内部に2つパッシブ・スピーカー(これ自体はマグネットがなく鳴らない)が2つ付く
複雑な構成で、片チャンネルは内部の取り付け位置を間違い、未完成。
片チャンネルだけ完成しました。
というわけで Steely Dan の"Gaucho"を聴いてますが、いい音します。
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12 Oct 2026 09:25:32
読書ノート
『加藤友三郎 政党政治を見透した軍事政治家』(手嶋泰伸著、中公選書、2025年)
初期の日本海軍
イギリスからの御雇外人による海軍実地訓練
フランスに発注、日本三景艦
西郷従道、山本権平、加藤友三郎、のライン
薩摩閥から海軍兵学校席次を重視
遠洋航海で見分を広げる
日清・日露戦争への出征、聯合艦隊参謀長へ…東郷平八郎の知遇
主席参謀・秋山真之
天津条約、朝鮮への出兵を制限
日露戦争での自身の活躍を述べていない
軍部大臣改革を目指す…帰国後、海相として…頓挫
内閣総理大臣としての1年2ヵ月
シベリアからの撤兵
海軍の軍縮(人員整理)
皇太子の台湾行啓を準備、女婿の船越孝義
選挙法改正の布石
胃がんによる死去、海軍葬
関東大震災前の政治的空白を招く
女婿・加藤孝義、海軍大将
父子で海軍大将、加藤友三郎、山本権兵衛・財部彪
青山霊園に埋葬、戦時中は鉄柵を供出
1891年、大津事件…対ロシア戦争を避ける
1891年、李鴻章の北洋艦隊・定遠他品川に寄港…中国海軍との差を実感
1891年、イギリス出張、建造中の軍艦・吉野の造兵監督官
1893年、イギリス建造の最新鋭艦・吉野の回航委員、砲術長に
1894年、日清戦争
1904年、日露戦争
1905年、海軍次官
1909年、呉鎮守府司令長官
1914年、清浦内閣を不成立に(海相を出さず)
1915年、海軍大臣就任
大隈重信は山本権兵衛と対立?
ワシントン会議全権、原敬が推薦
軍人と政治との矛盾、国際非難
フロックコートを着用
メディア対応を意識
「チャーミング・アドミラル」
フランスのクレマンソーに匹敵
大衆と議会の重要性を理解
→ロンドン軍縮会議の財部彪との対比
ワシントンで原敬暗殺の報に接する
アメリカの代表ヒューズの削減提案に調整
対米6割で妥協→加藤寛治の対立、対話で解決
海軍軍人から政治家へと視野の転身
大津事件
おおつじけん
1891年5月11日におきたロシア皇太子遭難と犯人処刑をめぐる政治問題。湖南事件ともいう。ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中,軍艦7隻で日本に東遊したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)は琵琶湖遊覧の帰途,大津町(現,大津市)で警衛中の滋賀県巡査津田三蔵に斬りつけられ頭部に負傷した。津田はロシア皇太子来日を日本侵略の準備とする風説を妄信し犯行におよんだものであるが,政府が配置した警察官が国賓の殺害を企てたことは,政府の大失態であり,日本の朝野はパニック状態におちいった。天皇は京都に行幸して皇太子を見舞い御前会議で謝罪使のロシア特派を決定した(ロシアの辞退で中止)。女中奉公をしていた畠山勇子は,国家の危難を救うために国民のなかから命をささげてロシアに詫びるものが必要であると考え自殺した。成立直後の松方正義内閣は,緊急勅令で内務大臣に新聞雑誌などの関係記事を事前検閲させた。皇太子は滞日旅程を打ち切り5月19日離日したが,前日に犯人取押えに協力した人力車夫2名にロシアの勲章と一時金が与えられ,日本政府も勲八等に叙し白色桐葉章を授与したので両名は帯勲車夫といわれた。一方,滋賀県知事,滋賀県警部長は懲戒免官となった。
ロシア皇太子の来日前,駐日ロシア公使シェービチは同皇太子への不敬の所業を厳罰するよう緊急勅令の公布を外務大臣青木周蔵を通じて日本政府に求めたが,青木は緊急勅令でなく皇族に関する刑法規定の準用を同公使に約言しながら公表していなかった。そこでこの国際的な約束にしばられた政府は,犯人に刑法116条の天皇,三后,皇太子への危害の条文による死刑を司法部に求めたほか,伊藤博文は戒厳令を考え,青木外相は同条を外国皇族にも適用する緊急勅令を提案したが,いずれも実行にいたらなかった。大審院長児島惟謙は,青木・シェービチ協定の存在を政府から知らされたが,刑法116条でなく通常謀殺未遂を適用するよう,大津地方裁判所で開廷した大審院特別法廷の担当判事を説得した。この結果5月27日大審院は津田に無期徒刑の判決を宣告した。児島の行動は司法権の独立を政府の干渉から守ったものとしてたたえられ,この事件後司法権独立は日本の裁判所の伝統として確立されたと評価された。しかし行政上担当裁判官を監督する大審院長の職にあり,担当裁判所の構成員でない児島が,担当裁判官を説得して自己の法解釈に同意させたのは,やはり裁判干渉であった。彼は政府の行動を軟弱として国権論の立場から政府に抵抗した。
ロシア皇帝は日本が約言を守り,津田に死刑を宣告してロシアに対する礼儀をつくせば,ロシアが減刑を申し出ることにより皇太子殺害未遂事件を日露親善の契機に転じようとしていたが,大審院の判決はロシアにその機会を失わせたと駐露公使西徳二郎は批判している。津田は同年9月30日,釧路集治監で肺炎により病死した。
藤村 道生
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西郷従道 1843‐1902(天保14‐明治35)
さいごうつぐみち
明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。醍摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部縁次いで陸軍縁に就任し,81年農商務縁,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。海軍の基礎確立のために樺山資紀,山本権兵衛,安保清康らを抜禽重用した。90年山県内閣の内務大臣,92年枢密顧問官を歴任,また同年には国民協会の会長となった。翌年伊藤博文内閣の海相に復帰して海軍の整備拡充に尽力し,94年最初の海軍大将となり,95年侯爵,98年元帥府に列せられた。同年山県内閣の内務大臣,1902年大勲位菊花大綬章に叙せられる。諧謔,機知に富み,醍長間ならびに陸海軍間の軋轢(あつれき)の調停者として貴重な役割を果たした。 御厨 貴
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山本権兵衛 1852‐1933(嘉永5‐昭和8)
やまもとごんべえ
明治・大正期の海軍将官,大将。政治家。名前は〈ごんのひょうえ〉とも。醍摩藩士山本盛次の六男。戊辰戦争に従軍。維新後海軍兵学寮に入り,1874年卒業。76年艦務研究のためドイツ軍艦に乗り組み,世界周航。87‐88年樺山資紀の随員として欧米視察。高雄,高千穂艦長,海軍軍務局長を経て,98年第2次山県有朋内閣の海相となり,以後第4次伊藤博文,第1次桂太郎内閣に留任。日露戦争では開戦回避を唱えた。この間1902年男爵,04年大将。07年伯爵に昇爵。13年第3次桂内閣の倒壊後第1次内閣を組織し,政友会の支持をうけて行財政整理,文官任用資格の拡大,軍部大臣武官制の改革などを行ったが,翌年海軍高官汚職のシーメンス事件で総辞職し,予備役に編入。23年9月関東大震災のさなかに第2次内閣を組織し,震災後の復興処理にあたったが,同年末虎の門事件の責任をとって総辞職した。〈長州の陸軍〉にたいする〈醍摩の海軍〉の巨頭として海軍内に大きな勢力をもっただけでなく,政治的にも醍摩閥の中心として重きをなした。 由井 正臣
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加藤友三郎 1861‐1923(文久1‐大正12)
かとうともさぶろう
海軍軍人,政治家。安芸広島藩士出身。海軍兵学校(7期)卒業。日清戦争にはイギリスで建造された軍艦吉野の砲術長として黄海の海戦,旅順口の占領などに従い,日露戦争では第2艦隊参謀長,のち連合艦隊参謀長として東郷平八郎司令長官を補佐し,日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた。その後,海軍次官,呉鎮守府司令長官を経て,1915年に大隈重信内閣の海相に就任し大将に昇進した。引き続き寺内正毅,原敬,高橋是清内閣の海相を歴任し,この間,21年にワシントン会議の全権委員をつとめる。加藤らはこの会議で対英・米6割の海軍軍縮に同意し,四ヵ国条約,対中国九ヵ国条約などに調印し帰国した。その直後の22年6月,高橋内閣の崩壊後,立憲政友会の援助を受けて組閣し,行財政の整理,綱紀粛正,教育および産業社会的施設の振興と軍備縮小につとめ,共産党に対する最初の弾圧(第1次共産党事件)を行ったが,翌年の夏在任中に病死。死去の直前に子爵,元帥となる。 金原 左門
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天津条約
てんしんじょうやく Ti´n j ̄n ti⊂o yu^
19世紀後半,天津において中国と諸外国とのあいだに結ばれた条約の総称。清朝政府は,諸外国との条約の交渉,調印が朝廷のある北京でなされることを嫌い,極力天津において行おうとした。また,1870年(同治9)以降には北洋大臣李鴻章が天津にあって交渉の任についたため,多くの天津条約が調印された(表参照)。内容は多様であるが,なかでも58年(咸豊8)6月26日,イギリス・フランス連合軍の威嚇の下に,清国欽差大臣桂良,花沙納とイギリス全権 J. B. エルギン(1811‐63)との間に結ばれた〈英清天津条約〉全56条は,以降の不平等条約の原型となった。その要点は,(1)外国公使の北京常駐あるいは随時入京を定め,公使は朝貢国の使節ではないとし,三跪九叩礼(叩頭(こうとう))をはっきり否定した。(2)条約港を11ヵ所増加し,牛荘(営口),登川(芝罘),漢口(1861),九江(1876),鎮江,台湾府(台南),淡水,潮川(汕頭),瓊州(けいしゆう),南京(1899),天津(1860年協定で追加),以上の開港を決定した。これにより開港場は華北および長江(揚子江)にまで広がり,外国商船の長江航行も定められて内河航行権獲得の先駆けとなった。(3)外国人宣教師の布教権(内地布教も含め)を認めるとともに,中国人の信教の自由も認めた。(4)外国人の内地への旅行,通商,開港場における土地家屋の租借,教会,病院,倉庫の建設が認められ,(5)領事裁判権の整備がなされた。(6)中国人の海外渡航が公認された。これは,アフリカからの奴隷売買を禁止する動きに伴う中国人,インド人労働力の需要増加に応えたものである。カリフォルニアの金鉱労働者やキューバ,ペルーの農園労働者として送り込まれるようになった。いわゆる〈クーリー(苦力)貿易〉である。(7)賠償金として400万両(テール)(フランスは200万両)が定められた。また,(8)上海における税則改訂会議の開催が定められ,同年11月8日,上海で中英通商章程10条(付海関税則)が調印された。その内容は,(a)賠償金の財源を確保するために,イギリス人に海関税務を援助させることを定め,外国人税務司制を全開港場に拡大し,かつ恒久化させた(総税務司)。(b)一般の輸出入品に対する税率は一律に従価5%,(c)内地通過税(子口半税)として従価2.5%,を納める(内地釐金(りきん)税の支払いは不要)。(d)アヘン(洋薬と呼び換えた)輸入を認め,100斤につき銀30両を輸入税とした。以上,天津条約および通商章程の締結により,イギリスは,中国に通商上,外交上,宗教上の要求を承認させ,不平等条約関係が形づくられた。
なお,1885年4月の朝鮮問題に関する日清間での条約もある。朝鮮の甲申政変の結果,日朝間で漢城条約を結んだのに対し(1885年1月),天津において伊藤博文と李鴻章のあいだで締結され,朝鮮からの日清両国軍隊の撤兵,両国軍事教官派遣の停止,朝鮮出兵の際の相互事前通告などを決めた。これによって朝鮮出兵に関して日清両国の立場は対等になった。 浜下 武志
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日清戦争
にっしんせんそう
1894年(明治27)から翌年にかけての日本と中国(清朝)との戦争。明治二十七・八年戦役ともいう。中国では甲午中日戦争と称する。
[戦争の期間] 日清両国の正規軍が戦闘を開始したのは1894年7月25日(宣戦布告は8月1日)で,講和条約が発効して日清両国の関係が回復したのは95年5月8日であり,国際法上の日清戦争の期間はこの約9ヵ月間である。しかし日本軍が外地で軍事行動をとったのは,朝鮮王宮を攻撃して朝鮮国軍を撃破,朝鮮政府を親日派に交代させた1894年7月23日に始まる。また日本が戦時大本営条例による大本営を設置して,戦時状態に移行したのはそれよりさらに以前の6月5日であった。講和発効後も講和条約で日本に割譲された台湾の軍民は日本の占領を認めず武力で抵抗したから,日本の軍事行動は公式にも95年11月18日の台湾鎮定宣言までつづき,大本営復員による日本の平時状態への復帰は翌96年4月1日である。以上のように戦争期間が不明確な理由は,日清戦争が次の三つの戦争の複合だったからである。(1)朝鮮に対する宗主権の維持をはかる清国を朝鮮から排除して,朝鮮を保護下におこうとした日清間の武力紛争,(2)その目的を達成したのち日本が戦場を旅順,威海衛,澎湖島という東アジアの戦略要地にひろげたために生起した中国分割をめぐる列強との紛争,(3)朝鮮,中国東北,台湾など日本占領地域における民族的抵抗を抑圧するための朝鮮国や台湾民主国に対する民族抑圧戦争。(1)は国際法上の戦争であり,(2)はロシア,ドイツ,フランス3国の武力干渉を誘発しながら日本が屈服したために未発に終わった帝国主義戦争であり,(3)は事実上の戦争でありながら,事変もしくは内戦とされたものである。
[戦争の原因] 清国は壬午(じんご)軍乱(1882)以後従来の朝鮮との宗属関係を事実上の保護属邦関係に変ずるとともに,日本を想定敵国として北洋艦隊とその根拠地である旅順軍港を建設し日本を威圧しようとした。これに対し日本は朝鮮を食糧と資源の供給地としてだけでなく大陸膨張の基地として支配下におこうとした。山県有朋首相は第1帝国議会冒頭の施政方針演説で朝鮮を利益線と規定し,日本が存立するために不可欠で,他国の進出を許すことはできぬ地域と強調した。このため日本は6個師団の野戦軍と快速巡洋艦を中心とする新式艦隊を組織し,1893年4月には川上操六参謀本部次長に清国,朝鮮を視察させ,5月には戦時大本営条例を制定して開戦に備えた。当時,朝鮮問題とならぶ日本の重要な外交目標は,不平等条約を改正することにより欧米諸国に対等な主権国家として承認させることであったが,ロシアの東アジア進出により脅威をうけたイギリスが日本に接近してきたため,成功の可能性が高まった。陸奥宗光外相はこの情勢をとらえて改正交渉を進めたが,世論は完全な対等条約の一挙実現をのぞむ一方,居留地制度撤廃にともなう内地雑居をおそれ,政府を軟弱外交と批判する対外硬派を支持した。政府は対外硬派提案の条約励行建議案可決が排外主義を高進させ,対英交渉を挫折させることをおそれて衆議院を解散した。しかし,その結果反政府熱はかえって高まった。
朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。
[開戦外交] 金暗殺事件は日本の世論を激高させ,対外硬派は政府批判を強めて,5月末日内閣弾劾上奏案を衆議院に提出・可決した。日本政府は深刻な危機に直面した。同じころ参謀本部は清国が反乱鎮定のため出兵すると判断し,その場合は日清両国勢力の均衡を維持するため日本も出兵すると決定した。6月2日全羅道の首邑全州が反乱軍の手中に帰し,朝鮮政府が清国に援兵を請うたという急報を受けると,日本政府は反政府熱を外に向ける好機とみて衆議院の解散と公使館および居留民保護を名目とする混成旅団の派遣を決定し,まだ宣戦布告もなく戦時になっていないのに,5日には派遣軍統轄のために大本営を設置し,これで作戦用兵については軍が全権を握り政府の容喙(ようかい)を許さないことになった。10日日本軍は仁川に上陸したが,日清両軍の出兵をまえに農民軍は政府と和約し全州から撤兵していたため,すでに出兵理由は消滅していた。清国代表袁世凱は日清両軍の同時撤兵を提案し,大鳥圭介公使もそれに同意して本国に増兵の中止を上申したが,無為の撤兵が反政府運動を再燃させる危惧と作戦用兵権が大本営設置により政府の手から脱していたことなどから,政府は既定の派兵計画を変更できなかった。陸奥外相は駐兵継続の理由を得るために朝鮮内政の日清共同改革を提案し,清国が拒絶したときは清国を排除して日本が単独で改革を実行すると決定した。日本は政治的に受身の姿勢をとりつつ増兵をつづけ,軍事的優勢を確保して開戦の時期をうかがった。これに対し外戦の準備のできていなかった清国では実権を握る西太后と李鴻章は,戦争の回避に努め,〈以夷制夷〉策をとりロシアに調停を依頼した。ロシアは日本に撤兵を勧告したが,ロシアの干渉が戦争の決意に裏づけられていないと見ぬいた日本は干渉を逆手にとって英清離間を策しつつイギリスとの条約改正交渉を有利にすすめ,7月16日ロンドンで改正条約(日英通商航海条約)の調印に成功した。これでイギリスの支持を確保した日本は翌17日御前会議を開き,朝鮮と中国にそれぞれ22日と24日を期限とする最後通牒を送ることを決めた。
[戦争の経過] 朝鮮に対する回答期限が満ちた7月23日早暁,日本軍は朝鮮王宮を守備する朝鮮軍と交戦し閔派政府を倒して大院君を執政とする親日政権を樹立し,暫定合同条款締結のほか清国との条約廃棄を強要し,清軍攻撃の口実をえた。同日日本艦隊は出撃し,25日,牙山に清兵を輸送中のイギリス船籍の商船高陞(こうしよう)号を撃沈,護衛艦を撃破した(豊島沖海戦)。増援軍海没のため劣勢の清国軍は29日成歓でも敗北した。海陸の勝利をおさめた日本は8月1日,朝鮮の独立維持を戦争目的とした宣戦の詔勅を布告したが,閣議は他方で事実上は朝鮮を保護国とする方針を決め,鉄道,電信,鉱山の利権獲得をはかった。9月15日大本営は天皇親率のもと広島に進出し,国民に長期戦の決意を示した。翌16日の平壌攻略により全朝鮮を制圧し,17日の世界最初の汽走艦隊の海戦である黄海海戦に勝利して黄海の制海権を握ると,大本営は中国本土に侵入を指示し,戦争は中国分割戦争に転じた。天皇は開戦から復員まで87回にわたり大本営御前会議を催し,終始積極的に戦争を指導した。イギリスは戦火の拡大が貿易を混乱させることをおそれ,朝鮮独立の保障と戦費賠償の2条件で日本に講和を勧告したが,政戦両略を一致させるためとくに大本営に列することを許された伊藤博文首相は,即時講和と陸軍の主張する北京攻略にともに反対し,威海衛攻略による残存清国艦隊の全滅と台湾進攻を進めて講和条件を有利にせよと主張した。日本が戦争目的を転じた結果民衆の抵抗が激化すると,日本軍は旅順で住民虐殺事件を起こし,朝鮮でも抗日反乱が再起した。
[講和と三国干渉] 清国はたび重なる敗戦により講和を望み使節を派遣したが,占領地域が不十分なため講和はなお時期尚早とみた日本は全権委任状の不備を理由に交渉を拒否,李鴻章の任命をまって3月20日下関春帆楼で講和会議を開いた。会議は日本が過大な条件を固守したため難航したが,李全権を狙撃・重傷を負わせる事件が起こり,国際世論の非難をおそれた日本の条件緩和をへて4月17日調印をみた。この講和条約は下関条約といわれるが,その内容は,(1)朝鮮の独立承認,(2)遼東半島,台湾,澎湖諸島の割譲,(3)軍費賠償金2億両(約3億円)の支払い,(4)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権を日本に認める新条約の締結,などであった。通商上の特権中にはイギリスが希望していた開港場における製造業従事権が含まれているが,これは予想されるロシアの干渉にイギリスの参加を阻止する含みから挿入されたといわれる。日本が中国の心臓部に分割の刃をいれ遼東半島を割取したとき,列強はまだ中国分割の準備が整っていなかったことから,日本を抑えて分割を先にのばす道を選び,4月23日ロシア,ドイツ,フランスは武力を背景に日本に遼東半島の還付を勧告した(三国干渉)。ドイツはロシアが東アジアに鉾先を向ければ東方国境が安全となり露仏同盟に〈くさび〉を打ち込めるとみて同意した。東アジア情勢がヨーロッパ政局に緊密に結合するという帝国主義時代の特徴があらわとなった。そこで陸奥外相はイギリス,アメリカ,イタリア3国を後援として三国干渉に対抗しようとしたが,イギリスの拒否により,5月4日遼東還付を余儀なくさせられた。戦争の軍事的勝利にもかかわらず,戦争目的の重要部分を達成できなかったことで,国民は深刻な挫折を味わった。政府は民間に燃え上がった遼東還付の責任論を国力不足にすりかえ,〈臥薪嘗胆(がしんしようたん)〉のスローガンのもとで,国民を対露報復とそのための軍備拡張に動員した。
[台湾占領と朝鮮支配] 日本は朝鮮から清国を排除したが,日本は朝鮮を単独で支配するだけの資本輸出能力をもっていなかった。強大なロシアの進出を阻止するために陸奥外相は朝鮮に列強の利権を引き入れようとしたが,陸軍が撤兵と朝鮮の開放に反対したため,民衆の抗日運動(義兵闘争)はひろがり日本の影響力は減退した。中国から割取した台湾で住民は日本の領有に反対し,1895年5月25日台湾民主国(大総統唐景館,副総統兼義勇統領邱灯甲)を設立した。このため日本は台湾に5万の陸兵と艦隊を送り込み,5000人の死者と1万7000人の病者の犠牲を払い,4ヵ月の戦闘後ようやく全土占領を宣言したが,抗日武装闘争はつづいた。
清国から流入した遼東還付の代償金を含めた約3億5000万円の償金はロシアを標的とする軍備拡張のための戦後10年計画の資金となり,また日本を国際金融市場に登場させるために不可欠な金本位制の基金となった。軍隊の先頭に立って戦勝を導いた明治天皇制は日清戦争の勝利で社会的基盤を確立した。日本は戦後,中国への地理的近接性と相対的に強力な軍事力で資本の不足を補いつつ列強に伍して中国分割競争に参加した。一方,清国は敗戦によって弱体性を暴露し,さらに償金支払いのための巨額な借款によって列強からつぎつぎと利権をむしり取られ,急速に植民地化を深めた。こうして日清戦争は東アジアにおける帝国主義時代の開幕を決定した。
藤村 道生
【日清戦後経営】
日本は,日清戦争で軍事的勝利をおさめたものの,たちまちロシア,フランス,ドイツによる三国干渉(1895年4月23日)にあって,遼東半島を返還せざるをえなかった。この三国干渉は,世界がすでにバランス・オブ・パワーの帝国主義の時代に入っていることを日本の支配層に思い知らせた。こうして,1895年4,5月ころを境に〈戦後経営〉という言葉が,政界,軍部,財界,ジャーナリズムなどで盛んに使用されるようになった。〈戦後経営〉とは,一言にしていえば来るべき対露戦に備えての日本社会の帝国主義的編成替えの総体を指すが,具体的には軍備拡張,殖産興業,教育の振興,植民地経営の四つを基本的な柱としていた。
〈戦後経営〉の基軸は,軍備拡張であった。陸軍大臣山県有朋はロシアを仮想敵国として,攻撃的軍事力を飛躍的に増強する必要を説いた。この主張にもとづいて,陸軍では,従来の6師団から12師団への増強,騎兵および砲兵各2旅団の増設,砲台建設と兵器の製造・改良を骨子とする軍拡計画が作成された。また海軍では,甲鉄艦隊を主体とする主力艦隊と巡洋艦,駆逐艦,水雷艇による補助隊の拡張計画が作成された。しかし,この拡張計画を実現するためには陸軍で約9000万円(8ヵ年計画),海軍で約2億1300万円(10ヵ年計画)の巨費を必要とした。この巨額の財源をだれの負担において,いかに調達するかが大問題となった。
戦後財政計画を担当したのは大蔵省である。松方正義,阪谷芳郎らの大蔵官僚は軍部と異なって,軍拡に応じられるだけの国力の発達,民力の培養に重点をおいた。官営八幡製鉄所の建設,鉄道・電話の拡充,勧業銀行・農工銀行の創設などが大蔵省の構想にもとづいて行われた。また金子堅太郎を中心とする農商務省も商工立国論を唱え,綿糸,生糸,茶などの輸出産業の振興策を打ち出した。教育の面では,官界・財界への人材養成機関として,東京とは別個に京都に帝国大学が設立(1897)され,実業教育の拡充もはかられた(1902年,東京高等商業学校(一橋大学の前身)の拡充改組)。
第4の柱である台湾経営については,台湾領有後,日本は台湾人による武装抗日運動に直面した。日本政府の台湾出兵費・総督府民政費は膨張し,財政危機をまねいた。日本政府は地租,酒税などの増税によって,この財政危機をのりきろうとしたが,地主勢力の激しい抵抗にあって何度も内閣が倒れるという事態がつづいた。結局,1899年,第2次山県有朋内閣が増税を実現したが,台湾領有は政局不安定の要因とさえなったのである。反抗鎮圧後,日本政府は海運・鉄道網を整備したり,99年には台湾銀行を設置した。また台湾のショウノウ・砂糖取引をめざして,日本資本が台湾へ進出していった。こうして,〈戦後経営〉は日本資本主義の帝国主義への転化を促す契機となったのである。 中村 政則
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東郷平八郎 1847‐1934(弘化4‐昭和9)
とうごうへいはちろう
明治・大正期の海軍軍人,元帥。醍摩藩士の家に生まれ,醍英戦争,戊辰戦争に参加,1871年(明治4)イギリスに留学,78年帰国して海軍中尉に任官,90年呉鎮守府参謀長,日清戦争時は浪速艦長,95年以降常備艦隊司令長官,舞鶴鎮守府司令長官となり,1903年12月第1艦隊兼連合艦隊司令長官に就任。05年5月日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利し,一躍名将としての名をあげた。日露戦後,07年大勲位,功一級を与えられ伯爵,13年元帥となった。14年から東宮御学問所総裁を務めた。30年ロンドン軍縮条約承認反対の立場をとった。死去に際し侯爵となり,国葬を執行された。 原田 勝正
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日露戦争
にちろせんそう
1904‐05年(明治37‐38)に日本とロシア両国が朝鮮(大韓帝国),満州(現,中国東北部)に対する支配をめぐって戦った戦争。両国の背後には,英米,仏独など諸列強の帝国主義的利害の対立があったため,戦費の調達や講和などに各国の利害や思惑がからみ,他方,新興国日本の大国ロシアへの挑戦として世界の注目を集めた。明治三十七・八年の役ともいう。
[前史] 日清戦争が日本の勝利に終わり,日本が講和条約で遼東半島を獲得すると,ロシアは同盟国フランスとロシアの関心がアジアに向けられていることを期待するドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させた。こうして列強による中国分割競争が開始され,1898年のドイツの膠州湾(こうしゆうわん)租借を契機に,ロシアも旅順,大連を租借して満州の一角に進出した。さらにシベリア鉄道の建設に並行して東支鉄道(東清鉄道)の敷設権を獲得し満州への侵略行動を具体化させ,他方,韓国政府内にも日本に代わって影響力を強めた。日本は朝鮮への経済的進出をはかるためにロシアとの交渉を必要とし,1896年の山県=ロバノフ協定,98年の西=ローゼン協定などを締結した。
1900年義和団の乱が起こると,ロシアは満州における鉄道利権などの保護を名目に大軍を投入し,事実上,この地域を占領,義和団の乱が終息した後も占領状態を続けた。一方,日本は連合軍の一翼を担って大軍を派遣し,義和団の鎮圧により〈極東の憲兵〉としての有効な軍事力たることを実証した。このいわゆる北清事変以後,日本政府内には,東アジアで安定した国際的地位を確立するためイギリスとの接近をはかろうとする日英同盟論と,ロシアとの妥協により極東の平和を維持しようとする日露協商論とが台頭した。元老山県有朋や外相小村寿太郎らはロシアへの不信から前者を主張し,他方,元老伊藤博文,井上馨らは現実的な解決策として後者を推進しようとした。これ以後,政府が進める日英交渉が進展し,02年1月日英同盟条約が調印された。日本は,日清戦争後の複雑な極東情勢のなかでイギリスとの同盟関係を成立させることで初めてロシアに対抗する地位を確保することができ,他方イギリスは,日本の軍事力を,中国をはじめ東アジア全域における自国の権益を擁護し,同時にロシアの極東進出に対する抑止力として利用しようとしたのである。
[開戦外交] 日英同盟の成立によってロシアは満州占領政策を修正し,1902年4月露清条約を締結して,同年10月以降,3期に分けて満州から撤兵することを約した。こうして,一時的な平和が維持できる間に日本は,朝鮮,満州での利権を拡大強化しようとしたが,03年4月の第2次撤兵をロシアが実行しなかったため,日本政府は対露交渉の基本方針を決定することが必要になった。それはまず,清,韓両国の独立と領土保全,両国における商工業上の機会均等の原則を掲げ,ロシアが韓国における日本の経済活動の自由のほか,韓国の改革のため日本の助言と援助,さらに内乱勃発の際における日本の軍隊派遣を認め,他方,日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益と内乱勃発時に満州へのロシアの軍隊派遣を認めるというものであった。このいわゆる満韓交換論を基礎にして,日本は7月以降対露交渉を開始した。10月にロシア側の対案がもたらされたが,その内容は日本の韓国への助言・援助を民政だけに限定し,韓国領土内の軍事上の目的での使用や朝鮮海峡の韓国側沿岸に軍事工事を施すことは認めず,さらに北緯39ツ 以北の韓国領土に中立地帯を設けることなどを提案してきた。こうして韓国における日本の活動や施設を制限する一方で,満州は日本の利益範囲外であるとして,この地域への日本の発言権をいっさい認めようとしなかった。
これに対し日本の第1次修正案は,韓国については第1次提案とほぼ同じ内容であり,ただ満韓国境の両側に幅50kmの中立地帯を設け,日本は満州におけるロシアの特殊利益を認め,韓国についてはロシアの特殊利益外とすることを提案した。12月のロシア側の第2次修正案は,第1次対案とあまり変わらず,中立地帯案ももとのままで,満州についてはいっさい言及せずして日本側の発言権を認めない立場を堅持した。それに対し日本は,第2次修正案を提出して日本の対韓援助は行政を改革する助言とし,朝鮮海峡の韓国側沿岸での軍事工事は行わず,中立地帯も設けないこととしたが,翌04年1月のロシア側の回答は,韓国領土内での軍事工事をいっさい認めず,中立地帯案はそのままであった。そして,1月の日本側最終提案は,韓国およびその沿岸はロシアの利益外であることをロシア側が承認し,日本は満州におけるロシアの特殊利益を認めるとする相互的な協約にすることを提案した。そしてロシア側に回答期限を照会したが,ロシアはその期限を明示せず,1月下旬には南満州から鴨緑江(おうりよつこう)に軍隊を集中しているとの情報が日本政府に伝えられた。
一方,ロシアは1900年義和団の乱を契機に対満州政策を積極化させていたが,02年ころから蔵相ウィッテら穏健派の発言力が後退し,代わって退役近衛軍人 A. M. ベゾブラーゾフを中心とするグループが実権を握り,03年4月の第2次撤兵を実行しなかったばかりか,7月以後の日露交渉においても強硬路線をとることになった。8月には極東総督府が設置され,強硬派の E. I. アレクセーエフが総督に就任して極東政策全体を統轄し,対日交渉をも担当するにいたった。一方,ウィッテが蔵相を免職となり閑職に退けられたことは,ロシア政府の主導権が主戦派に移ったことを意味し,日露両国の交渉は妥協点を見いだせぬまま推移した。
この間,ロシアの第2次満州撤兵不履行を契機に陸海軍や外務省の中堅幹部,東京帝国大学教授らのいわゆる七博士などが対露強硬意見を主張して政府首脳に圧力をかけ(七博士建白事件),8月には対露同志会が結成されて開戦世論を薩(あお)った。他方,幸徳秋水,堺利彦ら社会主義者やキリスト者内村鑑三らは非戦論を唱えた。しかし,10月8日のロシアの第3次撤兵不履行を契機に世論は全面的に主戦論に転じ,《万朝報》を拠点に非戦論を展開してきた幸徳,堺,内村らは退社を余儀なくされ,11月幸徳らは《平民新聞》を創刊して非戦と社会主義の立場から政府批判を続けることになった。
[戦局の展開] 日本の陸海軍は,1903年12月には開戦準備に着手し,翌年1月には慎重な態度をとってきた元老層も開戦を決意した。2月8日連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し,同日陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始してここに日露戦争の戦端が開かれ,さらに10日日本はロシアに宣戦を布告した。陸軍部隊は韓国領内を北上し,5月鴨緑江を渡った最初の戦闘でロシア軍を敗退させ,また南山の戦でも激戦の末に優位を占めた。6月に満州軍総司令部が編成され,総司令官に大山巌,総参謀長に児玉源太郎を任命し,その下に第1軍から第4軍が統轄されることになった。8月末から9月初めの遼陽の戦は,日露両軍が総力を結集した戦闘となり,双方ともに2万名以上の損害を出すという激戦となり,ここでもロシア軍は後退したが,日本軍の被った打撃も深刻なものがあった。他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。3月の奉天会戦も日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となり,日本側にとってこれ以上戦争を継続することは,軍事力のうえでも,戦費負担の面でも限界をこえるものになっていた。
この間,連合艦隊は旅順港口を封鎖してロシア艦隊の活動を抑制していたが,ロシアがバルチック艦隊を東航させたため,それとの決戦に備える必要から旅順の早期占領を要請した。1905年5月対馬海峡沖での日本海海戦で,東郷平八郎が率いる連合艦隊は圧倒的な勝利を収め,戦局全体の帰趨を決めることになった。
[戦時体制の強化] 日露戦争は軍や財政当局の予想をこえる消耗戦となった。20億円近い戦費は大々的な増税と内外の国債とに依存し,その財政負担と100万人近い兵員の動員と大量の軍需品の調達は国力の限度をこえるものであった。開戦とともに各政党は挙国一致のスローガンの下に,巨額の軍事費と関係諸法案を成立させた。非常特別税と呼ばれた各種増税と4億8000余万円の巨額の内国債を負担するため,各行政機関は勤倹貯蓄を奨励し,納税と国債への応募を勧奨した。さらに各市町村は戦時記念事業を奨励し,植林や開墾事業,耕地整理,養魚場・製糸場の設立など,多様な事業の推進を図るとともに,兵事義会,尚武会,青年団,処女会などによる出征兵士の家族や遺家族の援護,傷病兵の慰問,恤兵金(じゆつぺいきん)の募金活動などを推進した。また学校行事などを通じて戦時下における教師・生徒の心得などが説かれ,国民生活は全面的に戦時体制の下に統制され,総力戦的な様相を呈するにいたった。そして戦争の展開とともに政府への批判は弾圧され,政府の国債政策を批判した《二六新報》が廃刊に追い込まれ,非戦論を展開してきた《平民新聞》が発売禁止になり,05年1月には廃刊を余儀なくされた。開戦後も活動を続けてきた社会主義協会も04年11月には結社禁止となった。
一方,ロシアは開戦前から都市における労働者の運動が活発化しており,農村でも一揆が頻発していた。社会主義政党を中心とする反体制運動も広がっており,反戦運動も活発に展開されていた。開戦後も,相次ぐ敗報に加えて,戦争にともなう生活困窮と労働者や農民に対する軍事動員は,ロシア民衆の中に不満を鬱積(うつせき)させることになり,1904年12月にはバクーの石油労働者がゼネストを引き起こした。翌05年1月の血の日曜日事件を契機にロシア第一革命が勃発し,皇帝やその側近の強気の戦争継続論にもかかわらず,国内の革命運動を抑圧するためには講和の締結が必至となった。
また,日本の同盟国イギリスとともに日本の外債募集を引き受けてきたアメリカは,これ以上に日本が勝利することを望まず,他方,ロシアの同盟国フランスや巨額の外債を引き受けてきたドイツもロシアの崩壊を危惧して講和の斡旋にのりだした。ここに,日露両国の背後にあった諸列強は,それぞれの思惑から早期講和に意見が一致することになった。
[講和] 講和問題について日本は早くからその機会をうかがっていたが,1905年3月の奉天会戦以後,アメリカ大統領 T. ローズベルトを通じてロシア側の意向打診にのりだした。ロシア側も5月の日本海海戦の決定的敗北を契機にアメリカ大統領の講和勧告に応じるにいたり,7月日本側全権に外相小村寿太郎,駐米公使高平小五郎が,ロシア側全権にウィッテと駐米大使ローゼンが任命された。アメリカのポーツマスで8月10日から講和会議が開かれ,29日まで十数回の会談が続けられた。日本側が要求した賠償金と領土割譲をロシア側は受け入れず,交渉は難航したが,最終段階でロシア側が譲歩して決着がつけられ,9月5日両国全権の間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。その内容は,ロシアが日本の韓国に対するいっさいの指導権を承認し,旅順,大連の租借権と長春以南の鉄道ならびに付属利権を日本に譲渡すること,さらに北緯50ツ 以南の樺太を割譲し,沿海州とカムチャツカにおける日本の漁業権を認めるというものであった。
[講和反対論] この講和問題が具体化したころから日本国内ではさまざまな講和論が盛んになり,各地で集会が開かれ,決議や宣言書が政府あてに送られた。7月には講和問題同志連合会が結成され,中途半端な講和に反対し強硬論を唱えて全国的に運動を起こし,9月に入ると各新聞は講和反対の主張を掲げた。調印の日の9月5日東京の日比谷公園で開催された同志連合会主催の国民大会は講和条約の破棄を決議し,大会参加者の一部は街頭に出て,各所で警官隊と衝突,政府系新聞を襲撃し,内務大臣官邸や警察署,交番,電車,教会などをつぎつぎと焼き打ちした。7日にかけて市民による騒擾(そうじよう)は続き,政府は6日東京市と府下5郡に戒厳令をしき,政府批判の新聞・雑誌を発禁や停刊処分とした(日比谷焼打事件)。このほか講和反対の運動は,20日ごろまで全国各地で大会や演説会を開いて決議や宣言を発し,神戸市や横浜市では民衆が暴動化した。
日露戦争は日露両国のいずれにとっても大きな犠牲をともなう戦争となったが,いちおう日本の勝利という形で講和にこぎつけたため,戦争の第1の目的であった日本の朝鮮支配は英米両国も含めて国際的な承認を受けることになり,これ以後,朝鮮の植民地化が本格的に推し進められることになった(日韓保護条約)。また,満州におけるロシアの利権が日本に譲渡されることによって,日本の勢力がこの地域にも拡大し,その独占的支配が強化された。そのためこの地域の門戸開放へのアメリカの期待が裏切られることになり,日米両国間の対立関係が顕在化するにいたった。そうした新しい国際情勢のなかで,日本はアジアにおける強国の一員に成り上がることが要請され,軍備の増強を中心に日露戦後経営を推進することになった。また,中国における民族運動や朝鮮の独立運動(義兵闘争,愛国啓蒙運動)が展開され,日露戦争後の東アジアにおける国際情勢はいっそう複雑な要因が加わることになった。
宇野 俊一
【日露戦後経営】
日露戦争後の軍事・外交・経済政策を中心とする最高の国策方針をいう。日露戦争後最初の第22議会から第24議会の第1次西園寺公望内閣,第25議会から第27議会の第2次桂太郎内閣にいたる,いわゆる〈桂園時代〉の前半期を日露戦後経営期と呼ぶことができる。日露戦後経営の基本的な内容は,(1)軍備拡張,(2)満州,朝鮮,台湾,樺太などの植民地経営,(3)財政・外債整理,(4)鉄道国有,製鉄所・電話事業の拡張,治水事業の確立などの産業基盤の育成,(5)地方改良運動,戊申詔書,在郷軍人会,教育改革などを中心とする政治的・イデオロギー的国民統合,の五つに要約できる。
日露戦後経営の基軸は,日清戦後経営と同様に軍備拡張であった。1907年度から12年にいたる陸軍軍備拡張費は約1億7500万円,海軍のそれは約4億3400万円,両者合計では実に6億0900万円の巨額に達した。これにより陸軍の師団編成は,19師団,平時現員約25万人,戦時兵員約200万人にまで大増員された。海軍の軍拡は陸軍のそれをさらに上回り,主力艦隊をすべて艦齢8年未満の戦艦8,巡洋戦艦8を基幹とする八八艦隊の建艦計画が策定された。この大軍拡の背景には,アメリカ,ソ連との対立および植民地朝鮮,満州における民族的抵抗運動の高まりがあった。しかし,この軍備拡張と植民地支配の強化は,日露戦争後の国家財政にとって大きな負担となった。一方で,日露戦争時の外国からの借金=外債を整理しつつ,他方で軍拡を推し進めていくためには,国力の充実を図らなければならない。かくして鉄道国有,八幡製鉄所の拡張,電信電話の拡張,海運・造船の奨励,治水事業,北海道開拓などの産業基盤の整備・拡充が日露戦争後の重点政策となった。それとともに陸海軍の大拡張は,国民生活に深刻な負担を強いることとなった。とくに農村は大量の基幹労働力を兵士として引き抜かれたため,大きな打撃を受けた。この農村の動揺をしずめ,他方で,日本軍国主義を支える〈良民良兵〉を確保するために,国民の軍事的組織化が急速にすすんだ。在郷軍人会の設立,青年団の奨励と官製化,小学校義務教育の6年制への延長および地方改良運動の推進は,いずれも天皇制国家のもとへ国民を政治的・イデオロギー的に統合する役割を担うものであった。こうして,日露戦後経営は,日本社会の帝国主義的編成替えを完了させる画期となった。 中村 政則
【ロシアにおける日露戦争】
西欧を志向していた近代ロシアにとって,19世紀の日本はほとんど関心をひかない小国であった。政府上層部が日本に着目するようになるのは,日清戦争とそれにつづく,いわゆる三国干渉以降のことであり,民衆の多くは戦争が始まってようやく日本という名を知るにいたった。日本・ロシア両帝国主義の極東での対立が戦争となるが,ロシア内部にはベゾブラーゾフ AleksandrMikhailovich Bezobrazov(1855‐?)らの強硬派とウィッテらの穏健派の対立を含みながら,日本軽視という点では共通していた。1904年2月8日,仁川,旅順での日本軍の奇襲攻撃で戦争が始まり,ツァーリは開戦の詔勅で,宣戦布告なしの日本軍の攻撃の背信性を強調し,民衆の戦争協力を訴えたが,民衆には遠い極東の国外における知らない国との戦いであり,その正当性には説得力が乏しかった。当初から日露戦争は近代ロシア史上最も不人気な戦争だった。
ドイツ,オーストリアとの戦争に備えていたロシア軍部には,極東での戦争に備えた,練りあげた作戦計画もなかった。ロシア側は,配備不十分な兵力で戦争をむかえ,退却しながら時をかせぎ,ヨーロッパ・ロシアからの増援部隊の来着を得て,数的に優勢になってから日本軍に反撃するという基本戦略をたてた。そのため,唯一の輸送手段たる長大,単線のシベリア鉄道での輸送に全力をあげた。しかし,ロシア軍の相つぐ敗報は,国内の不満,政府批判をしだいに高め,とくに05年1月の〈血の日曜日事件〉以後,民心の離反は決定的となった。開戦時から戦争に反対していた社会主義者の民衆への影響力は大きくなった。苦境に立った政府には戦勝が必要だったが,3月にムクデン(瀋陽)で敗れ,バルチック艦隊も壊滅し,その直後の御前会議で国内治安の回復が最重要だとして戦争終結の方針がうちだされた。日露戦争は05年のロシア革命の引金となるとともに,日本に対するロシア人のイメージの多くがつくられた戦争でもあった。 広瀬 健夫
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秋山真之 1868‐1918(明治1‐大正7)
あきやまさねゆき
明治・大正期の海軍軍人。愛媛県松山出身。陸軍大将秋山好古の弟。1896年軍令部諜報課課員となり,アメリカ,イギリスに駐在し,のち軍務局第1課課員,海軍大学校教官を歴任。日露戦争では連合艦隊作戦参謀として各海戦の作戦を指揮した。第1次世界大戦では海軍省軍務局長として活躍。1917年中将。海軍きっての戦略家として知られた。 粟屋 憲太郎
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八八艦隊
はちはちかんたい
1907年制定された帝国国防方針にもとづく,戦艦8隻,装甲巡洋艦(のちに巡洋戦艦と改称)8隻を主力とする日本海軍の建艦計画。計画完成には膨大な費用を要するため,段階的な実現がはかられたが,13年のシーメンス事件で一頓挫し,ようやく17年八四艦隊案,18年八六艦隊案の予算が議会で成立し,20年原敬内閣のもとで全面実現をめざす予算が実現した。これによると,27年度までに〈長門,陸奥,加賀,土佐,紀伊,尾張,第11・12号戦艦〉と〈天城,赤城,高雄,愛宕,第8~11号巡洋戦艦〉を保有する予定であったが,1921年のワシントン軍縮会議(四ヵ国条約)の結果,中絶し,戦艦の長門,陸奥と,航空母艦に転換された赤城,加賀のみがつくられた。 粟屋 憲太郎
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ワシントン体制
ワシントンたいせい
第1次世界大戦後,西方におけるベルサイユ体制と対応し,東アジア・太平洋地域に樹立された国際秩序。ワシントン会議(1921年11月~22年2月)で成立した諸条約・決議を基礎としたのでこの名がある。
[背景] 第1次大戦は東アジア国際関係に大きな変化をもたらし,とくに日本の大陸進出は著しかった。戦後,日本がこの地歩を維持しようとする一方で,ヨーロッパ列強は勢力回復をめざし,戦勝国の一員となった中国は民族自決主義の台頭に力づけられて,大戦中日本に対して失った権益を回復しようとし,またアメリカは門戸開放政策を中心とする新秩序を,東アジアに樹立しようとしていた。以上の対立と並行して,列国とくに日米間には大戦末期以来海軍軍拡競争が進行中であり,各国の戦後復興にとって大きな負担となっていた。ここに W. G. ハーディング・アメリカ大統領は,軍備制限と東アジア・太平洋問題のための国際会議を提唱し,日本,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ポルトガル,中国の9ヵ国が参加することとなった。アメリカは,日本の中国進出の一支柱であった日英同盟が1921年に満期となることに着目し,これを終了させて新たな列国関係をつくり出すことを意図して,会議を提唱したのであった。
[日本の対応] 以上の背景から,日本では会議が日本封じ込めの性格をもつことをおそれる者が少なくなかった。しかし同盟国イギリスがかつての力を失って対米傾斜を強め,協約国ロシアをロシア革命で失っていた日本にとって,対米協調以外に外交的孤立を避ける道はなかった。しかも日本経済にとってアメリカとの貿易・資本関係は不可欠であった。ここに戦前からの対米協調論者であった原敬首相は,戦後の反軍国主義世論を背景に,可能な限り対米協調を貫く方針を樹立した。海軍大臣加藤友三郎,貴族院議長徳川家達,駐米大使幣原喜重郎の全権も,この方針で選ばれたものであった。原は会議直前に暗殺されたが,原の方針は続く高橋是清内閣にも引き継がれた。
[会議の成果] 軍備問題では,会議議長 C.E. ヒューズ・アメリカ国務長官の提案を基礎に,主力艦について10年間建造を中止し,既存艦の一部を廃棄し,保有総トン数の上限をアメリカとイギリス52万5000トン(5),日本31万5000トン(3),フランスとイタリア17万5000トン(1.67)に定めることを骨子とする海軍軍備制限五ヵ国条約が結ばれた。日本海軍の中には日米戦に備えて対米7割が不可欠であるとの意見が強かったが,加藤全権は日本の国力からみて対米戦は不可能と考え,これを抑えた。もっとも条約中には西太平洋での海軍基地増強禁止の規定があり,補助艦数制限の欠如とあいまって同地域での日本海軍の優位を高めた面もあり,条約は必ずしも日本にとって不利なものではなかった。
東アジア・太平洋問題については,太平洋に関する四ヵ国条約と中国に関する九ヵ国条約がおもな成果であった。前者によって日英同盟の終了,日米英仏協調体制の樹立が約され,また後者によって,軍事力を背景とする〈旧外交〉から,門戸開放政策を中心とする平和的経済主義的〈新外交〉への転換が約された。これに対応して日本は,山東権益を中国に返還し,満蒙借款における優先権等の放棄・二十一ヵ条要求中留保項目の放棄・シベリアからの撤兵を声明し,またアメリカが中国における日本の特殊地位を承認した石井=ランシング協定を廃棄することとした。しかしここでも,日本が最重視した満蒙権益の主要部分については暗黙の支持を与えるなど,アメリカは予想外に妥協的であった。つまりアメリカは対日抑制だけではなく,日本を含む列国協調体制の樹立を重視していたのであり,アメリカのこの態度と,日本における対米協調・平和的経済主義的外交論者の政治指導とが,ワシントン体制を可能としたのであった。
[崩壊] ワシントン体制は確かに東アジアと太平洋に新時代を画した。しかしそれは,在華外国権益の存在を前提とし,また中国と深い関係をもつソ連の参加を排除してつくられたものであった。つまり中国ナショナリズムもソ連も弱体であることが,その成立条件であった。しかし1920年代末には,中国国民党は中国統一を完成して国権回収を主張し,またソ連は政治的軍事的に無視しえぬ力となっていた。満蒙を対ソ国防上の〈生命線〉とみていた日本陸軍は,ここに,対米英協調から離脱してでも満蒙権益を擁護・強化すべきだとの主張を打ち出す。海軍においても,軍備制限条約以来補助艦建造に力を入れてきたことから,1930年ロンドン軍縮会議の補助艦制限に大きな不満をもち(統帥権干犯問題),ワシントン体制からの離脱を主張する勢力が力を増した。こうした背景に,日本は31年満州事変を引き起こし,さらに満州国建国・承認(1932),国際連盟脱退(1933),ワシントン海軍軍備制限条約廃棄通告(1934)によって,ワシントン体制を崩壊させたのである。 北岡 伸一
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八八艦隊
はちはちかんたい
1907年制定された帝国国防方針にもとづく,戦艦8隻,装甲巡洋艦(のちに巡洋戦艦と改称)8隻を主力とする日本海軍の建艦計画。計画完成には膨大な費用を要するため,段階的な実現がはかられたが,13年のシーメンス事件で一頓挫し,ようやく17年八四艦隊案,18年八六艦隊案の予算が議会で成立し,20年原敬内閣のもとで全面実現をめざす予算が実現した。これによると,27年度までに〈長門,陸奥,加賀,土佐,紀伊,尾張,第11・12号戦艦〉と〈天城,赤城,高雄,愛宕,第8~11号巡洋戦艦〉を保有する予定であったが,1921年のワシントン軍縮会議(四ヵ国条約)の結果,中絶し,戦艦の長門,陸奥と,航空母艦に転換された赤城,加賀のみがつくられた。 粟屋 憲太郎
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清浦奎吾 1850‐1942(嘉永3‐昭和17)
きようらけいご
官僚政治家。肥後国の僧侶の五男に生まれ,清浦家の養子となる。広瀬淡窓に漢学を学び1872年上京。埼玉県下級県吏を振り出しに,山県有朋の直系官僚として内務省警保局長,司法次官などを歴任,保安条例公布施行の局に当たった。その間91年貴族院議員に勅選。96年の第2次松方正義内閣の法相をはじめとし,第2次山県内閣法相,第1次桂太郎内閣の法・農商務相となる。1906年枢密顧問官。14年山本権兵衛内閣のあとを受け組閣に当たるが,海相を得られず断念。世にこれを鰻香(まんこう)内閣という。17年枢密院副議長となり,山県議長の意をうけ山県系の牙城としての枢密院をまとめ,22年山県死後,議長となる。虎の門事件で倒れた第2次山本内閣を受けて,24年1月貴族院を母体に組閣するが,第2次護憲運動が起こり,総選挙で護憲三派に衆議院を制せられ同年6月下野,その政治生命を終えた。28年伯爵となる。 伊藤 之雄
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原敬 1856‐1921(安政3‐大正10)
はらたかし
明治・大正期の政治家。盛岡藩重臣の次男。1871年(明治4)上京してカトリックの神父の学僕となり苦学。76年司法省法学校に入学,79年〈賄(まかない)征伐〉で退校,改進党系の《郵便報知新聞》記者となる。82年官僚派の《大東日報》主筆に転進。井上毅,井上馨に認められ同年外務省に入り,翌年天津領事として赴任,才腕を示し,85年パリ公使館書記官に転じた。89年,外相大隈重信をきらって農商務省に移り,陸奥宗光の知遇を受け,通商局長を経て,95年外務次官に進んだ。この間,外交官採用制度を確立,日清戦争時の陸奥外交を補佐した。96年公使として朝鮮に赴き,閔妃(びんひ)殺害事件のあとの日本勢力回復に努め,翌年大隈がまた外相となったのを機会に退官,大阪財界に迎えられて《大阪毎日新聞》社長に就任,読者を3倍に増やす経営手腕を発揮した。
このあと1900年政友会結成に参画,幹事長を経て第4次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任。翌年北浜銀行頭取,さらに05年には陸奥の親戚で井上馨が監督する古河鉱業の副社長になった。この間,02年盛岡市より代議士に選出,以来その死まで連続当選した。日露戦争中より桂太郎首相と戦後の政権授受につき交渉を進め,06年1月西園寺公望内閣を実現させ,内務大臣に就任。ついで11年8月成立の第2次西園寺内閣でも内相として入閣。12年末二個師団増設問題により内閣が倒れるまで,いわゆる桂園内閣時代において,松田正久とならぶ政友会の二大支柱の一人として活躍した。すなわち内務官僚の政友会接近を促進し,一方,鉄道・港湾事業により政友会の地盤を拡大し,政友会が衆議院議席の過半数を占めることに成功した。この勢力を背景に,抜群の交渉能力をもって藩閥勢力と取引し,他方では郡制廃止,小選挙区制法案などで藩閥勢力を脅かし,政友会の政治的地位を高めた。第1次護憲運動で桂内閣を倒したあと,第1次山本権兵衛内閣の内相となり,西園寺引退のあとを受けて14年6月政友会総裁に就任した。15年3月の第12回総選挙では第2次大隈内閣の野党として大敗を喫し第二党に転落したが,党内とりまとめにも手腕を発揮し,次の寺内正毅内閣では是々非々主義の立場を示しながらも外交調査会に参加するなど準与党の地位につき,17年4月の第13回総選挙で第一党に返り咲いた。
18年夏の米騒動では事態を静観し,寺内辞任のあとを受けて,政党政治家として最初の首相に指名され,陸・海・外3相を除く閣僚に政友会員をあてる最初の政党内閣を9月29日に組織した。世論は爵位をもたず衆議院に議席をもつ首相の初めての出現を〈平民宰相〉と呼んで歓呼して迎えた。第1次大戦以来の好況下における資本主義の急速な発展を背景に,国防の充実,教育の振興,産業の奨励,交通機関の整備の四大政綱を掲げて積極政策を推進し党勢の拡大に努め,第41議会で小選挙区制を実現し,第42議会を解散して政友会の絶対多数を実現した。この力を背景に,進歩的社会運動を抑圧し,普選即行,治安警察法改正などの要求を拒んだ。対外的にはイギリス,アメリカとの協調に努めつつ中国権益の維持をはかり,三・一運動を契機に植民地長官武官制を文武官併任に改めた。
第1次大戦後の階級闘争の激化におびえる藩閥官僚勢力は山県有朋以下原に依存し,貴族院の最大会派〈研究会〉は政友会と提携,内閣は貴衆両院に確固たる地盤をもつかつてない強力な存在となった。しかし力の政治にひそむ腐敗は,満鉄事件,アヘン事件など政友会関係者の疑獄事件になってあらわれ,前内閣以来のシベリア出兵も尼港事件で破綻を示し,民心は去った。ワシントン会議と戦後不況に直面して政策転換を模索中,1921年11月4日,政友会京都支部大会出席のため東京駅改札口(南口)にさしかかったとき,大塚駅員中岡艮一(こんいち)の短刀に刺されて死去した。盛岡市大慈寺に葬られる。第2次大戦後公刊された《原敬日記》(1965‐67)は明治・大正政治史の根本史料として著名である。 松尾 尊鵜
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クレマンソー 1841‐1929
Georges‐Benjamin Clemenceau
フランスの政治家。医学を学んだが,普仏戦争敗戦後,帝政崩壊の混乱期に,パリのモンマルトル区長として政界に入り,1871年下院議員に当選した。当時極左派とされた急進社会主義派に属し,〈フランス革命の完成〉を叫び,民主的共和制実現への努力を怠る〈日和見主義〉派諸内閣を〈議論の暴力〉とまでいわれた弁舌で倒壊させ,〈虎〉とあだ名されて恐れられた。また80年代後半のブーランジェ事件や90年代から1900年代にかけてのドレフュス事件では共和制防衛,人権の擁護に立ち上がった。ドレフュス事件に際して彼の新聞《オロール》(〈あけぼの〉の意)がゾラの〈余は弾劾す〉の一文をのせておおいに世論に訴えたことは有名である。一方,クレマンソーは彼の愛してやまぬ共和国フランスを守るには第1に軍備を強化すること,第2にフランス人がひとしく祖国愛にめざめて団結していることが必要と考えた。反軍・反戦主義者,社会主義者,過激な労働運動家に対しては徹底した敵意を抱き,1906‐09年にわたる彼の内閣は労働運動弾圧にのみ終始した感さえある。第1次大戦末期再び首相となったときも,和平運動を容赦なく抑圧した。大戦末期の17年11月,フランスは長期化した戦争に疲れ,戦線でも兵士が反戦・敗戦意識にとりつかれており,これ以上の戦争継続は不可能と思われた。このときクレマンソーを首相に起用したのが,保守主義者であったためにクレマンソーの政敵と目されていた大統領ポアンカレである。クレマンソーは〈余は戦う〉と宣言して峻烈な戦争指導を行った。腹心のフォッシュを参謀総長に任じて政界と統帥部との意志疎通を改善し,戦意に欠ける兵士を銃殺などの厳罰に処して戦線を立て直し,ついにフランスを勝利に導いた。しかしこのような独裁的なやり方は戦後のフランスには通用せず,20年大統領の座を争ったが,敗れ去り,その政治生活に幕をおろした。 石原 司
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財部彪 1867‐1949(慶応3‐昭和24)
たからべたけし
海軍大将。宮崎県出身で妻は山本権兵衛の娘。海軍兵学校,海軍大学校を卒業し,日清戦争では〈高雄〉分隊長,日露戦争では大本営海軍部の作戦参謀として活躍。1909年海軍次官となるが,14年のシーメンス事件の影響で一時待命。23年に加藤友三郎内閣の海相となり,以後,第2次山本権兵衛,加藤高明,第1次若槻礼次郎,浜口雄幸内閣の海相を歴任する。30年,ロンドン軍縮会議の全権として海軍部内の艦隊派など条約反対派の動きを抑えて条約を調印したが,帰国後辞職して軍事参議官となる。32年予備役となった。
粟屋 憲太郎
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加藤寛治 1870‐1939(明治3‐昭和14)
かとうひろはる
海軍軍人。福井の生れ。海軍兵学校(18期)卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では軍艦三笠の砲術長。1921‐22年にはワシントン会議随員となり,主力艦対米比率7割を主張して加藤友三郎全権と対立した。軍令部次長,連合艦隊司令長官をへて,27年大将,29年軍令部長に就任し,30年ロンドン海軍軍縮条約調印に際して,補助艦対米比率7割を強硬に要求して浜口雄幸内閣と対立,いったん黙認の態度をとったが,帷幄上奏(いあくじようそう)により不同意を表明,軍令部長を辞任した(統帥権干犯問題)。以後も艦隊派の統帥として条約派と対立しつつ,統帥権干犯,軍備拡充を唱え,ワシントン,ロンドン両条約廃棄の方向へ海軍を導いた。35年予備役となる。 江口 圭一
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シベリア出兵
シベリアしゅっぺい
1917年のロシア革命で成立したソビエト政権を打倒するための干渉戦争。最初シベリアへの共同軍事干渉計画をたてたのはフランス,イギリスで,日米両国軍によるシベリア鉄道の共同占領の必要や,ウラジオストクにある60万tの軍需品をドイツの手に渡さないために,日本軍を主力とする連合軍の兵力派遣を提議した。この提案をうけた日本側でも出兵論議が高まったが,日本政府の態度は連合国の出方を見守るという方針であった。革命直後から寺内正毅内閣は,ロシア革命の圧殺,東部シベリアへの日本の勢力拡大,中国本土への圧力強化を企図しており,とくに陸軍参謀本部では〈居留民の保護〉を名目に,沿海州から北満(中国東北)方面への日本軍派遣を計画していた。政府内の出兵賛成論者は元駐露大使の本野一郎外相で,これに反対したのは外交調査会のメンバーである原敬や牧野伸顕であり,ロシア革命の日本への影響を憂慮する寺内首相や元老山県有朋もアメリカの出方を重視し出兵には慎重であった。18年1月,日英両国は居留民保護のためウラジオストクへ軍艦を派遣した。たまたま同市の石戸商会が襲われ3名の日本人が殺傷される事件が発生(4月4日)すると,500余名の日本陸戦隊員は50名のイギリス陸戦隊員とともに同市警備の任についた。これが事実上のシベリアへの軍事干渉の第一歩である。
ソビエト政府は同年3月にドイツとブレスト・リトフスク条約を結び,第1次世界大戦の局面に大変化が生じた。大戦中オーストリアの支配下にあってロシア軍と戦ったチェコスロバキア軍の多くはロシアに投降し,ロシアではチェコ軍団として対ドイツ戦に使用されていた。革命後もチェコ軍はドイツと戦おうとし,シベリア経由でヨーロッパ戦線へ向かうこととなった。5月ウラル山中のチェリャビンスク駅でドイツ・オーストリア軍の俘虜とチェコ軍団との衝突事件がおこり,これがアメリカその他に,チェコ軍団がシベリア各地で殲滅(せんめつ)されかかっていると誇張して伝えられた。ウィルソン大統領はそれまでの態度を変えて日米共同でシベリアへ派兵する方針を示した。そしてウラジオストクに日米同数の各7000名の陸軍派遣,チェコ軍の救援目的を達成しだい撤兵することを日本に提議した。日本陸軍はアメリカの〈限定出兵〉提案を喜ばず〈自主出兵〉を貫こうとしたが,結局アメリカ提案に同意しながらも自主的行動をとる含みを残した妥協的回答を送った。アメリカは日本の出兵数は1万~1万2000以下であることを念を押した。こうして8月2日,日本は共同出兵の宣言(〈アメリカ合衆国の提議に応じシベリアにいるチェック軍(チェコ軍団)救援のために出兵する〉)を発し,12日に日本軍,19日にはアメリカ軍が,ウラジオストクに上陸を開始する。シベリア出兵は日本,アメリカのほかにイギリス,フランス,イタリアおよびカナダ,中国がそれぞれ小部隊を派遣して連合国による共同行動という形をとった。しかし共同行動はうまく運ばず,日本軍が緊急の救援を求めてもアメリカ軍はこれを傍観する事態も生じ,日本軍が日米間の合意を無視して大兵を派遣(10月中旬までに約7万3000を派兵)したのに対しアメリカはきびしく抗議した。なお日本軍はシベリア各地に存在した多くの反革命政権にてこ入れし,西シベリアのオムスクで生まれたコルチャーク政権は,一時は優勢で連合国も援助したが20年1月崩壊した。
この状況と干渉戦争批判の声に押されイギリス,フランスは干渉中止の方針を明らかにし,ついでアメリカもこれにならい,1920年1月9日出兵打切りの方針を日本に通告した。ところが日本は,居留民の生命財産の安全が保証されず,過激派の勢力が朝鮮・満州に波及するおそれがあるとして,3月2日の閣議で出兵目的の変更と守備地域の縮小とを決めた。この新方針を実行するやさきに発生したのが尼港事件で,これに対する保障占領の名目で日本は7月3日北樺太への出兵を開始した。しかし世界各国,日本国内の出兵反対論も無視できず,また財政的困難でも歴代政府(寺内,原,高橋是清内閣)は苦しみ,加藤友三郎内閣(1922年6月成立)はついに撤兵を決定し,22年10月25日最後の日本軍はシベリアから引き揚げた。なお北樺太の保障占領は続けていたが,25年1月日ソ基本条約の調印後5月に撤兵を完了した。こうして日本のシベリア出兵は前後8年間に戦費約10億円,死者3500名を数え,ソ連や各国からの不信を買い,何ら得るところなしに無惨な失敗に終わった。 吉村 道男
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普通選挙
ふつうせんきょ universal suffrage
狭義には,選挙権について,納税または財産の所有のような経済的要件による制限を認めない選挙制度をいうが,広義には,社会的地位,財産,納税,教育,信仰,人種,性別などによって選挙権を制限せず,成年の男女に等しく選挙権を認める制度をいう。普通選挙に対して,上述のような制限を伴った選挙を制限選挙という。狭義の普通選挙は,財産をもたない労働者階級の登場とその政治的自覚の高まりによって強く要求され,19世紀中ごろから普通選挙を実施する国が現れはじめた。第1次世界大戦後,これを実施する国は急激に増加しており,日本も1925年の選挙法改正によって男子普通選挙制を実施した。女子の選挙権は男子普通選挙にやや遅れて各国に普及しており,日本では1945年に認められ,現在では広義の普通選挙が各国で一般的となっている。日本国憲法は,15条2項で〈公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する〉と明瞭に規定しており,また,44条で〈両議院の議員及びその選挙人の資格は,法律でこれを定める。但し,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によって差別してはならない〉と規定している。
普通選挙が今日において一般的に認められている理由として,普通選挙の根底にある二つの原理を指摘することができる。第1は,近代民主主義における国民主権の原理である。すなわち,国家の主権が全国民に存し,主権者としての国民が国家の政治のあり方を最終的に決定する。したがって,できる限り多くの国民がその意見を表明する機会を与えられ,民意として国政に反映されなければならない。この要請に基づき,選挙権を少数の人々にのみ制限するあらゆる要件が撤廃されて今日の普通選挙へと選挙権が拡張されてきたわけである。第2に,国民の個人としての人格の独立性,同質性,平等性である。すべての国民はその社会的地位その他のいかんにかかわらず,人格としては平等に尊重されなければならない。この原理は,いわゆる〈個人の尊重〉および〈法の下の平等〉であり,制限選挙の下でのさまざまな選挙権の制限は〈法の下の平等〉が許容する合理的な差別とはいえない。したがって,〈法の下の平等〉は普通選挙の実施を要請しているのである。日本国憲法15条2項および44条の普通選挙の規定は,14条1項の〈法の下の平等〉をとくに選挙について明確に確認したものであるということができる。
もっとも,普通選挙にも選挙権の制限がまったくないわけではない。日本では,被選挙権については年齢上の制限,地方公共団体の選挙権については居住上の制限があり,また,禁治産者,禁錮以上の刑に処せられ,その執行中の者,選挙違反で禁錮以上の刑に処せられた者については執行猶予中の者も,選挙権,被選挙権が認められない。⇒選挙∥婦人参政権運動∥普選運動
川人 貞史
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後藤新平 1857‐1929(安政4‐昭和4)
ごとうしんぺい
官僚,政治家。水沢藩出身。須賀川医学校卒。愛知県立病院長を経て内務省に入り,1892年衛生局長となったが,相馬事件で一時連座入獄。日清戦争の時陸軍の検疫事務を担当,その功で98年総督児玉源太郎から台湾総督府民政局長に抜禽(ばつてき)された。島民の反抗を鎮圧して治安を維持し,砂糖,ショウノウなどの産業を開発するなど初期の植民地経営に手腕を発揮,1906年南満州鉄道会社(満鉄)初代総裁に就任,同年男爵。満州経営につき政府に長文の意見書を提出し,満鉄でも思いきった人事や機構作りを行うなど,日本の大陸経営の基礎を築いた。08年から桂太郎内閣の逓相,鉄道院総裁,16年寺内正毅内閣の内相,18年外相となり,藩閥政権末期の政界に重きをなす。ロシア革命がおこるとシベリア出兵を唱え,外相としてこれを実現させた。20年東京市長,22年子爵。23年にはソ連政府代表ヨッフェと私的会談を行い,日ソ国交樹立を準備した。同年山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁に就任,関東大震災後の東京の都市計画の立案にあたった。その後東京放送局総裁,少年団(ボーイ・スカウト)総長などを務め,また政治倫理化運動を推進,28年伯爵。実務官僚の手腕と独自の政治哲学をもち,日本帝国主義確立期の代表的政治家と目される。 岡部 牧夫
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概していえば、
太宰治の作品で賞するに足りるのは
初期の短編に限られ、
戦後の諸作は多く少女愛玩の読物を出ない。
p28
もうずいぶん昔の話だが、昭和二十三年、太宰治が小説『グッド・バイ』の新聞連載をはじめるにあたって書いた「作者の言葉」に、「唐詩選の五言絶句の中に、人生足別離の一句があり、私の或る先輩はこれをサヨナラダケガ人生ダ、と訳した」という一節があった。『グッド・バイ』自体は絶筆ということのほかにとりたてて賞味に値するほどのものではなかったけれど、見つけものはこの漢詩の和訳に触れたくだり。概していえば、太宰治の作品で賞するに足りるのは初期の短編に限られ、戦後の諸作は多く少女愛玩の読物を出ない。それでも、ふと心を揺らすこうした寸言に時折出会うことがあって、かねてから私はそれを徳としている。
『傑作の条件』(向井敏著、文春文庫)
読書人の一生
ゆめみるひとみで緑帯
むすめざかりは赤い帯
朱にまじわって白い帯
トウがたったら青い帯
行き着つきさきは黄ン色の帯
岩波文庫好きの読書人の一生
『傑作の条件』(向井敏著、文春文庫、1992年)より
p66
2027年は岩波文庫創刊100周年だそうです。
「もしこの地球上に
アメリカという人口国家がなければ、
私たち他の一角にすむ者も
息ぐるしいのではないでしょうか」
『アメリカ素描』(司馬遼太郎、昭和61年、読売新聞社)
発言は年配の在日韓国人。
p335
『傑作の条件』(向井敏、文春文庫、1992年)より孫引き