2018年12月30日日曜日

[惹句どんどん] 雑誌『つるとはな』の栞より




伊丹十三選集の編集者のひとり、松家仁之さんが関わっている雑誌『つるとはな』の販促用の栞より。

関東地区の書店を巡って栞ばかり集めているマニアの方のサイトからお借りしました。

当方も2019年2月に還暦を迎えるので、これからは栞の言葉通り「これでいいのだ」で行きます。

[あの頃のレコード] “Red Rose Speedway”(Paul McCartney and Wings, 4 May 1973 (UK))




28期の高校時代によく聴いた音楽を本当にレコードで聴きなおすという企画です。ネタ切れなので雑誌『レコード・コレクターズ』の特集で取り上げられたアルバムも「あり」に方針変更しました。

雑誌『レコード・コレクターズ』(2019年1月号)はポール・マッカートニー&ウィングスの特集。ウィングス最初期のアルバム『ワイルド・ライフ』(1971年12月)、『レッド・ローズ・スピードウェイ』(1973年5月)が、ポール・マッカートニー・アーカイヴ・シリーズ(リマスター版)の続編として発売されたのを期に特集が組まれました。2枚とも持ってなかったので、広島駅前の中古レコード店グルーヴィンで物色したところ『レッド・ローズ・スピードウェイ』があったので購入して聴いてみました。

最初に『レコード・コレクターズ』等からこのアルバムの紹介。

・録音期間はツアー活動を挟んで約9ヵ月(前作『ワイルド・ライフ』が録音2週間からの反省からか?)
・ソロの『ラム』からのアウトテイクを含み30曲完成していたので2枚組の構想があったがレコード会社が反対して1枚に
・70年代初頭のロックのトレンド、(1)プログレ、(2)スワンプ(アメリカ南部ロック)、(3)レイドバック、が影響されている

ポール・マッカートニーはビートルズ解散前の発言や、その後の活動からわかるようにバンド志向の強いミュージシャンで、ツアーの合間を縫ってアルバム制作・発表、を繰り返しています。ウィングス結成からほとんど準備期間もなく、録音も2週間という『ワイルド・ライフ』(実質3日という説もあり)が酷評されたせいで、バンドとしての演奏技術を高めるためにツアーを繰りかえし、録音期間も十分にとり(9ヵ月)、満を持してという感じのアルバムです。ジャケット裏面には点字で"We love ya baby"という、後年"Ebony and Ivory"(1982)で共演することになる、スティービー・ワンダーへのメッセージだそうです。いずれにせよシングル『マイ・ラブ』と同時期に全米NO1ヒットとなったアルバムなのでちゃんと聴きなおす必要がありますね。

個人的感想は下記の通り。

・次作の『バンド・オン・ザ・ラン』(1973年12月)まで7ヵ月しか開いておらず印象が薄い
・ロック史上の残るラブ・バラード『マイ・ラブ』1曲だけでもアルバムの存在価値あり(この1曲が突出していてアルバムとしてのまとまりには欠ける印象)
・ポールのワンマン・バンドと思いきや意外にコーラス部分が美しい
・3歳の娘メアリーのことを歌ったカントリー・ソング風のシンプルな曲"One more kiss"がほほえましい
・小品のメドレーは『アビイ・ロード』からのものだが完成度が低い、『バンド・オン・ザ・ラン』のように重層的でない

28期の高校時代によく聴いたウィングスの『バンド・オン・ザ・ラン』(1973年12月発売)と同年に発売された作品です。そのせいで印象が薄いのかも知れません。この頃のポール・マッカートニー(1942年6月18日生)は超人的な活動ぶりで、レコード発売を中心にまとめてみました。

<ビートルズ解散前後>
1966年8月、サンフランシスコ公演を最後にライブ活動休止
1969年1月、ゲット・バック・セッション(アルバム『レット・イット・ビー』として1970年5月発売)
1969年9月、『アビイ・ロード』発売(録音は同年4月~8月)。
1970年4月、ポール・マッカートニーのビートルズ脱退宣言。
11971年3月、ポール・マッカートニーが訴訟を起こしていた「解散とアップル社共同経営関係の解消」が確定。

<ソロ、ウィング名義のアルバム>
『マッカートニー』(1970年4月)
『ラム』(1971年5月)
『ワイルド・ライフ』(1971年12月)
『レッド・ローズ・スピードウェイ』(1973年5月)
『バンド・オン・ザ・ラン』(1973年12月発売)

<ウィングスのシングル>
『アイルランドに平和を』(原題:Give Ireland Back to the Irish)(1972年2月)
『メアリーの子羊』(Mary Had a Little Lamb)(1972年5月)
『ハイ・ハイ・ハイ』(Hi, Hi, Hi)(1972年12月)
『マイ・ラヴ(My Love)』(1973年3月)…アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』収録、先行発売。
『死ぬのはやつらだ』(1973年6月1日)

<コンサート、TV番組>
1972年2月、全英の大学を抜き打ちで巡回するツアーを開始
"James Paul McCartney (TV program)"、16 April 1973 (US)…イギリスATV制作の番組。今回発売のデラックス盤のDVDに収録。プロモーション・ビデオとして秀逸。
72年7月ヨーロッパ各国(26か所)のコンサート・ツアー敢行、デラックス版にライブ音源が付属。

<収録曲>
Side one
1. "Big Barn Bed" 3:48
2. "My Love" 4:07
3. "Get on the Right Thing" 4:17…『ラム』製作時の作品をバンド向けに手直し
4. "One More Kiss" 2:28
5. "Little Lamb Dragonfly" 6:20  …『ラム』からのナンバー、バラードの佳品

Side two
6. "Single Pigeon" 1:52 …『マーサ・マイ・ディア』風のピアノソロあり
7. "When the Night" 3:38
8. "Loup (1st Indian on the Moon)" 4:23…プログレ風のインスト、ピンクフドイトと同じエンジニア、アラン・パーソンズの影響か?隣のスタジオでピンクフロイドが"The Dark Side of the Moon"を作っていた
9. "Medley: Hold Me Tight/Lazy Dynamite/Hands of Love/Power Cut" 11:14…『アビイ・ロード』と同じアイデアの未完成曲のメドレー

<アルバム・ジャケット他>
・タイトルは、ポールの家のハウスキーパー、ローズにヒント
・ジャケット表の写真撮影はリンダ。主にリンダ
・ブックレットが着きポップアート風のアラン・ジョーンズとエドゥアルド・パオロッツィが手がけたアートワーク
・バイクはハーレーダビットソン


2018年12月29日土曜日

[積読立読斜読] 『伊丹十三選集』特集 編集者の一人 松家仁之(まついえ まさし)さん

新潮社のサイトより 松家仁之さん


読む前置きが長い。スミマセン、伊丹十三選集の特集は今回が最後です。

選集の編集者の一人、もと新潮社の編集者、小説家の松家仁之(まついえ まさし)さんと、伊丹十三記念館の関わりについて、伊丹プロダクションの玉置泰さんと糸井重里さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」の伊丹十三特集(糸井さんは第1回の伊丹十三賞受賞者)で対談されており、その中に松家さんの紹介がありましたので引用します。


玉置 (1997年12月20日に亡くなってから)、そういった感じで伊丹十三のことに関しては「こちらからは、なにもしない」というスタンスで、ずっといたわけです。その膠着した状態を、いいタイミングでほぐしてくださったのが「考える人」の編集長、松家仁之さんでした。ある日、「考える人」で伊丹十三の特集(2003年冬号)をしたいということで連絡してくださったんです。それまでも、本に関する申し出はいくつかあったんですけれども、ぜんぶお断りしていたんですね。松家さんからの申し出があったのは死から5年近く経ったころのことで、我々もなんとなく、忘れられても困るし、きちんと知ってもらわなくては、というふうに思いはじめたころだったのでタイミングがすごくよかったんです。

糸井 なるほど。

玉置 そして、ちょうど満5年の2002年の12月20日、ホテルオークラ新館の地下2階で、親しい方をたくさんお招きして、「宮本信子感謝の夕べ」っていうディナーショーを開いたんです。宮本さんがちょうどジャズをはじめたころだったので、ワンマンショーという形式にして。そこから、ようするに、吹っ切れたんです。

糸井 ああ。儀式が終わったんですね。

玉置 はい。そこから、まったく変わりました。松家さんは、「考える人」の特集のあと、伊丹さんの仕事をまとめた「伊丹十三の本」という書籍をつくってくださいました。そのあと、伊丹十三記念館の構想を松家さんにお話ししたところ、建築家の中村好文さんを紹介していただいて、松山に建設する運びになったんです。その後、伊丹さんの映画をまとめたDVDのボックスも出して、という具合で。

糸井 松家さんとの出会いを機に外へ開いていくと決めたわけですね。

玉置 そうですね。松家さんとの出会いは大きかったです。おかげさまでとくにイヤな思いもせず、ここまではやってこれたという感じです。


「ほぼ日刊イトイ新聞」伊丹十三特集より
https://www.1101.com/itami/tamaoki/2009-07-06.html


松家仁之(マツイエ・マサシ)プロフィール

1958年、東京生まれ。編集者を経て、2012年、長篇小説『火山のふもとで』を発表(第64回読売文学賞受賞)。『沈むフランシス』(2013)、『優雅なのかどうか、わからない』(2014)につづき、『光の犬』は四作目。編著・共著に『新しい須賀敦子』『須賀敦子の手紙』、新潮クレスト・ブックス・アンソロジー『美しい子ども』ほか。

新潮社のサイトより
https://www.shinchosha.co.jp/writer/4508/

[積読立読斜読] 『伊丹十三選集』特集 装幀の話

まだ続きます『伊丹十三選集』特集。今回は装幀の話。

の前に発売日の話。

第一巻は2018年12月20日発売でした。

喧伝されてなかったようですがこの日が伊丹十三さんの命日でもあり関係者の粋な計らいを感じます。


装幀の話(1)
今回の選集は全三巻の構成ですが、明らかに1961年に筑摩書房から出た『伊丹万作全集』が通奏としてあります。伊丹万作全集の明朝体のレタリングは伊丹十三さんのもの。今回の岩波版『伊丹十三選集』のブックデザインを担当した山口信博さんと宮巻麗さんはこの伊丹十三明朝を踏襲しながらも現代的な味付けで仕上げています。




装幀の話(2)
巻数は洋数字のほうが収まりがよいようですが、選集のほうは「一、二、三」という漢数字となっています。これは伊丹十三記念館の常設展示室が13室あり、設立委員がどうしても最後の展示室を伊丹十三の名前と同じ「十三」にしたかったそうで、ベントレーの車庫の「8」以外は漢数字になっており、この記憶を継承したものです。

伊丹十三記念館展示室 「1」ではなく漢数字の「一」になっている

総じて長い準備期間と編集者の深い愛情を感じる書物になりました。

読む前の話が長いですがご容赦のほど。

2018年12月26日水曜日

[積読立読斜読] 『伊丹十三選集』特集? 編集者・松家仁之さんと建築家・中村好文さんの接点 あるいは伊丹十三論

松山にある伊丹十三記念館

『伊丹十三選集』の編集者の一人、小説家で編集者の松家仁之さんが、建築家の中村好文さんの著作に寄せた寄稿文です。

二人は松山にある伊丹十三記念館の中心的なメンバー(編集者と建築家)ですが、共通点は二人とも伊丹十三の熱烈な信奉者であるということです。

寄稿文がはからずも伊丹十三論になっていますので、長文(これでも抜粋)ですが紹介します。

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寄稿文(抜粋)
建物の記憶 松家仁之

 くだくだしいことは省略するが、ほどなく中村さんと会うことになり、建築課と依頼主の関係になった。のちには、書き手と担当編集者(わたし)の関係にもなった。直接やりとりすようになると、ささやかな疑問はあっさり氷解した。

 中村さんはたいへんな読書家であった。なかでもエッセイの書き手としての伊丹十三の熱烈といっていいファンであった。わたしも中学生のころから、本の小口に指の跡がつくほど伊丹十三の本を繰りかえし読んできたから、同好の士がお互いをそれと知るのに多くの時間はいらなかった。中村さんの文章やイラストレーションにうっすら感じていた伊丹十三の影響は、やはりわたしだけの思いこみではなかった。

 ここで伊丹十三論を展開する紙幅はない。けれども、中村さんの建築の軸にあるものを考えるひとつの補助線になるのではとおもうので、急ぎ足で書いておきたい。 ―衣食住のスタイルは、その人の生きかた、考えかたと表裏一体である。つまり、頭のなかやこころの内側をわざわざ覗かなくても、衣食住の様子を見れば、ある程度はわかってしまう。ヨーロッパの衣食住に見られるかたちはスタイルを美しいと感じるとき、わたしたちは同時に、長い歴史のなかで培われてきたヨーロッパの知恵や文化を見ている。しかし、日本は、目新しい外国の衣食住を半ば無批判にとりいれようとしたため、誤解による恥ずべき間違いもある。そもその日本人には似あわないものある。だからただ鵜呑みにして手本にするのは愚かな話しだ―思い切ってつづめて言えば、伊丹十三はそのように考える人であった。

 衣食住から子育て、男女問題から精神分析まで、真の意味で彼ほど啓蒙的であった書き手はいない。しかも、伊丹十三の書くものはつねに具体的だった。自分の生活のうえで気になったことを、あらためて考え、調べ、発見し、みずから実践してみたうえで、書く。おいしいオムレツやおいしいスパゲティには正しいレシピがあり、スパゲティの食べ方や寿司屋のカウンターでの作法にも、正しいふるまいがある―伊丹十三はユーモアのある断固とした文章とイラストレーションで、それらをわたしたちに伝えたのだ。

 そしてこのような考えかたの道筋と、どこか二重写しになるように、「建築とはなにか」「住まいとはなにか」「暮らしとはなにか」について、住まいの歴史をふまえながら、実践的に考えてきたのが中村好文という建築課である、とおもう。

 出あってから二十年あまりの時が流れ、伊丹十三記念館の構想がもちあがった。中村さんは建築家として、わたしは編集者として、その立案メンバーに加わることになった。このいきさつも省略するほかないが、世の中には、長いあいだの思いが通じ、実現することもあるのだという、感慨深い、忘れがたいなりゆきだった。

 そして、伊丹十三記念館は竣工した。誰もが利用することが可能な公共性のある建築物、空間として―本書(『集(つど)いの建築、円(まど)いの空間』(中村好文著))はそうした仕事ばかりを集めたものであるわけだが―中村さんの代表作のひとつになったとわたしは考えている。
 
『集(つど)いの建築、円(まど)いの空間』(中村好文著)より
  

2018年12月25日火曜日

[積読立読斜読] 岩波書店より『伊丹十三選集』(全三巻)刊行開始




没後20年、岩波書店より『伊丹十三選集』(全三巻)刊行開始。編集者はいずれも筋金入りの伊丹十三ファン。

今回は編集者の一人で、松山の伊丹十三記念館を設計した、建築課の中村好文さんの思い入れぶりがわかる文章を紹介します。

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[伊丹十三記念館]
こぼればなし

 大学二年生の秋、なにげなく立ち寄った書店で、目の前の本棚にあった本の背表紙とタイトルに心惹かれて思わず手に取りました。それが、伊丹十三の『女たちよ!』という本でした。

 とりあえず、パラパラとめくったあとで、あとがきを読みだしてみると『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が一番好きな小説で……と書かれていて「あ!」と思いました。というのはぼくもちょうどその半月ほど前に『ライ麦畑でつかまえて』(キャッチャー・イン・ザ・ライ)を読んでたちまち魅了され、二度、三度と読み返していたときだったからです。このとき、何か「因縁めいたもの」(赤い糸?)を感じたのかもしれません。迷わずぼくはこの本を買いました。貧乏学生のことですから、その本を買うために、その日の食事を抜かなくてはならない出費でしたが、そんなことはまったくへっちゃらでした……というのも、下宿の部屋に戻ってこの本を読みだしたとたん、ぼくは文字通どおり「寝食を忘れて」読み耽ったからです。本の内容が、文体と表現が、添えられているイラストと書き文字が、そして行間から立ち上がってくる伊丹十三の生き方の姿勢と美意識が、ぼくの心を鷲づかみにし、奮い立たせてくれました。それは、目の前に拡がる大海原に船出するような前途洋々とした気分でした。

 そして、翌日から中央線沿いの古本屋を一軒一軒、虱つぶしに歩いて、わずか一週間の間に『ヨーロッパ退屈日記』『問い詰められたパパのママの本』を買い求め(それが伊丹十三の著書のすべてでした)、その三冊をそれこそ貪るように読みました。今にして思えば、あれは熱病にうなされたような日々でした。そして、熱病は思いのほか長引いて、二〇代のぼくの枕元にはいつも伊丹十三の本がありました。

 そのように熱烈な読者でしたから、ぼくが伊丹十三から受けた影響は計り知れません。ぼくは、まず「旅」と「料理」という、人生におけるふたつの大きな財産を授かると同時に、たとえば、マガイモノとマニアワセとツキナミを排除する精神を学び、時流や風潮に流されない価値観をもつことを学び、観察力と想像力の大切さを学びました。そして、なによりも、ユーモアとウィット、そして「遊び心」を学んだのです。

 「伊丹十三記念館」の設計を手がけることになったのは、編集者であり小説家でもある松家仁之さんの推薦によるものです。伊丹十三とおしどり夫婦ぶりで有名だった女優の宮本信子さんや、伊丹映画全作品のプロデューサーを務めた伊丹プロダクションの玉置泰(たまおきやすし)さんの期待に十二分に応えたいという思いはもちろんのこと、伊丹十三から学んだことを、建物の設計だけでなく、展示デザインからミュージアムグッズの企画まで、「記念館をまるごと設計すること」で多くの人に見てもらいたいと思いました。「伊丹十三記念館」は、ぼくの中では一種の卒業設計だったのです。
 
『集(つど)いの建築、円(まどい)の空間』(中村好文著、TOTO出版、2017年)より


 

2018年12月24日月曜日

[その他] ONTOMO MOOK 付録 真空管アンプキット




 音楽之友社からムックの付録で真空管アンプキットが発売。どうも「付録」に弱いもんで。

キットといってもねじ止めだけなので15分ぐらいで完成。スピーカーは今年の夏に作ったこれも雑誌『Stereo』付録のもので鳴らしています。

あとはレコードプレーヤーが付録で出るとコンポーネントが揃いますが。。。

2018年12月22日土曜日

[同窓会] にっぱちサロン竣工

入口は木製のドア
デッキはヒノキ、床は再利用の足場板です

皆実高校の導入路にあった楠木の記憶を引き継ぎ
楠木でテーブルを作成(1枚板だと高いので2枚になってます)


天井照明は自分で取り付けたのエジソン電球です


事務局・大脇の自宅を改装して、28期のみなさんが集えるオープンスペース「にっぱちサロン」を作りました。

11月末に竣工したのですが、机や椅子、後付けの照明などが揃わず、やっとお披露目となった次第です。

すでに軽音楽部の練習や、地歴部の集合場所に使っています。

28期の方は無料で利用可能ですので、どんどん活用ください。

壁は珪藻土、床は足場板のリユース品、アプローチのデッキはヒノキ、窓・ドアは木製と、自然素材を使いました。

なかなか居心地いいですよ。






2018年12月20日木曜日

[同窓会] 『皆実有朋』に第6回にっぱち会の記事が掲載されました



2018年12月20日発行の皆実高校同窓会広報誌『皆実有朋』(No.80)に4月30日に開かれた同期会「第6回にっぱち会」の記事が掲載されたました。

2018年12月16日日曜日

[その他] 広島掃除に学ぶ会 亀山中学校




12月16日(日)は広島掃除に学ぶ会の活動で亀山中学校のトイレ掃除に参加しました。掃除に学ぶ会関係者33人、学校関係者203人、合計236人の参加がありました。

亀山中学校では11回目の開催となりました。運営は生徒会が中心となって行われ、全校一斉のトイレ掃除が当たり前に根付いています。教職員のかたPTAの方も多数参加され、終了後にはPTAの方が作られたトン汁が振る舞われます。


2018年12月13日木曜日

[惹句どんどん] 宇沢弘文(経済学者)



社会的共通資本は……利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない
宇沢弘文


水や大気、森や河川といった自然環境と、道路や交通機関、水道や電力といった社会的インフラと、教育や医療、司法や行政といった制度資本は、誰の生活にも不可欠な基盤として「社会的共通資本」なのだと経済学者は言う。だからその管理・運営は、職業的専門家がその職業的規律に従って行動する独立の機構に「信託(フィデュシアリー)」の形で委ねれれるべきだと。『社会的共通資本』から。

折々のことば 鷲田清一 1313
朝日新聞 2018年12月12日(水)付

2018年12月9日日曜日

[同窓会] 2018年12月2日(日曜日)皆実28期地歴部フィールドワーク(旧国鉄宇品線跡をめぐる)

2018年12月2日(日曜日)皆実28期地歴部フィールドワーク資料 大脇作成

写真は安田学園裏の工兵慰霊碑

日清戦争の際に軍事専用線として開業し、日清、日露、日中戦争と続く対外戦争の兵站となった軍都広島の都市軸、旧国鉄宇品線。被爆当時は被害者の救済に当たり、戦後は疎開してきた官公庁、学校への通勤・通学の足となりましたが、市内を縦断していたため、自動車へのモーダルシフトへの流れに負けて廃線となった数奇な運命の路線です。

皆実高校のすぐ東側に線路がり、廃線がもう少し遅ければ、通学に使った人がいたかも。軍都広島の軸としての宇品線として大きく捉え、関連軍事施設跡と宇品線の廃線跡を巡りました。参加者は、大脇、橋本さん、有川君、福間君の4名でした。※デジカメの調整が悪く写真にもやがかかった状態です。スミマセン。

(1)太田川中州
『ブラタモリ』の広島編でも紹介されたデルタ地帯広島の原風景ともいえる中州です。(名前はあるのかも知れませんが)。ふだんは車で素通りの場所ですが、「アオサギ」「ダイサギ」が営巣いるそうです。立木が真っ白になってますが「カワウ」のフンだそうす。工兵橋から川面を見ると大きな亀や鯉が悠々と泳いでいて、数百年まえから同じ風景だったような想像ができます。広島市の近現代史のスタート地点となった場所ですね。


(2)工兵橋と工兵慰霊碑
工兵は旧日本陸軍の兵科。主に交通・通信・架橋・爆破・照明など、作戦遂行上必要な技術面を担当したそうです。牧歌的なつり橋は、工兵隊が北側の牛田演習場に行くため1889年に初代が架橋(木造)、1933年に架け替えられ、現在の橋は三代目だそうです。安田学園の裏手には工兵第五連隊慰霊碑があります。原爆被害の兵士は1万5千人程度で、この場所で、工兵は47名が犠牲になったそうです。安田学園の敷地は、かつての陸軍工兵第五連隊があった場所です。


(2)東練兵場跡地
広島駅の北側には広大は広島東練兵場(軍事教練用のグランド)がありましたが、現在は説明文もなくまったく痕跡がありません。宇品線が敷設された理由の一つに駅の近くに兵隊が集合しやすい空き地があることが条件だったようです。かろうじて練兵場内に設置された「騎兵第五聯隊跡碑」の慰霊碑が残っており、「陣歿 軍人軍馬 追悼之碑」も併設されていました。慰霊碑の裏には「西伯利出征凱旋ノ秋建之 大正九年十一月十八日」とありシベリア出兵凱旋時に建立されたようです。


(3)南段原駅跡(段原南第五公園「宇品線広場」)
宇品線の痕跡もほとんど残っていませんが、広島駅から線路跡の道路を宇品方面に車で下っていくと、南段原駅があった場所にモニュメントが残されています。モニュメントもあまりメンテナンスがされていないようで、未来永劫保存されるのかどうか不安です。


(4)陸軍糧秣(りょうまつ)支廠(ししょう)倉庫跡
貨物の積み下ろしのため、560mという日本一の長さを誇った宇品駅のプラットフォームは、広島高速道路3号線が作られたため跡形もなく、かろうじて隣接していた陸軍糧秣(りょうまつ)支廠(ししょう)倉庫のレンガと、説明文がなく不明ですが、プラットフォームに使った石がモニュメントとして残っています。

[同窓会] 軽音楽部ミニライブ 12月8日(土曜日)17:00


夏に予定していたミニライブは豪雨災害のため中止して、今回が初めてのライブになります。

料理研究家の金本さんのキッチンをお借りして、料理を囲みながらのライブになりました。12月8日(土曜日)17時より。

皆実28期からは1名の参加でしたが、大脇の一族郎党が孫も含めて参加して、総勢で13名の参加となりました。

曲は完成度の濃淡はありましたが、下記の通り。

童謡・たき火
Julia
ある雨の日の情景
あの素晴らしい愛をもう一度
Blackbird
シンシア

一番盛り上がったのは最後の「シンシア」で波多野君のハーモニカ演奏がよかったと思いました。

軽音楽部は月に2~3回の練習を地味に続けています。次回は来年の6月に開催の予定です。





[同窓会] 念仁会(忘年会)12月8日(土曜日)鷹野橋 Seji



年に2回の28期懇親会「念仁会」。今回は鷹野橋にあるワインのおいしいビストロ「Seji」で開催。

28期は6名の参加でしたが、波多野君の家族3名、大脇の家族1名、ゲスト1名、が参加して合計で11名の参加がありました。


[同窓会] 皆実28期同期会 2019年の計画



皆実28期同期会 2019年の計画

2018年は還暦記念ということで4月30日の「にっぱち会」をはじめ、
たくさんの企画を実行しました。

2019年は地味に行きます。


●第 66 回皆実有朋会定期総会

2019年8月24日(土) 午後4時~ リーガロイヤルホテル広島
会費: 7,000円(予定)

当番期:
皆実25期 1974(昭和49)年3月卒業
皆実54期 2003(平成15)年3月卒業
専攻科6回 1976(昭和51)年3月卒業
専攻科35回 2005(平成18)年3月卒業


●念仁会(納涼会)

7月6日(土曜日)18:30


●念仁会(忘年会)

12月7日(土曜日)18:30


●地歴部フィールドワーク

6月29日(土曜日)11:00

11月30日(土曜日)11:00


●軽音楽部ミニライブ

6月1日(土曜日)17:00

11月2日(土曜日)17:00

※詳細問い合わせは事務局・大脇まで(携帯:080-2890-5793)