スローリーディング中の『決定版日本の喜劇人』。本日は第三章から第五章を読みました。
第三章あたりからは、1959年生まれの当方がリアルタイムで実際に観たことのある喜劇人が登場してきます。
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森繁は、二枚目半というタイプをみずから開拓したのであり、彼が念じていたとおり、<喜劇によし、悲劇によし>というユニークな役者として大成した…が、『三頭重役』から『夫婦善哉』へのチェンジが―すなわち、上質のコメディアンから性格俳優への変化が、あまりに鮮やかだったので、その後の日本の喜劇人の意識にとんでもない異変を起こさせたのである。
<森繁病>と私が呼んでいるこの病状は、まず、一人の喜劇人が、彼を売り出すに至った原因である<動き>を止めることに始まる。
平凡社『世界大百科事典』に記載のある喜劇人
第三章
森繁久彌の影
伴淳三郎→「伴淳三郎」
三木のり平→「軽演劇」
山茶花究→「軽演劇」
有島一郎→「軽演劇」
堺駿二→記載なし
益田喜頓→記載なし
第四章 占領軍の影
トニー谷→「軽演劇」
フランキー堺→「駅前旅館」
第五章
脱線トリオ→「軽演劇」
クレイジーキャッツ→記載なし
伴淳三郎 1908‐81(明治41‐昭和56)
ばんじゅんざぶろう
〈バンジュン〉の愛称と,1950年代の流行語となった〈アジャパー〉なる受けことばで親しまれたコメディアン。本名鈴木寛定(ひろさだ)。山形県米沢市に生まれ,貧しい南画家を父にもち,幼いころから各地を転々とした。剣戟(けんげき)が看板の大衆演劇に加わったりしたが,1927年,日活時代劇部の大部屋に入り,伴淳三郎を芸名とする。やがて珍優として売り出すが,いまひとつ〈看板〉になれないまま,映画界と演芸界をまたにかけてがんばる。太平洋戦争中から,浅草を本拠に〈伴淳軽喜座〉を主宰し,戦後は〈伴淳ショウ〉の旗上げなどもするが,全盛のストリップショーに押されて,いずれも長続きはしなかった。
本格的な映画カムバックは51年で,同年の斎藤寅次(二)郎監督の《吃七捕物帖・一番手柄》で贋金(にせがね)作りの用心棒を演じ,首領の金語楼に〈一瞬にしてパーでございます〉と報告,〈敵か味方か?〉〈味方がパー〉と,手先を上に向けて,オフビートなタイミングで指をパッと開いたのが受けた。それを,びっくりしたときの〈アリャー〉が山形弁で〈アジャー〉となまるおかしみにつなげ,ショックを受けたとき〈アジャー〉〈パー〉と叫ぶのが,一世をふうびした。かくてバンジュンは,40代で一躍人気コメディアンとなったが,1本の映画を背負って立つスターではなく,あくの強い怪演で,共演者を食うときに生彩を放つタイプは一貫して変わらなかった。共演に花菱アチャコを配し,荒っぽいペーソスをきかせた《二等兵物語》シリーズ(1956‐61)や,森繁久弥,フランキー堺を向こうに回し,ねちっこい助平おやじタイプで場面をさらった《駅前》シリーズ(《駅前旅館》,1958‐69)などがその好例である。みずからの芸風を〈泥くさい異常男〉と称していたというが,《歌くらべ荒神山》(1952,斎藤寅次郎)の,なぜか語尾だけ尾張弁になる怪浪人も,本格的な立回りができる特技を生かした,不気味なこっけいさという持味の代表作といえる。後年は(日本のコメディアンの通例にもれず)シリアスな〈個性的な脇役〉へと方向を転じ,内田吐夢の《飢餓海峡》(1964)の老刑事で,毎日映画コンクール男優助演賞を受けた。
森 卓也
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駅前旅館
えきまえりょかん
東宝の喜劇映画で,1958年製作。以後,シリーズ化され,69年の《喜劇駅前桟橋》まで計24作続いた。製作は東宝の子会社,東京映画。いずれも森繁久弥,伴淳三郎,フランキー堺のトリオを主役に,毎回変わる設定のなか,3人の持味を生かし,人情コメディを基本に,ドタバタ喜劇の活力,社会風俗の同時代性,新旧世代の心情の違いによる哀感などを巧みに取り入れ,人気を博した。《駅前旅館》は,井伏箆二の同名小説を原作とする豊田四郎監督作品で,上野駅前の旅館の番頭(森繁)とライバル旅館の番頭(伴淳)と旅行社の添乗員(フランキー)を中心に(この3人の芸達者の〈芸〉が大きな見せどころになる),移りゆく旅館街のてんやわんや,お色気騒動などが描かれ,風俗映画の佳作となっている(例えば地方から慰安旅行に出てきた新興宗教団体の一行に〈今流行のドカビリを見せてけれ〉と請われたフランキー堺が三味線をギターに見たててロカビリー歌手を熱演すると,そのリズムに乗った一行から賽銭が飛んでくるといったシーンがある)。森繁と飲屋の女将・淡島千景の絶妙なコンビぶりは,同じ豊田監督の《夫婦(めおと)善哉》(1955)を思わせる。この作品の好評を受けて,1961年マンモス団地の土地開発を巡る色と欲と笑いの騒動を描いた《駅前団地》が久松静児監督で作られてヒットし,ここからシリーズ化が決定されるとともに,同年の浜松の駅弁屋を舞台にした第3作《喜劇駅前弁当》から,〈喜劇〉と銘打たれて,ドタバタとくすぐりの喜劇性が大きくなった。以下,〈喜劇駅前〉をかぶせて《温泉》《飯店》《茶釜》《女将》《怪談》《音頭》《天神》《医院》《金融》《大学》《弁天》《漫画》《番頭》《競馬》《満貫》《学園》《探検》《百年》《開運》《火山》《桟橋》と続く。題名にも明らかなように,どの作品にも世相が反映し,いわば1960年代の庶民生活のドキュメントとなっている。ほぼ同じころの東宝のヒット作〈社長〉シリーズとともに,複数の主人公による群像ドラマである点に特色があり,出演者は,森繁,淡島のコンビのほか,伴淳と森光子,あるいは乙羽信子,フランキーと池内淳子あるいは大空真弓のカップルがほぼ一定し,淡路恵子が男たちの浮気心をそそる役柄で毎回登場するほか,三木のり平,沢村貞子が多く出演した。監督は数人交替したが,佐伯幸三が第7作から第18作までの12本を手がけて圧倒的に多く,また第2作から第16作までの脚本は長瀬喜伴が担当し,シリーズのパターンを決定した。初期にはそのパターンの力によって笑いのエネルギーが満ちていたが,やがてパターンもすりきれ,末期にはドタバタもくすぐりも不発となった。それは,60年代に量産の娯楽映画,つまりプログラム・ピクチャーが衰退していったことの現れでもある。
山根 貞男
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軽演劇
けいえんげき
日本においてある種の大衆的な演劇をさしていう言葉。この言葉がジャーナリズムに現れたのは,1931年ごろといわれる。同時に〈大衆演劇〉という言葉も普及しはじめ,その中で意識的に新しい演劇運動をおこそうとした派が〈新喜劇〉または〈軽喜劇〉という言葉を使った。前者は〈旧劇〉である歌舞伎に対する〈新劇〉〈新派〉という言葉と同様の趣旨のもので,後者は,ライト・コメディの訳語といえる。いずれにせよ,このような軽演劇が起こった最も大きな原因は,23年の関東大震災以後の不景気である。生活苦の反動として,とりわけ東京ではエロティシズムとナンセンスの風潮が現れ,それが舞台に反映した。既成演劇の枠を外した芝居やレビューのスタイルをとり入れた構成が好まれて,日本古来の伝統とは無縁なジャンルが隆盛をきわめることになった。大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
[エノケンとロッパの時代] まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。一座には二村(ふたむら)定一,中村是好(ぜこう)らをはじめ,作者として水守三郎,島村竜三(のち新宿〈ムーラン・ルージュ〉の初期の文芸部長),山田寿夫,仲沢清太郎らがいた。こうした文芸部の顔ぶれには,アナーキストや,新劇(左翼劇)を経てきた人々が多い。そうしたスタッフによって,当時の軽演劇,新喜劇運動が推進されたのである。エノケンは,天性の身軽さを生かしたギャグと,ガラッパチな親しさで,下町のファンに,世相の暗さ,生活の苦しさをひととき忘れさせた。満州事変が起きた1931年の暮,新宿駅裏に〈ムーラン・ルージュ〉が開場した。もと浅草・玉木座の支配人,佐々木千里が主宰し,発足時の座員は中根竜太郎,石田清,藤尾純,有馬是馬,毛利幸尚,三島謙(曾我廼家五郎八),武智豊子(武知杜代子),羽衣歌子といった顔ぶれである。これと前後して,浅草オペラ館に,エノケンの新しい劇団〈ピエル・ブリアント〉が旗揚げし,あくる32年には,浅草最大の劇場である松竹座で常打ちすることになり,やがて看板も〈エノケン一座〉となった。こうして軽演劇は,東京全域に客層を広げ,既成のマジメ演劇のパロディを試み,新宿ではサラリーマン,学生,文士などの客層をつかみ,浅草では労働者層のファンを獲得した。〈ムーラン〉の作家陣は,初期には吉行エイスケ(1906‐40),絃崎勤,竜胆寺雄(りゆうたんじゆう)らが参画,のちに伊馬鵜平(のち伊馬春部(いまはるべ)),斎藤豊吉,山田寿夫,穂積純太郎,小崎政房,横倉辰次,阿木翁助(あぎおうすけ)らが加わった。俳優では竹久千恵子,水町庸子,外崎恵美子,沢村い紀雄らが参加,伊馬の《桐の木横町》,阿木の《女中あい史》(《女工哀史》のもじり)など,軽いユーモアと皮肉をまじえたタッチで,劇中に世相を巧みに織りこんだ。その後〈ムーラン〉は,さらに作家として中江良夫,金貝省三,小沢不二夫ら,俳優として左卜全(1894‐1971),明日待子,小柳ナナ子,有島一郎,千石規子らの俳優を育てた。かたや〈ピエル・ブリアント〉では,菊谷栄,サトウ・ハチロー(1903‐73),和田五雄らが喜劇を書き,俳優陣に柳田貞一,武智豊子(〈ムーラン〉から移籍)らがいた。
一方,31年に日本にも登場した本格的トーキーによって,サイレント映画の弁士が失職。その一党が中心となって33年に浅草常盤座で〈笑いの王国〉が旗揚げした。役者として生駒雷遊(いこまらいゆう)(1895‐1964),山野一郎,古川緑波(ロッパ),大嶋司郎(1896‐1952),渡辺篤(1896‐1977),関時男,清川虹子ら,作家陣に菊田一夫,大町竜夫,貴島研二,山下三郎らが加わった。一夜づけの脚本による,いわゆる〈アチャラカ芝居〉なる言葉はここから生まれた。当時のキャッチフレーズは〈アチャラカ・ナンセンス〉で,レマルクのベストセラー小説《西部戦線異状なし》をもじって《東部戦線異状なし》,歌舞伎の《絵本太功記》は《エヘン太閤記》といった風に茶化して上演した(当時の台本に,歌舞伎のパロディが目だつのは,それが人々の一般教養だったからで,だから,戦後には通用しにくくなる)。こうした傾向の背後には,不景気と,軍国主義へなだれこんでゆく時代の流れがあったのだが,ともあれ,こうした中から,多くのボードビリアンが生まれ,喜劇作家が育った。
35年,東宝劇場や有楽座が日比谷に完成すると,東宝は軽演劇の大劇場進出を計画し,浅草から〈笑いの王国〉を脱退した古川ロッパ一党と,エノケン一座を招いて専属契約を結び,有楽座の主要レパートリーに加えた。その結果,アチャラカも大劇場演劇のスタイルをある程度整えねばならなくなった。37年に日中戦争が起きて以来,戦時色は日ごとに強まり,やがて41年には太平洋戦争に突入する。そんな中で,ロッパは,37年に渡辺篤,若手として森繁久弥(1913‐ ),山茶花究(さざんかきゆう)を入れ,座付作者の菊田一夫と組んで,《道修町(どしようまち)》《花咲く港》といった〈当時の風潮に従うようにみえて,実は一種の抵抗である芝居をやってのけた〉(小林信彦による)。一方,エノケンは,十八番の《法界坊》《らくだの馬さん》などで人気を博したが,彼の片腕ともいうべき座付作者,菊谷栄の戦死によって,しだいにバイタリティを失っていった。
戦時中,検閲の圧迫を受け続けた軽演劇は,敗戦後も,わずかにエノケン一座,ロッパ一座などが再起したにすぎず,これも戦後のインフレのため,満員でも赤字という状態が続き,やがてこれらの一座は解散となった。そんな中で,ひととき人気を集めたのは,空気座による,田村泰次郎原作・小崎政房脚色の《肉体の門》で,47年に東京だけで4ヵ月続演した。しかし,これとても軽演劇がうけたというよりは,当時のストリップショー全盛時代の世相の反映であった。
[テレビ以降の軽演劇] 本格的な民間放送時代に入った51年から,軽演劇の役者や作家の多くはラジオへ移行し,彼らの芸は家庭向きの〈良識〉的表現にまとめられていった。さらに54年ごろからはテレビジョンが主流となったが,その中から〈テレビ軽演劇〉ともいうべきひとつの流れが生まれた。たとえば《てなもんや三度笠》(香川登志(枝)緒作,沢田隆治演出。朝日放送)は,公開録画による藤田まこと,白木みのるの凸凹コンビの〈道中記〉で,その時どきの人気タレントやコメディアン,売れっ子の歌手をゲスト出演させるというフォーマットは,ブラウン管時代の軽演劇の好例といっていい。一方,劇場では55年に入って,ドイツ文学者でまたコント作家でもあった秦豊吉(1892‐1956)が実現した〈帝劇ミュージカルス〉によって,戦前の〈東宝劇団〉〈ロッパ一座〉,戦後の〈ムーラン・ルージュ〉などの長い下積みを経た森繁久弥が脚光を浴びた。56年にはさらに東京宝塚(東宝)劇場が,占領軍の接収解除によって活動を再開,東宝重役となった菊田一夫によって大劇場形式のミュージカルが提唱され,エノケン,ロッパ,トニー谷(1917‐87),三木のり平(1923‐ ),有島一郎,越路吹雪(1924‐80),宮城まり子(1929‐ )ら,戦前派・戦後派のタレントが活躍の場を得た。だが,オールスターキャスト型のこうした舞台は,かつての軽演劇のニュアンスからは,程遠いものとなった。
しかし一方,戦後,軽演劇にとってかわった形で庶民の娯楽として全盛をきわめたストリップショーのコントの中から,あらたな軽演劇の人材が育った。たとえば,一時期の浅草フランス座には,戦前からのベテランの佐山俊二のほか,渥美清(1928‐96),関敬六,谷幹一,南利明,八波むと志,作家の井上ひさし(1934‐ )といった,若い才能が集まっていた。また由利徹は〈ムーラン・ルージュ〉解散後は新宿セントラルなどに出演していたし,三波伸介(1930‐82),戸塚睦夫は新宿フランス座の出身である。由利・八波・南の〈脱線トリオ〉,三波・戸塚・伊東四朗の〈てんぷくトリオ〉などは〈トリオ漫才〉と呼ばれたが,実態はむしろコントで,幕前で行われる寸劇といったおもむきがあった。こうした人々(〈デン助劇団〉の大宮敏充(1913‐76)なども含めて)の多くが,タップを素養として身につけていることにも注目したい。さびれゆく浅草が生んだ最後の軽演劇スターは,フランス座改め東洋劇場から出た〈コント55号〉の萩本欽一(1941‐ )・坂上二郎ということになろうか。だが,80年代に入って,久々に,という印象で,ヌード劇場(渋谷の道頓堀劇場)から,〈コント・レオナルド〉のレオナルド熊が登場した。毒舌漫才で売った〈ツービート〉のビートたけしも,軽演劇を志向している。いずれにしても,こうした人たちは,ブラウン管の人気者であり売れ続けねば〈売れ〉ていることにはならない,という宿命を負っている。
近年の成果としては,むしろ〈60年安保〉以後,若者の人気を集めた,いわゆるアングラ劇,小劇場運動の中から,佐藤 B 作,花王おさむらの〈東京ヴォードヴィルショー〉(1973発足),柄本明,ベンガル,高田純次らの〈東京乾電池〉などの,〈ネオ軽演劇〉ともいうべき一派が育ったことが大きい(ここには奇しくも,戦前の軽演劇誕生の状況に相通ずるものがある)。これらのタレントが巣立った〈自由劇場〉(1966発足。ただし正確には75年再組織のオンシアター自由劇場)の,斎藤憐作《上海バンスキング》(1979初演)は,戦後軽演劇の代表作といってよかろう。
ところで最後に,〈軽演劇〉という言葉だが,それはいまや死語に近い,という説もある。たしかに,〈軽演劇〉というジャンルはもともと特定しがたく,今日多様化の一途をたどる演劇界では,なおさらのことである。しかし,〈軽演劇〉を〈大衆演劇〉の同義語と考えるかどうかについては,意見のわかれるところである。⇒大衆演劇 森 卓也
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