2019年10月30日水曜日

[あの頃のレコード] 細野晴臣さん音楽活動50周年記念特集 「風をあつめて」の詩ってどうなの編




細野晴臣さん音楽活動50周年記念特集

今回は代表曲「風をあつめて」の作詞面からのアプローチです。(細野さんの作詞ではありませんが)。

1971年11月20日発売のはっぴいえんど2作目のスタジオ録音アルバム中の一曲で作詞は松本隆さんです。

アルバム自体が松本隆さんによるオリンピック前の東京の原風景を「風街」と幻想的に捉えたコンセプトアルバムと思います。70年代の宮沢賢治と言えるかもしれません。

オリジナルの歌詞は曲だけ聴いているとわかりませんが、やたらと難しい漢字が多く、幻想的・童話的な雰囲気です。

16ビートでの絶叫ばかりがロックではないと、細野晴臣さんが低音のボーカルで表現したのがこの曲です。結構長い年月を経て世界中のスタンダードナンバーとなりました。

「風をあつめて」
街のはずれの
背のびした路次を 散歩してたら
汚点(しみ)だらけの 靄(もや)ごしに
起きぬけの露面電車が
海を渡るのが 見えたんです
それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を
とても素敵な
昧爽(あさあけ)どきを 通り抜けてたら
伽籃とした 防波堤ごしに
緋色(ひいろ)の帆を掲げた都市が
碇泊してるのが 見えたんです
それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を
人気のない
朝の珈琲屋で 暇をつぶしてたら
ひび割れた 玻璃(がらす)ごしに
摩天楼の衣擦れが
舗道をひたすのを見たんです
それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を


オリジナルの歌詞は「路面電車」ではなく「露面電車」となっています。
他にも仏教用語の「玻璃(はり)」=七宝のひとつで水晶のこと。昧爽(まいそう)を「あさあけ」と読むなど。

今日的見地からみれば田舎の文学好きな女子高校生のようでもあります。「摩天楼」も松本さんの好きな単語ですね。

アルバム発表当時、細野晴臣さんが24歳、松本隆さんが22歳だったことを思うと、その曲の完成度の高さに嘆息します。



2019年10月29日火曜日

[その他] 「くさい飯」を食べてます。


といっても服役したわけではありません。

ここ数か月昼食の弁当のご飯は大麦30%入りのものを食べています。

食物繊維が多いせいか、胃の調子もよく、毎日快便が続いています。

(味はあまりよくない)。

家族は白米を食べるので、このようなパック入りの「麦ごはん」を利用してます。

電子レンジで手軽に再加熱できるので忙しい朝でも準備に時間がかかりません。


2019年10月28日月曜日

[あの頃のレコード] 細野晴臣 音楽活動50周年記念特集 『風をあつめて』演奏してみる



[あの頃のレコード]細野晴臣音楽活動50周年記念特集。趣向を変えて名曲『風をあつめて』を演奏してみることに。

便利な世の中になりました。YouTubeではギターのパートのみの演奏映像がありますし、有料ですがタブ譜もネットで簡単に手に入ります。

より音楽を理解するためには、実際に自分で演奏して歌ってみるのもひとつの手法だと思います。幸いにして初期の名曲『風をあつめて』は小編成の楽器と細野さんのボーカルのみで成立してますので、ギターの弾き語りでなんとか再現できそうです。

現在練習中です。コードは難しくないのですが独特のリズムの再現のハードルが高そうです。

ちゃんと弾けるようになったらまた報告します。

2019年10月27日日曜日

[新聞記事] 制服のリカちゃん 比治山女子中高編



2019年10月25日付朝日新聞広島版。創立80周年の比治山中高同窓会が同校のオリジナルのリカちゃん人形を企画。1体が7280円、2000体限定。

同窓会運営会社とリカちゃん人形製造のタカラトミーとの共作だそうです。広島県の高校では初だそうです。

皆実高校版もありですね。

[新聞記事] 28期寺本君の投稿 中国新聞「広場」欄に掲載



公立学校の教員に変形労働時間制の法令化に反対意見の投稿です。長時間労働が常態化して教員のなりてがなくなるという危機感を持っておられます。寺本君のように自分の職務に問題意識を常に持っていたいものです。

[Yuming's Farm便り] 2人の孫を連れて熊野町の畑へ遊びに


まったく休耕地となっております熊野町の畑(100坪ぐらいあり、知人から年5、000円で借りている)。

ときどき2人の孫を連れて遊びに行きます。

カエルとかバッタとか小鮒とかが珍しくて喜びます。




雑草が生え放題の当方の休耕地を気の毒に思われたのか、向かいの畑で作業をしていた方から春菊を大量にいただきました。

[その他] 10日と25日はパン屋の日 リトルマーメード段原店



10月25日(金)に行けなかったので。駐車場があるので便利です。

熊野町の畑に孫を連れた遊びに行く前に昼食用にパンを買いました。

休日のせいか駐車場が満杯でした。

[その他] 広島掃除に学ぶ会 吉島中学



10月27日(日曜日)は広島掃除に学ぶ会の活動で吉島中学のトイレ掃除に参加しました。広島掃除に学ぶ会関係者27人、学校関係者101人、合計で128人の参加がありました。

保護者の方も多数参加されておられました。

当方のグループには生徒さんの弟の小学生、学校のOGの高校生(在学中に3回参加して今回4回目)という素晴らしい方がいらっしゃいました。

最初はクラブ顧問に言われていやいや参加したといっていた生徒さんが、トイレ掃除終了後には体験発表をしたいと自主的に立候補されました。なにかご自分の中で変化があったのでしょう。

すばらしいトイレ掃除になりました。



[その他] うっかり八兵衛の巻 コインパーキングで違う車の料金を支払い



10月26日(土)17時30分からのベース教室へ。雨が降りそうだったので車で行きました。近くのコインパーキングに止めたのですが繁華街ということもありかなり高価になります。

なにげなく精算したところ違う車の料金を払ってしまい、やり直すことに。全部で3,000円の料金となりました。

NO1に駐車していたレクサスの方、料金が予想より安かったのは当方のせいです。

[その他] 映画『世界から希望が消えたなら。』を観ました


皆実高校28期のM君が所属している団体が製作した映画で配給は日活。10月26日(土曜日)イオンシネマ広島で19時15分の回。M君が招待券をわざわざ送ってくれたので観に行きました。

人間の本質は肉体ではなく精神であるということだそうです。

当方は何かを信じるということがないダメな人間です。信じれる人がうらやましく思う時もあります。



2019年10月26日土曜日

[積読立読斜読] 『巨大なラジオ/泳ぐ人』より「林檎の中の虫」(The Worm in the Apple)

・[積読立読斜読](つんどくたちよみななめよみ)は自分の読書メモです。

・村上春樹さんのデビュー以来からのファンで翻訳書も読んでます。

・ジョン・チーヴァーは1950年代雑誌『ニューヨーカー』で活躍した短編小説家で"The Stories of John Cheever"(短編61編を収録)で1979年のピュリツァー賞受賞、日本ではよほどの英文学好きでないと知らない作家かも知れません。

・日本語版『巨大なラジオ/泳ぐ人』(2018年)はそのうち短編18編、エッセイ2編を村上春樹が選び訳した選集です。



村上春樹訳、ジョン・チーヴァー短編集『巨大なラジオ/泳ぐ人』より「林檎の中の虫」(The Worm in the Apple)。

雑誌未掲載で単行本『シェイディー・ヒルの泥棒』に収録するための書き下ろしようです。政策年は1956年から57年。

"worm in the apple"は英語の成句で「ひとつのモノが全体を悪くする」という言い回しで使われるようです。

本書では6ページのスケッチ風の短編です。チーヴァーはアメリカ郊外の白人アッパーミドルの転落または転落の危機(=憂鬱)を主に描いた作家ですが、この短編ではそのアッパーミドルが転落しないで最後まで幸せに暮らしたという設定で「これでは私の小説の出る幕はない」というアンチテーゼ風の諧謔を楽しそうに描いています。


P187
可愛い子供たちが巣立ってしまって、クラッチマン夫妻は満ち足りてはいるものの、彼らの年代に特有の精神的空虚さを感じるようになったのではあるまいかと、期待されるむきもあるかもしれない。そこにいたってようやく林檎のなかの虫が露わになってきたのではあるまいかと。しかしながら友人たちをもてないしている、あるいは好きな読書に耽っている、このチャーミングなカップルの姿を見ていると、虫は彼らの中にではなく、むしろ観察者の目の中にいるのではないかという気がしてくるほどだ。そういう人々はその小心さや、道徳的臆病さの故に、夫妻の生来の熱意の広汎さんを受け入れようとせず、たとえバッハにおいてもフットボールにおいても、ラリーの腕があまり褒められたものではなかったにせよ、彼の感じている喜びが本物であることを認めようとしないのではないのか?
あなたは少なくとも、歳月が彼らの外観に及ぼした破壊的効果を目にすることを期待されるかもしれない。しかし単なる幸運によるものなのか、それとも控えめで健康的な生活を送ってきたせいなのか、どちらの髪も歯もまったく失われていなかった。彼らの多幸感の基盤は未だ健在のままだった。そしてラリーはさすがにもう消防車はあきらめたものの、聖餐式や、50ヤードラインや、8時3分の電車や、室内楽クラブではまだその姿を見受けられた。そしてヘレンの資産運用顧問の用心深さと抜け目のなさのおかげで、二人はどこまでもどこまでもどこまでも金持ちになっていったし、幸福に幸福に幸福に幸福に暮らしたのでした。

結びはヤケッパチのようでもあります。原文にはそんなにhappyが重なったベタな文章なのかどうか確認してみました。

こんな感じでやはりハッピーの連続です。

With their own dear children gone away the Crutchmans might be expected to suffer the celebrated spiritual destitution of their age and their kind ? the worm in the apple would at last be laid bare ? although watching this charming couple as they entertained their friends or read the books they enjoyed one might wonder if the worm was not in the eye of the observer who, through timidity or moral cowardice, could not embrace the broad range of their natural enthusiasms and would not grant that, while Larry played neither Bach nor football very well, his pleasure in both was genuine.
You might at least expect to see in them the usual destructiveness of time, but either through luck or as a result of their temperate and healthy lives they had lost neither their teeth nor their hair. The touchstone of their euphoria remained potent, and while Larry gave up the fire truck he could still be seen at the communion rail, the fifty-yard line, the 8:03 and the Chamber Music Club, and through the prudence and shrewdness of Helen's broker they got richer and richer and richer and lived happily, happily, happily, happily.

チーヴァー本来のアッパーミドル転落の危機を描いた短編「シェイディー・ヒルの泥棒」(The Housebreaker of Shady Hill)を読んでから本編を読まないと皮肉が分かりませんので先にそちらを読んでください。

[あの頃のレコード] 細野晴臣 音楽活動50周年記念特集 細野晴臣ヒストリー(2)

・[あの頃のレコード]は自分の高校時代に聴いた音楽をレコードで再び聴いてみるという無謀な企画です。

・細野晴臣さんが音楽活動50周年ということで雑誌・CD・映像等で特集が組まれています。自分も星野源さんが選曲した38曲入りの『HOSONO HARUOMI compiled by HOSHINO GEN』(アナログLP3枚組版)を買いました。

・いきなり聴いても背景がわからないので『レコード・コレクターズ』の特集記事から細野さんの音楽活動の概略を抜粋してからアルバムの紹介をします。




●カヴァーが多い近年の作品/ステージ

80年代後半から1998年までは、アンビエント/ミニマル時代と位置付けられる。


1985年には細野自身が「観光音楽」と称する細野流「アンビエント」音楽のアルバムを5枚リリース。

『COINCIDENTAL MUSIC』
『マーキュリー・ダンス』
『エンドレス・トーキング』
『パラダイスビュー』
『銀河鉄道の夜』(アニメ映画サントラ)

『omni Sight Seeing』(1989)はワールドミュージックを素材としたエレクトロニック・ポップの傑作。


コンピューター・ミュージックの技法を縦横に使いつつも、アンチ・ポップへの揺らぎがある作品が続く。

『グッド・スポーツ』(95)
『ナーガ』(95)
『N.D.E』(95)ゴウ・ホトダ、ビル・ラズウェル、寺田康彦との共作。
『Interpieces Organization』(96)細野晴臣&ビル・ラズウェル
『Tokyo-Frankfurt-New York』(96)アトム・ハート、テツ・イノウエと組んだHAT

『Love, Peace & Trance』(95)遊佐未森、甲田益也子、小川美潮によるユニットではアメリカ先住民の神秘主義をテーマにしたもの。

『swing slow』(96)コシミハルとのユニット、典型的な星野流アンビエント。
『DSPホリデー』(98)HATによる前作以上のポップなアンビエント・テクノ作品。


1999年からはオールディーズやR&B回帰の時代。また旧知の仲間との作品が多くなる。

『ロード・トゥ・ルイジアナ』(99)久保田麻琴と組み、久保田が書き下ろしたニューオーリンズ風味の楽曲が大半。

『Tin Pan』(2000)ティン・パン・アレイ再結成の作品。

2002年から2003年にかけてはYMOの高橋幸宏とのユニット作品を3作リリース。
『audio sponge』(02)
『tronika』(03)
『ループホール』(03)

『フライング・ソーサー 1947』(07)ハリー細野&ザ・ワールド・シャイネス名義。現在のライブの構成に近い。

2011年以降のソロ作品にはカヴァー作品が多くなる。

『HoSoNova』(11)
『Heavenly Music』(13)
『Vu Ja De』(17)

カヴァー曲は大半が1920年代から50年代のアメリカ産ブルース/R&B/ジャズ/ポップスとなっている。

最新作2919年『HOCHONOHOUSE』はセルフカバー。半分が打ち込みで楽器はすべて一人で演奏している自宅スタジオ録音となっている。



P103
「つねに変化し続けること。変化によって過去と現在を繋ぐこと。こうした営為を細野は60年代から今日まで続けてきた。おそらくこれからも変化し続けるだろう。変化し続けるという意味において、まさに驚くべき一貫性だ。細野はおそらく、オールディーズで終わると見せかけて新たな企てを仕掛けてくるにちがいない。細野晴臣、畏るべき72歳。まだまだ侮れない。

雑誌『レコード・コレクターズ』(2019年11月号)
「細野晴臣ヒストリー」(文=篠原章)より抜粋


[惹句どんどん] 保阪正康(昭和史研究家)

・[惹句どんどん]は警句集のようなもので都度脈略なく投稿してます。
・アメリカの作家ジャック・ロンドンと語呂合わせしてます。






田中角栄は「自覚せざる社会主義者」だったのか


『続 昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書、保阪正康著)の章題より

https://28minami-owaki.blogspot.com/2019/10/blog-post_81.html

『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』

姪の結婚式の後、母・弟と新潟県を旅行しました。田中角栄さんに関する新書にも「社会主義者」という記述があります。雪深い田舎に新幹線・高速道路・原発を作り、都会との格差を解消したという点では大きく評価されてもよいのではないでしょうか。






2019年10月25日金曜日

[その他] ギター教室・ベース教室の先生のライブへ



通っているギター教室、ベース教室の先生が組んでいるバンドのライブに。

生徒に教えるだけでは腕が鈍るので年に2回無理やり開催されるそうです。

一部ロカビリー、二部70年前後のロック、という構成。一部はエレキがグレッチ、ベースがダブルベースでした。

先日Kさんのライブで30年振りにあったKIさんに再会。友人がギター教室の生徒さんだそうです。世の中大変狭し。

50年代のロカビリー、70年前後のロック、ですが、20歳台の人から見れば両方とも大昔の話で、「ロックは遠くなりにけり」ですね。

ギター、ベース、ドラムの3ピースのバンドですが、ビートルズ『アビーロード』50周年ということで"Come together"、"Something"に挑戦されてました。ベース大変そうでした。

2019年10月24日木曜日

[あの頃のレコード] 細野晴臣 音楽活動50周年記念特集 細野晴臣ヒストリー(1)

[あの頃のレコード]は当方の高校時代(1974年~1977年)に聴いてた音楽を「レコード」で聴きなおしてみるという無謀な企画です。

細野晴臣さんの音楽活動が50周年を迎えたということで雑誌・CD等で特集相次いでいます。

当方は熱心な細野さんファンとはいいがたいですが、はっぴいえんど時代から聞いていた「生き証人」ですので、ご祝儀もかねて星野源さんが選曲したベスト盤(CDではなくLPレコード3枚組)を購入して聴きなおしてみます。


ジャケットデザインは少し残念ですが遠目に観ると
細野さんの顔の感じがわかるという趣向です。
黄色のマークは「星野源セレクト」という意味でしょう


その前に細野晴臣さんは現在も現役で活動されており、はっぴいえんど、YMO、という日本のロックを代表するグループの中心人物であり、かつソロも多数あるということで、いきなりレコードを聴いても背景がわからないと理解できないのではないかと思いました。

そこで2か月にわたって特集が組まれた『レコード・コレクターズ』(2019年11月号)に、細野さんの活動歴がまとまっておりましたので、レコードを聴く前に復習をかねて、メモ程度に2回にわけて紹介します(と言ってもいつもながら長い)。


表紙は細野さんが来ているシャツが
アルバムジャケットになっているという乙なもの


『レコード・コレクターズ』(2019年11月号)より

細野晴臣ヒストリー(文=篠原章)

スタイルは変われども驚くべき一貫性で過去と現在を繋いできた創造的音楽家

●はっぴえんど時代に才能が開花

1947年7月9日、東京都港区生まれ

父方の祖父は鉄道省官吏(タイタニック号日本人唯一の生き残り)
母方の祖父は日本のピアノ調律師の草分け

戦後の港区は米軍経由のアメリカのカルチャーの影響が大きい地区
米軍赤坂プレスセンター
米軍専用の山王ホテル
ワシントンハイツ(青山の住宅)、メイジパーク(神宮外苑の運動場)

1969年、ブルースロック、サイケデリックなロック調のエイプリルフールに参加
同年アルバム『エイプリル・フール』発表(9月27日)、メンバーの方向性の違いから解散


1969年10月末、大瀧詠一、鈴木茂と、エイプリル・フールのドラマーだった松本隆で「ばれんたいん・ぶるぅ」を結成

1970年春、「はっぴいえんど」とバンド名を改称
バンドの目標はバッファロー・スプリングフィールドのサウンドに日本語を載せたフォークロック

『はっぴいえんど』(1970年、通称”ゆでめん”)
細野のコンセプトの下に制作された、松本=大瀧楽曲が光る名盤。

『風街ろまん』(1971年)
松本隆の都市論を他の3人が三者三様に表現したコンセプトアルバム。細野の才能が開花した作品。

『HAPPY END』(1973年2月)
1972年末にバンドとしての一体感を失ったはっぴいえんどは解散、10月に最後のスタジオ録音をアメリカで制作。



●”テクノポップ”の定着に成功

『HOSONO HOUSE』(1973年5月)
ソロ第一作。入間にスタジオを構えて制作。バックはキャラメル・ママ(のちのティン・パン・アレイ、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆)。アメリカ生活の疑似体験がアメリカの音楽理解につながるというコンセプト。

『トロピカル・ダンディー』(1975年6月)
音楽のルーツ探訪。ニューヨークから南太平洋を経て横浜中華街にたどり着くというA面のコンセプトがすべてでB面は付け足しの感じ。

『キャラメル・ママ』(1975年11月)
ティン・パン・アレイ名義。3曲の自作を提供。

『泰安洋行』(1976年)
”欧米から見た日本”(=オリエンタリズム)を基本的なコンセプトにして、さまざまなバリエーションのリズムを導入した意欲作。

『はらいそ』(1978年4月)
細野晴臣&イエロー・マジック・バンド名義。インド的な要素も取り入れた前作と同じコンセプトのアルバム。


『トロピカル・ダンディー』、『泰安洋行』、『はらいそ』は現在ではYMOとの関連でトロピカル三部作として評価が高いが発売当時はあまり理解されずセールスもふるわなかった。

『COCHIN MOON』(1978年4月)
横尾忠則の著作に啓発されインド旅行を同行。音楽として表現した意欲作でYMOで電子音楽を取り入れる習作。

『イエロー・マジック・オーケストラ』(1978年11月)
『はらいそ』レコーディングに揃った高橋幸宏、坂本龍一と結成。

『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)
100万枚以上のセールス、海外ツアーも好評。テクノポップというジャンルを確立。

『BGM』『テクノデリック』(1981年)
坂本龍一がバンドを牽引した時代の作品。セールス的にはふるわなかった。

80年代前半は、松本隆がリードした松田聖子プロジェクトなどにも関わり、歌謡曲界への提供曲も多い。

松田聖子には「天国のキッス」(1983年)、「ガラスの林檎」(1983年)、「ピンクのモーツァルト」(1984年)を提供。

『フィルハーモニー』(1982年)
YMO結成中にソロ活動を再開。細野流テクノポップの正統的作品。

『S-F-X』(1984年)
アグレッシブなビートの楽曲が多く、ハードコア・テクノに近い作品。

85年から86年にリリースされたFOF名義の4枚も同様の作品。









[積読立読斜読] ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』より 「ああ、夢破れし街よ」(O City of Broken Dreams)

・[積読立読斜読](つんどくたちよみななめよみ)は自分の読書メモです。
・村上春樹さんのデビュー以来からのファンで翻訳書も読んでます。
・ジョン・チーヴァーは1950年代雑誌『ニューヨーカー』で活躍した短編小説家で"The Stories of John Cheever"(短編61編を収録)で1979年のピュリツァー賞受賞、日本ではよほどの英文学好きでないと知らない作家かも知れません。
・日本語版『巨大なラジオ/泳ぐ人』(2018年)はそのうち短編18編、エッセイ2編を村上春樹が選び訳した選集です。


一度に読んで一度に読書メモを書く体力がないので、一編ずつ読んでその都度感想文のようなものを書いてます。

本日は「ああ、夢破れし街よ」(O City of Broken Dreams)(『ニューヨーカー』1948年1月24日号掲載)。

チーヴァーの短編は郊外に住む白人アッパーミドルの憂鬱(ミドルからの転落または転落の危機)を描いたものがほとんどのようですが、本編は珍しくお上りさんの戯曲家で本職はバスの運転手という設定です。

中西部の田舎町から未完成の戯曲作品を持って一旗揚げようと一家でニューヨークに乗り込んできた夜間バスの運転手一家。海千山千のニューヨークのショービジネス関係者に翻弄されるというコメディー仕立ての短編です。すでのニューヨーク在住でミドルクラスに昇りつめたものから見れば揶揄の対象となる人物ですが、そのニューヨーカーですら出所は変わらずという二重の諧謔になっています。

P43
マーチソンの客たちが彼女の音楽に対して払っている敬意と関心を、エヴァーツは感じ取ることができた。彼らの多くはウェントワースとさして変わらない小さな田舎町の出身者だった。みんな素朴な心を持った人々であり、アリスの臆しない声から醸し出されたシンプルな調べは、彼らに出所を思い出せた。

とあるパーティー運転手の妻アリスが皆の前で「アニー・ローリー」を歌う場面です。あまりにも真面目に演じたため最後は皆の嘲笑をかってしまいます。

最後のヒネリが意外で思わず「うまいなあ」と唸りました。



2019年10月22日火曜日

[その他] めずらしく旅行 MUJI Hotel GINZA 10月10日(木曜日)


小旅行のレポートはこれで終わりです。訪問先はまだまだ多数ありましたが台風の影響で大幅縮小しました。

10月11日(金曜日)に長野市である姪の結婚式、その後の母・弟の小旅行に備えて、10日(木曜日)は仕事終了後、広島から東京まで新幹線移動。

一度泊まってみたかった無印良品が経営しているMUJIホテル銀座に宿泊。写真は室内の様子です。

まあ銀座のビルの中なので調度品が無印という以外はたいして特色もなく残念でした。

写真にはギターが映ってますが、結婚式で福山雅治さんの『家族なろうよ』を歌うため、前夜も練習しました。「ギターを抱いた渡り鳥」の気分でした。


台風被害に遭われた方には心よりお見舞いもうしあげます。被災地を横目で見ながらの旅行となり申し訳ない複雑な心境でした。当方のような観光客にも台風被害はありました。


10月11日(金曜日) 長野市善光寺門前・藤屋御本陣で結婚式
10月12日(土曜日) 弟・母と新潟県中心に観光
10月13日(日曜日) 群馬県観光予定が台風で中止
            宿泊予定の藤井荘も停電で営業できずキャンセル
10月14日(月曜日) JR特急は間引き運転で松本始発となる


[その他] めずらしく旅行 長岡市・河井継之助記念館 10月12日(土曜日)



姪の結婚式の後、母と弟と小旅行。

かなり前に司馬遼太郎さんの『峠』を読んで感動しました。長岡藩の家老・河井継之助を主人公にした歴史小説です。

戊辰戦争で賊軍となって城下は焼け野原となり、河井継之助自身も会津藩に落ち延びる途上で亡くなってしまいます。

地方小藩の家老の枠組みを超えた思考の持ち主だったようですが、最後は藩の枠を超えられず、無謀とも思える新政府軍との全面戦争を選択してしまいます。

役所広司さん主演で2020年秋映画公開されるそうです。


[その他] めずらしく旅行 新潟県南魚沼市・里山十帖に宿泊 10月12日(土曜日)



姪の結婚式の後、母と弟と小旅行。

雑誌で見た里山十帖という温泉宿に宿泊。なかなか写真では魅力がわかりませんが、人生観が変わる宿でした。

夕食は2時間ほどかけてゆっくりと地元産の野菜、魚沼産のコメを堪能。景色が絶景な露天風呂につかり、翌日の朝食も1時間かけてゆっくりと食事。(日本酒が飲めれば最高なのでしょうが当家はアルコールがダメ)。

また行きたくなる宿でした。

写真は台風一過、小雨になった宿の玄関を上階から撮ったものです。周囲は全部里山。

[住所]
里山十帖
住所: 〒949-6361 新潟県 南魚沼市大沢1209-6 TEL: 025-783-6777

[その他] めずらしく旅行 田中角栄記念館 10月12日(土曜日)


姪の結婚式の後、母と弟と長野県・新潟県を旅行しました。

田中角栄の生地、新潟県西山町にある田中角栄記念館を見学しました。

意外に達筆な書道を数多く残しており、勉強家だったのが伺えます。

10時開館と同時に入館し、遠方の広島から来たということもあり、館員の方が最初から最後まで丁寧に案内していただきました。

背後の錦鯉ののぼりが見えますが、田中角栄の選挙区は、世界でも有数の錦鯉の養殖地でもあります。



[積読立読斜読]『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』(早野透 著、中公新書、2012年)


新潟県を旅行しました。偶然ですが田中角栄さんの選挙区の施設に多く立ち寄り、影響力の大きいものもありました。また西山町の田中角栄記念館にも立ち寄りました。

著者が朝日新聞記者で、田中角栄さんの番記者を長く勤め、角栄さんを深く理解するため志願して新潟支局勤務もあり、新書版でコンパクトにまとまって中立的な内容のようなので読んでみました。

細かい事実はwiki等でわかるのですが、著者による日本の戦後と田中角栄の総括はちょっと長文を読まないとわかりませんでした。内容抜粋します。

文章は流石一流の新聞記者で達意の文章です。

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<内容紹介>(中公新書のHPより)
「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれた頭脳と行動力で、高等小学校卒から五四歳で首相の座に就いた田中角栄。「新潟三区」という雪深い地盤に“利益誘導”を行い、「日本列島改造」を掲げた角栄は、戦後政治の象徴だった。だが彼の金権政治は強い批判を浴び、政権は二年半で終わる。その後も巨大な「田中派」を背景に力を持ったが、ロッキード事件では有罪判決が下った。角栄を最期まで追い続けた番記者が語る真実。


<著者紹介>
早野 透
桜美林大学教授。1945年神奈川県生まれ。1968年東京大学法学部卒業。朝日新聞社で政治部次長、編集委員、コラムニストなどを歴任。2010年より現職。主な著書に『政権ラプソディー―安倍・福田・麻生から鳩山へ』(七つ森書館/2010年)、『田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書/2012年)など。
https://www.nippon.com/ja/authordata/hayano-toru/ より


田中角栄  1918‐93(大正7‐平成5)
たなかかくえい

昭和戦後期の政治家。新潟県出身。高等小学校卒で上京,苦学力行して建築士,土建業者となる。1947年(昭和22)に衆議院初当選。民主党から吉田茂の民主自由党に移り法務政務次官となる。炭鉱国管疑獄(炭鉱国家管理問題)で逮捕され,のち無罪。自由民主党では佐藤派に属し,57年に岸信介内閣郵政相,池田勇人内閣で党政調会長,蔵相を歴任。佐藤栄作内閣でも幹事長,蔵相,通産相を務め,福田赳夫と並び佐藤体制の双璧となる。72年7月,自民党総裁選で福田を破って田中内閣を成立させた。〈決断と実行の政治〉を旗印に,同年9月,一気に日中国交回復を実現した。しかしもう一つの柱,日本列島改造政策は土地投機,物価上昇を誘発し,73年秋の石油危機とあいまって〈狂乱物価〉を現出した。このため1972年12月総選挙も不振に終わり,74年7月の参院選も〈金権選挙〉を指弾された。同年末,金脈・人脈批判を受け首相を辞任した。76年のロッキード事件暴露によって,田中は収賄で逮捕起訴され,〈総理大臣の犯罪〉は一世を聳動(しようどう)させた。しかし田中は党内に強大な支持勢力を結集して〈田中支配〉を確立し,大平正芳,鈴木善幸,中曾根康弘各政権の〈キング・メーカー〉〈闇将軍〉と呼ばれる権勢を保持した。85年病に倒れ政界を引退した。8年間の闘病のあと,93年12月死去。
                        内田 健三

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まえがき
日本の近代、明治国家は「国民」をつくりだして明るい未来に向かって歩んだ歴史だったといえるだそう。大正という間奏曲は、デモクラシーと天皇制国家のはざまで揺れた。そして、昭和がきた。日本は軍閥が跋扈して、戦争の道に迷い込んだ。村の若者が徴兵の赤紙で出征し、白木の箱に入って帰ってくる。空襲、原爆、焼け野原。日本は戦争に敗れて、民衆はようやく死の恐怖からまぬかれた。だが、そこにあるのは飢餓の「戦後」だった。

 田中角栄は、「戦後」に政治家になって、「戦後」を象徴する政治家となった。その象徴性は、田中角栄と美空ひばりに指を屈するであろう。

「戦後」とは何か。もうあんな苦しい戦争はいやだ。なにはともあれ平和であってほしい。それが民衆の願いだった。(中略)(民衆が)「平和」と「豊かさ」を求めた「戦後」を、田中角栄はおそらくもっとも端的に、濃厚に、政治の場で担った人物だった。



P9
田中角栄に対するもっとも鋭い批判者となる立花隆は「抽象思考ゼロの経験主義者」と断じた。実感的、経験的、そして人生訓的であることは、角栄の生涯の思考形式である。だが、それもやむをえない。角栄は中曽根と違って、大学の教壇から抽象的想像力、体系的思考を学ぶ機会はなかった。角栄のとって人生は、ひたすら「具体」の積み重ねであって「抽象」ではなかった。


P394
田中角栄は、日本の近代の泥濘のなかから這い上がった。敗戦の焼け跡闇市の時代を類まれな才覚で、時に悪知恵を働かせて切り抜けた。政治権力の階段を上った。角栄の「利益還元政治」は、見方を変えれば「社会民主主義」だった。それを新潟三区の選挙民は支持した。角栄は民衆のなかにいた。人々への気配り心配りを備えていた。政治の世界では、それを端的にカネという形で表現した。そして転落した。

角栄の荒ぶる魂は、それを受け入れることができず、さらに権力に固執した。次第に狂気を帯びる。そして角栄は突然、脳に損傷をきたした。

[その他] めずらしく旅行 新潟県中山隧道  10月12日(土曜日)




姪の結婚式に列席後、母と弟と小旅行。名所旧跡にはあまり興味なく偶然ウエブでみつけた日本一の長さを誇る手掘りのトンネル跡を見学。877mあるそうです。現在は使用されてなく隣に立派な国道が通ってます。田中角栄さんが通したそうです。

途中まで手掘りトンネル内を通ることができますが、ノミの跡も生々しく残っていて、冬季に孤立した村をなんとかしたいという住民の執念を感じました。


<新潟県のHPより> 
中山隧道と呼ばれる旧トンネルは、昭和8年から24年まで16年間もかけて人力だけで掘り抜かれたトンネルで、手掘りのトンネルとしては日本一の長さと言われています。
 しかしこのトンネルは、普通車が通れないほど幅員が狭いことや、崩落が見られるようになったため、厳しい交通規制がかけられていました。
 このため、新しいトンネルを含む道路改良を実施し、平成10年12月14日に開通となりました。
 新しいトンネルの完成によって、長岡市(山古志)と魚沼市が直結されるだけでなく、近隣市町村を含む広域的な交流の促進や地域振興、地域活性化に大きな役割を果しています。


早野透著『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書、2012年)より 
P124
古志郡山古志村の小松倉地区は、山に阻まれ冬は孤立していた。雪で峠越えができなくなって不幸な病人は助からなかった。地区の住民は、戦前から一七年(注:ママ)の歳月をかけて自力でツルハシを振るって、人一人通れる手掘りのトンネルを開通させた。戦後、これを県道に、さらに国道にいささかむりやりに昇格させ、多額の国費を投じて自動車が通れる通りにしたのは角栄だった。小松倉の三七戸の集落のうち二六戸が越山会になった。

国道昇格は「1982年(昭和57年)に国道291号のルートに指定」(ウィキペディアより)

2019年10月21日月曜日

[その他] めずらしく旅行 新潟県上越市KDDI海底ケーブル中継所 2019年10月12日(土曜日)




当方は1959年生まれで小学校高学年では当時の男子の通過儀礼として切手の収集をしておりました。小学校4年の時に発売された「日本海ケーブル開通記念」(1969年)が収集をやめた後も妙に記憶に残っていてケーブルの敷設された直江津・ナホトカの地名もその時に覚えました。ナホトカは敷居が高いのでいつか直江津(現在は上越市)を訪れたいと意識下で思っていたのでしょう。


姪の結婚式(長野市)に合わせて弟・母親と3人で長野県・新潟県を旅行しました(台風19号のためスケジュールは大幅に縮小)。名所旧跡にはあまり興味がなく、風情も何もない中継所をスケジュールに入れてもらいました。

10月12日(土曜日)に訪れた新潟県上越市にあるKDDI 直江津海底線中継所を見学しました。と言っても観光名所ではないのでお土産屋さんも博物館もなくそっけない建物と、海底にケーブル(現在は光ファイバー)が敷設してある信号のようなものがあるだけです。

台風の影響か波濤激しい日本海を眺めて、積年の希望が果たせた感激もたいしてなく、しかし来てよかったなとは思いました。




画像は旅行後にヤフー・オークションで入手した切手付きの記念封筒です。1969年6月25日直江津郵便局の初日押印があります。(オークション価格は送料のほうが高い、たった50円でした)。

中に入っていた解説文は高度成長期の日本の高揚感が伝わる文章です。

日本海ケーブル開通記念
直江津・ナホトカ間約850kmを結ぶ日本海ケーブルが開通すると、日本とヨーロッパ諸国が直結されテレビを除く電話、電報、テレックスなどあらゆる通信業務の終日運用が実現し、アジアの国際通信センターをめざすわが国にとって国際的に通信界の有力な地位が確保されることになる。

2019年10月20日日曜日

[積読立読斜読] ジョン・チーヴァーの短編集『巨大なラジオ/泳ぐ人』より 「シェイディー・ヒルの泥棒」 The Housebreaker of Shady Hill


引き続き村上春樹訳、ジョン・チーヴァーの短編集『巨大なラジオ/泳ぐ人』を読んでます。

「シェイディー・ヒルの泥棒」 The Housebreaker of Shady Hill (『ニューヨーカー』1956年4月14日号掲載)

例によってアメリカの郊外に住む白人アッパーミドルクラスの転落もしくは転落の危機を描いた短編。

シェイディー・ヒルはチーバーの創作した架空の町。1950年代はアメリカが歴史上最も豊かなミドルクラスを生み出した時代、主人公となった白人男性のモノロールから始まります。

P155
 ぼくの名前はジョニー・ヘイク。年齢は三十六歳、ソックスだけになったときの身長が五フィート十一インチ、服を脱いだときの体重が百四十二ポンド、そしてぼくは今現在、言うなれば真っ裸で暗闇に向かってしゃべっている。ぼくはセント・リージス・ホテルで身ごもられ、長老派病院で生を受け、サットン・プレイスで育ち、聖バーソロミュー教会で洗礼と堅信式を終え、ニッカーボッカー・グレイズ(注:放課後に少年たちを訓練するクラブ)で鍛えられ、セントラル・パークでフットボールや野球をして遊び、イーストサイドにあるアパートメント・ハウスの日よけの枠で懸垂を覚え、ウォールドフ・ホテルの盛大な舞踏会のひとつで知り合った女性(クリスティーナ・ルイス)を妻に迎えた。四年間を海軍で過ごしたあと、四人の子供を授かり、今はシィディー・ヒルという郊外住宅に暮らしている。庭付きの立派な家で、バーベキューのための屋外設備もある。夏の夜には子供たちとそこに座り、クリスティーナがステーキに塩を振るために前屈みになったときに、ドレスの中の胸をのぞき込んだり、あるいはただ空の明かりをじっと眺めたりしながら、ぼくは他のもっと向こう見ずで危険な試みをしているときと同じくらいのスリルを感じる。そしてそれこそが人生の苦悩と甘美さというものだろうと思うのだ。

おそらくチーヴァーのモデルとした郊外に住むアッパーミドルの典型を描写したものと思います。

筋書きは単純でこのジョニーさんが金に困り他家に忍び込んで現金を盗み、使う前に復職できることになったので、またお金を返した、というだけの話です。

転落しそうになったときのジョニーさんの目に映るいつもの光景の裏側にある不案な感情の描写が見事です。

結末はこんな具合です。

P180
ぼくは彼らの家の裏手にまわり、キッチンのドアが開いているのを目にした。そして暗い部屋のテーブルの上に封筒を置いた。その家から遠ざかりつつあるときに、警察の車がぼくの脇に停まった顔見知りのパトロールの警官が窓ガラスを下ろして尋ねた。「こんな夜中に何をしているんですか、ヘイクさん?」「犬を散布させているのさ」とぼくは愉しげに言った。近くに犬の姿はなかったが、彼らは見もしなかった。「おいで、トビー!さあ、トビー、おいで!いい子だ。こっちにおいで。とびー!」、ぼくはそう呼びかけて歩いて行った。暗闇の中で陽気に口笛を吹きながら。

「近くに犬の姿はなかったが、彼らは見もしなかった。」がワーキングクラスからみたミドルクラスの危うさの隠喩と見ましたがいかがでしょうか?






[その他] 10日と25日はパン屋の日 サニーサイドアップ(中筋)


下の娘の嫁ぎ先(戸坂)へ行く途中でサンドイッチなどを購入しました。パンは菓子パン・料理パン中心の品ぞろえでイートイン席も備えてありました。

サンドイッチ2点を含んだ8点で2,322円でしたのでかなり高めの価格設定です。

孫のH君はクリームパンをおいしそうに食べておりました。

[その他] 広島掃除に学ぶ会 衹園北高校




10月20日(日曜日)は広島掃除に学ぶ会の活動で広島県立衹園北高校のトイレ掃除に参加しました。

相似に学ぶ会関係者15人、学校関係者50人、合計65人の参加がありました。

過去に一度開催されたそうですが十数年振りに2回目の開催となったそうです。なかなか継続するのは難しいのですがぜひ来年も開催してください。




[その他] 映画『イエスタデイ』を観ました



まったく売れないミュージシャン。世界が12秒ブラックアウトした間にバスに轢かれてパラレルワールドへタイムスリップ。なぜかその世界ではビートルズが存在せず曲を演奏できるのは自分だけだった。ビートルズの名曲を自作自演してロック界のスーパースターに駆け上がっていく、というよく出来た脚本で、音楽監修もよくできています。

ビートルズの曲を譜面がないので思い出しながら演奏してますが、コード進行が若干違うなど細かい点も再現され、全部はわかりませんが、おそらくビートルズの小ネタも挟んであると思います。

盗作の自戒の念との闘いもありますが、最後ハッピーエンディング。再度見てディテイルを楽しめる傑作です。

2019年10月19日土曜日

[積読立読斜読] 『巨大なラジオ/泳ぐ人』より「引っ越し日」 The Superintendent 



「引っ越し日」 The Superintendent (雑誌『ニューヨーカー』(1953年3月29日号掲載))

引き続き村上春樹さん訳のジョン・チーヴァーの短編集『巨大なラジオ/泳ぐ人』を読んでます。

"superintendent"はアメリカ映画のNYロケで良く出てくる高級アパートメントハウスの受付管理人のこと。村上春樹さんの解説から引用します。

日本におけるマンションの管理人とは立場が少し異なり、一般的により強い差配の権限と、高い地位を与えられている。大きな建物ではジャニター、ハンディーマン(用務員、雑用係)やポーター(清掃係)などがその下についている。ここではとりあえず「管理者」という訳語をあてた。高級アパートメントに住む方もいろいろと大変だた、その世話をする方もけっこう大変だ。


チーヴァーの短編は一貫してアメリカの1950年代のアッパー・ミドル(歴史上最も優雅なミドル)からの転落もしくは転落の危機を描いているように感じます。

本編は高級アパートメントハウスに住む住人の群像を、第三者的な立場である管理人を話者に仕立てるという構造で、上層階に引っ越す一家と、代わりに出ていく一家を対比させたところが秀逸と思いました。

物語のエンディングは管理人・チェスターのモノローグですが印象深かったのでちょっと長いですが引用します。

P152
 ケイティーが空模様について言っていたことは真実だった。雲が流れ始め、空に光があることにチェスターは気づいた。日が長くなりつつあるのだ。光はそこで足止めを食っているように見えた。チェスターはそれを見定めようとキャノピーの下から出た。両手を後ろで組み、遠くの空をじっと見上げた。子供の頃、雲のことを形を変えた神の都市だと考えるようにしなさいと言われたものだった。そして低いところにある雲は、今でも彼の心に幼い頃の好奇心をかき立てた。そこには聖人やら預言者やらが住んでいて、目を凝らせばそれが見えるかもしれないと思ったものだ。しかし彼が信心深い子供時代から保持していたのは、典礼的思考習慣だけではなかった。その一日は何かしらの員にを帯びることにしくじっており、そして空はその明瞭な説明を約束してくれるように見えた。
 なぜそれはしくじったのか?なぜそこには報いがなかったのか?なぜブロンコも、ベストウイック家も、ニーガス夫妻も、7Fの離婚女も、ケイティ・シェイも、見知らぬ労働者も、何ひとつ生み出さなかったのだろう?それはベストウィック家とニk-ガス夫妻とチェスターとブロンコが、お互いを助け合えなかったせいだろうか。あるいは年老いたメイドが、鳥たちに餌を与える役を見知らぬ男にわけ与えてやらなかったせいだろうか。ただそれだけのことなのか?チェスターはそう尋ね、青い空を見上げた。そこに蒸気で回答が書かれているのではないかというように。しかし空が彼に教えるのは、それは冬の終わりの長い一日だったし、もう時刻も遅いから中に入ったほうがいいということだけだった。


2019年10月18日金曜日

[その他] うっかり八兵衛の巻 帰りの切符を宅急便に入れてしまう



台風19号で被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

姪の結婚式に出席するのに合わせて、10月10日(木)から14日(月)まで長野県・新潟県を弟・母親と旅行しました。

台風被害に遭った地域のすぐそばを車で通過するという体験をして、複雑な心境です。

「うっかり八兵衛」は、復路の切符を長野から事前に送った宅急便の中に忘れてしまい、再購入せざるを得なくなりました。

駅で説明すると、再発行した切符と、未使用の切符をみどりの窓口で払い戻し可能とのことでした。

昨日広島駅のみどりの窓口で払い戻し手続きをしたところ、未使用切符と再発行切符が同じ列車の必要があったようですが、台風特別払い戻しが適用されるということで、手数料なしでの払い戻しとなりました。

スマホ対応とかで、物理的な切符でない方法も近い将来できるのでしょうか?スマホを無くさない限り対応可能かと思いました。

(回収を容易にするため再発行切符は自動改札を通らない処理がされているそうです)。

10月14日(月・祝)が長野市から広島市までJR移動の予定でした。

・台風のため長野から松本間の在来線が不通
・松本から名古屋までの特急は間引き運転
・特急はグリーン車を除き全席自由席の臨時編成

結論はこうだったのですが、前日13日の夜間になっても情報がなく、長野駅や松本駅で断片的な情報を入手するしかありませんでした。

当方は特急の指定席券がありましたが立ち席で松本~名古屋間の移動となりました。

特急列車がJR東海、JR東日本の共同運航の列車なため、情報が偏ったのかもしれません。





2019年10月17日木曜日

[自分史のレッスン] 姪の結婚式で長野市へ


2019年令和元年、60歳。

2019年10月11日(金曜日)、台風19号が接近する中、姪(弟の長女)の結婚式で長野市へ。善光寺門前の由緒ある藤屋御本陣。

余興で福山雅治さんの『家族になろうよ』を歌いました。

もう自分史ではなく他人の歴史になってますが、お二人ともお幸せに。

台風被害に遭われた皆様には謹んでお見舞い申し上げます。

2019年10月9日水曜日

[惹句どんどん] 三木谷浩史(楽天会長)


ちょっと真面目に。いろいろなところで目に付いたので。

毎日のちょっとした努力、工夫、が1年で大きな差に。

努力する人と、さぼる人を対比させたところが秀逸ですね。

[その他] ギター弾き語りサロン開店


孫の通っている千田保育園の理事長さんが「ギター弾き語りサロン」を開店。

具体的なイメージが湧きませんが興味はあります。

2019年10月7日月曜日

[惹句どんどん] 竹中直人


若大将つながりで。



若大将頑張って!

フィレオフィッシュ。



竹中直人の若い頃のギャグ。

優柔不断な若大将・加山雄三が星百合子の「若大将頑張って!」という声援で一瞬で決断するという設定。

画面は「マクドナルドの若大将」。


[惹句どんどん] 寺内タケシ

[追記]
2022年1月26日(水曜日)
正しくは田中邦衛さんでした。




若大将、ギターの弦は6本あんのか?
手の指は5本しかないのに、
どうやって弾くんだよ?(栃木なまりで)


1965年加山雄三主演の『エレキの若大将』より。

若大将の友人でギター演奏経験のない蕎麦屋の隆役で寺内タケシさんのセリフ。

ちょっとだけエレキギターの構造を教わったところいきなり練達の腕前を披露というギャグ。

出典確認中。

昨日のライブで7弦ギターを弾いている方にこのギャグを言ったところ、うまく伝わりませんでした。きっと真面目な方なのでしょう。

2019年10月6日日曜日

[同窓会] Kさんの還暦記念ライブを鑑賞



拡大同窓会。

小学校・中学校・最初の企業で、同期生だったKさんの還暦記念ライブを鑑賞。

於:ピアノバー・シタモトさん。

曲はジャズのスタンダード中心。ピアノと7弦(ボサノバ・ギター?)のトリオでした。

Kさんの縁で大学卒業後に就職した企業の人、Hさん、KIさん、と再会し、Kさんの顔の広さを再認識した次第です。



2019年10月4日金曜日

[積読立読斜読]『巨大なラジオ/泳ぐ人』(ジョン・チーヴァー)より 「再会 Reunion」




3年前に母と離婚した父と乗り継ぎ時間の間にNYのグランド・セントラル駅で再会する「掌編小説」(短編小説よりもかなり短い)。(本作品では4ページしかありません)。

父性にあこがれ再会した父は自分の外観とも相似していたため、「わが未来であると同時に宿命でもある」と当初は肯定的な感情をいだいたが、同じ時間を過ごしてみると、周囲を不愉快にさせる異才の男で失望する、という設定です。

1962年10月雑誌『ニューヨーカー』掲載。

アメリカの知識人階級の懐の深さを感じるのは、この短編が初出の形態でいまでも(有料ですが)読むことができ、著作権が切れているので、テキストも簡単に入手できる環境にあるといくことです。

太宰治の初出雑誌を読むことはかなり困難ですよね?

テキストがネットで入手できるので下記に引用します(一部イタリア語あり)。

Reunion
John Cheever
 
The last time I saw my father was in Grand Central Station. I was going from my grandmother's In the Adirondacks to a cottage on the Cape that my mother had rented, and I wrote my father that I would be in New York between trains for an hour and a half, and asked if we could have lunch together. His secretary wrote to say that he would meet me at the information booth at noon, and at twelve o'clock sharp I saw him coming through the crowd He was a stranger to me? my mother divorced him three years ago and I hadn't been with him since?but as soon as I saw him I felt that he was my father, my flesh and blood, my future and my doom. I knew that when I was grown I would be something like him; I would have to plan my campaigns within his limitations. He was a big, good-looking man, and I was terribly happy to see him again. He struck me on the back and shook my hand. "Hi, Charlie," he said. "Hi, boy. I'd like to take you up to my club, but it's in the Sixties, and if you have to catch an early train I guess we'd better get something to eat around here." He put his arm around me, and I smelled my father the way my mother sniffs a rose. It was a rich compound of whiskey, after-shave lotion, shoe polish, woolens, and the rankness of a mature male. I hoped that someone would see us together. I wished that we could be photographed. I wanted some record of our having been together.

We went out of the station and up a side street to a restaurant. It was still early, and the place was empty. The bartender was quarreling with a delivery boy, and there was one very old waiter in a red coat down by the kitchen door. We sat down, and my father hailed the waiter in a loud voice. "Kellner!" he shouted. "Garcon! Cameriere! You!" His boisterousness in the empty restaurant seemed out of place. "Could we have a little service here!" he shouted. "Chop-chop." Then he clapped his hands. This caught the waiter's attention, and he shuffled over to our table. "Were you clapping your hands at me?" he asked. "Calm down, calm down, sommelier," my father said. "If it isn't too much to ask of you?if it wouldn't be too much above and beyond the call of duty, we would like a couple of Beefeater Gibsons."

"I don't like to be clapped at," the waiter said.

"I should have brought my whistle," my father said. "I have a whistle that is audible only to the ears of old waiters. Now, take out your little pad and your little pencil and see if you can get this straight: two Beefeater Gibsons. Repeat after me: two Beefeater Gibsons."

"I think you'd better go somewhere else," the waiter said quietly.

"That," said my father, "is one of the most brilliant suggestions I have ever heard. Come on, Charlie, let's get the hell out of here."

I followed my father out of that restaurant into another. He was not so boisterous this time. Our drinks came, and he cross-questioned me about the baseball season. He then struck the edge of his empty glass with his knife and began shouting again. "Garcon! Kellner! Cameriere! You!! Could we trouble you to bring us two more of the same."

"How old is the boy?" the waiter asked.

"That," my father said, "is none of your Goddamned business."

"I'm sorry, sir," the waiter said, "but I won't serve the boy another drink."

"Well, I have some news for you," my father said. "I have some very interesting news for you. This doesn't happen to be the only restaurant in New York. They've opened another on the corner. Come on, Charlie."

He paid the bill, and I followed him out of that restaurant into another. Here the waiters wore pink jackets like hunting coats, and there was a lot of horse tack on the walls. We sat down, and my father began to shout again. "Master of the hounds! Tallyhoo and all that sort of thing. We'd like a little something in the way of a stirrup cup. Namely, two Bibson Geefeaters."

"Two Bibson Geefeaters?" the waiter asked, smiling.


"You know damned well what I want," my father said angrily. "I want two Beefeater Gibsons, and make it snappy. Things have changed in jolly old England. So my friend the duke tells me. Let's see what England can produce in the way of a cocktail."

"This isn't England," the waiter said.

"Don't argue with me," my father said. "Just do as you're told."

"I just thought you might like to know where you are," the waiter said.

"If there is one thing I cannot tolerate," my father said, "it is an impudent domestic. Come on, Charlie."

The fourth place we went to was Italian. "Buon giorno," my father said. "*Per favore, possiamo avere due cocktail americani, forti, forti. Molto gin, poco vermut.*"

"I don't understand Italian," the waiter said.

"Oh, come off it," my father said. "You understand Italian, and you know damned well you do. *Vogliamo due cocktail americani. Subito.*"

The waiter left us and spoke with the captain, who came over to our table and said, "I'm sorry, sir, but this table is reserved."

"All right," my father said. "Get us another table."

"All the tables are reserved," the captain said.

"I get it," my father said. "You don't desire our patronage. Is that it? Well, the hell with you. *Vada all'inferno.* Let's go, Charlie."

"I have to get my train," I said.

"I'm sorry, sonny," my father said. "I'm terribly sorry." He put his arm around me and pressed me against him. "I'll walk you back to the station. If there had only been time to go up to my club."

"That's all right, Daddy," I said.

"I'll get you a paper," he said. "I'll get you a paper to read on the train."

Then he went up to-a newsstand and said, "Kind sir, will you be good enough to favor me with one of your God-damned, no-good, ten-cent afternoon papers?" The clerk turned away from him and stared at a magazine cover. "Is it asking too much for you to sell me one of your disgusting specimens of yellow journalism?"

"I have to go, Daddy," I said. "It's late."

"Now, just wait a second, sonny," he said. "Just wait a second. I want to get a rise out of this chap."

"Goodbye, Daddy," I said, and I went down the stairs and got my train, and that was the last time I saw my father.



“Reunion” is a short story by the American writer John Cheever,[1] first published in the October 27, 1962 issue of The New Yorker, and later collected in The Stories of John Cheever (1978).

It is the story of the discovery of a young man, Charlie, about his father. After not seeing his father for three years, he has a chance to meet up with him for an hour and a half while waiting for a train.

https://genius.com/John-cheever-reunion-annotated

[その他] 終活断捨離 マグカップ編 今村製陶町屋JIKON



マグカップが(正確には「マグ」だそうです)なんとなく集まってきたのですが、
ほとんど使わないので断捨離することに。

第一弾は2015年に配偶者と旅行した有田焼のニューウエイブ・今村製陶のJIKONシリーズ。

形状・色・飲みやすさとも水準より上でしたが、コーヒーの本体への浸食が早く、すぐに黒くなってしまうのが難点でした(釉の問題か?)。

ペアで買いましたが、1個は自分がコーヒーを飲むのに使ってます。そこはかとない気品は流石に有田焼でしょうか。

2019年10月2日水曜日

[積読立読斜読] ジョン・チーヴァー短編集 『巨大なラジオ/泳ぐ人』より 「サットン・プレイス物語」 The Sutton Place Story



「サットン・プレイス物語」 The Sutton Place Story

"Sutton Place"は地名でニューヨーク・マンハッタンの中央東側にある高級アパートメント地区。若い夫婦に小さな女の子と60歳になる通いの乳母の日常のちょっとしたほころびの兆しがひやりとさせられれる結末。

「アッパー・ミドルクラス」の危うさを手を変え品を変え描いているように思えますが、このまま続くのだろうか。

この若い夫婦の職業は不明ですが、金回りが良く、夜は社交で忙しいようです。小さな女の子は乳母とか知人に面倒をまかせているところがあります。

夫婦以外の登場人物の特に独身のいろいろな年代の女性は、ある種の「不幸」や「不安」を抱えて生活しており、何不自由ない幼い女の子の将来も、ちょっとした躓きで暗転してしまうという不安が結末です。

『ニューヨーカー』誌、1946年掲載。

2019年10月1日火曜日

[その他] 10日と25日はパン屋の日 段原 ブズワン


ブズワン
〒732-0814 広島県広島市南区段原南1丁目2-16 Danbara Hills

9月25日に行けなかったので本日パン屋さんめぐり。段原地区の目当ての店が休みで、何度か買い物したことのある「ブズワン」へ。

閉店間際だったのであまり種類なく残念。1品1品丁寧に作られている志が伝わってきます。