ならず。今の世には人喰ふものより遥に恐るべき人種あるを知らずや。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下大石国手久振にて診察に来る。実は米刃堂より依頼の用談を兼てなり。昨日にもまさりて風烈しく黄昏に至り黒雲天を覆ひ驟雨屡来る。蒸暑きこと甚し。夜窗を開きて風を迎ふるに後庭頻に蛙の鳴くを聞く。河骨を植えたる水瓶の中にて鳴くものの如し。
五月五日。母上粽を携へて病を問はる。昼過四時頃驟雨雷鳴。夜に及んで益甚し。電燈明滅二三回に及ぶ。初更花月第一号新橋堂より到着す。
五月六日。階前の来青花開く。異香馥郁たり。
五月十日。烟雨軽寒を催す。服部歌舟子が関口の邸に招がる。躑躅満開。園林幽邃。雨中一段の趣を添ふ。山彦栄子三味線にて歌舟子河東※[#「くさかんむり/即」、U+83AD、28-14]邯鄲を語る。歌舟子は日本橋堀留の紙問屋湊屋の主人なり。是日柳橋の名妓数名酒間を斡旋す。
五月十一日。終日門を出でず。花月の原稾を整理す。薄暮久米氏来りて新福亭経営甚困難なる由を告ぐ。金百円貸す。
五月十二日。午後新福亭にて唖※(二の字点、1-2-22)子と相会し花月第二号の編輯を終る。
五月十三日。八ツ手の若芽舒ぶ。秋海棠の芽出づ。四月末種まきたる草花皆芽を発す。無花果の実鳩の卵ほどの大さになれり。枇杷も亦熟す。菖蒲花開かむとし、錦木花をつく。松の花風に従つて飛ぶこと烟の如し。貝母枯れ、芍薬の蕾漸く綻びむとす。虎耳草猶花なし。
五月十六日。夜十時旧監獄署跡新開町より失火。余烟断膓亭を蔽ふ。
五月十七日。終日大雨。風冷なり。小品文夏ころもを草す。枕上随園詩話を繙いて眠る。
五月廿二日。花月第二号校正。晩来雷雨あり。
五月廿五日。毎日風冷にして雨ふる。梅花の時※[#「くさかんむり/即」、U+83AD、29-10]と思誤りてや此日頻に鶯の啼くを聞きぬ。
五月廿六日。天候穏ならず。風冷なり。夜山家集をよむ。
五月廿七日。薔薇花満開。夜唖※(二の字点、1-2-22)子来談。花月第一号純益四拾弐円ばかりの由。
五月三十日。空晴れて俄に暑し。人々早くも浴衣をきる。
五月卅一日。雨ふる。大山蓮華ひらき、丁字葛馥郁たり。
六月一日。曇りて蒸暑し。始めて鮎を食す。
六月三日。雨ふる。午前花月第三号草稿執筆。午後常磐木倶楽部訪諏商店浮世絵売立会に赴き巨川一枚。清長一枚(以上板物)俊満※[#「くさかんむり/聿」、U+831F、30-1]画幅。栄之画幅。蜀山人書幅を購ふ。夜所蔵の浮世絵を整理す。
六月十日。雨ふる。八ツ手の葉落ち、石榴花ひらく。
六月十一日。晴天。春陽堂主人和田氏来りて旧著の再梓を請ふ。
六月十二日。曇天。唖※(二の字点、1-2-22)子来る。花月第三号編輯。
六月十三日。晴天。梅もどきの花開く。香気烈しく虻集り来ることおびたゞし。湖山人手紙にて句を請はれたれば短冊を郵送す。
六月十四日。花月編輯のため唖※(二の字点、1-2-22)子重て来庵。夕刻まで新福亭主人の草稾を待ちしが到着せざるを以て別に催促をなさず。そのまゝに打棄て置きぬ。夜風冷にして心地よからず。
六月十六日。日曜日。夕方久米氏来訪。井阪〔ママ〕梅雪氏現のせうこを請はるゝ由を告ぐ。後園に栽培したる薬草を摘み久米氏に托して贈る。
六月十七日。この頃腹具合思はしからず。築地に行きしが元気なく三味線稽古面白からず。
六月十八日。陰晴定りなく雨ならむとして雨来らず。蒸暑し。夜机に憑る。四鄰蕭条。梅の実頻に屋根の瓦を撲ち庭に落る響きこゆ。
六月十九日。母上来訪。夜花月第三号校正。
六月二十日。午後大雨の中唖※(二の字点、1-2-22)子来る。花月校正のためなり。夜に至り雨ます/\烈し。鼬頻に庇を走る音す。
六月廿二日。曇りて寒し。三田文学会に徃く。
六月廿三日。曇りて夜雨ふる。
六月廿四日。唖※(二の字点、1-2-22)子来る。金糸梅紫陽花ひらく。
六月廿五日。井阪梅雪子より短冊を請はれゐたれば揮毫して郵送す。風俗画報東京名所案内を読む。夜雨あり蛙声戞々。
六月廿六日。清元一枝会下ざらひあり。午後より梅吉を訪ふ。
六月廿七日。萬安楼にて一枝会下ざらひあり。梅雨霏々。
六月廿八日。有楽座一枝会温習会。梅之助三味線にてお染を語る。桟敷後の方にてもよく聞えたる由なり。
六月廿九日。晩間梅吉夫婦と赤阪の酒亭三島に飲む。
六月三十日。雲重く暑気甚し。夜半華氏九十度なり。おかめ笹の稿をつぐ。
七月一日。空晴れ暑気益加はる。
七月二日。清元梅吉唖※(二の字点、1-2-22)子をたのみ一枝会帳簿の整理をなしたき由。再参の依頼により其の趣を唖々子に報ず。
七月三日。風あり暑気少しく忍易し。母上来たまひて老媼しん入用なればとて連行かれたり。予は始めより秋田県出張中なる威三郎方へ遣したき下心なりと推察したれば何事をも言はざりしなり。我が家俄に炊事をなすものなく独居の不便こゝに至つて益甚しくなりぬ。
七月四日。唖※(二の字点、1-2-22)子来談。晩来微雨あり。涼風簾を撲つ。
七月五日。微雨あり、風涼し。
七月六日。電車にて赤坂を過ぐ。妓窩林家の屋上に七夕の笹竹立てられ願の糸の風になびけるを見たり。旧年の風習今は唯妓窩に残るのみ。天下若し妓なかりせば、服左袒〔ママ〕。言侏離たらん歟。呵呵。
七月七日。甘草花開く。
七月十日。新福亭主人来訪。
七月十二日。中国より京阪地方暴風雨に襲はれし由。其の余波にや昨日より烈風吹続き、炎天の空熱砂に蔽はる。唖※(二の字点、1-2-22)子花月編輯のため来訪。新橋の妓八重次亦来る。夕刻大雨沛然。風漸く歇む。今朝唖※(二の字点、1-2-22)子第二子出生の由。賀すべし。
七月十三日。唖※(二の字点、1-2-22)子と倶に八重次を訪ひその家に飲む。八重次余の帰るを送り四谷見附に至り袂を分つ。
七月十四日。凌霄花開く。
七月十五日。去十二日より引つゞきて天気猶定まらず風冷なること秋の如し。四十雀羣をなして庭樹に鳴く。唖※(二の字点、1-2-22)子の談に本郷辺にては蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたりといふ。昨日赤蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)の庭に飛ぶを見たり。是亦奇といふべし。
七月十六日。花月第四号編輯。
七月十七日。天気定りて再び暑くなりぬ。
七月十八日。未秋ならざるに此夜虫声を聞く。
七月十九日。蒸雲天を蔽ひ暑気甚し。半輪の月空しく樹頭に在り。昨日より気分すぐれず、深更に及び腹痛甚しく、大に苦しむ。
七月二十日。横井時冬著園藝考をよむ。唖※(二の字点、1-2-22)子花月第四号校正の為来訪。
七月廿一日。苦熱筆を執ること能はず。仰臥終日。韓渥が迷楼記を読む。
七月廿二日。百合の花ひらく。
七月廿三日。花月第四号校正終了。
七月廿四日。炎暑日に日に甚し。
七月廿五日。日中寒暑計華氏九十四度に昇る。夜に至り凉風徐に起り明月庭を照す。虫声喞々既に秋の如し。おくり舩二三枚執筆。
七月廿六日。風あり稍涼し。瀧田樗※(「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)来談。
七月廿七日。風烈しく終日困臥。夜おくり舩執筆。月よし。
七月廿八日。秋海棠花ひらく。
七月廿九日。夜半※(「虫+車」、第3水準1-91-55)の鳴出るをきく。
七月三十日。
七月卅一日。昨日より灸点治療を試む。腹痛に効能ある由聞伝へたればなり。今日も灸師を招ぎ治療をなせしにそのため却て頭痛を催し、机に向ふこと能はず。横臥終日。迷楼記を読む。
八月朔。連日の炎暑に疲労を覚ること甚し。夜九時頃微雨あり涼風頓に生ず。喜んで筆を把らむとするに蚊軍雨に追はれ家の中に乱入す。一枚をも書き得ずして已む。
八月三日。唖※(二の字点、1-2-22)子病むとの報あり。
八月五日。再び疑雨集をよむ。驟雨あり。涼味襲ふが如し。
八月六日。暴風の兆あり。裏庭の雁来紅に竹を立てゝ支ふ。萩咲き出でたり。終日驟雨、幾度か来り幾度か歇む。夜花月第五号の原稾をつくる。
八月七日。春陽堂より荷風全集校正摺を送り来る。空模様前日の如し。
八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人※(二の字点、1-2-22)に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。
八月九日。昨日立秋となりしより満目の風物一として秋意を帯びざるはなし。八重次病あり。入院の由書信あり。
八月十二日。女郎花ひらく。執筆半日。
八月十三日。春陽堂荷風全集第二巻に当てんがため、あめりか物語ふらんす物語二書の校訂を催促すること頻なり。此日たま/\これ等の旧著を把つて閲読加朱せむとするに、当年の遊跡歴歴として眼前に浮び感慨禁ずべからず。筆を擱いて嘆息す。余にして若し病なからむか一日半刻も家に留ること能はざりしなるべし。日本現代の世情は実に嫌悪すべきものなり。
八月十四日。唖々子花月第五号編輯に来る。用事を終りて後晩涼を追ひ、漫歩神楽阪に至る。銀座辺米商打こはし騒動起りし由。妓家酒亭灯を消し戸を閉したり。
八月十五日。残暑甚し。晩間驟雨来らむとして来らず。夜に至り月明かに風涼し。市中打壊しの暴動いよ/\盛なりと云ふ。但し日中は静穏平常の如く、夜に入りてより蜂起するなり。政府は此日より暴動に関する新聞の記事を禁止したりと云ふ。
八月十六日。胃に軽痛を覚ゆ。あめりか物語を校訂す。晩間唖唖子来りて市中昨夜の状况を語る。此日夜に至るも風なく炎蒸忍ぶ可からず。唖※(二の字点、1-2-22)子と時事を談じ世間を痛罵し、夜分に至る。涼味少しく樹※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)に生じ虫声漸く多し。
八月十七日。紅蜀葵開く。萩正に満開。
八月十九日。秋暑を忍んで終日旧著を添刪す。夜に至り明月清風を得たり。
八月廿二日。曇りて涼し。午前松莚子を訪ひ、三才社に立寄りて帰る。
八月廿五日。八重次来る。唖※(二の字点、1-2-22)子亦来る。夜八重次を送りて四谷に至り、別れて帰る。
八月廿六日。久しく雨なし。萩枯れむとす。
八月廿七日。おかめ笹続稿執筆。夜ミユツセの詩をよみて眠る。唖唖子復び病めりといふ。
八月廿八日。午後三菱銀行に赴く。驟雨沛然たり。家に帰り見るに雨はわづかに打水したるほどなり。秋草いよ/\枯死すべし。
八月廿九日。夜に至り俄に雨を得たり。
八月三十日。風雨。草木蘇生す。
八月卅一日。風雨歇み秋涼愛すべし。堀口大学来訪。近日南米に渡航すべしといふ。
九月二日。梅吉方にて稽古をなし、庄司に立寄り、春日にて昼餉を食し延園を招ぎ三味線をさらふ。夕刻帰宅。執筆夜半に至る。虫声漸く多し。
九月三日。旧作父の恩を添削す。
九月五日。梅もどきの実薄く赤らみたり。今年はいづこの竹の葉にも毛虫つく事夥しといふ。
九月六日。早朝いつもの如く梅吉方にて稽古。この日図らず吉右衛門に逢ふ。三味線けいこする由なり。
九月七日。昼前薗八節師匠宮薗千春を築地二丁目電車通の寓居に訪ひ、今日より稽古をたのむ。鳥辺山をならふ。
九月八日。夜大風襲来の兆ありしが幸にして事無し。
九月九日。雨ふる。朝夕の風肌さむくなりぬ。花月第六号前半の編輯を終る。
九月十日。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下市ヶ谷辺散歩。八幡宮の岡に登る。秋風颯然として面を撲つ。夕陽燦然たり。夜外祖父毅堂先生が親燈余影をよむ。火鉢にて辣薤を煮る。秋涼漸く自炊によし。
九月十二日。萩さき乱れ野菊また花開く。
九月十四日。早朝清元けいこの帰途、三十間堀春日に立寄り、薗八節さらはむとて老妓延園を招ぎしが来らず。直に帰宅す。今日新橋の教坊にて薗八節三味線を善くするもの延園、りき、ゆふの三老妓のみなりと云。
九月十五日。朝寒し。障子をしめ火鉢に火を置く。
九月十六日。朝夕の寒さ身に沁むばかりなり。されど去年に比すれば健康なり。何のかのといふ中また一年生きのびたれどさして嬉しくもなし。
九月十七日。早朝築地に赴き薗八清元のけいこをなす。午下帰宅。旧稿を整理す。二更寝に就かむとする時花月第六号校正摺来る。
九月十八日。風雨。
九月十九日。雨晴れしが風未歇まず。残暑再び燬くが如し。日暮風歇みて一天雲翳なし。仲秋の明月鏡の如し。虫の音日中の暑さにいつもより稠くなりぬ。
九月二十日。木槿花開く。
九月二十一日。東京新繁昌記の類を一覧す。盖し雑誌花月編輯のためなり。
九月廿二日。雨ふりて俄に寒し。セルの単衣に襦袢を重ねてきる。
九月廿四日。風雨終日歇まず。新橋妓史をつくらむとて其資料を閲読す。堀口氏詩集月光とピヱロの序を草す。
九月廿五日。晴。唖※(二の字点、1-2-22)子来訪。夜座右の火鉢にて林檎を煮る。電燈明滅すること数次なり。
九月廿六日。晴。葉※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)頭の種を摘む。萩の花散りつくしぬ。
九月廿七日。秋雨。梅吉宅けいこの帰り、築地の桜木に立寄り、新富町の妓両三名を招ぎ哥沢節をさらふ。
九月廿九日。暗雲天を蔽ひ雨屡来る。終日門を出です。執筆夜分に至る。花月第六号発行。
十月一日。築地けいこの帰り桜木に飲む。新冨町の老妓両三名を招ぎ、新島原徃時の事を聞かむと思ひしが、さしたる話もなし。一妓寿美子といへるもの年紀廿一二。容姿人を悩殺す。秋霖霏々として歇まざるを幸ひにして遂に一宿す。
十月二日。雨歇む。久しく見ざりし築地の朝景色に興を催し、漫歩木挽町を過ぎて家に帰る。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)時唖々子来談。
十月三日。鳥辺山けいこ漸く進む。桜木に立寄り、全集第二巻の校正をなし、妓寿美子を招ぎ晩餐を倶にし薄暮家に帰る。禾原先生渡洋日誌を写して夜半に至る。盖花月第七号誌上に掲載せんがためなり。
十月四日。微雨。夜松莚子を訪ふ。
十月五日。半陰半晴。午前梅吉方にて稽古をなし、午後常磐木倶楽部諏訪商店浮世絵陳列会に赴き、唖※(二の字点、1-2-22)子の来るを待ち東仲通を歩み、古着問屋丸八にて帯地を購ふ。浅利河岸を歩み築地に出で桜木に至りて飲む。唖々子暴飲泥酔例によつて例の如し。この夜寿美子を招ぎしが来らず。興味忽索然たり。寿美子さして絶世の美人といふほどにはあらず、されど眉濃く黒目勝の眼ぱつちりとしたるさま、何となくイスパニヤの女を思出さしむる顔立なり。予この頃何事につけても再び日本を去りたき思ひ禁ずべからず。同じく病みて路傍に死するならば、南欧の都市をさまよひ地中海のほとりの土になりたし。晩餐を食し唖々子と土橋際にて別れ電車に乗る。曾て新橋巴家へ出入せし呉服屋井筒屋の番頭に逢ふ。予が現在身につけたる袷もたしか此の番頭の持来りし品なり。徃事茫々都て夢の如し。呵々。
十月六日。空くもりて秋の庭しづかなり。終日虫鳴きしきりて歇まず。芒花風になびき鵙始めて啼く。旧友坂井清君夫人同道にて来訪せらる。
十月八日。雨始めて晴る。読書執筆共に倦まず。
十月九日。余今日まで男物のお召縮緬及び大島紬を嫌ひて着ざりしが、近年糸織または※[#「くさかんむり/即」、U+83AD、40-14]糸などの縞柄よきもの殆見当らざるにより、已むことを得ず試に薩摩縞お召の袷を新調す。着て見れば思ひしほどにはにやけて見えず。時のはやりは不思議なものなり。三十間堀春日にて昼餉をなし夕刻新富座楽屋に松莚子を訪ふ。この日風冷なり。
十月十日。花月原稿執筆。黄昏雨あり虫の音少くなりぬ。
十月十二日。※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)。左眼を病む。
十月十三日。新冨町の妓両三人を携へて新冨座を見る。
十月十五日。築地けいこの帰途春日に立寄り三笑庵に赴く。服部歌舟子に招がれしなり。席上始めて市川三升に逢ふ。その面立何となく泉鏡花氏に似たり。此日雨。
十月十六日。雨歇まず。油絵師有元馨寧といふ人馬塲孤蝶氏の紹介状を示して面会を請はる。画会を催す由なり。燈下禾原先先生渡洋日誌を写す。
十月十七日。十三夜なり。宵のほど月を見しが須臾にして雲に蔽はる。
十月十九日。晴。呉服橋外建物会社に赴き社員永井喜平に面会して売宅の事を依頼す。帰途唖々子と清水に飲む。銀座を歩み赤阪鳴門に憩ひまた一酌す。花月第七号校正。
十月二十日。土蔵の雑具を取片づく。明治十二三年頃の錦絵帖。先考揮毫扇面十余。暁斎玉章扇面等を発見したり。此日中村吉右衛門鎌倉の別墅に清元梅吉夫婦、野間翁及余を招ぐ。余宿痾あり汽車の動揺病によからざるを以て辞して行かず。晩間唖※(二の字点、1-2-22)子来訪。
十月廿一日。終日机に対す。花月第七号校正。
十月廿二日。酒井好古堂を訪ひ芳年の錦絵数種を購ふ。日本橋やまとにて昼飯を食し夕刻三田文学会に徃く。帰途三十間堀春日に少憩し車を命じて家に帰る。
十月廿三日。微雨午に至つて霽る。築地桜木に徃き妓寿美に逢ふ。月明にして新寒脉脉たり。愁情禁じ難し。
十月廿四日。春陽堂店員来談。
十月廿五日。午後南明倶楽部古本売立会に赴く。姿記評林購ひたしと思ひしが五拾円といふ高価に辟易して止む。帰途風吹出でゝ俄に寒し。家に帰り案頭の寒暑計を見るに華氏六十度なり。
十月廿六日。安田平安居浜野茂の二氏に招がれて三十間堀の蜂龍に飲む。この日寒気厳冬の如し。綿入小袖を着る。
十月廿七日。雨。清元会に徃く。久振にて菊五郎に逢ふ。
十月廿八日。竜胆の花開きて菊花の時節来る。
十月廿九日。唖々子と日本橋に飲む。花月第七号発行。
十月三十日。※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)天。晩来小雨。
十月卅一日。晴れて暖なり。竹田書房主人来る。午後唖※(二の字点、1-2-22)子来る。庭上再び虫語を聞く。
十一月朔。築地三丁目に手頃の売家ありと聞き、早朝徃きて見る。桜木の近鄰なり。立寄りて寿美子を招ぎ昼餉を食して家に帰る。
十一月二日。午後唖※(二の字点、1-2-22)子来談。雑誌花月今日まで売行さして悪しからざる様子なりしが京橋堂精算の結果毎月弐拾円程損失の由。依つて十二月号を限りとして以後廃刊することに决す。雨烈しく降り出で夜もふけたれば後始末の相談は他日に譲り、唖※(二の字点、1-2-22)子車にて帰る。
十一月三日。建物会社より通知あり。この度は築地二丁目の売家を見る。南風吹きて暖なり。
十一月四日。※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)。石榴の実熟す。楓葉少しく霜に染む。
十一月五日。雨。モレアスのヱスキス、エ、スーブニルを取出して再読す。この書近世仏蘭西抒情詩家の随筆中、余の最も愛読して措かざるものなり。
十一月六日。雨ふる。明治史要武江年表を見る。
十一月七日。※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)天。心倦みつかれて草稾をつくる気力なし。
十一月八日。午後三十間堀の春日に徃き延園を招ぎ清元落人をさらふ。
十一月九日。明治初年の風俗流行の事を窺知らむとて諸藝新聞を読む。
十一月十日。浜町河岸日本橋倶楽部にて清元一枝会温習会あり。余落人を語る。
十一月十一日。昨夜日本橋倶楽部、会塲吹はらしにて、暖炉の設備なく寒かりし為、忽風邪ひきしにや、筋骨軽痛を覚ゆ。体温は平熱なれど目下流行感冒猖獗の折から、用心にしくはなしと夜具敷延べて臥す。夕刻建物会社※(二の字点、1-2-22)員永井喜平来り断膓亭宅地買手つきたる由を告ぐ。
十一月十二日。吉井俊三といふ人戸川秋骨君の紹介状を携へ面談を請ふ。居宅譲受けの事なり。夕刻永井喜平来る。いよ/\売宅の事を諾す。感慨禁ずべからず。
十一月十三日。永井喜平来談。十二月中旬までに居宅を引払ひ買主に明渡す事となす。此日猶病床に在り諸藝新聞を通覧す。夜大雨。
十一月十四日。風邪未痊えず。
十一月十五日。階前の蝋梅一株を雑司ヶ谷先考の墓畔に移植す。夜半厠に行くに明月昼の如く、枯れたる秋草の影地上に婆娑たり。胸中売宅の事を悔ひ悵然として眠ること能はず。
十一月十六日。欧洲戦争休戦の祝日なり。門前何とはなく人の徃来繁し。猶病床に在り。書を松莚子に寄す。月明前夜の如し。
十一月十七日。雨ふる。午前五来素川氏来訪せらる。雑誌大観に寄稿せよとのことなり。午後より座右のものを取片づけ居宅引払の凖備をなす。夕刻唖※(二の字点、1-2-22)湖山の二子来る。唖※(二の字点、1-2-22)子湖山子の周旋にて毎夕新聞社に入りしといふ。花月はいよ/\十二月かぎりにて廃刊と決す。
十一月十八日。早朝より竹田屋の主人来り、兼て凖備せし蔵書の一部と画幅とを運去る。午後数寄屋橋歯科医高島氏を訪ひ、梅吉方に赴き、十二月納会にまた/\出席の事を約す。明烏下の段をさらふ。此日晴れて暖なり。
十一月廿日。本年秋晩より雨多かりし故紅葉美ならず、菊花も亦香気なし。されど此日たま/\快晴の天気に遇ひ、独り間庭を逍遥すれば、一木一草愛着の情を牽かざるはなし。行きつ戻りつ薄暮に至る。
十一月廿一日。午前薗八※[#「くさかんむり/即」、U+83AD、45-6]けいこに行く。この日欧洲戦争平定の祝日なりとて、市中甚雑※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93)せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り行くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり。過去を顧るに、明治三十年頃東京奠都祭当日の賑の如き、又近年韓国合併祝賀祭の如き、未深く吾国下層社会の生活の変化せし事を推量せしめざりしが、此日日比谷丸の内辺雑※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93)の光景は、以前の時代と異り、人をして一種痛切なる感慨を催さしむ。夜竹田書店主人来談。
十一月廿二日。※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)天。先考の詩集来青閣集五百部ほど残りたるを取りまとめて、威三郎方へ送り届く。夜清元会に行く。適葵山人の来るに逢ふ。大雨となる。
十一月廿三日。花月楼主人を訪ふ。楼上にて恰も清元清寿会さらひありと聞き、会場に行きて見る。菊五郎小山内氏等皆席に在り。
十一月廿四日。洋書を整理し大半を売卻す。此日いつよりも暖なり。
十一月廿五日。晴天。寒気稍加はる。四谷見附平山堂に赴き家具売却の事を依頼す。
十一月廿六日。春陽堂番頭予の全集表帋見本を持来りて示す。平山堂番頭来り家具一式の始末をなす。売却金高一千八百九拾弐円余となれり。
十一月廿七日。建物会社※(二の字点、1-2-22)員永井喜平富士見町登記所に赴き、不動産譲渡しの手続を終り、正午金員を持参す。其額弐万参千円也。三菱銀行に赴き預入れをなし、築地の桜木に立寄り、夕餉をなし、久米氏を新福に訪ひ、車を倩ひて帰る。
十一月廿八日。竹田屋主人来る。倶に蔵書を取片付くる中突然悪寒をおぼえ、驚いて蓐中に臥す。
十一月廿九日。老婆しん転宅の様子に打驚き、新橋巴家へ電話をかけたる由、昼前八重次来り、いつに似ずゆつくりして日の暮るゝころ帰る。終日病床に在り。
十一月三十日。八重次今日も転宅の仕末に来る。余風労未癒えず服薬横臥すれど、心いら立ちて堪えがたければ、強ひて書を読む。
十二月朔。体温平生に復したれど用心して起き出でず。八重次来りて前日の如く荷づくりをなす。春陽堂店員来り、全集第二巻の原稿を携へ去る。
十二月二日。小雨降出して菊花はしほれ、楓は大方散り尽したり。病床を出で座右の文房具几案を取片付く。此の度移転の事につきては唖※(二の字点、1-2-22)子兼てよりの約束もあり、来つて助力すべき筈なるに、雑誌花月廃刊の後、残務を放棄して顧みざれば、余いさゝか責る所ありしに、忽之を根に持ち再三手紙にて来訪を請へども遂に来らず。竹田屋主人と巴家老妓の好意によりて纔に荷づくりをなし得たり。唖唖子の無責任なること寧驚くべし。
十二月三日。風邪本復したれば早朝起出で、蔵書を荷車にて竹田屋方へ送る。午後主人手代を伴来り家具を整理す。此日竹田先日持去りたる書冊書画の代金を持参せり。金壱千弐百八拾円ほどなり。
十二月四日。家具什器を取まとめし後、不用のがらくた道具を売払ふ。金壱百弐拾円ほどになれり。午後春陽堂店員来りて全集第一巻の※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)印を請ふ。
十二月五日。寒気甚し。庭の霜柱午後に至るも尚解けず。此日売宅の計算をなすに大畧左の如し。
一金弐万参千円也 地所家屋
一金壱千八百九拾弐円也 家具什器
一金壱千壱百六拾参円八拾弐銭也 来青閣唐本及書画
一金八拾七円卅五銭也 荷風書屋洋本
一金壱百弐拾壱円〇五銭也 古道具
総計金弐万六千弐百六拾四円弐拾弐銭也
支出金高
一金弐千五百円也 築地引越先家屋買入
一金四百六拾円也 建物会社手数料
総計金弐千九百六拾円也
差引残金
金弐万参千参百〇四円弐拾弐銭也
十二月六日。正午病を冒して三菱銀行に徃き、梅吉宅に立寄り、桜木にて午餉をなし、夕刻家に帰る。
十二月七日。宮薗千春方にて鳥辺山のけいこをなし、新橋巴家に八重次を訪ふ。其後風邪の由聞知りたれば見舞に行きしなり。八重次とは去年の春頃より情交全く打絶え、その後は唯懇意にて心置きなき友達といふありさまになれり。この方がお互にさつぱりとしていざござ起らず至極結搆なり。日暮家に帰り孤燈の下に独粥啜らむとする時、俄に悪寒を覚え、早く寝に就く。
十二月八日 体温平熱なれど心地すぐれす、朝の中竹田屋来りて過日競売に出したる来青閣旧蔵の唐本中、落丁欠本のものあり、五拾円程総額の中より価引なされたしといふ。唐本には徃々製本粗末にて落丁のもの有之由。竹田屋この日種彦の春本水揚帳、馬琴の玉装伝、其他数種を示す。夜浅野長祚の寒檠※(「王+樔のつくり」、第4水準2-80-89)綴(藝苑※[#「最」の「日」に代えて「林」、U+6A37、48-17]書本)をよむ。
十二月九日。風邪全く痊えざれど、かくてあるべきにあらねば着換の衣服二三枚を、徃年欧米漫遊中購ひたる旅革包に収め、見返り/\旧廬を出で、築地桜木に赴きぬ。両三日中に買宅の主人引越し来る由なるに、わが方にては築地二丁目の新宅いまだ明渡しの運びに至らず。いろ/\手ちがひのため一時身を置く処もなき始末となれり。此夜桜木にて櫓下の妓両三名を招ぎ、梅吉納会の下ざらひをなす。
十二月十日。久米君より桜木方へ電話かゝりて、明十一日梅吉納会に語るべき明烏さらひたしとの事なり。夕暮花月に赴き、主人および久米、猿之助等と、赤阪長谷川に至り、猿之助の三味線にて放歌夜半に及ぶ。帰途花月主人の周旋にて土橋の竹家といふ旅館に投宿す。心いさゝかおちつきたり。
十二月十一日。午前旧宅に至り、残りの荷ごしらへをなし、正午旅館竹家に帰る。雪俄に降出し寒気甚し。炬燵を取寄せ一睡す。夕刻自働車を倩ひ日本橋倶楽部清元梅吉おさめの会に赴き、猿之助三味線にて明がらすを語る。中村吉右衛門仝時蔵は梅吉三味線にて三千歳を語る。雪夜半に至りて歇む。
十二月十二日。八重次見舞にとて旅亭に来る。午後十寸見歌舟に招がれ、日本橋加賀屋にて薗八を語る。宮川曼魚も亦来る。夜木挽町田川にて高橋箒庵の夕霧を聴く。
十二月十三日。築地桜木に宿す。深更石川島造舩所失火。
十二月十四日。久振にて鎧橋病院に徃き、大石国手の診察を乞ふ。宿疾大によしといふ。帰途巴家に立寄り早く旅宿に帰り直に眠る。
十二月十五日。新冨座桔梗会連中見物の約あり。晩食の後茶屋猿屋に徃く。小山内吉井長田の諸氏、玄文社※(二の字点、1-2-22)員結城某等に逢ふ。結城氏諸子を新橋の某亭に誘ふ。余寒夜を恐れ辞して去る。枕上石亭画談を読む。
十二月十六日。旅館に在り無聊甚し。午後築地桜木に至り櫓下の妓八重福を招ぎ、置炬燵に午夢を貪る。
十二月十七日。朝の中築地二丁目引越先の家に至り、立退明渡の談判をなす。実は十五日中に引払ふべき筈なりしになか/\其の様子なき故、余自身にて談判に出かけしなり。然るに其の家の女主人は曾て新橋玉川家の抱末若といひしものにて、予が顔を見知りゐたりしとおぼしく、話はおだやかにまとまり二十日には間違ひなく立退く事を約せり。帰途桜木にて晩飯を食し、八重福満佐の二妓、いづれも梅吉の弟子なるを招ぎ、自働車にて浅草の年の市に行き、羽子板を買ふ。
十二月十八日。春陽堂店員全集第一巻製本見本を旅亭へ送り来る。久米秀治来訪。晩間有楽座清元会に徃く。家元明がらすを語る。会散ずるに先立ち、花月主人及久米氏と清元梅之助を伴ひ溜池の長谷川に至り、また明烏を語る。此夕月おぼろにかすみ暖気春の如し。
十二月十九日。終日雨ふる。寒気を桜木に銷す。悪寒甚しく薬を服して、早く寝につく。
十二月二十日。病よからず。夜竹田屋の主人旅亭に来り、明後日旧宅の荷物を築地に移すべき手筈を定む。二更の頃櫓下の妓病を問ひ来る。
十二月廿一日。頭痛甚しけれど体温平生に復す。正午櫓下の妓八重福明治屋の西洋菓子を携へ再び見舞に来る。いさゝか無聊を慰め得たり。夕方竹田屋主人旧宅荷づくりの帰途、旅宿に来る。晩餐を共にす。
十二月廿二日。築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書筐を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に徃き、家具を排置す、日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗妙。
十二月廿三日。雪花紛々たり。妓と共に旅亭の風呂に入るに湯の中に柚浮びたり。転宅の事にまぎれ、此日冬至の節なるをも忘れゐたりしなり。午後旅亭を引払ひ、築地の家に至り几案書筐を排置して、日の暮るゝと共に床敷延べて伏す。雪はいつか雨となり、点滴の音さながら放蕩の身の末路を弔ふものゝ如し。
十二月廿五日。終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り来れり。路地裏の夜の雪亦風趣なきにあらず。三味線取出して低唱せむとするに皮破れゐたれば、桜木へ貸りにやりしに、八重福満佐等恰その家に在りて誘ふこと頻なり。寝衣に半纒引きかけ、路地づたひに徃きて一酌す。雪は深更に及んでます/\降りしきる。二妓と共に桜木に一宿す。
十二月廿六日。雪歇みて暖なり。二妓雪後の墨堤を歩むべしと勧めたれば、自働車にて先浅草に至り、観音堂に詣づ。御籤を引くに第六十二大吉を得たり。余妓を携へて浅草寺に賽するや必御籤を引きて吉凶を占ふに、当らずといふことなし。余居邸を売り、路地の陋屋に隠退し、将に老後の計をなさむとす。大吉の御籤を得て喜び限りなし。
災轗時々退。
名顕四方揚。
改故重乗禄。
昇高福自昌。
是れ御籤の文言なり。余何ぞ声名の四方に揚ることを望まむや。唯故きを改めて重て禄に乗ずるの語、頗意味深長なるを思ふ。古きものは宜しく改むべきなり。冀くはこの大吉一変して凶に返ることなかれ。
十二月廿九日。今まで牛込区に在りし戸籍を京橋区に移さむとて、午後神楽阪上なる区役所に赴きしが、年末にて事辨ぜず。帰途銀座にて西京焼土鍋の形雅なるものを見、購ひ帰りて粥を煮る。夜半八重福来りて宿す。
十二月三十日。寒気甚し。草訣辨疑を臨写す。墨摺りたるついで桜木の老婦に請はれし短冊に、悪筆を揮ふ。来春は未の年なれば、羊の絵を描き
千歳の翁に似たるあごの髯
角も羊はまろく収めて
三更寝に就かむとする時、八重福また門を敲く。独居凄涼の生涯も年と共に終りを告ぐるに至らむ※[#「占+欠」の「口」に代えて「「刀」の「丿」が横向き」、U+6B24、53-9]。是喜ぶべきに似て又悲しむべきなり。
十二月卅一日。新春の物買はむとて路地を出でしが、寒風あまりに烈しければ止む。寒檠の下に孤坐して王次回が疑雨集をよむに左の如き絶句あり。
歳暮客懐
無レ父無レ妻百病身。孤舟風雪阻二銅塾一。残冬欲レ尽帰猶嬾。料是無二人望一レ倚レ門。
是さながら予の境遇を言ふものゝ如し。忽にして百八の鐘を聴く。
2025年計画 2月2日(66歳)
<人生目標(1)>
<人生目標(2)>
<仕事>
章栄管理契約社員
章栄管理時間写真(本社清掃)
<年金>
繰り下げ中
<生活(1)>
広島掃除に学ぶ会
<生活(2)>
ほぼ皆実28期軽音楽部
<生活(3)>
HIP(Hiroshima Interpretater for Peace)
<ビル管理>
<健康管理>
献血
がん検診
<食事>
<自己啓発(1)>
ビルメンテナンス
<自己啓発(2)>
全国通訳案内士→TOEIC900点
<読書計画>
<レコード計画>
<熊野>
「大海に水一滴」(鍵山秀三郎・相談役)
吸い殻一つ拾ってもきりがないという人がいます。そんなことはありません。その吸い殻一つを放っておくと、地球が汚れます。それだけではありません。吸い殻を目にする人の心も荒みます。拾うことによって、その分だけ地球を汚さず、人の心を穏やかにすることができます。この実践は、まるで大海に水一滴を垂らすような、はかない行為です。それでも一滴分は確実によくなります。
先日献血した結果。異常なしだそうです。献血すると無料で送ってきます。
医療機関で正規に依頼すると1万7千円かかるそうです。
436 漸くにまた起きあがる吹雪かな
437 詩僧死してただ凩(こがらし)の里なりき
438 蓆(むしろ)帆の早瀬を上る霰(あられ)かな
439 奔湍(ほんたん)に霧ふり込む根笹かな
440 つるぎ洗ふ武夫(もののふ)もなし珠霰
441 新道は一直線の寒さかな
442 棒鼻より三里と答ふ吹雪哉
443 なつかしむ衾(ふすま)に聞くや馬の鈴
444 親方と呼びかけられし毛布哉
445 餅搗や明星光杵の先
436 「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」と前書。
437 「日田にて五岳を憶(おも)ひ」と前書。五岳は広瀬淡窓門下の詩書画に秀れた僧。明治二十六年没。
438 「筑後川の上流を下る」と前書。
439 奔湍―急流。
442 棒鼻―宿屋のはずれ。
443 「吉井に泊まりて」と前書。
444 「追分とかいう処にて車夫ともの親方乗って行かんのうというがあまり可笑しかりければ」と前書。
能動態(active voice)
受動態(passive voice)
voice:動詞の表す行為を行為者の側から見るか、行為の対象の側から見るかに従って区別するもの
[問題文]
Work reports and schefule adjustments are continually undated.
They updated the reports. → The reports were updated (by them).
[副詞の位置](通常)
are continually updated 《be動詞+副詞+過去分詞》
[文型との関係]
受動態はSVO文型のOの部分が主語になることが多い
SVOO文型では「人」「モノ」両方の用例が可能
Employers should give workers paid leave.
→ Workers should be given paid leave (by employers).
→ Paid leave should be given to workers (by employers).
《give + O(人)+ O(モノ)》 → 《give + O(モノ)+前置詞to + O(人)》で言い換える
[問題文]
10.Any registered member of the media will be permitted to interview performaers, but not without a press pass.
12.Please remember that access to the backstage area during a performance is strictly prohibited to anyone without a security pass.
14.The Talon electric car requires little maintenance and its software systems are upgraded remotely througout the entire life of the vehicle.
18.ACE Electronics, the largest client of DTR Manufacuring, insted that all machines be equipped with internal heat sensors.
25. Anything purchased online can be returned at a retail storen as long as the merchandise is accompanied by proof of purchase.
[TOEICで問われるその他の受動態]
《完了形+受動態》
《前置詞+動名詞の受動態》
参照→24問、33問
書店でヒロシマ関係本にあった比較的新刊です。
NHKのTV番組をもとに再構成された新書です。取材者が映像畑なので、構成はやはり映像で観たほうが分かりやすいかも知れません。
巨額の開発費用をかけた原爆を、すでに敗戦が必至であった日本で試験的に使用し、
戦後のソ連との冷戦に優位に立ちたいアメリカにとって、原爆が直接被害だけでなく放射能によって長期間にわたって人体への影響があるという事実は、
なんとしても隠したいところ。放射能の人体への影響が完全に解明できておらず、使用した核の影響と医学的に断定できないことから、真実を隠す行為が今日でも続いています。
アメリカだけでなく、ソ連も初期調査に独自に加わっていたこと。アメリカの核戦略に「低出力核兵器」が加わり、アメリカ政府高官で唯一取材に応じたエイブリッジ・コルビー元国防次官補代理は、従来からの核抑止力論を出るものではありませんでした。
<内容紹介>
広島と長崎でアメリカ軍によって戦後行われた「原爆の被害と効果」の大規模調査。残留放射線が計測され、科学者たちが人体への影響の可能性を指摘したにもかかわらず、なぜ事実は隠蔽されたのか。2021年に放送され、放送文化基金賞奨励賞を受賞するなど大きな反響を呼んだNHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」の内容に、NHK広島・福岡放送局の取材チームによる2年間の長期取材の成果を大幅に加筆し書籍化。戦後78年を経た現在も続く「核の時代」を考える上での必読書。
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「核の時代」を考える上での必読書、『原爆初動調査 隠された真実』編集者インタビュー
2024年8月6日 10:47
映画「オッペンハイマー」には描かれていなかった事実がここにあるーー。ハヤカワ新書の評判の一冊『原爆初動調査 隠された真実』(NHKスペシャル取材班)。長期化するウクライナ戦争、不安定な東アジア情勢、中東の戦禍……核の脅威は現在進行形の問題でもあります。原爆の日を前に、本書の刊行の経緯や読みどころについて、改めて担当編集者に聞きました。
なぜ『原爆初動調査 隠された真実』を刊行?
編集担当・石井広行(以下同):このハヤカワ新書『原爆初動調査』のベースとなったのは、2021年8月にNHKで放送された番組「NHKスペシャル『原爆初動調査 隠された真実』」です。ただ取材チームによる2年間の長期取材の成果には、とうてい放送時間には納まりきらないほどの情報量がありました。それを、じっくり考えながら読み進めることのできる書籍という媒体でより多くの人にお伝えできればと考え、新書として刊行しました。裏付けが確かで質の高い情報が掲載されていることは、本書の大きな強みになっていると思います。
「原爆投下」というテーマは過去のもののようでいて、実は新しいものでもあります。本書の「まえがき」でも触れられていますが、ロシアによるウクライナへの核威嚇や、東アジアの不安定な情勢を考えると、核兵器使用の危機は、今なお私たちのすぐそばにあります。そして、語弊があるかもしれませんが、「被害をほどほどに抑えつつ核を使う」こともできるんだという幻想が、どこか私たちの中にあるのかもしれません。しかし、本書のページをめくっていただければ、到底そんな生易しいものではないことはすぐに分かります。核兵器が投下された後の広島・長崎では実際に何が起きていたのか――その核心に迫る一冊であり、この本に書かれている事実は本当に重いと感じます。
本書の読みどころは?
本書では複数の視点から原爆投下後の実態に迫っているため、事実をより立体的に知ることができるのが特徴です。原爆初動調査においてアメリカが行ったことを検証するパートが大きな柱ですが、そこに日本の科学者がどのように関わったのかや、同時期にソビエト連邦はどのような思惑で動いたかなど、これまでほとんど知られていなかった事実が掘り起こされていきます。
単純に特定の国を善悪でくくるのではなく、科学者の生き方と政治の関係など、普遍的なテーマについておのずと深く考えさせられます。この点は、今年公開された映画「オッペンハイマー」にも通じるものがあるかもしれません。(本書にもオッペンハイマー当人がアメリカ側の当事者として登場します。どんな登場の仕方か、本書をお読みいただくと興味深いと思います。)
そして何より胸に迫るのが、当時被爆地で起きたことを実際に体験した方や、その声を受け継いだ子孫の方々の肉声に迫る証言部分です。過酷な体験を語っていただいたことには編集者としても改めて感謝申し上げたいと思います。
原爆投下後に亡くなった方のご家族が、この番組取材を通じて初めて、今まで知らされていなかった「放射線被害」の事実を知る辛い場面も書かれています。たとえようのない無念さ、やりきれなさが伝わってきます。著者である取材チームが広島や長崎で現地に密着し、関係者との信頼関係を深めてきたこともよく分かります。そこでは、取材班の胸中の迷いや葛藤もリアルに描かれており、その覚悟のほども伝わってきます。
亡くなった方たちのありし日の姿を写した写真や、当時の手書きの手帳やカルテの画像なども、書籍という形になることで、それを見る私たちの心にダイレクトに訴えかけてくるものがあると感じました。残された貴重な資料を、バトンを受け継ぐように書籍の形で次の世代に渡すことができるのは活字メディアの強みでしょう。
少し補足すると、NHKスペシャル取材班である著者チームの3人は、最年長者でも40代です。戦争を直接知らない世代が人口の大半を占める今日の日本において、若き取材班が「核戦争のむごたらしさ」に真摯に向き合い、受け止める姿が、読者の方にも伝わればと思います。
どんな読者にお薦め?
まずは国内外のノンフィクションを読まれる方にお薦めします。この本を読み進めることで、読者の皆さんは歴史の裏側に隠された事実に迫っていく緊迫感を追体験できると思います。国際政治の裏側、旧ソ連の調査の実態……「本当にこんなことが実際に行なわれていたのか?」と驚くような真実に、まるでベールを一枚一枚剥がすように肉迫していく過程に、驚いていただけるのではないでしょうか。
核兵器開発の実態や原爆の被害についてあまり知らなかった、という方にとっても読みやすい内容と構成になっています。これから本格的にこうしたテーマについて調べてみたいという方や、自由研究や卒業論文の資料を探している方にとっても、本文や本書の参考文献リストはきっと役に立つでしょう。
それにしても、アメリカという国は「記録」に関しては本当に几帳面だと、今回膨大な参考文献を整理する過程で改めて感じました。本書には、かつてはコンフィデンシャル(国家機密)扱いされており、半世紀以上経って公開されたような文書も数多く登場します。そうしたパズルのピースのような断片的な情報一つひとつを取材チームは丹念につなげ、原爆投下をめぐる隠された真実を立体的に浮かび上がらせてくれます。
本書を通じ、政治や歴史の大きな出来事の裏側にある小さなディテール、たとえば当日の気象条件によりたまたま大きな放射線残量が生じてしまった地域や、そこに住む一人ひとりの人生に目を向けることの大切さを改めて教えられたように思います。「原爆投下が戦争を終結させた」というのはひとつの見方ですが、その一方で、アメリカ兵として被爆地を調査した人たちにも放射線被ばくの被害など大きな傷を残したことが本書の後半に書かれています。多面的な見方をしていくと、原爆の被害者は本当にさまざまなところにいるのです。
https://www.hayakawabooks.com/n/n839d94b6456b
岩波文庫が太宰治の作品集を充実。3か月ごとに6冊を刊行予定。
『晩年』は太宰治の最初の短編集。1936(昭和11)年、砂子屋書房より刊行。
第1回の芥川賞候補。執筆は23~24歳。初期の作品ですがやはり上手です。
本日は最初の3編を読みました。
葉(1934年4月)
思い出(1933年4月)
魚服記(1933年3月)
「葉」は過去の習作のアフォリズムを貼り交ぜた太宰の面目躍如たる短編。
(筋はありません)。
「思い出」は少年期の身分の違う禁断の恋愛を淡い筆致で描いた秀作。
「魚腹記」は炭焼きの父娘の生活を材にして、大蛇に化身した三郎八郎伝説と重ねたもの。
TOEICでは助動詞の用法そのものを問われる問題はないようです。
英文和訳がないので英語でそのまま英文を理解する必要があります。
FOCUS-17 助動詞(auxiliary verb)の役割
《助動詞+動詞原形》
will
未来「~でしょう」
Mary will be assigned to a new position
意志「~するつもりです」
I'll have a latte, please.
[例文]
All movies will be shown at the scheduled times even
if there are no audience members in the teater.
《will be + p.p.》で受動態
can
「~できる」
You can do the job better than anyone else.
may
「~かもしれない」
Her flight may be delayed.
「~してもよい」(許可)
You can [may] bring your dog here.
must
「~しなければならない」「~に違いない」
All workers must wear safety helmets.
They must be proud of you.
※must not do~「~してはいけない」(強い禁止)
You must not enter the property.
should
「~すべきだ」「~のはずだ」「~したほうがいいい」
I should be more focused.
The delivery should be here soon.
I think we should be more optimistic.
ネットで偶然見つけたのですが、住宅のオープンソース化。
材料はリサイクル素材の木材。
規格化されていて現場では組み立てのみだそうです。
この発想でフラードームを作ってほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=seV90opx6iw
時間調整で入った中区図書館で借りました。旧刊です。
YouTubeでなぜか役所広司さん主演の映画『山本五十六』ばかりが推奨され、
ついつい観ていました。阿川弘之の『山本五十六』は随分昔に読みました。
作者の半藤一利さんは先祖が長岡藩士。1930年生まれ。文藝春秋社の編集者・ジャーナリスト。配偶者の半藤末利子さんは夏目漱石の孫。
新潟県の著名人、賊軍の山本五十六、河井継之助の映画の主演を役所広司さんが両方とも演じています。
山本五十六の生涯は偉大ではありますが、帝国日本海軍の組織の一員であり、阿川弘之にせよ、半藤一利さんにせよ、ちょっと持ち上げすぎの感じがします。
p8
太平洋戦争は海軍に関しては「西軍」が始め、「東軍」が終わらせた。
鈴木貫太郎(千葉県)、米内光政(盛岡)、井上成美(しげよし)(仙台)
日本海軍の戦略
邀撃漸減(ようげきぜんげん)作戦
映画
『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』
2011年(平成23年)12月23日に公開された日本映画。
半藤一利・監修
山本五十六役・役所広司
映画
『峠 最後のサムライ』
2022年公開映画。
河井継之助役・役所広司
山本五十六 1884‐1943(明治17‐昭和18)
やまもといそろく
明治・大正・昭和期の軍人。新潟県出身。1904年海軍兵学校(32期)卒業,05年日本海海戦で重傷,16年海軍大学校(14期)卒業後,海軍大学校教官,駐米武官,空母〈赤城〉艦長などを経て30年ロンドン軍縮会議随員を務めた。34年軍備制限予備会議全権委員,35年海軍航空本部長,36年海軍次官などを歴任し,米内光政海相を補佐して日独伊三国同盟の締結に反対した。39年平沼騏一郎内閣の総辞職に伴って中央を離れ,連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官となった。40年大将昇進,41年連合艦隊司令長官専任となり,太平洋戦争の指揮をとり,初戦に大勝利を博したが,43年4月18日ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜されて戦死,元帥を贈られ,6月5日国葬が行われた。 木坂 順一郎
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【特別公開】武人としての美学をとおすことさえ阻まれた――五十六さんの真珠湾
2021.08.11特集
【特別公開】武人としての美学をとおすことさえ阻まれた――五十六さんの真珠湾
『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(半藤 一利)
ジャンル : #ノンフィクション
半藤 一利 山本 五十六
「あの戦争」の最大の英雄にして悲劇の人の真実を、半藤さんが熱をこめて語る。役所広司さんが五十六役となり、映画化もされた名作です。今回は一部抜粋して公開!
『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(半藤 一利)
東京・朝のラジオ放送
その日、月曜日、JOAK(現NHK)のラジオ放送は平常どおり午前六時二十分からの朝のニュースではじめられました。香港のイギリス軍が緊急に総動員令をかけたことを伝えただけで、真珠湾攻撃もマレー半島上陸作戦も、はじまったばかりの香港作戦についても、チラリとも触れられていません。六時半から天気予報。が、ここで異変が起きます。突然いつもの天気予報は中止され、レコード音楽が流れたのです。この日から気象管制が全国的に布(し)かれたためとは、まだ国民のだれひとり知りません。
六時四十分から早稲田大学教授伊藤康安の講話「武士道の話─澤庵の『不動智神妙録』」が予定どおり放送されます。伊藤の話が終わって、午前七時の“時報”が流れると、いきなり「しばらくお待ち下さい」とアナウンスされました。どうしたのかといぶかる耳に入ってきたのは、館野(たての)守男アナウンサーの、「臨時ニュースを申上げます。臨時ニュースを申上げます」との声。
かれは抑えきれない興奮をそのままマイクにぶつけました。
「大本営陸海軍部午前六時発表──帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
館野は神経をはらってこの短い原稿を二度読んだのちに、「なお今後重大な放送があるかもしれませんから、聴取者の皆様にはどうかラジオのスイッチをお切りにならないようお願いします」と結びました。そのあと七時四分からいつものようにラジオ体操、それが終わった十八分にふたたび「大本営陸海軍部午前六時発表」の臨時ニュースが放送されたのです。
いつもは朗らかなラジオ体操のメロディも、その朝は勇壮な軍艦マーチと愛国行進曲、それから、
〽敵は幾万ありとても
すべて烏合の勢なるぞ
…………
の曲であったように、当時小学五年生であったわたくしはかすかに記憶しています。その朝は、佐渡沖と八丈島南方にあった低気圧は北へ移動し、日本列島はすっきりとした快晴でした。
東京は霜柱の立つほどに冷えこみのきびしい朝を迎えています。寒気を防いで表戸を閉めたまま、どの家もラジオのボリュームをいっぱいにあげ、しきりに奏でられる勇壮な音楽を外に流している。臨時ニュースは七時四十一分、八時三十分、九時三十分……とひっきりなしに対米英開戦の報を送りつづけます。そして都心にはもう鈴を鳴らして新聞社の号外が走りだしていました。吐く息の白さを忘れさせるような奇妙に熱っぽい興奮が、一気に国民全体を包みこんでいました。これは力強くも非合理な感動のほとばしりでした。
あの日の朝、多くの日本人が感激したことを記さなければなりません。わたくしは、ほとんどの大人たちが興奮して晴々とした顔をしていたことを覚えています。評論家の小林秀雄は「大戦争が丁度いい時に始ってくれたという気持なのだ」といい、評論家の亀井勝一郎は「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。……維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来た」と書き、作家の横光利一は「戦いはついに始まった。そして大勝した。祖先を神だと信じた民族が勝った」と感動の文字を記しました。
この人たちにしてなおこの感ありで、少なくとも日本人のすべてが同様の、気も遠くなるような痛快感を抱いた。この戦争は尊王攘夷の決戦だと思ったのです。
元海軍大将で待従長でもあった鈴木貫太郎は、表情を暗くして夫人に言いました。
「これで、この戦争に勝っても負けても日本は四等国になりさがる。なんということか」
真珠湾攻撃
名をも命も
旗艦「長門」では、参謀とともに朝食のテーブルについたときも、いぜんとして、山本長官の顔は晴れようとはしていません。戦いの第一日目の、はじめての食事はいつもとおなじです。ご飯、みそ汁、漬けものの小皿、目玉焼き、のり。戦勝ムードが自然に横溢するなかでは、変わりばえのしない食事でも、味は格別だったはずです。幕僚たちの間の小声の会話もはずみましたが、長官はついに一言も口をきかずにそそくさと食事を終えました。
席を離れるとき、「政務参謀、ちょっと」と、手招いて、長官の公室に入りました。入室した藤井中佐に山本さんは言いました。
「何度も言ったから、君はよくわかっていると思うが、最後通告を手渡す時機と攻撃実施時刻との差を、中央では三十分つめたとのことだが、外務省のほうの手筈は大丈夫なんだろうね。いままでの電報では、攻撃部隊は予定どおりやっていると思うが」
藤井はやや硬い表情となります。三十分つめたことの影響はほんとうになかったのか。山本長官は静かに語をつぐ。
「どこかに手違いがあって、この攻撃が無通告の騙し討ちとなった、というようなことがあっては、申しわけが立たない。急ぐことはないが、気にとめて調査しておいてくれ給え」
藤井参謀は「よくわかりました」と答え、長官公室から出ました。周囲の浮き立つような雰囲気のなかで、長官の冷静すぎるほどの落ち着きが、若い参謀にはむしろ奇妙に映るのです。しかも、何度おなじことを聞いたら納得できるというのか、と。
山本さんは長官公室にあって静かなときをすごしています。幕僚たちもそれをかき乱さない戦前からの習慣を守っていました。食後の一刻に、山本さんは多くの手紙を書くのを例としていました。すべて毛筆書きです。その朝も机にむかってゆっくり墨をすり、筆をとりました。そして半紙に「述志」とまず一行を記しました。
「此度は大詔を奉じて堂々の出陣なれば生死共に超然たることは難からざるべし
ただ此戦は未曾有の大戦にして いろいろ曲折もあるべく 名を惜み己を潔くせむの私心ありては とても此大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり
されば
大君の御楯とたたに思ふ身は
名をも命も惜しまさらなむ
昭和十六年十二月八日
山本五十六」
名をも命も惜しまぬと書きました。五十六さんのハワイ作戦とは、部下の海軍精鋭に支えられていたと同時に、いわば名も命も惜しまぬという自己犠牲の精神に根本をおいた最後の手段だったのです。作戦が成ろうが成るまいが、覚悟はひとしかった。あえていえば「必敗の精神」で虎穴に躍(おど)りこんだ。そしていまは、勝利を喜ぶというよりも、悲しんでいたのかもしれません。
あとに、己を待ちうけているのは「死」──それだけである、と。
南雲忠一の帰還命令
午前八時すぎ、「長門」の作戦室には、全幕僚が参集し、機動部隊からのくわしい報告のくる前に、それまでの戦況説明をうけ、司令部としての戦果の判定を行ないました。おおよその判断としては、真珠湾にいた戦艦をすべて撃沈ないし、大破したということになる。しかし、ひとつの艦を二機の攻撃機が視認して、二隻をやっつけたように報告してくる場合があると、ある幕僚が補足して説明しました。
若い幕僚は、作戦に直接参加ならずという切歯扼腕(せっしやくわん)の気味もあって、ひかえめな戦果判定には納得しなかった。冷静派のほうもそれにひっぱられて数字はどんどん大きくなっていきます。しかし、報告によって判断を求められた山本長官は、
「少し低い目にしておくほうがよい」
といい、幕僚の判定の約六割をとりあえずの戦果としました。
ハワイ沖にある各空母では、おなじころ、格納庫内では被弾機が大いそぎで修理されていました。無傷の飛行機には銃弾が補充され、爆弾が搭載されていきます。戦果をより徹底的にすべく、当然つぎなる攻撃隊の発進はあるものと、将兵のほとんどは思っています。
各艦から報告をうけ「赤城」の司令部は、無傷の百七十九機に、修理して使用可能の八十六機を加え、二百六十五機の攻撃隊を発進させうることを確認しました。いぜん大兵力でした。
空母「蒼龍(そうりゅう)」にあった第二航空戦隊司令官山口多聞(たもん)少将は、いつまで待ってもなんの命令もないのにイライラして、南雲司令部に決意をうながすように信号を送りました。
「第二撃準備完了」
麾下の空母は、ともに搭載五十七機のうち「蒼龍」の三十機、「飛龍」の四十三機が健在なのです。艦橋に立つ山口は唇をかみしめながら「赤城」を見やっています。
日本時間の午前八時十五分(ハワイ時間午後零時四十五分)、小雨が降りだしました。「赤城」からは、いぜんとしてなんの応答もありません。航空参謀が「もっと強く、はっきりと意見具申すべきです。やりましょうか」といったとき、山口少将は首をふって、だれにいうともなくつぶやきました。
「南雲さんはやらないよ」
そうです、その南雲は司令長官室で、ひとり沈思をつづけています。脳裏では永野総長の「空母を沈めないように」という指示が明滅していたのかもしれません。
時計が日本時間午前九時を過ぎたとき、ハワイ北方海上ではひとつの決断がくだされようとしていました。空母「赤城」の士官室で、第二撃はあるものと思いこんでいる淵田中佐が、ひとしきり自慢話に花を咲かせたのち、腹がへっては戦ができぬと、ぼた餅をひとつ頰張ったときでした。艦内高声令達器が、
「戦闘機だけを残し、他の飛行機を格納庫に収容せよ」
と、司令部の命令を伝えました。血気の将兵たちがいったいどうしたことかと訝(いぶか)しく思う余地も与えないように、機動部隊全艦の舳(へさき)は北に向きだしました。
「第三戦速二十六節(ノット)に増速、北上す」
南雲長官が、草鹿参謀長の進言もあって、ついに決断を下したのです。南雲の結論はこうでした。
「所期の戦果は達したものと認める。第二回攻撃を行なっても、大きな戦果は期待しえないであろう。よって帰還する」
覚悟していた味方空母の喪失は一隻もない、そして望外な戦果をあげた以上、敵基地航空兵力の攻撃圏内にいつまでもとどまっていることはないと。
こうして午前九時三十五分(日本時間)、機動部隊は真珠湾の真北百九十浬まで接近したあと、いっせいに回頭、高速で去っていきました。
アメリカ側の死者は最終的に二千四百三人(うち民間人六十八人)にのぼりました。戦艦四隻が沈み、同四隻が大破着底。現地で修理可能なのはわずか二隻でした。軽巡三隻、駆逐艦三隻、補助艦三隻が撃沈または大破されました。標的艦ユタも沈没。飛行機の喪失は海軍百四機、陸軍百二十八機でした。
対する日本側の損害は、艦載機二十九機、特殊潜航艇五隻だけでした。
栄光の日は急ぎ足で去っていきます。日没も近くなって東京の気温は急速におちていきます。六十二歳の作家永井荷風は、この日の朝に、小説『浮沈(うきしずみ)』を蒲団のなかで書きました。大戦争のはじまったいま、まったく発表のあてのなくなったことを知りながら、原稿を書きついでいましたが、夕暮れちかくなって町に出ます。その日記にはこう記されています。
「日米開戦の号外出づ。帰途、銀座食堂にて食事中、燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが、電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乗りたる電車、乗客雑沓せるが中に、黄色い声を張上げて演舌をなすものあり」
この日ばかりは、駅頭の夕刊(九日付)はすっかり売り切れました。戦争は新聞のよき栄養剤で、人びとは一枚の新聞に頭を寄せ合って、むさぼり読みました。昨日までなにかと不平不満をいっていたのも忘れ、だれもが真から愛国者のつもりになったのです。日本中が“捷報(しょうほう)到る”で有頂天でした。
そうした熱狂のなかにも冷めた人もいます。ちょうど新宿の映画館の昭和館では、アメリカ映画「スミス都へ行く」を上映していました。アメリカの民主主義のすばらしさを描いたこの映画の観客が、なんと、その夜十人ほどいたというではありませんか。
夜の「長門」作戦室
午後九時を迎えようとするとき、太平洋上の「長門」の作戦室では激論が戦わされていました。機動部隊による真珠湾再攻撃案が、黒島参謀によって強硬に主張されていたのです。これに宇垣参謀長が猛反対しました。
「機動部隊はもはや戦場からずいぶん離れてしまった。一杯一杯のところで作戦を終えて離脱しようとしているものを、もう一度立ち上がらせるためには、これを怒らすよりほかに方法はない。統帥の根源は人格である。そんな非人間的な命令を出すことが、どうしてできるものか」
ほかの参謀もこもごも口をはさむ。
「われわれは軍人です。武人として、この戦機を逸することこそ、どうしてできるというのですか」
「こんどは無謀な強襲となる。戦機とはそういうものではない」
「いや、強襲とは無謀なものです。艦隊を危険にさらしてでも敵の全滅を期すのが本作戦の目的です」
「違うッ、戦機は去ったとみるべきである」
「戦果は徹底すべきであります。叩きに叩く、叩いて叩いて叩きまくる」
「敵飛行機の損害程度が不明のまま突っ込ませれば、かならず大きな痛手をこうむる。将棋にも指しすぎということがあるではないか」
「しかし、米太平洋艦隊が実際に行動不能におちいったかどうか、今後の作戦上、その疑いをとりのぞくためにも、再攻撃を加えてみるべきであります」
「空母が残っているんだぞ、空母が」
「その敵空母をこのさい撃破しておくためにも、もう一度攻撃を……」
山本五十六長官は腕を組んだまま論戦を見守って、ひとことも発することはありませんでした。その山本に最後の決を求めるかのように、宇垣が口を開きます。
「やはり、見送るよりほかないと思いますが」
五十六さんは苦渋の色をありありと浮かべながら、深くうなずき、こう言いました。
「もちろん、再撃につぐ再撃をやれば満点である。自分もそれを希望するが、南雲部隊の被害状況が少しもわからぬから、ここは現場の機動部隊長官の判断にまかせておくことにしよう。それに、いまとなっては、もう再攻撃は遅すぎる」
この決定で、機動部隊にたいする「再度攻撃」の電報命令は、ついに打たれることはありませんでした。勝利の一日は完全に去っていきます。国民を狂喜させた真珠湾奇襲という破天荒な作戦は、ピリオドを打ったのです。
「いわなくとも、やれるものにはやれる。遠くからどんなに突っついても、やれぬものにはやれぬ。……どろぼうだって帰りは怖いよ」
さらにもうひと言、
「戦(いく)さはこれからだ。さあ、どうするか。いい考えはあるか」
そう言い残して山本さんは作戦室を出ていきました。
在米外務官僚、世紀の怠慢
十二月十日、フランス領インドシナに基地をもつ海軍陸上攻撃機隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の最新鋭プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの両戦艦を撃沈します。司令官フィリップスは幕僚の強い退艦の要請を斥(しりぞ)け、「ノーサンキュー」と言って少しもあわてず、艦と運命をともにしました。
この攻撃を指揮した南遣(なんけん)艦隊司令長官小沢治三郎中将は、その翌日、わざわざ二機の陸攻機に命じ、激闘の潮騒なお消えやらぬ海に、機上から花束を投じました。山本長官がそのことを聞いたとき、開戦いらいきつく嚙みしめていた唇をひらいて、はじめて莞爾として微笑んだといいます。
とにかく相次ぐ大戦果です。ラジオは大きな戦勝ニュースを報ずるときには、陸軍の場合には分列行進曲、海軍の場合は軍艦マーチ、陸海共同では「敵は幾万ありとても」の軍歌や行進曲を前後につけて勇壮に報道し景気づけました。大本営発表を、陸海は競い合っているありさまとなり、街の電気店のラジオの前には黒山のひとだかりのできる毎日となっていました。戦争が祭り気分の陽気さですすめられていきます。こうなっては早期講和など夢のまた夢、というよりも、口にすることが愚の骨頂となりました。
そうした有頂天の国民的熱狂を、山本五十六は苦々しい思いで見ています。それとともに、戦闘が日常と化したあとになっても、ほんとうに開戦通告が予定どおりに手交されなかったのかどうかを口にもだして憂慮していました。ルーズベルトが議会演説やラジオの談話で、「騙し討ち」(sneak attack)と、低いが声量のある声でまくしたてているのを短波放送で聞いていらい、その疑いを消せないでいるのです。その後も、たえず短波放送は、真珠湾の無通告攻撃に激昂し、アメリカ国民はいまだかつてないくらい団結を示し、報復を誓う声が澎湃(ほうはい)として起こっている、という意味のことをしきりに報じています。そのたびに、山本さんは将棋を指す手をとめて、じっと耳を傾け、そして表情をみるみる暗くしたのです。
謀略の疑いをもって聞いていたアメリカの放送でしたが、どうやら最後通牒が遅れたことは間違いないようだと山本長官が知ったのは、その年の暮れか、昭和十七年に入ってから間もなくであったといいます。
開戦の通告文は四千語以上に及ぶ長文となったため十四部に分けられ、アメリカ時間の六日から七日午前零時二十分までに英文で発信されています。東郷外相は、その受領後の取り扱いは注意を要しかつ極秘であること、そして、訓示がありしだいいつでもアメリカ側に手交できるように万端の手配をしておくようにとのメッセージを在米大使館に送っています。ところが、大使館員たちは、これ以上のお粗末はほかにないであろう無能ぶりを発揮したのです。
この日(六日)アメリカは土曜日。その夜はふたつに分かれて小宴がはられていました。残された電信課員の六人も、日が落ちるとあっさりと仕事をやめ夕食をとるべく大使館をでています。午後九時半すぎ、食事をすませ電信課員たちはようやく戻り、ぶつぶつ言いながらもふたたび翻訳作業にとりくみ午後十一時すぎに、対米覚書十三部の解読を終了しました。
そして、このあとに到着するいちばん肝腎な第十四部を解読し、アメリカ政府へ通告するまでの経過が無残この上ないものとなります。タイプ打ちが間に合わず、ついには、開戦通知がアメリカ国務長官のもとにもたらされたのは、日本の機動部隊が真珠湾を爆撃してから一時間後という失態となってしまったのです。それは誤判断と気のゆるみ、そして怠慢によるとされているのですが、じつは日本外交の本質にかかわる問題でもありました。
なんとなれば、日米交渉は野村吉三郎と来栖(くるす)三郎の仕事として、大使館員たちのほとんどは無関心を装いつづけていたというのです。これぞ官僚的といえそうなセクショナリズムでした。憎っくき野村の手助けなど御免蒙(ごめんこうむ)るというケチな料簡(りょうけん)があったにちがいない。親身ならざるがゆえに、東京から送信されてきた長文の対米覚書が最後通牒となる可能性など、かれらは思ってもみなかった。となれば、最後の第十四部がなにを意味しているかを理解することなく、どうせ今夜は来そうもないから、明日の仕事にしようと勝手に判断して土曜の夜を楽しむことに、あいなったのです。
その結果は、東郷外相がその著書に悲憤をもって記しました。「通告時の怠慢は国家の非常なる損失、万死に値する」と。まさにそのような失態でした。
山本さんは、心を許した幕僚にだけはしみじみ語りました。
「残念だなあ。僕が死んだら、陛下と日本国民には、聯合艦隊は決して初めからそういう計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えてほしい」
亡国へと導くとわかっている戦争を、なんとしても止めたかった。そのために最大の努力はしたが、努力むなしく、無謀な戦いを先頭に立って粉骨砕心せざるを得なくなった。ならばせめて、国際法規の定めるところに従い、事前通告をしてから正々堂々と戦いたかった。無念であったと思います。
作戦参謀三和義勇中佐が山本さんの言葉を聞いています。
「日本のさむらいは、たとえ夜討ちをかけるときでも、ぐっすり寝こんでいるやつに斬りつけることはしない。少なくとも、枕だけは蹴って、それから斬りつけるものだ。最後通牒を手渡す前に攻撃したとあっては、日本海軍の名が廃(すた)る」
切ない最後の信念。山本五十六はついに武人としての美学をとおすことさえも阻まれたのです。
https://books.bunshun.jp/articles/-/6474
[追記]
2024年10月14日(月・祝)
YouTubeで偶然見つけたのですが、ミッドウェー海戦の新たな解釈。
「運命の5分間」「作戦の二重性」「南雲中将の判断の誤り」という従来の説を退け、作戦の主目的は「ミッドウェー島攻略作戦」であり「空母の壊滅」はその次のステップであったという目から鱗の新説。ミッドウェー攻略作戦において山本五十六が陣頭指揮しなかったのが一番の敗因との分析です。
https://youtu.be/OAYJKA2HZhs?si=0xY6Zc3EaMyAhCxe
陸将・海将が振り返る昭和の大戦 第2回後編 「ミッドウェー攻略戦史(失敗)~どうすれば勝てたのか?」小川清史元陸将 伊藤俊幸元海将 桜林美佐【チャンネルくらら】#ミッドウェー海戦
元陸相と元海将によるミッドウェー海戦の分析。
名著と言われる『失敗の本質』の分析は「失敗」に重点をあてすぎで、
総論として全体的な戦略は間違っていなかったが作戦面での失敗があった、
という記述とすべきであるという主張は新鮮でした。
先立つものは金ですが。
周りに迷惑をかけずに亡くなるのが「子ども孝行」だそうです。
最近よくちらしが入っているベネッセの有料老人ホーム「グランダ広島東荒神」は、
入居金800万円、月額利用料281,510円だそうです。
当方は75歳まで年金受取を繰り下げ予定ですが、それでも月額利用料がまかなせません。
会社経由で「協会けんぽ」からのお知らせ。
日本国の医療保険制度は世界に誇れるものですが、保険証廃止しなくてもよいのでは。
(1)2024年12月2日に健康保険証は廃止。
(2)健康保険証として利用登録したマイナンバーカードを使用。
(3)登録ができている人には本書で通知。
(4)万が一マイナ保険証(「健康保険証として利用登録したマイナンバーカード」の略称)が読み取りできない場合に備えて、同封の「資格情報のお知らせ」をマイナ保険証と共に保管する。