2021年5月30日日曜日

[晴ときどき英語のお勉強] 『英文ライティング特別講義』(マーク・ピーターセン著、旺文社、2018年)第4章 修飾語句の発想 第22講 想定外の意味を帯びる形容詞

 



スローリーディング中の『ピーターセンの英文ライティング特別講義』、本日は「第4章・修飾語句の発想、第22講・想定外の意味を帯びる形容詞」を読みました。

日本の英語学習者が英単語1つを1つの日本語で対応させてしまう問題点として、”貴重な=precious”の例をあげて説明しています。

貴重な=precious、で間違いではないのですが、文脈によっては大げさで、慇懃無礼な感じを受けることがあるそうです。


(×)Thank you for sparing your precious time for me the other day.


Thank you so much for taking [for being so kind as to take] the time to see me last Tuesday [on the 15th].

+I know your schedule is quite busy.


「先日は私のために貴重なお時間を割いてくださり、ありがとうございました(御多忙にもかかわらず」






[その他] 広島掃除に学ぶ会 5月30日(日曜日)ゴミゼロの日

 



広島県から緊急事態宣言が出ているため団体での活動は休止中です。


本日は「5月30日=ゴミゼロの日」ということで、各自が活動し、その成果(?)をフェイスブックに投稿することになっております。


当方は7時~8時まで、南大橋~宇品橋南詰を往復して、ゴミ拾いをしました。


天気がよくてすがすがしい朝でした!!

[積読立読斜読] 『決定版 日本の喜劇人』(小林信彦著、新潮社、2021年)第三章~第五章

 



スローリーディング中の『決定版日本の喜劇人』。本日は第三章から第五章を読みました。


第三章あたりからは、1959年生まれの当方がリアルタイムで実際に観たことのある喜劇人が登場してきます。


P68

森繁は、二枚目半というタイプをみずから開拓したのであり、彼が念じていたとおり、<喜劇によし、悲劇によし>というユニークな役者として大成した…が、『三頭重役』から『夫婦善哉』へのチェンジが―すなわち、上質のコメディアンから性格俳優への変化が、あまりに鮮やかだったので、その後の日本の喜劇人の意識にとんでもない異変を起こさせたのである。

<森繁病>と私が呼んでいるこの病状は、まず、一人の喜劇人が、彼を売り出すに至った原因である<動き>を止めることに始まる。



平凡社『世界大百科事典』に記載のある喜劇人

第三章

森繁久彌の影

伴淳三郎→「伴淳三郎」

三木のり平→「軽演劇」

山茶花究→「軽演劇」

有島一郎→「軽演劇」

堺駿二→記載なし

益田喜頓→記載なし


第四章 占領軍の影

トニー谷→「軽演劇」

フランキー堺→「駅前旅館」


第五章

脱線トリオ→「軽演劇」

クレイジーキャッツ→記載なし



伴淳三郎  1908‐81(明治41‐昭和56)

ばんじゅんざぶろう 

〈バンジュン〉の愛称と,1950年代の流行語となった〈アジャパー〉なる受けことばで親しまれたコメディアン。本名鈴木寛定(ひろさだ)。山形県米沢市に生まれ,貧しい南画家を父にもち,幼いころから各地を転々とした。剣戟(けんげき)が看板の大衆演劇に加わったりしたが,1927年,日活時代劇部の大部屋に入り,伴淳三郎を芸名とする。やがて珍優として売り出すが,いまひとつ〈看板〉になれないまま,映画界と演芸界をまたにかけてがんばる。太平洋戦争中から,浅草を本拠に〈伴淳軽喜座〉を主宰し,戦後は〈伴淳ショウ〉の旗上げなどもするが,全盛のストリップショーに押されて,いずれも長続きはしなかった。

 本格的な映画カムバックは51年で,同年の斎藤寅次(二)郎監督の《吃七捕物帖・一番手柄》で贋金(にせがね)作りの用心棒を演じ,首領の金語楼に〈一瞬にしてパーでございます〉と報告,〈敵か味方か?〉〈味方がパー〉と,手先を上に向けて,オフビートなタイミングで指をパッと開いたのが受けた。それを,びっくりしたときの〈アリャー〉が山形弁で〈アジャー〉となまるおかしみにつなげ,ショックを受けたとき〈アジャー〉〈パー〉と叫ぶのが,一世をふうびした。かくてバンジュンは,40代で一躍人気コメディアンとなったが,1本の映画を背負って立つスターではなく,あくの強い怪演で,共演者を食うときに生彩を放つタイプは一貫して変わらなかった。共演に花菱アチャコを配し,荒っぽいペーソスをきかせた《二等兵物語》シリーズ(1956‐61)や,森繁久弥,フランキー堺を向こうに回し,ねちっこい助平おやじタイプで場面をさらった《駅前》シリーズ(《駅前旅館》,1958‐69)などがその好例である。みずからの芸風を〈泥くさい異常男〉と称していたというが,《歌くらべ荒神山》(1952,斎藤寅次郎)の,なぜか語尾だけ尾張弁になる怪浪人も,本格的な立回りができる特技を生かした,不気味なこっけいさという持味の代表作といえる。後年は(日本のコメディアンの通例にもれず)シリアスな〈個性的な脇役〉へと方向を転じ,内田吐夢の《飢餓海峡》(1964)の老刑事で,毎日映画コンクール男優助演賞を受けた。       

森 卓也

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駅前旅館  

えきまえりょかん 

東宝の喜劇映画で,1958年製作。以後,シリーズ化され,69年の《喜劇駅前桟橋》まで計24作続いた。製作は東宝の子会社,東京映画。いずれも森繁久弥,伴淳三郎,フランキー堺のトリオを主役に,毎回変わる設定のなか,3人の持味を生かし,人情コメディを基本に,ドタバタ喜劇の活力,社会風俗の同時代性,新旧世代の心情の違いによる哀感などを巧みに取り入れ,人気を博した。《駅前旅館》は,井伏箆二の同名小説を原作とする豊田四郎監督作品で,上野駅前の旅館の番頭(森繁)とライバル旅館の番頭(伴淳)と旅行社の添乗員(フランキー)を中心に(この3人の芸達者の〈芸〉が大きな見せどころになる),移りゆく旅館街のてんやわんや,お色気騒動などが描かれ,風俗映画の佳作となっている(例えば地方から慰安旅行に出てきた新興宗教団体の一行に〈今流行のドカビリを見せてけれ〉と請われたフランキー堺が三味線をギターに見たててロカビリー歌手を熱演すると,そのリズムに乗った一行から賽銭が飛んでくるといったシーンがある)。森繁と飲屋の女将・淡島千景の絶妙なコンビぶりは,同じ豊田監督の《夫婦(めおと)善哉》(1955)を思わせる。この作品の好評を受けて,1961年マンモス団地の土地開発を巡る色と欲と笑いの騒動を描いた《駅前団地》が久松静児監督で作られてヒットし,ここからシリーズ化が決定されるとともに,同年の浜松の駅弁屋を舞台にした第3作《喜劇駅前弁当》から,〈喜劇〉と銘打たれて,ドタバタとくすぐりの喜劇性が大きくなった。以下,〈喜劇駅前〉をかぶせて《温泉》《飯店》《茶釜》《女将》《怪談》《音頭》《天神》《医院》《金融》《大学》《弁天》《漫画》《番頭》《競馬》《満貫》《学園》《探検》《百年》《開運》《火山》《桟橋》と続く。題名にも明らかなように,どの作品にも世相が反映し,いわば1960年代の庶民生活のドキュメントとなっている。ほぼ同じころの東宝のヒット作〈社長〉シリーズとともに,複数の主人公による群像ドラマである点に特色があり,出演者は,森繁,淡島のコンビのほか,伴淳と森光子,あるいは乙羽信子,フランキーと池内淳子あるいは大空真弓のカップルがほぼ一定し,淡路恵子が男たちの浮気心をそそる役柄で毎回登場するほか,三木のり平,沢村貞子が多く出演した。監督は数人交替したが,佐伯幸三が第7作から第18作までの12本を手がけて圧倒的に多く,また第2作から第16作までの脚本は長瀬喜伴が担当し,シリーズのパターンを決定した。初期にはそのパターンの力によって笑いのエネルギーが満ちていたが,やがてパターンもすりきれ,末期にはドタバタもくすぐりも不発となった。それは,60年代に量産の娯楽映画,つまりプログラム・ピクチャーが衰退していったことの現れでもある。   

山根 貞男

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軽演劇  

けいえんげき 

日本においてある種の大衆的な演劇をさしていう言葉。この言葉がジャーナリズムに現れたのは,1931年ごろといわれる。同時に〈大衆演劇〉という言葉も普及しはじめ,その中で意識的に新しい演劇運動をおこそうとした派が〈新喜劇〉または〈軽喜劇〉という言葉を使った。前者は〈旧劇〉である歌舞伎に対する〈新劇〉〈新派〉という言葉と同様の趣旨のもので,後者は,ライト・コメディの訳語といえる。いずれにせよ,このような軽演劇が起こった最も大きな原因は,23年の関東大震災以後の不景気である。生活苦の反動として,とりわけ東京ではエロティシズムとナンセンスの風潮が現れ,それが舞台に反映した。既成演劇の枠を外した芝居やレビューのスタイルをとり入れた構成が好まれて,日本古来の伝統とは無縁なジャンルが隆盛をきわめることになった。大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。

[エノケンとロッパの時代]  まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。一座には二村(ふたむら)定一,中村是好(ぜこう)らをはじめ,作者として水守三郎,島村竜三(のち新宿〈ムーラン・ルージュ〉の初期の文芸部長),山田寿夫,仲沢清太郎らがいた。こうした文芸部の顔ぶれには,アナーキストや,新劇(左翼劇)を経てきた人々が多い。そうしたスタッフによって,当時の軽演劇,新喜劇運動が推進されたのである。エノケンは,天性の身軽さを生かしたギャグと,ガラッパチな親しさで,下町のファンに,世相の暗さ,生活の苦しさをひととき忘れさせた。満州事変が起きた1931年の暮,新宿駅裏に〈ムーラン・ルージュ〉が開場した。もと浅草・玉木座の支配人,佐々木千里が主宰し,発足時の座員は中根竜太郎,石田清,藤尾純,有馬是馬,毛利幸尚,三島謙(曾我廼家五郎八),武智豊子(武知杜代子),羽衣歌子といった顔ぶれである。これと前後して,浅草オペラ館に,エノケンの新しい劇団〈ピエル・ブリアント〉が旗揚げし,あくる32年には,浅草最大の劇場である松竹座で常打ちすることになり,やがて看板も〈エノケン一座〉となった。こうして軽演劇は,東京全域に客層を広げ,既成のマジメ演劇のパロディを試み,新宿ではサラリーマン,学生,文士などの客層をつかみ,浅草では労働者層のファンを獲得した。〈ムーラン〉の作家陣は,初期には吉行エイスケ(1906‐40),絃崎勤,竜胆寺雄(りゆうたんじゆう)らが参画,のちに伊馬鵜平(のち伊馬春部(いまはるべ)),斎藤豊吉,山田寿夫,穂積純太郎,小崎政房,横倉辰次,阿木翁助(あぎおうすけ)らが加わった。俳優では竹久千恵子,水町庸子,外崎恵美子,沢村い紀雄らが参加,伊馬の《桐の木横町》,阿木の《女中あい史》(《女工哀史》のもじり)など,軽いユーモアと皮肉をまじえたタッチで,劇中に世相を巧みに織りこんだ。その後〈ムーラン〉は,さらに作家として中江良夫,金貝省三,小沢不二夫ら,俳優として左卜全(1894‐1971),明日待子,小柳ナナ子,有島一郎,千石規子らの俳優を育てた。かたや〈ピエル・ブリアント〉では,菊谷栄,サトウ・ハチロー(1903‐73),和田五雄らが喜劇を書き,俳優陣に柳田貞一,武智豊子(〈ムーラン〉から移籍)らがいた。


 一方,31年に日本にも登場した本格的トーキーによって,サイレント映画の弁士が失職。その一党が中心となって33年に浅草常盤座で〈笑いの王国〉が旗揚げした。役者として生駒雷遊(いこまらいゆう)(1895‐1964),山野一郎,古川緑波(ロッパ),大嶋司郎(1896‐1952),渡辺篤(1896‐1977),関時男,清川虹子ら,作家陣に菊田一夫,大町竜夫,貴島研二,山下三郎らが加わった。一夜づけの脚本による,いわゆる〈アチャラカ芝居〉なる言葉はここから生まれた。当時のキャッチフレーズは〈アチャラカ・ナンセンス〉で,レマルクのベストセラー小説《西部戦線異状なし》をもじって《東部戦線異状なし》,歌舞伎の《絵本太功記》は《エヘン太閤記》といった風に茶化して上演した(当時の台本に,歌舞伎のパロディが目だつのは,それが人々の一般教養だったからで,だから,戦後には通用しにくくなる)。こうした傾向の背後には,不景気と,軍国主義へなだれこんでゆく時代の流れがあったのだが,ともあれ,こうした中から,多くのボードビリアンが生まれ,喜劇作家が育った。


 35年,東宝劇場や有楽座が日比谷に完成すると,東宝は軽演劇の大劇場進出を計画し,浅草から〈笑いの王国〉を脱退した古川ロッパ一党と,エノケン一座を招いて専属契約を結び,有楽座の主要レパートリーに加えた。その結果,アチャラカも大劇場演劇のスタイルをある程度整えねばならなくなった。37年に日中戦争が起きて以来,戦時色は日ごとに強まり,やがて41年には太平洋戦争に突入する。そんな中で,ロッパは,37年に渡辺篤,若手として森繁久弥(1913‐ ),山茶花究(さざんかきゆう)を入れ,座付作者の菊田一夫と組んで,《道修町(どしようまち)》《花咲く港》といった〈当時の風潮に従うようにみえて,実は一種の抵抗である芝居をやってのけた〉(小林信彦による)。一方,エノケンは,十八番の《法界坊》《らくだの馬さん》などで人気を博したが,彼の片腕ともいうべき座付作者,菊谷栄の戦死によって,しだいにバイタリティを失っていった。

 戦時中,検閲の圧迫を受け続けた軽演劇は,敗戦後も,わずかにエノケン一座,ロッパ一座などが再起したにすぎず,これも戦後のインフレのため,満員でも赤字という状態が続き,やがてこれらの一座は解散となった。そんな中で,ひととき人気を集めたのは,空気座による,田村泰次郎原作・小崎政房脚色の《肉体の門》で,47年に東京だけで4ヵ月続演した。しかし,これとても軽演劇がうけたというよりは,当時のストリップショー全盛時代の世相の反映であった。


[テレビ以降の軽演劇]  本格的な民間放送時代に入った51年から,軽演劇の役者や作家の多くはラジオへ移行し,彼らの芸は家庭向きの〈良識〉的表現にまとめられていった。さらに54年ごろからはテレビジョンが主流となったが,その中から〈テレビ軽演劇〉ともいうべきひとつの流れが生まれた。たとえば《てなもんや三度笠》(香川登志(枝)緒作,沢田隆治演出。朝日放送)は,公開録画による藤田まこと,白木みのるの凸凹コンビの〈道中記〉で,その時どきの人気タレントやコメディアン,売れっ子の歌手をゲスト出演させるというフォーマットは,ブラウン管時代の軽演劇の好例といっていい。一方,劇場では55年に入って,ドイツ文学者でまたコント作家でもあった秦豊吉(1892‐1956)が実現した〈帝劇ミュージカルス〉によって,戦前の〈東宝劇団〉〈ロッパ一座〉,戦後の〈ムーラン・ルージュ〉などの長い下積みを経た森繁久弥が脚光を浴びた。56年にはさらに東京宝塚(東宝)劇場が,占領軍の接収解除によって活動を再開,東宝重役となった菊田一夫によって大劇場形式のミュージカルが提唱され,エノケン,ロッパ,トニー谷(1917‐87),三木のり平(1923‐ ),有島一郎,越路吹雪(1924‐80),宮城まり子(1929‐ )ら,戦前派・戦後派のタレントが活躍の場を得た。だが,オールスターキャスト型のこうした舞台は,かつての軽演劇のニュアンスからは,程遠いものとなった。

 しかし一方,戦後,軽演劇にとってかわった形で庶民の娯楽として全盛をきわめたストリップショーのコントの中から,あらたな軽演劇の人材が育った。たとえば,一時期の浅草フランス座には,戦前からのベテランの佐山俊二のほか,渥美清(1928‐96),関敬六,谷幹一,南利明,八波むと志,作家の井上ひさし(1934‐ )といった,若い才能が集まっていた。また由利徹は〈ムーラン・ルージュ〉解散後は新宿セントラルなどに出演していたし,三波伸介(1930‐82),戸塚睦夫は新宿フランス座の出身である。由利・八波・南の〈脱線トリオ〉,三波・戸塚・伊東四朗の〈てんぷくトリオ〉などは〈トリオ漫才〉と呼ばれたが,実態はむしろコントで,幕前で行われる寸劇といったおもむきがあった。こうした人々(〈デン助劇団〉の大宮敏充(1913‐76)なども含めて)の多くが,タップを素養として身につけていることにも注目したい。さびれゆく浅草が生んだ最後の軽演劇スターは,フランス座改め東洋劇場から出た〈コント55号〉の萩本欽一(1941‐ )・坂上二郎ということになろうか。だが,80年代に入って,久々に,という印象で,ヌード劇場(渋谷の道頓堀劇場)から,〈コント・レオナルド〉のレオナルド熊が登場した。毒舌漫才で売った〈ツービート〉のビートたけしも,軽演劇を志向している。いずれにしても,こうした人たちは,ブラウン管の人気者であり売れ続けねば〈売れ〉ていることにはならない,という宿命を負っている。


 近年の成果としては,むしろ〈60年安保〉以後,若者の人気を集めた,いわゆるアングラ劇,小劇場運動の中から,佐藤 B 作,花王おさむらの〈東京ヴォードヴィルショー〉(1973発足),柄本明,ベンガル,高田純次らの〈東京乾電池〉などの,〈ネオ軽演劇〉ともいうべき一派が育ったことが大きい(ここには奇しくも,戦前の軽演劇誕生の状況に相通ずるものがある)。これらのタレントが巣立った〈自由劇場〉(1966発足。ただし正確には75年再組織のオンシアター自由劇場)の,斎藤憐作《上海バンスキング》(1979初演)は,戦後軽演劇の代表作といってよかろう。

 ところで最後に,〈軽演劇〉という言葉だが,それはいまや死語に近い,という説もある。たしかに,〈軽演劇〉というジャンルはもともと特定しがたく,今日多様化の一途をたどる演劇界では,なおさらのことである。しかし,〈軽演劇〉を〈大衆演劇〉の同義語と考えるかどうかについては,意見のわかれるところである。⇒大衆演劇       森 卓也


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2021年5月29日土曜日

[惹句どんどん] 今尾恵介(地図研究家)

2021年5月29日(土曜日)付朝日新聞より


 

デジタル地図は確かに利便性は高い。
心配なのは、人々の頭の中が
出発地と目的地だけになってしまうことです。



[積読立読斜読] 『この世界の片隅に(中)』(こうの史代著、双葉社、2008年) 第25回 昭和20年2月

 




昭和20年2月、雪の日、すずさんが朝日遊郭の遊女りんさんを訪ねる回です。すずさんは遊女を見下した態度を決して取らず純真無垢な感じです。北條家に嫁入りした「世界の片隅」と朝日遊郭の遊女の「世界の片隅」は同じという心情だったのでしょう。

戦前の遊郭は県の認可制であり、先進国ではめずらしい公娼制度がありました。

貸座敷  
かしざしき 
会合などのために有料で部屋を貸す貸席の意であるが,江戸中期以後は男女の密会のために座敷を提供するのを業とする家の称となり,出合(であい)茶屋,陰間(かげま)茶屋の別称として用いられた。それが1872年(明治5)の娼妓(しようぎ)解放令後は,明治政府による公娼遊郭制度下の遊女屋の公式名称となった。すなわち,娼妓解放令はマリア・ルース号事件に対する外交的配慮の所産であったから,政府は公娼制を維持するために,遊女を娼妓,遊女屋を貸座敷と改称して再編をはかった。娼妓が営業するための場所(座敷)を貸すという意味である。しかし,娼妓の前借金による身体拘束契約の無効は容易に認められず,逆に娼妓が貸座敷に同居するように義務づけるなど,公娼制度の実質は変わらなかった。再編当初は,大阪では席貸と称するなど地域差を残していたが,1900年に内務省令によって全国的に統一の取締法を定めて制度を強化した。それ以前からも,私娼地帯を公娼化する例が多く,1897年ごろには全国の総数は1万軒をこすありさまであった。貸座敷は遊興費の40~50%を収入としたが,娼妓の購入物品(衣類,日用雑貨など)や遊客の飲食物代金などに多額の水増しを加算して暴利を得ていた。警視庁令にもとづき,警察の監督下におかれ,指定区域内に限って営業していたが,1946年の公娼廃止とともにその名は消滅した。
原島 陽一
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貸座敷(かしざしき)
日本大百科全書(ニッポニカ)「貸座敷」の解説
遊女屋の公称。1872年(明治5)の娼妓(しょうぎ)解放令以後、娼妓が営業するための座敷を貸すものとして遊女屋を貸座敷と改称した。実質は従前と変わっていない。貸座敷の営業は内務省の統轄のもとに、指定地以外での営業は許されず、その存廃は各府県がこれを定め、警察署が取締りにあたった。その規模により等級を分けられたが、いわゆる大店(おおみせ)では娼妓のほか、妓夫(ぎゆう)、遣手(やりて)らの使用人が十数人に及んだ。1946年(昭和21)公娼制廃止とともに消滅した。
[原島陽一]


朝日遊郭
朝日遊郭は、1895年(明治28年)6月9日に貸座敷業の許可をえて12店が開業した。 その後、日清・日露の戦役を経た1907年(明治40年)頃には、貸座敷45軒、娼妓530人にまで増加している。 朝日遊郭は、衛生および警備上の設備が充実しており、駆梅院、憲兵出張所、巡邏兵出張所などが併設されていた。 これは呉が重要な軍港であったことが関係すると思われる。 下表に1907年(明治40年)頃の貸座敷を示す。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kure_chin/photo/asahimachi/asahimachi001.html

呉市史編纂委員会編.呉の歴史:呉市制100周年記念版.呉,呉市,2002,p132
池田幸重.呉案内記.呉,田島商店,1907,p100-103


[新聞記事] 朝日新聞社説 夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める 

 


全国紙では初めて「五輪中止」を提言。極めてまっとうな意見と思います。

どうも「中止の決断」を誰が言い出すかで揉めているのでは?

アメリカからの強い外圧を待っているふしもあります。

これぐらいは自分で決めたい。



[ひとり「広島掃除に学ぶ会」] 通勤途中のゴミ拾い 5月24日(月曜日)~28日(金曜日)

 






2021年5月27日木曜日

[晴れときどき英語のお勉強] 『英文法授業ノート』(北村孝一郎著、ぺりかん社、2018年)003 助動詞② will

 





英語の助動詞は3種類ある
法助動詞・・・can, could(canの過去形), dare, may, might(mayの過去形), must, need, shall, should(shallの過去形), will, would(willの過去形)

第一助動詞・・・do, be動詞, 完了形のhave

疑似助動詞・・・be able to, be going to, have to, had better, ought to, used to






[積読立読斜読] 『決定版 日本の喜劇人』(小林信彦著、新潮社、2021年)第一章・古川緑波(ロッパ)、第二章・榎本健一

 


日本の芸能誌の決定版、小林信彦さんの渾身のライフワーク『日本の喜劇人』スローリーディング中です。


本日は古川緑波(ロッパ)、榎本健一、の章を読みました。両人とも教養としては知っていますが、実際に演劇・映画は観たことがありません。平凡社の『世界大百科事典』では意外にも両人とも単独項があり、榎本健一についてはかなりの量の記述です。


古川緑波(ロッパ)は膨大なロッパ日記のほうが有名で、芸ではなく文章で後世に残ったようです。




古川緑波  1903‐61(明治36‐昭和36)

ふるかわろっぱ 

喜劇俳優。加藤男爵家に生まれたが,古川家に養子に出され,早大入学前後から映画評論や映画雑誌の編集をするようになった。そのころ声帯模写と命名した芸を始め,それがこうじてプロになり,1933年徳川夢声らと浅草で喜劇団〈笑いの王国〉を結成した。ロッパと愛称されてエノケンこと榎本健一と並ぶ人気者になった。その解散(1943)後は映画や東宝傘下の〈緑波一座〉で人気を高め,戦後も映画や舞台で活躍したが,ことに51年の NHK の連続放送劇《さくらんぼ大将》で国民的な支持を得た。

大笹 吉雄

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榎本健一  1904‐70(明治37‐昭和45)

えのもとけんいち 

エノケンの愛称で親しまれた不世出のコメディアン。天性の身軽さでどたばたを演じ,天才的な音感で難曲を歌いこなした。東京青山に靴屋の息子として生まれる。浅草オペラ全盛の1922年に,17歳で根岸歌劇団のコーラス部員として初舞台を踏み,23年の正月公演《猿蟹合戦》の,その他おおぜいの子猿の1匹の役で,お鉢を抱えて逃げ回ったあげく,舞台の隅でひっくり返し,大立回りをしり目に,こぼれたご飯をたんねんに拾って食べる姿が大受けに受けた。この,ひたすら逃げまどうおかしさとギャグの段取りに,エノケンの資質がよく現れている。同年9月の関東大震災で浅草は壊滅し,オペラのブームも終わる。その間,関西に下ってサイレント映画の端役などを演じていたが,体をこわして帰京。29年,浅草水族館の2階で旗揚げしたカジノフォーリーでの活躍から人気が急上昇した。エノケン自身もいうように〈浅草オペラをベースに,アメリカのマック・セネット喜劇の動きとセンスをとり入れた〉その舞台は,従来の日本の伝統的な人情道徳喜劇に対し,アクロバチックなまでの体技を駆使した〈見る〉笑いに,歌と踊りを盛り込んだレビュー感覚が,当時の人々の志向にマッチした。幾多の曲折を経て,32年11月からエノケン一座となり,34年,PCL(のちに東宝)と映画出演契約を結び,人気は全国的なものとなった。代表作は,山本嘉次郎監督の《エノケンのちゃっきり金太》(1937)と,斎藤寅次郎監督の《エノケンの法界坊》(1938)で,いずれも事あるごとに逃げる小悪党というのがエノケンの役どころである。ただし両作品とも,現存するのは多くのギャグや芸の見せ場をカットされた短縮版で,とりわけ後者の〈釜いりの刑脱出〉のくだりの欠除は惜しい。むしろ,完全に残っている中川信夫監督の《エノケンの頑張り戦術》(1939)の,にせあんまエノケンと客の如月寛多のマッサージからレスリングもどきにエスカレートするどたばたを,長回しで撮ったしつっこいおかしさに舞台の味がうかがわれる。ほかに,長谷川一夫と共演したマキノ正博(雅弘)監督の《待って居た男》(1942)や,敗戦前後に作られた黒沢明監督の《虎の尾を踏む男達》(1952公開)などに,異色の役どころで好演。後者については黒沢が〈顔で笑って目で泣いてくださいと注文したら,まさにぴったりの表情をしてくれた〉と語っている。


 戦後は,エノケンが敬愛した山本嘉次郎監督の《新馬鹿時代》(1947)の,古川緑波(ロッパ)の警官に追われる闇屋の役が本領を発揮した最後だろう。特発性脱疽(だつそ)のため53年に右足指切断,さらに62年に大噌部から切断。その間の57年にはひとり息子に先立たれるなどの不運に次々に見舞われた。小柄で顔の造作がすべて大きく,しわの深いエノケンの顔だちは,ときとして悲しげに見え,〈悲劇の喜劇王〉という印象を強めたが,自殺未遂を繰り返しつつも,多くのコメディアンがたどる人情劇志向の道を選ばず,〈舞台で駆けたり,トンボのきれる義足が欲しい〉と,どたばた一筋の自信と執念をもち続けた。体技を失った晩年は,演技の古めかしさが目だったが,テレビのバラエティ番組で,チンパンジーと日本猿を,首の振り方ひとつで演じわけて見せる瞬間に,往年の芸の片鱗を示した。


 古くからのファンには,舞台,それも浅草時代が最高であるとして,映画のエノケンを認めない人もある。また,モダンで軽妙なロッパに比べ,泥臭く低俗と見る評価は,人気絶頂期の映画にもついて回った。しかし,舶来のオペレッタのメロディをかたはしから替歌に仕立て,小唄か都々逸のごとく気楽に歌いこなす野太いがらがら声の親近感こそ,大衆のふところに飛び込むエノケンの強みであり,突然駆け出し,突如歌い出す絶妙の呼吸は,残されたフィルムの中に今も生きている。自伝《喜劇こそわが命》(1967)がある。

森 卓也

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[積読立読斜読] 『統計分析を知れば世界がわかる 身長・体重から格差問題まで』(松下貢著、中公新書、2019年)第3章 複雑系とランキングプロットの効用

 



第3章 複雑系とランキングプロットの効用


第2章での地震の発生頻度とそのエネルギーの関係は「グーテンベルク・リヒター則」に従っており、べき乗の関係にある


微小な地震はたびたび起こり、巨大地震はまれにしか起こらない


べき乗分布を示す現象は世の中に多い


高額所得者の個人所得

単語の使用頻度

都市人口

隕石や小惑星のサイズ

月面のクレーターのサイズ

月面で採取された石の大きさ


べき乗分布が複雑な系(現実の世界)の代表的(標準的)な統計分析なのか?


べき乗分布の例に共通なのは複雑な系


複雑系は非線形性⇔線形性の単純系


例:オームの法則(比例関係)


複雑系でもべき乗的でない例が多く見られる

分布の右端はべき乗であっても、本体がべき乗から外れる例も多い


構成メンバーが複雑に絡んでいても、線形的であれば単純系という(ダイヤモンドの結晶)


メンバーの特性の総和をとっても、系全体の特性が出てこない場合は非線形性があるという


この非線形性が複雑系の特徴である


複雑系には系内の些細な出来事が系全体にわたる大変動を起こす場合がある

自己組織的発見または創発という



GDPのランキングプロット


P66

図3-1

右裾の経済大国のデータのみがべき乗分布となっている



データ数が多い場合は正規分布、べき乗分布

少ない場合はランキングプロットが可視化しやすい














[晴ときどき英語のお勉強] 『英文ライティング特別講義』(マーク・ピーターセン著、旺文社、2018年)第4章 修飾語句の発想 第21講 形容詞句の使い方の注意点


スローリーディング中の『英文ライティング特別講義40』、本日は「第4章第21講 形容詞句の使い方の注意点」を勉強しました。

 


名詞や代名詞を直接に修飾する形容詞句には、4つの便利な使用例がある。


The jewelry in this box is my mother's.

①<前置詞+名詞>

※適切な前置詞を選ばない誤用がある


Who is the boy crying in the corner of the room?

②<現在分詞を用いる句>

※現在分詞と過去分詞の誤用がある


She went to see a movie directed by Wes Anderson.

③<過去分詞を用いる句>


Do you have a book to read on the plane?

④<to不定詞を用いる句>

自動詞と他動詞の取り違えの誤用がある


[積読立読斜読] 『鍵山秀三郎「一日一話」』5月28日~6月3日

 


昨年はイエローハットの創業者で「日本を美しくする会」の相談役、鍵山秀三郎氏の『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著、PHP、2019年)を年間を通じてスローリーディングしました。今年はその前著にあたります『鍵山秀三郎「一日一話』を1週間ごとに投稿していきます。











2021年5月24日月曜日

[積読立読斜読] 『決定版 日本の喜劇人』(小林信彦著、新潮社、2021年)



小林信彦さんが新潮社のPR雑誌『波』に最終章を書かれていた『日本の喜劇人』が完結して、『決定版 日本の喜劇人』として刊行されました。小林信彦さんは1932年生まれ。日本橋の老舗の和菓子屋に生まれ、幼少期より演芸・映画に親しみ、雑誌編集者や、TVの放送作家としても活躍された、まさに日本の芸能史の生きる百科事典のような方です。

思想家の内田樹さんのサイトからの孫引きですが、いくらYuoTube等で昔の映像を見ることができるとはいえ、生の舞台を再現するのは不可能なので「小学生で古川ロッパ」を観て感動した、という唯一無二の存在です。



  ピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン』で、「後天的に努力して文化資本を学習しなければならない階層」と「生まれつき文化資本を身につけた階層」の乗り越えがたい差異のうちに階層再生産の力学が働いていることを明らかにしました。

「飲んだことのないワイン」について、セパージュがどうたら、テロワールがどうたら、マリアージュがどうたらとあれこれ蘊蓄を傾けられるのが「後天的文化貴族」。一方で、ワインの銘柄も産地も価格も知らないけれど、それを口にしたとき鼻腔に広がった香りや、グラスの舌触りや、かかっていた音楽や、窓から見えた風景をありありと思い出して、その愉悦について語ることができるのが「先天的文化貴族」です。文化資本をどこかから集めて来た「情報」として所有しているのか、固有名での「経験」として所有しているのか、その違いと言ってもいい。

「内田樹の研究室」より 

http://blog.tatsuru.com/2019/12/01_0927.html

 


日本経済新聞WEB

2021/05/21



<内容紹介>

エノケンから志村けんまで――。圧倒的影響力を持つ伝説の名著、愈々完結!

芸のみならず、喜劇人の人間性にまで肉薄し、〈笑い〉を批評の対象に高めた初版刊行から半世紀。加筆・改稿の上、BIG3・志村けん・大泉洋までに言及した新稿と著者インタビューを収録。戦前のロッパ、エノケンから森繁、渥美、植木、伊東四朗らを経て現在に至る系譜を明らかにする。喜劇を見続けて80余年、国宝級集大成がここに!


<目次>

◆日本の喜劇人

はじめに

第一章 古川緑波ロッパ 丸の内喜劇の黄金時代

第二章 榎本健一 THE ONE AND ONLY

第三章 森繁久彌の影 伴淳三郎 三木のり平 山茶花究 有島一郎 堺駿二 益田喜頓

第四章 占領軍の影 トニー谷 フランキー堺

第五章 道化の原点 脱線トリオ クレイジー・キャッツ

第六章 醒めた道化師の世界 日活活劇の周辺

第七章 クレイジー王朝の治世

第八章 上昇志向と下降志向

渥美清 小沢昭一

第九章 大阪の影 『てなもんや三度笠』を中心に

第十章 ふたたび道化の原点へ てんぷくトリオ コント55号 由利徹

第十一章 藤山寛美 伝統の継承と開拓と

第十二章 日本の喜劇人・再説

最終章 高度成長のあと


◆日本の喜劇人2

はじめに

第一部 植木等

1 ジャズ喫茶(1958?60)

2 歌で始まる(1961)

3 映画への進出(1962?63)

4 スーパーマンの憂鬱(1964?65)

5 頂点(1965?67)

6 王朝の崩壊(1968?72)

7 サウンドの評価と復活(1973?91)

第二部 藤山寛美

1 東京オリンピックの年(1964)

2 成功への綱渡り(1965?71)

3 「阿呆まつり」のころ(1971?72)

4 成功と疎外感(1972)

5 黄金時代(1973?74)

6 花のマクベス(1975)

7 終幕(1989?90)

第三部 伊東四朗

1 〈トリオ〉からの出発(1962?66)

2 自立と遅咲き(1967?73)

3 最後の喜劇人(1974?)

『決定版 日本の喜劇人』あとがき

附・小林信彦インタビュー ぼくは幸運だった

主要人名・グループ名索引


<著者プロフィール>

小林信彦(コバヤシ・ノブヒコ)

1932(昭和7)年、東京・旧日本橋区米沢町(現・中央区東日本橋2丁目)に和菓子屋の長男として生れる。幼少期より、多くの舞台や映画に触れて育った。早稲田大学文学部英文科卒業後、江戸川乱歩の勧めで「宝石」に短篇小説や翻訳小説の批評を寄稿(中原弓彦名義)、「ヒッチコックマガジン」創刊編集長を務めたのち、長篇小説『虚栄の市』で作家デビュー。創作のかたわら、日本テレビ・井原高忠プロデューサーに誘われたことがきっかけで、坂本九や植木等などのバラエティ番組、映画の製作に携わる。その経験はのちに『日本の喜劇人』執筆に生かされ、同書で1973(昭和48)年、芸術選奨新人賞を受賞。以来、ポップ・カルチャーをめぐる博識と確かな鑑賞眼に裏打ちされた批評は読者の絶大な信頼を集めている。主な小説作品に『大統領の密使』『唐獅子株式会社』『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』『紳士同盟』『ちはやふる奥の細道』『夢の砦』『ぼくたちの好きな戦争』『極東セレナーデ』『怪物がめざめる夜』『うらなり』(菊池寛賞受賞)などがある。また映画や喜劇人についての著作も『世界の喜劇人』『われわれはなぜ映画館にいるのか』『笑学百科』『おかしな男 渥美清』『テレビの黄金時代』『黒澤明という時代』など多数。







2021年5月22日土曜日

[晴れときどき英語のお勉強] 『英文法授業ノート』(北村孝一郎著、ぺりかん社、2018年)001 進行形


丸善ジュンク堂書店で、学習参考書ではなくて一般書の平台にあったので興味をひかれ購入してみました。

もともとは神田外語大学の新入生向けのオリエンテーション用の参考書だそうです。

中学・高校の主な英文法を27項目(108節)に分けて左に説明のページ、右に書き込みのページ、という構成で、学校の授業を再現しています。

パラパラみた感じではよく出来た感じがします。

今回は時間をかけてwordに打ち込みながら、他の参考書等からの引用も含めて、復習していきます。




 
毎日新聞より





[積読立読斜読] 『この世界の片隅に(中)』(こうの史代著、双葉社、2008年) 第24回 昭和20年2月

 



スローリーディング中の漫画原作『この世界の片隅に』。

本日は「第24回昭和20年2月」の回を読みました。

兄・要一が戦死し広島市で合同慰霊祭があったので帰省したという設定です。南洋で遺骨もないので骨壺には小石が入っていたという例です。長男がなくなったのにすずさんの家庭は妙に明るく、戦時下で「死」が特別なものではなく、日常的なものという恐怖の暗喩と解釈しました。

映画版の監督の片渕氏は徹底的な取材で亡くなった場所を推定して、映画にリアリティーを加えています。



 

陸軍軍人として出征した、すずさんの兄・要一は、乗っていた船が沈没して戦死したらしい、という場面があります。たまたま呉出身の友人がいて、その方のおじいさんが広島連隊で、入営した時期が要一と同時期とわかりました。そのおじいさんは、今のベトナムあたりのカムラン湾で船が沈んで泳いだっていうんです。ニューギニアのほうへいくのには、当時はベトナムを経由したようで。こうしたことから、要一が戦死した場所がおよそ思い描けるようになりました。

片渕須直と読み解く『この世界の片隅に』

公式アートブック『この世界のさらにいくつもの片隅に』(宝島社、2019年)より


[惹句どんどん] 読み人知らず いろは歌とパングラム(pangram)

 


いろは歌


いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず





The quick brown fox jumps over the lazy dog.


英語のパングラム(pangram):ギリシア語で「すべての文字」、アルファベット26個を使い重複を少なくして文章を創る言葉遊び。


突然思い出した。英語のほうは昔タイピングの練習で使ったような記憶があります。

東西同じような発想があるもので。。。