2020年2月29日土曜日

[WGC] LLビーンのトートバッグ



大型のと小型のを収納とかに使ってます。右側のは20年ぐらい使用。

死ぬ時もこれだけで良いです。禅の「頭陀袋」かも。

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)8/20 『夏』の部


引き続き安西水丸さんの俳画集より。

「夕立ちや左のピアス探してる」の句と、万年筆(おそらく)でさらりと描かれたスケッチがいいですね。

『夏』の部


月見草昨日のままに咲いており
(つきみそう きのうのままに さいており)「月見草」



夏の蝶追うて果てなき空の青
(なつのちょう おうてはてなき そらのあお)「夏の蝶」


何処へ行く蝸牛の旅は下駄の上
(どこへいく かぎゅうのたびは げだのうえ)「蝸牛(かたつむり)」


夕立ちや左のピアス探してる
(ゆうだちや ひだりのピアス さがしてる)「夕立」


ゆでたまご つるんと白し夏の夕
(ゆでたまご つるんとしろし なつのゆう)「夏の夕」

[積読立読斜読] 『小川洋子と読む 内田百閒アンソロジー』(ちくま文庫、2020年)


小川洋子さん編のちくま文庫版『内田百閒アンソロジー』読了しました。

昔旺文社文庫に百閒の随筆が入っており読んだ記憶があります。その際に印象に残ったのは「借金」と「乗り物」の話です。小川洋子さんと私の好みが合わないのか、小川さんの選出は幻想的な作品が多かったです。

百閒は決して「文豪」と呼ばれるようなタイプの作家ではなく、文壇の主流からは外れた存在かとは思いますが、一貫して作品のブレがないような感じであり、それは権力に対しても同等のようで、大正14年作の「旅順入城式」は第一級の反戦文学ですし、昭和29年の「爆撃調査団」は進駐軍に対する静かな抵抗を見ることができます。

アンソロジー全体で印象に残ったのは牛と人間の合体した化け物「件(くだん)」に変身したものの、3日以内にしないといけない「予言」を思いつかない剽軽な「件」。戦意高揚映画の背面の死者を思い涙する「旅順入城式」。語り手を盲目の検校に置き、視覚以外の感覚を微細に表現した文書の「柳検校の小閑」。なぜか共通して亡くなった友人の未亡人の描き方が同じの「雲の脚」「サラサーテの盤」。震災でなくなった自分の教え子への郷愁を描いた「長春香」。少年の気紛れな純な心を表現した「琥珀」です。

今日では理解が難しい漢字が多数出てくるので、解説が欲しいところでした。

内田百閒は時々読み返したい作家ではあります。

例によって小川洋子さんの解説(感想?)です。


とおぼえ
”私”と氷屋の亭主、どちらが先に正体を現すか、気の抜けないやり取りが延々と続く。どこまでいっても二人の会話は微妙にすれ違っている。一種の対決である。ラムネの栓が抜ける音を異様に怖がり、奥さんの幽霊を見、犬の吠え出す気配を感じとる氷屋の亭主に軍配が上がりそうで、簡単に決着はつかない。”私”はどこへ帰るのか。知りたくない、知りたくないと口の中でつぶやいているうち、その声がいつの間にか、犬の遠吠えにすり替わっている。

布哇の弗(ハワイのドル)
誰かが不意に訪ねてくる。それが只者でないのか、『雲の脚』も『サラサーテの盤』も同じである。しかし水引きのかかった兎を持参したり、サラサーテの声が録音されたレコードを持ち帰ったりする人に比べて、宮本某の何と明快なことであろうか。詐欺師をこんなにも清々しく描けるとは、愉快でたまらない。騙された百閒が羨ましい。


他生の縁
この短い枚数の中に、人の生き死にも、恋も、裏切りも、人生の滑稽も、すべてが詰まっている。ジョゼフ・コーネルの箱のように、つましい欠けらが光を放っている。特にレバーだ。人を吃驚させる柄の着物に身を包み、若者の恋に興奮するレバー。彼女が箱の宇宙を回遊する。そのあとを百閒の視線が追う。それなのになぜか最後には、箱はがらんどうになっている。


黄牛
取り留めがない、と言えば、取り留めがない。ただ自分の身に着けている品に思いを巡らせているだけである。ステッキ以外はすべて安物だ。人のお古か、買ってもらったか、いずれにしてもくたびれている。なるほどなあ、とうなずいているうち、ふと思い出す。最初の段落に出てきた”黄色い朝鮮牛”を。黄色い牛なんているのか?草履の持ち主はどんな罪を犯したのか?なぜ牛が「めえ」と鳴くのか?応接室に入ってくる主人の顔を、私は決して見たくない。


長春香
こんなにも深い情を持って教え子を悼む教師がいるとは……。鳥の形をした一輪挿をそっと覗き込めば、その小さな暗がりから独逸語を暗唱する長野さんの声が聞こえてくるのだろうか。あるいは、蒟蒻に撫でられ、二つに折られ、知るがよく染みて柔らかくなったお位牌からは、長野さんと赤ちゃんたちの涙が、ふつふつとわき上がってくるのかもしれない。長野さんの声は、先生の鼓膜をいつでも震わせることができる。


梅雨韻
猫が主役なのだろうけれど、やはり、空気枕ぐらいの芋虫から目が離せない。しかも金槌の音で振い落とされるのだ。旅先の旅館で、なかなか寝つけず、寝返りを打った拍子に頭の下にあるのが枕ではなく、芋虫になっていると気づいてしまったら、どうしよう。白々しい胴体の、皺の間に自分の髪の毛が絡まっている。後頭部に蠢きを感じる。目と目が合う。想像しただけで悲鳴を上げそうになる。


雀の塒(ねぐら)
口に唾をためた雀は、どのような声で囀るのだろうか。そもそも雀は唾を分泌するのか。少年はくらくらしながら、同時にわくわくするような混乱を抱えて梯子を登る。それは唾ではなく、血かもしれないというのに、そんなことには思いも至らないまま、瓦の下に手を差し入れる。彼の手は、スズメと見分けがつかないくらいに小さい。


<資料編>
ジョゼフ・コーネル(1903年12月24日-1972年12月29日)はアメリカの彫刻作家。
前面ガラスの箱「シャドーボックス」を使ったアッサンブラージュ作品が代表的だが、ほかにシュルレアリスムから影響を受けた前衛実験映像作品でもよく知られている。


ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)


長春香:線香の一種。白檀入り。

2020年2月28日金曜日

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)7/20 『夏』の部

『夏』の部


勲受けて少し照れてる薄暑かな
(くんうけて すこしてれてる はくしょかな)「薄暑」


雨ゆきて蜘蛛の圍眞珠つらねおり
(あめゆきて くものい しんじゅつらねおり)「蜘蛛」


里山に遠く笛きく祭りかな
(さとやまに とおくふえきく まつりかな)「祭」


里山の青をまといし青蛙
(さとやまの あおをまといし あおがえる)「青蛙」


梅鼠の雨しきりなり蓮の花
(うめねずの あめしきりなり はすのはな)「蓮の花」


<資料編>
梅鼠:梅鼠(うめねずみ)とは、紅梅の花の赤みのある薄い鼠色。



蜘蛛の圍(くものい):蜘蛛の巣。歳時記によっては独立季語。

[積読立読斜読] 『小川洋子と読む 内田百閒アンソロジー』(ちくま文庫、2020年)


小川洋子さん編の『内田百閒アンソロジー』、数編ずつスローリーディング中。本日は「桃葉」「柳検校の小閑」「雲の脚」「残夢三昧」を読みました。

「桃葉」「雲の脚」「残夢三昧」の3編は非常に短い短編。多分に幻想的で編者の好みがこうなのでしょう。当方はちょっと苦手でした。

印象に残ったのは「柳検校の小閑」。このアンソロジーの中では長い作品です。百閒のいつもの諧謔、ひねりがなくストレートな純愛小説。年老いた検校の回想という設定で、語り手が盲人なので、音・匂い・風・雨などの描写が精細であり、お見事な筆力です。

百閒は実人生では宮城道雄検校に指導を受け、実際に琴の演奏に熱中したので(腕前は不明)、その経験からの作品と思われます。

例によって小川洋子さんの解説(感想?)を付します。



桃葉
小さな函に入れられた栗鼠。足許で一緒に音楽会を聴いた栗鼠。俎の上で死んだ栗鼠。もうこれだけで十分心を持っていかれる。電車の下をくぐった時に折れ曲がったか細い脚も、ピアノの音色に合わせてかさかさ鳴る音も、俎の水気でぐったり濡れた毛も、全部くっきり浮かび上がってくる。なのに百閒はそれだけで許してはくれず、更に桃の小枝を持ち出すのだ。何てずるい人だ。


柳検校の小閑
内田百閒は恋愛小説も書くのです。しかも純愛、悲恋の物語です。ただの偏屈なおじさんではないのです。と、誰彼構わず言いふらしたくなる一編。盲人が語り手でありながら、視界が遮られる不自由さは一切なく、あらゆる場面がありありと、ひたひたと映し出される。百閒は目を閉じていても、ものを見ることができる人なのだ。そのまぶたの奥に潜む暗がりで、柳検校は一人、「残月」を弾いている。


雲の脚
熊、牛、馬、蜥蜴、鶴、栗鼠……。動物が登場すると途端に百閒の小説は蠢きだす。今度は水引きを掛けた兎だ。縫いぐるみでも襟巻でも、兎の形をしたクッキーでもない。籠に入れられ、煎餅のようになってはいるが、生きた兎、生ものである。どんな好物でも、生ものをもらうと、賞味期限が切れるまでの、つまりは命が果てるまでの、わずかな残り時間の責任を押し付けられたようで、胸が塞ぐ。兎を置いて帰る女の足取りは、さぞかし晴れやかで、飛び跳ねんばかりだったに違いない。


残夢三昧
ラストを飾るのにこれほど相応しい作品は他にない。夢にはじまって、また夢に戻ってきた。少し決まりすぎのような気もするが、意図してこうなったのではない。順番をどうしようとあれこれ考えると前、事務的に取り敢えず並べておいたら、こうなった。そうしたら、はい、最初からこう決まっていたのです、とでもいうように、もはや順番をいじる必要などなくなっていた。百閒が夢で指図したとしか考えられない。

2020年2月27日木曜日

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)6/20 『夏』の部




『夏』の部

ぱたぱたと人情おくる団扇かな
(ぱたぱたと にんじょうおくる うちわかな)「団扇」


ほろ酔いの口にキャベツの甘さかな
(ほろよいの くちにキャベツの あまさかな)「キャベツ」


毒舌も親方の味寿司つまむ
(どくぜつも おやかたのあじ すしつまむ)「寿司」


冷やっこ試行錯誤の中にあり
(ひややっこ しこうさくごの なかにあり)「冷奴」


母の日やわれに偏食未だあり
(ははのひや われにへんしょく いまだあり)「母の日」

[新聞記事] 新型コロナ・ウィルスの影響を受け、国税庁が確定申告の締め切りを一か月延長



2月27日(木曜日)。

新型コロナ・ウィルスの影響を受け、国税庁が確定申告の締め切りを一か月延長。

今年いちばんうれしい新聞記事かも。

でも直前まで作業せず、4月に入って苦しむのかも。

本日付け、日本経済新聞WEB版より。

(個人事業主の確定申告を税理士さんに頼まず自力でやっているため)。

[その他] a day in the life 孫のT君(5歳)の抽象画




保育園で描いてきました。

もちろん抽象画を意図して描いたものではなく、「色遊び」でいろいろな色のクレパスを使って描くのが目的のようです。

でも抽象画としても、なかなか良いですね。

2020年2月26日水曜日

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)5/20



『春』の部


山葵手に蘊蓄たれる友とおり
(わさびてに うんちくたれる ともとおり)「山葵」







最終のバス遠ざかり花の道
(さいしゅうの バスとおざかり はなのみち)「花(桜の意)」




裏庭は市松模様に海苔干して
(うらにわは いちまつもように のりほして)「海苔」


五七五五七五と海苔を焼く
(ごぉしちご ごぉしちごと のりをやく)「海苔」


ひとり来て麦の青さにむせており
(ひとりきて むぎのあおさに むせており)「青麦」

[積読立読斜読]『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』 第4章 第一次世界大戦と日中対立の原点 奈良岡聰智



『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』(中公新書、2019年)はもともとが自民党内の勉強会の講義を新書化したもので、単純な通史ではありません。章によっては非常に短い期間のトピックを扱ったものもあり、この第4章は「対華二十一ヵ条要求」というピンポイントの歴史講義となっています。

執筆担当は1975年生まれの気鋭の日本外交史学者。オリジナルは『中央公論』(2015年9月号)の『「日中対立の原点」としての対華二十一ヵ条要求』です。

日中が対立せず、外交交渉がうまくいっていれば、その後の太平洋戦争突入は避けられたかもしれず、非常に教訓に富む記事です。



<著者プロフィール>
奈良岡聰智(ならおか・そうち)
1975年青森県生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程修了(政治学(日本政治外交史)専攻)。博士(法学)。京都大学大学院法学研究科助教授を経て、現在、京都大学大学院法学研究科教授。著書に『加藤高明と政党政治』(山川出版社、第36回吉田茂賞)、『「八月の砲声」を聞いた日本人』(千倉書房)、『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』(名古屋大学出版会、第37回サントリー学芸賞、第27回アジア・太平洋賞大賞)。


第4章 第一次世界大戦と日中対立の原点 奈良岡聰智

戦争の歴史的評価の難しさ
ヨーロッパでは第二次世界大戦の原因・期間・歴史的意義の一定のコンセンサスがある
東アジアでは、その歴史的評価が定まっていない(大戦勃発の経緯が複雑なため)

日中の対立についても多様な見方がある
1930年前後から対立を深め、やがて全面戦争に突入した(事実)


日中対立の原点としての対華二十一ヵ条要求
いつから・どのように日中対立が起こったか
日清戦争は決定的な亀裂ではない
敗戦後の清国では日本留学ブームが起きた(孫文、蒋介石などが留学)
清国は国民国家ではなかったため一般民衆は戦争に敗れたという意識が希薄だった

1915年の「対華二十一ヵ条要求」が亀裂を深めた
中国側が、日本の要求を受諾した5月9日は「国恥(こくち)記念日」とされている


満州問題―対華二十一ヵ条要求の起源
なぜ日本政府は、強圧的な要求を突如提出したのか?
背景には満州問題がある
満州権益に対する期待感は非常に強かった(日露戦争で賠償金が取れなかった)
1910年韓国併合で、満州への一層の進出機運が高まる
しかし、日本が獲得した中国大陸の権益は、不安定なもの(返還期限があった)
満州権益の租借起源延長が外交問題として意識されていた
駐英大使の加藤高明が、満州問題の解決を最も強く意識していた外交官


第一次世界大戦の勃発と対華二十一ヵ条要求
満州権益の租借期限延長は日本側に一方的に有利
中国に対しては「取引材料」が必要だった
第一次世界大戦が勃発し、加藤外相の強力なリーダーシップにより参戦
加藤の参戦の主目的は、ドイツ勢力の一掃・ドイツの持つ権益の獲得ではなかった
(ドイツから獲得した山東半島の返還を取引材料として中国から利益を引き出そうとした)

もし加藤が、満州問題(第二号)と山東問題(第一号)に絞って日中交渉を行っていれば、妥結できたかもしれない

現実には外交交渉が紛糾
(1)日本の世論の沸騰(さまざまな懸案を盛り込んで要求が膨れ上がった)
(2)加藤の外交指導の稚拙さ
(3)中国側の巧みな抵抗


対華二十一ヵ条要求をどのように見るか
帝国主義の時代ではふつうであるという見方もある
イギリス、ヨーロッパの列強からは「やり過ぎ」と見なされた
欧米の強い日本不信を招いた
また日中の友好や提携の可能性を狭めた


日中対立は避けられなかったのか
対華二十一ヵ条要求以降も、日中対立が不可避になったわけではない
(日本留学経験のある政治家との交流は続いていた)

日本人の間に「中国は日本の意のままになる客体である」という誤った認識が広がった

P106
「第一次世界大戦後、こうした対中強硬論はしばらくなりをひそめたが、1920年代後半以降、山東出兵、張作霖爆殺事件、満州事変に際して、再び盛り上がるようになっていった。その後、日本では、軍や政治家の一部が中国大陸での権益拡張を声高に叫び、メディアや世論がそれに追随し、政府がそれに引きずられるというパターンが繰り返されていくことになるが、それは、二十一ヵ条要求の際の政治決定過程の再来と見ることができる。二十一ヵ条要求は、日本政府が世論に引きずられながら、中国大陸への進出に走った嚆矢となる事例なのであり、この経験から学ぶべき教訓は、非常に大きいと言えるだろう。」


<資料編>

二十一ヵ条要求  (にじゅういっかじょうようきゅう)
第1次大戦中に日本が中国に要求した政治的・経済的諸利権の要求。対華二十一ヵ条要求ともいう。1914年第1次大戦の勃発によりヨーロッパ勢力が中国から後退したすきをねらって第2次大隈重信内閣は中国本部での利権獲得の準備に着手した。加藤高明外相は政府,軍部,財界などの諸要求をとりまとめ,5号21ヵ条の要求を作成した。その内容は,第1号で中国山東省の旧ドイツ利権の継承に鉄道新線要求など4ヵ条,第2号は旅順・大連の租借期限,満鉄安奉線の租借期限の99ヵ年延長と満蒙における日本人商租権など7ヵ条,第3号は漢冶萍煤鉄公司(かんやひようばいてつコンス)の日中合弁要求,第4号は中国沿岸港湾および島嶼の不割譲(以上を絶対必要条項とした)。第5号は中国政府の政治・財政・軍事顧問に日本人を招くこと,日中兵器の統一等7ヵ条で,中国主権侵害の政治的要求であり,これを希望条件であるとした。15年1月加藤外相は,日置(へぎ)益駐華公使を通じて袁世凱大総統に直接この要求書を手渡し,秘密保持と一括交渉を要求した。イギリスやアメリカの干渉に期待した袁は内容をアメリカ駐華公使にもらし,また中国の新聞にも報道された。しかしヨーロッパ戦況の重大化でイギリス,フランス,ロシア諸国は干渉の余裕がなく,アメリカだけは日本政府に抗議したが,きわめて妥協的なものにすぎなかった。中国民衆はこの日本の屈辱的要求にたいして日貨排斥,救国院金などの形で抗議運動を展開し,民族運動は急速に高まった。しかし,日本は青島(チンタオ)占領の日本軍を増派し,その圧力で袁政府に要求の受諾をせまり,第5号要求を保留したまま,5月9日には袁政府にこれをのませ,同月25日には諸条約・交換公文に調印した。中国民衆は5月9日を国恥記念日としてはげしい抗議運動を展開,アメリカも,中国の条約上の諸権利と門戸開放主義に反する場合はこれを認めないとの〈不承認主義〉を通告してきた。21ヵ条要求の結果は,中国の民族運動(五・四運動)およびアメリカの利害との対立をいっそう深めたばかりか,1921,22年のワシントン会議により,21ヵ条要求のうち満蒙利権をのぞくほとんどの要求は無効におわった。            由井 正臣

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加藤高明  1860‐1926(万延1‐昭和1)(かとうたかあき)
外交官,政治家。尾張藩の下級武士の出身。1881年東大法学部卒。三菱に入り,83年イギリスに留学。以後3回10年余のイギリス滞在が彼を一貫した親英外交の主張者とした。85年帰国,翌年岩崎弥太郎の長女と結婚。87年官界に入り,外務省,大蔵省勤務をへて94年駐英公使。1900年第4次伊藤博文内閣の外相として親英・対露強硬外交を推進。02‐04年代議士,04‐06年東京日日新聞社長。この間伊藤と大隈重信を結びつけ反桂太郎連合をつくる政治手腕を示した。日露戦争後第1次西園寺公望内閣の外相に就任したが,鉄道国有化に反対して下野。08年第2次桂内閣が成立すると駐英大使に起用され,13年第3次桂内閣外相となる。同年の政変後,桂のあとを受け立憲同志会総裁に就任。14年第2次大隈内閣外相として第1次世界大戦への参戦,続いて対華二十一ヵ条要求を強行。翌年辞職とともに貴族院議員に勅選。16年憲政会総裁となる。政党内閣制の樹立と選挙権の拡張をとなえ,先の強引な外交策とあわせて元老に嫌われたが,持前の剛直な性格と若槻礼次郎,浜口雄幸,安達謙蔵ら幹部の結束で,在野10年の苦境にたえた。24年第2次護憲運動の結果,護憲三派内閣を組織,日ソ国交回復,普通選挙法,治安維持法の制定,貴族院改革,行財政整理などの政策を遂行した。翌年憲政会単独内閣をつくったが,在任中病死。11年男爵,16年子爵,没時伯爵。             松尾 尊鵜

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[積読立読斜読]『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』 第8章 「南進」と対米開戦 ― 第二次世界対戦への道② 森山優





<著者プロフィール>
1962年福岡県生まれ。西南学院大学文学部卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、静岡県立大学国際関係学部准教授。専門は日本近現代史・日本外交史・インテリジェンス研究。著書に『日米開戦の政治過程』(吉川弘文館)、『日本はなぜ開戦に踏み切ったか――「両論併記」と「非決定」』(新潮選書)、『昭和史講義』(共著、ちくま新書)などがある。

https://gendai.ismedia.jp/list/author/atsushimoriyama
「現代ビジネス」より

第8章 「南進」と対米開戦 ― 第二次世界対戦への道② 森山優

ヨーロッパ戦線の激動と日本
<南進論の背景>

(1)蒋介石との直接交渉が望み薄となっていった(桐工作)
(2)欧州でのナチス・ドイツの電撃戦(1940年6月にフランスを降伏させ西ヨーロッパを征服)に多くの日本人が熱狂
(3)ドイツの背信行為(独ソ不可侵条約の締結)は忘れられた
(4)仏印(フランス領インドシナ=現ベトナム・ラオス・カンボジア)など東南アジアの宗主国の敗北は、その天然資源入手による日本の経済的発展を期待させた

英米依存体制からの脱却など内外政策の「革新」を求める勢力は、「現状維持」的な米内光政内閣を倒し、第二次近衛文麿内閣を成立させた。外相は松岡洋右(近衛と並び国民的人気があった)

第二次近衛内閣の外交方針「大東亜共栄圏の確立」では、蘭印・仏印等の南方諸地域も含むとの談話を発表

この「国策」に従って、日本が南方へと遮二無二に進んだわけではない

各勢力(参謀本部、陸軍、海軍)にそれぞれの「南進」構想があり、混乱に陥ったのが北部仏印への兵力進駐


北部仏印進駐と日独伊三国同盟
1940年8月、フランスは日本の要求を受け入れ、陸軍部隊の進駐を容認
9月、日独伊三国同盟が成立
(当初反対していた海軍は自動参戦問題(参戦は任意)がクリアされたため容認に転じた)
三国同盟は、アメリカの対日世論を極端に悪化させた


進まない「南進」構想の調整
陸軍の「南進」構想:戦争相手をイギリス・オランダにとどめアメリカとの戦争を回避(米英可分論)
海軍の「南進」構想:イギリスに対し戦争を始めればアメリカも参戦する(英米不可分論)、武力行使は自衛に限る
…両者の溝は埋まらなかった

松岡外相はシンガポール攻略構想がなければタイ・仏印施策は無意味と主張


日ソ中立条約締結と日米交渉の開始
41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。


南部仏印進駐論と松岡外相
陸海軍は、松岡外相によって店晒しにされていたタイ・仏印施策を再開
南部仏印への兵力進駐にエスカレート、対米戦も辞さないという内容で外相を説得
(松岡外相のはったりが通用しなくなった)


独ソ開戦と、その対応
ドイツが1941年6月22日にソ連への攻撃を開始、日本は対応策を立案
7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を御前会議で決定
(1)日中戦争の解決を第一義
(2)南方への進出
(3)情勢により北方への進出
(4)対英米決戦を想定

具体的に決まったのは既定のタイ・仏印施策を進めること
「国策」を根拠に南北ともに武力行使の準備を進めることは可能になった


関東軍特殊演習(関特演)の開始
独ソ戦の開始を機に、極東ソ連軍の西方移動による弱体化を前提に、陸軍で「北進」論が沸騰
東条英機陸相は関東軍特殊演習(関特演)の開始、50万人の動員を決定


松岡外相の抵抗と閣外放逐
日米交渉が進まない松岡外相の更迭を目的として、近衛首相は内閣総辞職を決断
(明治憲法では首相に閣僚の任免権はない)


第三次近衛内閣組閣と南部仏印進駐
第三次近衛内閣発足直後の、南部仏印進駐によって、アメリカが在米日本資産の凍結
(アメリカからの石油輸入も事実上禁輸)

日本国内の石油備蓄は平時で2年、戦時で1年半。戦えるうちに資源地帯を武力で占領すべしという意見が擡頭(じり貧論)。海軍が対米戦の前提条件とした「自存自衛」の危機が、現実となった


全面禁輸と日米巨頭会談
近衛首相は、アメリカ大統領のローズヴェルトとの会談を提案
(実現しなかった)


帝国国策遂行要領と近衛内閣の崩壊
日米交渉が頓挫した場合の開戦に備え、海軍も戦備充実を開始(海軍首脳部は日米開戦に消極的)
日米首脳会談が頓挫(アメリカの対日強硬派は、日本が対米戦に踏み切るとは予想していなかった)
東条陸相は日米交渉の頓挫を受け、対米(英、蘭)戦を主張
(大陸権益がなければ日本は立ち行かないという認識…当時の日本人の常識)
近衛首相は、戦争・外交・内閣の瑕疵、いずれも決めないまま総辞職


東条内閣と国策再検討
当時の日本の選択肢
(1)武力で蘭印の資源地帯を占領する
(2)外交交渉で英米の禁輸解除にこぎつける
(3)何もせずに時代の推移にまかせる(臥薪嘗胆)

結果として、起こるかどうかわからない戦争に怯えた悲観的観測が、目前の戦争を惹きよせた


戦局の見通しと選択の論理
P198
「損を防ごうと焦ると、人は期待値よりはるかにリスキーな投機的選択をしがちであるという研究成果もある(牧野〔2018〕)。対米開戦を、我々とは異質な思考様式を持つ者たちによる愚かな選択と、単純に片付けるのは難しい。」


敗戦の結果と教訓
P199
「敗戦により、日本は明治以来営々と獲得してきた植民地と大陸権益を喪った。さらに、中国の共産化は、近代において日本資本主義の発展を支えてきた市場と原材料供給地が、「竹のカーテン」(アジアにおける共産主義陣営と反共産主義との境界線)の向こうに消えていったことを意味する。そして荒廃した国土に多くの兵士と民間人(約660万人)が帰還してきた。しかし、日本はその後、植民地も大陸権益もない状況で、未曽有の経済発展を遂げた(田中宏巳『復員・引揚げの研究―奇跡の生還と再生の道』新人物往来社、2010年)。
これは歴史の後知恵だろうか。必ずしも、そうとは言えない。東郷外相は再検討の過程で、米側条件を少し緩和すれば何でも好転すると主張している(前掲『杉山メモ』上巻)。しかし、彼の主張に耳を傾ける者はいなかった。大陸権益を喪えば日本は「三等国」になるというのが、東郷以外のメンバーの認識だった。長期的な視野に立ち、過度に悲観も楽観もしない、そのような人材が政策決定の中枢に欠けていたのである。そして、そのことが何をもたらしたのか。想像を絶する犠牲をはらった戦争の結果から、引き出すべき教訓は多い。」


<資料編>
近衛文麿  1891‐1945(明治24‐昭和20)(このえふみまろ) 
軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。これは後発帝国主義国の自己主張ともいえる。1931年貴族院副議長,33年に同議長となったが,満州事変以降の政局混乱のなかで天皇に近く,各方面に顔がきき,清新さと知性をあわせもつ近衛は将来の首相と目された。軍人らがしきりと接近する一方,級友の後藤隆之助らは昭和研究会をつくって政策作りに着手した。

 二・二六事件直後に天皇から組閣を命じられて辞退したが,翌37年6月には広範な人気と期待をうけて第1次内閣をつくった。だが,7月に蘆溝橋事件がおこると高姿勢で対応して日中全面戦争に拡大させ,南京占領直後には〈国民政府を対手とせず〉声明を出して和平の道を閉ざした。しかし中国の抵抗は根強く,日本は長期戦の泥沼に引き込まれ,近衛内閣は1938年11月に東亜新秩序声明,12月に国交調整3原則の声明を出し,汪兆銘を抗戦から離脱させたところで,39年1月に総辞職し,近衛は枢密院議長となった。

その秋に第2次世界大戦が始まり,1940年初夏にヒトラーの電撃戦が成功すると,これに呼応する新体制運動の中心人物として再び脚光を浴びた。7月に第2次内閣を組織し,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立など大戦突入に備えたファシズム体制の樹立をはかった。

しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内閣を組織したが,南部仏印進駐で交渉が行き詰まるなかで,中国からの撤兵問題をめぐって東条英機陸相と対立して10月に総辞職した。太平洋戦争の敗色こい45年2月には,〈国体護持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命〉との上奏をおこない(近衛上奏文),終戦をはかった。敗戦直後には東久邇稔彦内閣の無任所大臣となり,ついで内大臣府御用掛として憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。      今井 清一

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松岡洋右  1880‐1946(明治13‐昭和21)(まつおかようすけ) 
外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。32年には上海事変処理のため外務大臣特使として上海に派遣された。また国際連盟総会には首席全権として出席し,33年2月連盟における満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の“英雄”として右翼などに歓迎された。35‐39年満鉄総裁。40年7月に近衛文麿内閣の外相となるや〈大東亜共栄圏〉の確立を主張して,日独伊三国同盟を締結し,さらにソ連を加えた四国同盟を構想した。41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。その後は結核のため療養生活を続け,戦後 A 級戦犯に指名されたが,46年6月に病死した。                     芳井 研一

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独ソ不可侵条約 (どくソふかしんじょうやく) 
1939年8月23日,空路モスクワに到着したリッベントロップ・ドイツ外相は,ただちにクレムリンでスターリン・ソ連共産党書記長,モロトフ人民委員会議長(首相)との協議に入り,その日の深更,独ソ不可侵条約を結んで世界を驚倒させた。

(1)相互の不侵略,(2)締約国の一方が第三国と戦争状態に入った場合,他方はこの第三国を援助しない,(3)共通の利害に関する相互協議,(4)締約国はいずれも,他方を対象とした国家の連合に参加しない,(5)相互間の紛争の平和的解決,(6)期限は10年,反対がなければ,その後さらに5年延長。これが条約のおもな内容であった。

さらに重大な取決めは,同時に調印された秘密議定書であり,そこでは独ソ両国が,バルト諸国とポーランドにおける勢力範囲を画定し,バルカンにおけるソ連の政治的優越性を認めた。秘密議定書についてソ連は長くその存在を否定してきたが,ペレストロイカの過程で特にバルト三国の独立運動の側からこの問題が取り上げられ,ついにソ連も調印の事実を認めた。1992年10月には議定書原本が発表された。

[背景]  第2次世界大戦直前の権力政治状況をあからさまに物語っている独ソ両国の接近は,それなりの前史をもっている。1938年10月のミュンヘン協定(ミュンヘン会談)によって国際的孤立の危険に直面したソ連外交は,翌年春以降のヨーロッパ政局の流動化とともに,その活動範囲を拡大しはじめ,再び活発な対独抵抗戦線の構築にとりかかった。しかし4月に開始された英仏ソ3国交渉は遅々として進まず,8月半ばの三国軍事交渉もソ連の英仏側に対する不信をつのらせることにしかならなかった。ソ連が英仏側との交渉に見切りをつけつつあったとき,ポーランド攻撃を準備していたドイツは,二正面作戦を避けるため,対ソ関係の打開を焦るようになった。こうして,スターリンにとって唯一の行動基準は国家的安全と領土拡大の〈権力政治〉のみとなり,ぎりぎりの段階でドイツとの協定に踏み切った。

しかし独ソ間の交渉は,ドイツと同盟交渉を続けていた日本に最後まで秘匿され,平沼騏一郎内閣は不可侵条約成立の報に接して,〈複雑怪奇〉という言葉を残して総辞職した。またソ連の行動は,反ファシズムの大義への裏切りとして,多くの共産主義者や左翼知識人の間で深刻な動揺を生んだ。⇒第2次世界大戦                     平井 友義

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大東亜共栄圏  (だいとうあきょうえいけん) 
太平洋戦争期に唱えられた,日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域。

第2次近衛文麿内閣の発足時の〈基本国策要綱〉(1940年7月26日)に〈大東亜新秩序〉の建設として掲げられ,国内の〈新体制〉確立とならぶ基本方針とされた。これはドイツの〈生存圏Lebensraum〉理論の影響を受けており,共栄圏の用語は外相松岡洋右の発言に基づく。すでに第1次近衛内閣は1938年11月,日中戦争の長期化をうけて〈東亜新秩序〉の建設を声明していたが,大東亜はそこでうたわれた〈日・満・支〉に,広く東南アジア,インド,オセアニアの一部までをも加えた範囲と考えられる。

日中戦争をめぐるアメリカ,イギリスとの対立の激化を背景に,第2次大戦の勃発に便乗して,連合国側のアジア植民地を勢力下に置こうとした日本の計画を合理化するスローガンとして脚光をあびた。

日独伊三国同盟によって枢軸国側の世界戦略構想の一環につらなり,太平洋戦争の開戦目的にもなった。日本は東南アジア各地を実際に占領したが,その支配は過酷な軍政か反動的な傀儡(かいらい)政権の樹立を通じて行われ,戦争遂行のための物資と労働力の一方的な収奪に終始し,〈共栄圏〉の美名にはほど遠かった。しかも各地の生産事情の相違や輸送力の不足から,戦時経済への寄与もごくわずかなものにとどまり,戦局の悪化とともに構想はもろくも破綻した。                岡部 牧夫

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日独伊三国同盟  (にちどくいさんごくどうめい) 
1940年,第2次近衛文麿内閣がドイツ,イタリアと結んだ軍事同盟。

ベルサイユ体制に対して最大の不満を抱いたのは第1次世界大戦の戦敗国ドイツであったが,戦勝国であるイタリアもかなりの不満をもっていた。同じく戦勝国側にあった日本も,ベルサイユ体制の太平洋版であるワシントン体制への不満から,ベルサイユ体制の柱となっていた国際連盟に挑戦するにいたった。

日本,ドイツ,イタリアが相ついで国際連盟を脱退する前後から,これら3国の接近が予想されていたが,軍事同盟への歩みは錯綜(さくそう)したものであった。日独防共協定(1936年11月25日)につづいて日独伊防共協定(1937年11月6日)が成立した後,ベルリン駐在武官大島浩と,1938年2月に外相に就任するリッベントロップとのあいだで,防共協定を軍事同盟に発展させるための交渉がつづけられた。日本海軍首脳部を中心に,日本国内にはドイツ,イタリアとの結合の強化への抵抗が強く,日本政府の態度はあいまいであった。

リッベントロップは,さしあたり日本をぬきにしてイタリアとの〈鋼鉄の同盟〉と呼ばれた独伊軍事同盟(1939年5月22日)を成立させると同時に,3国の仮想敵であるはずのソ連に接近して,独ソ不可侵条約(同年8月23日)を結んだ。ここに,当時日本で〈防共協定強化問題〉と呼ばれていた,同盟への道程の第1段階は挫折をもっていったん終りを告げた。

 同盟への道程の第2段階が本格化したのは,第2次世界大戦が〈奇妙な戦争 phony war〉の様相を脱して,ドイツの電撃戦によるヨーロッパ制覇に終わるようにみえた1940年初夏以後のことである。40年9月にリッベントロップ外相の特使シュターマー Heinrich Stahmer が来日して,9月27日に日独伊三国同盟が成立する。この第2段階での交渉は,三国同盟にソ連を加えた〈大陸ブロックcontinental block〉によりアメリカを牽制してその参戦をくいとめようという,リッベントロップの日独伊ソ四国協定構想にもとづいて進められる。
外相松岡洋右を中心とする日本側がこの構想に全面的に賛成し,日本海軍も反対をやめたために急速にまとまった。しかし,ヒトラー独裁下のドイツでは,独ソ戦に執着するヒトラーが,リッベントロップの路線とは逆に,独ソ開戦(1941年6月22日)に踏み切ったため,四国協定構想は幻想に終わり,三国同盟はいたずらに日米関係を悪化させる結果をもたらした。               三宅 正樹

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仏印進駐  (ふついんしんちゅう) 
太平洋戦争前における日本軍の2度にわたるフランス領インドシナ占領。日中戦争解決の目途を失った日本は,1940年6月フランスがドイツに降伏したのに乗じ,援待ルートの切断と東南アジア侵略の前進基地獲得をめざし,国境監視,日本軍の仏印領内通過,飛行場使用などをフランスに要求した。富永恭次参謀本部第1部長らの強硬意見にもとづき現地交渉の結果,9月22日平和進駐に関する協定が成立したが,23日現地の陸軍第5師団の一部が鎮南関付近で独断越境してフランス軍と交戦し,25日フランス軍は降伏した(北部仏印進駐)。

そのため日本とアメリカ,イギリスとの対立が強まり,アメリカは9月26日漢鉄の対日禁輸を発表し,イギリスも10月18日援待ビルマ・ルートを再開した。ついで日米交渉が難航し,独ソ戦争が開始された直後の41年6月25日,大本営政府連絡会議は〈南方施策促進に関する件〉により,南方作戦準備のため,仏印との軍事的結合関係の設定,新たな飛行場と軍港の確保,日本軍の南部仏印への進駐の諸要求を武力をもってでも貫徹するとの強硬方針を決定した。フランスは7月21日にほぼ日本の要求を受諾し,23日には現地で細目の話合いが成立した。7月28日日本軍は南部仏印へ上陸を開始し,29日仏印共同防衛に関する日仏議定書が調印された(南部仏印進駐)。

これにより日本の東南アジア侵略の方針が明確となり,日本とアメリカ,イギリス,オランダ3国との対立が決定的となると同時に,日本はインドシナの民族解放運動と対決することになった。 木坂 順一郎

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東条英機  1884‐1948(明治17‐昭和23)(とうじょうひでき) 
陸軍軍人,政治家。陸軍中将英教の子として東京市に生まれ,1905年陸軍士官学校第17期卒業。15年陸軍大学校卒業後スイス,ドイツに駐在し,陸大教官などを経て28年陸軍省整備局の初代動員課長として総力戦の準備を推進した。ついで参謀本部第1課長,陸軍省軍事調査部長などを歴任し,永田鉄山らとともに統制派の中心人物となった。35年関東軍憲兵隊司令官,36年中将昇進,37年関東軍参謀長,38年陸軍次官,航空総監などを経て,40年第2次,41年第3次近衛文麿両内閣の陸相として日独伊三国同盟締結と対米英開戦を主張した。41年首相兼陸相就任と同時に大将昇進,太平洋戦争突入を強行した。その間内相,軍需相,参謀総長等を兼任し,〈東条独裁〉と呼ばれたファシズム体制を完成させたが,44年7月総辞職した。敗戦後,極東国際軍事裁判で A級戦犯として死刑判決を受け,48年12月23日処刑された。                木坂 順一郎

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東郷茂徳  1882‐1950(明治15‐昭和25)(とうごうしげのり) 
外交官。鹿児島県に生まれ,東京帝国大学を卒業し,1912年外務省に入る。中国,欧米で勤務ののち欧米局長,欧亜局長を経て37年駐独大使,38年駐ソ大使となる。41年東条英機内閣の外相兼拓相に就任したが,42年大東亜省設置に反対して辞任,貴族院議員に勅選された。45年鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜相として太平洋戦争終結に努力した。敗戦後極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け,50年7月23日アメリカ陸軍病院で病死した。著書に《東郷茂徳外交手記――時代の一面》がある。           木坂 順一郎

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2020年2月25日火曜日

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)4/20



『春』の部

見つめればそれぞれの顔白子干
(みつめれば それぞれのかお しらすぼし)「白子干」



お遍路のトンネルを行く黴の闇
(おへんろの トンネルをゆく かびのやみ)「遍路」



初午の陸奥の湯に見る日の出かな
(はつうまの むつのゆにみる ひのでかな)「初午」



待つよりは待たせる辛さ春の月
(まるよりは またせるつらさ はるのつき)「春の月」


紙ふうせん趣味折り紙と照れる刑事
(かみふうせん しゅみおりがみと てれるデカ)「風船」



初午  (はつうま)

2月初めの午の日,およびその日の行事をいう。全国的に稲荷信仰と結びついているが,旧暦の2月初午は農事開始のころにあたり,そのために農神の性格をもつ稲荷と結びつきやすかったのであろう。関東地方では稲荷講が盛んで,稲荷の祠に幟(のぼり)を立て油揚げや赤飯などを供えて祭り,参加者が飲食を共にしている。スミツカリという独特の食品を供える所もある。子どもが稲荷祠で太鼓をたたいて過ごしたり,ときには籠(こも)ったりもする。稲荷神社としては京都の伏見稲荷大社や愛知の豊川稲荷が有名であるが,また各地には大小さまざまの稲荷があり,信仰を集めている。稲荷信仰とは別に,長野,山梨,埼玉などの養蚕地帯では,この日を養蚕祈願の日とし,蚕影様(こかげさま),オシラ様などの祭りをしたり,繭玉を作って屋内外の神に供えたりしているし,東北地方や東海地方には,馬(午)にちなんで蒼前様(そうぜんさま)や馬頭観音に参る所があるが,いずれも農事に関係したことである。近畿地方南部などでは,蛭投げなど厄払いに関するいろいろな呪法が行われる。初午だけでなく二の午,三の午までする所もあり,また2月ではなく,奄美大島のように4月初午をいう所や11月初午をする所もある。高知県には家に水をかけるなど火防の行事をする所が多いが,初午の早い年は火事が多いという火に関する俗信は全国的である。履城・福島県などではこの日は茶を飲まない,ふろをわかさないなどというが,これは火を扱うのを避けようとする気持ちからであろう。            田中 宣一

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シャコ(蝦蛄)  (シャコ mantis shrimp)

口脚目シャコ科の甲殻類(イラスト)。広義には口脚類 Stomatopoda 一般を指す呼称としても用いられる。シャコ Oratosquilla oratoria は体長15cmくらい。北海道以南~中国沿岸に分布し,内湾の砂泥底にすむ。日本沿岸にもっともふつうで,大量に漁獲され,他のごく近似の種類とともに食用とされる。生きているときは体表には灰白色の地に暗色の小点が散在しているが,煮るとエビやカニのように赤くならずに赤紫色になる。強大な捕脚(第2顎脚)の指節内縁に6~7本の鋭いとげがある。腹肢は葉状で,遊泳用であるが,その外肢の内側に樹枝状のえらがついている。雌雄ともに同様な形,色彩をしているが,雄では最後の歩脚の基部内側に生殖孔の部分が長く伸長してできた陰茎があり,第1腹肢が交尾器に変形している。雌では第6胸節腹面の中ほどに生殖孔が開き,卵巣の熟した雌では腹部が淡黄色をしている。尾節と尾肢はよく発達し,ともにがんじょうな尾扇を形成する。これは有力な遊泳器官の一つでもあり,これを用いて砂泥底に坑道を掘り,その中にすんでいる。
 夜行性で,夜間この坑道を出て,強大な捕脚を用いて,魚類,甲殻類,ゴカイ類や頭足類などを捕食する。産卵期は5~11月で,産卵後,雌は3対の顎脚で口の付近に卵塊を抱え,坑道内で保育する。胚は卵内でノープリウス期を過ごし,ゾエア期に相当する幼生期で孵化(ふか)する。
 口脚類の初期幼生には二つの型がある。シャコを含むシャコ科とこれにごく近いものでは,アリマalima 型幼生と呼ばれ,体は細長く,短く幅広い背甲をもつが,他の口脚類のものでは,エリクタスerichthus 型幼生と呼ばれ,体は少し幅広く,細長く幅狭い背甲をもつ。互いに異なった幼生型を示すが,両型とも5回ほどの脱皮の後には,共通な最後の幼生期のシンゾエア synzoea 期となり,顎脚,歩脚,腹肢なども成体によく似た形となる。この後,底生性のストマトポディト stomatopodit 期となり,背甲のとげが消えて,しだいに成体に近づく。寿命は4年くらいと思われている。シャコ類の幼生は昼間の中層や夜間の表層より集めたプランクトン中によく見られるが,カタクチイワシの稚魚を煮干しにした白子干し(しらすぼし)にも,ゾエアやメガロパといった他の甲殻類の幼生や稚魚などとともによく混じっているのが見られる。
 ミナミシャコ O. kempei は一時シャコの南方型と考えられていたが,第7胸節側縁の前棘(ぜんきよく)がないか,または不明りょうであること,および第2腹節背面に大きな黒斑を有するなどでシャコと相違している。瀬戸内海以南より華南沿岸に分布している。トゲシャコ Harpiosquilla raphideaは体長30cmに達し,口脚類中最大の種で,本州中部以南より,マレー諸島,インド洋に分布している。                      蒲生 重男

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[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)3/20



『春』の部


桜の下猫と寝転ぶ呑気かな
(はなのした ねことねころぶ のんきかな)「桜」



春寒や少し辛めのカレー食う
(はるさむや すこしからめの カレーくう)「春寒」



遠足の眠れぬ夜の淡き旅
(えんそくの ねむれぬよるの あわきたび)「遠足」



けっきょくはすべておじゃんで目刺焼く
(けっきょくは すべておじゃんで めざしやく)「目刺」



いい奴が不良ぶってるネギ坊主
(いいやつが ふりょうぶってる ネギぼうず)「葱坊主」

2020年2月24日月曜日

[その他] 10日と25日は punk in の日 廿日市バッケン・モーツアルトお菓子工場

10日と25日はパン食い(punk in)の日と称して、パン屋さん巡りをしてます。本日はお日柄もよく、ちょっと遠出(原付きで!)。25日は明日ですが平日だと動きにくいので。







洋菓子屋さんバッケンモーツアルトの廿日市工場のアウトレットに行ってきました。新聞折込広告が華やかだったため。想像していたよりパンの種類は少なく(洋菓子やさんなので当たり前ですが)残念でした。

「国産全粒粉小麦食パン」というのを購入。

工場の前からは宮島がすぐ近くに見えます。天気の良い一日でした。