<著者プロフィール>
1962年福岡県生まれ。西南学院大学文学部卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、静岡県立大学国際関係学部准教授。専門は日本近現代史・日本外交史・インテリジェンス研究。著書に『日米開戦の政治過程』(吉川弘文館)、『日本はなぜ開戦に踏み切ったか――「両論併記」と「非決定」』(新潮選書)、『昭和史講義』(共著、ちくま新書)などがある。
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「現代ビジネス」より
第8章 「南進」と対米開戦 ― 第二次世界対戦への道② 森山優
ヨーロッパ戦線の激動と日本
<南進論の背景>
(1)蒋介石との直接交渉が望み薄となっていった(桐工作)
(2)欧州でのナチス・ドイツの電撃戦(1940年6月にフランスを降伏させ西ヨーロッパを征服)に多くの日本人が熱狂
(3)ドイツの背信行為(独ソ不可侵条約の締結)は忘れられた
(4)仏印(フランス領インドシナ=現ベトナム・ラオス・カンボジア)など東南アジアの宗主国の敗北は、その天然資源入手による日本の経済的発展を期待させた
英米依存体制からの脱却など内外政策の「革新」を求める勢力は、「現状維持」的な米内光政内閣を倒し、第二次近衛文麿内閣を成立させた。外相は松岡洋右(近衛と並び国民的人気があった)
第二次近衛内閣の外交方針「大東亜共栄圏の確立」では、蘭印・仏印等の南方諸地域も含むとの談話を発表
この「国策」に従って、日本が南方へと遮二無二に進んだわけではない
各勢力(参謀本部、陸軍、海軍)にそれぞれの「南進」構想があり、混乱に陥ったのが北部仏印への兵力進駐
北部仏印進駐と日独伊三国同盟
1940年8月、フランスは日本の要求を受け入れ、陸軍部隊の進駐を容認
9月、日独伊三国同盟が成立
(当初反対していた海軍は自動参戦問題(参戦は任意)がクリアされたため容認に転じた)
三国同盟は、アメリカの対日世論を極端に悪化させた
進まない「南進」構想の調整
陸軍の「南進」構想:戦争相手をイギリス・オランダにとどめアメリカとの戦争を回避(米英可分論)
海軍の「南進」構想:イギリスに対し戦争を始めればアメリカも参戦する(英米不可分論)、武力行使は自衛に限る
…両者の溝は埋まらなかった
松岡外相はシンガポール攻略構想がなければタイ・仏印施策は無意味と主張
日ソ中立条約締結と日米交渉の開始
41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。
南部仏印進駐論と松岡外相
陸海軍は、松岡外相によって店晒しにされていたタイ・仏印施策を再開
南部仏印への兵力進駐にエスカレート、対米戦も辞さないという内容で外相を説得
(松岡外相のはったりが通用しなくなった)
独ソ開戦と、その対応
ドイツが1941年6月22日にソ連への攻撃を開始、日本は対応策を立案
7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を御前会議で決定
(1)日中戦争の解決を第一義
(2)南方への進出
(3)情勢により北方への進出
(4)対英米決戦を想定
具体的に決まったのは既定のタイ・仏印施策を進めること
「国策」を根拠に南北ともに武力行使の準備を進めることは可能になった
関東軍特殊演習(関特演)の開始
独ソ戦の開始を機に、極東ソ連軍の西方移動による弱体化を前提に、陸軍で「北進」論が沸騰
東条英機陸相は関東軍特殊演習(関特演)の開始、50万人の動員を決定
松岡外相の抵抗と閣外放逐
日米交渉が進まない松岡外相の更迭を目的として、近衛首相は内閣総辞職を決断
(明治憲法では首相に閣僚の任免権はない)
第三次近衛内閣組閣と南部仏印進駐
第三次近衛内閣発足直後の、南部仏印進駐によって、アメリカが在米日本資産の凍結
(アメリカからの石油輸入も事実上禁輸)
日本国内の石油備蓄は平時で2年、戦時で1年半。戦えるうちに資源地帯を武力で占領すべしという意見が擡頭(じり貧論)。海軍が対米戦の前提条件とした「自存自衛」の危機が、現実となった
全面禁輸と日米巨頭会談
近衛首相は、アメリカ大統領のローズヴェルトとの会談を提案
(実現しなかった)
帝国国策遂行要領と近衛内閣の崩壊
日米交渉が頓挫した場合の開戦に備え、海軍も戦備充実を開始(海軍首脳部は日米開戦に消極的)
日米首脳会談が頓挫(アメリカの対日強硬派は、日本が対米戦に踏み切るとは予想していなかった)
東条陸相は日米交渉の頓挫を受け、対米(英、蘭)戦を主張
(大陸権益がなければ日本は立ち行かないという認識…当時の日本人の常識)
近衛首相は、戦争・外交・内閣の瑕疵、いずれも決めないまま総辞職
東条内閣と国策再検討
当時の日本の選択肢
(1)武力で蘭印の資源地帯を占領する
(2)外交交渉で英米の禁輸解除にこぎつける
(3)何もせずに時代の推移にまかせる(臥薪嘗胆)
結果として、起こるかどうかわからない戦争に怯えた悲観的観測が、目前の戦争を惹きよせた
戦局の見通しと選択の論理
P198
「損を防ごうと焦ると、人は期待値よりはるかにリスキーな投機的選択をしがちであるという研究成果もある(牧野〔2018〕)。対米開戦を、我々とは異質な思考様式を持つ者たちによる愚かな選択と、単純に片付けるのは難しい。」
敗戦の結果と教訓
P199
「敗戦により、日本は明治以来営々と獲得してきた植民地と大陸権益を喪った。さらに、中国の共産化は、近代において日本資本主義の発展を支えてきた市場と原材料供給地が、「竹のカーテン」(アジアにおける共産主義陣営と反共産主義との境界線)の向こうに消えていったことを意味する。そして荒廃した国土に多くの兵士と民間人(約660万人)が帰還してきた。しかし、日本はその後、植民地も大陸権益もない状況で、未曽有の経済発展を遂げた(田中宏巳『復員・引揚げの研究―奇跡の生還と再生の道』新人物往来社、2010年)。
これは歴史の後知恵だろうか。必ずしも、そうとは言えない。東郷外相は再検討の過程で、米側条件を少し緩和すれば何でも好転すると主張している(前掲『杉山メモ』上巻)。しかし、彼の主張に耳を傾ける者はいなかった。大陸権益を喪えば日本は「三等国」になるというのが、東郷以外のメンバーの認識だった。長期的な視野に立ち、過度に悲観も楽観もしない、そのような人材が政策決定の中枢に欠けていたのである。そして、そのことが何をもたらしたのか。想像を絶する犠牲をはらった戦争の結果から、引き出すべき教訓は多い。」
<資料編>
近衛文麿 1891‐1945(明治24‐昭和20)(このえふみまろ)
軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。これは後発帝国主義国の自己主張ともいえる。1931年貴族院副議長,33年に同議長となったが,満州事変以降の政局混乱のなかで天皇に近く,各方面に顔がきき,清新さと知性をあわせもつ近衛は将来の首相と目された。軍人らがしきりと接近する一方,級友の後藤隆之助らは昭和研究会をつくって政策作りに着手した。
二・二六事件直後に天皇から組閣を命じられて辞退したが,翌37年6月には広範な人気と期待をうけて第1次内閣をつくった。だが,7月に蘆溝橋事件がおこると高姿勢で対応して日中全面戦争に拡大させ,南京占領直後には〈国民政府を対手とせず〉声明を出して和平の道を閉ざした。しかし中国の抵抗は根強く,日本は長期戦の泥沼に引き込まれ,近衛内閣は1938年11月に東亜新秩序声明,12月に国交調整3原則の声明を出し,汪兆銘を抗戦から離脱させたところで,39年1月に総辞職し,近衛は枢密院議長となった。
その秋に第2次世界大戦が始まり,1940年初夏にヒトラーの電撃戦が成功すると,これに呼応する新体制運動の中心人物として再び脚光を浴びた。7月に第2次内閣を組織し,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立など大戦突入に備えたファシズム体制の樹立をはかった。
しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内閣を組織したが,南部仏印進駐で交渉が行き詰まるなかで,中国からの撤兵問題をめぐって東条英機陸相と対立して10月に総辞職した。太平洋戦争の敗色こい45年2月には,〈国体護持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命〉との上奏をおこない(近衛上奏文),終戦をはかった。敗戦直後には東久邇稔彦内閣の無任所大臣となり,ついで内大臣府御用掛として憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。 今井 清一
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松岡洋右 1880‐1946(明治13‐昭和21)(まつおかようすけ)
外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。32年には上海事変処理のため外務大臣特使として上海に派遣された。また国際連盟総会には首席全権として出席し,33年2月連盟における満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の“英雄”として右翼などに歓迎された。35‐39年満鉄総裁。40年7月に近衛文麿内閣の外相となるや〈大東亜共栄圏〉の確立を主張して,日独伊三国同盟を締結し,さらにソ連を加えた四国同盟を構想した。41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。その後は結核のため療養生活を続け,戦後 A 級戦犯に指名されたが,46年6月に病死した。 芳井 研一
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独ソ不可侵条約 (どくソふかしんじょうやく)
1939年8月23日,空路モスクワに到着したリッベントロップ・ドイツ外相は,ただちにクレムリンでスターリン・ソ連共産党書記長,モロトフ人民委員会議長(首相)との協議に入り,その日の深更,独ソ不可侵条約を結んで世界を驚倒させた。
(1)相互の不侵略,(2)締約国の一方が第三国と戦争状態に入った場合,他方はこの第三国を援助しない,(3)共通の利害に関する相互協議,(4)締約国はいずれも,他方を対象とした国家の連合に参加しない,(5)相互間の紛争の平和的解決,(6)期限は10年,反対がなければ,その後さらに5年延長。これが条約のおもな内容であった。
さらに重大な取決めは,同時に調印された秘密議定書であり,そこでは独ソ両国が,バルト諸国とポーランドにおける勢力範囲を画定し,バルカンにおけるソ連の政治的優越性を認めた。秘密議定書についてソ連は長くその存在を否定してきたが,ペレストロイカの過程で特にバルト三国の独立運動の側からこの問題が取り上げられ,ついにソ連も調印の事実を認めた。1992年10月には議定書原本が発表された。
[背景] 第2次世界大戦直前の権力政治状況をあからさまに物語っている独ソ両国の接近は,それなりの前史をもっている。1938年10月のミュンヘン協定(ミュンヘン会談)によって国際的孤立の危険に直面したソ連外交は,翌年春以降のヨーロッパ政局の流動化とともに,その活動範囲を拡大しはじめ,再び活発な対独抵抗戦線の構築にとりかかった。しかし4月に開始された英仏ソ3国交渉は遅々として進まず,8月半ばの三国軍事交渉もソ連の英仏側に対する不信をつのらせることにしかならなかった。ソ連が英仏側との交渉に見切りをつけつつあったとき,ポーランド攻撃を準備していたドイツは,二正面作戦を避けるため,対ソ関係の打開を焦るようになった。こうして,スターリンにとって唯一の行動基準は国家的安全と領土拡大の〈権力政治〉のみとなり,ぎりぎりの段階でドイツとの協定に踏み切った。
しかし独ソ間の交渉は,ドイツと同盟交渉を続けていた日本に最後まで秘匿され,平沼騏一郎内閣は不可侵条約成立の報に接して,〈複雑怪奇〉という言葉を残して総辞職した。またソ連の行動は,反ファシズムの大義への裏切りとして,多くの共産主義者や左翼知識人の間で深刻な動揺を生んだ。⇒第2次世界大戦 平井 友義
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大東亜共栄圏 (だいとうあきょうえいけん)
太平洋戦争期に唱えられた,日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域。
第2次近衛文麿内閣の発足時の〈基本国策要綱〉(1940年7月26日)に〈大東亜新秩序〉の建設として掲げられ,国内の〈新体制〉確立とならぶ基本方針とされた。これはドイツの〈生存圏Lebensraum〉理論の影響を受けており,共栄圏の用語は外相松岡洋右の発言に基づく。すでに第1次近衛内閣は1938年11月,日中戦争の長期化をうけて〈東亜新秩序〉の建設を声明していたが,大東亜はそこでうたわれた〈日・満・支〉に,広く東南アジア,インド,オセアニアの一部までをも加えた範囲と考えられる。
日中戦争をめぐるアメリカ,イギリスとの対立の激化を背景に,第2次大戦の勃発に便乗して,連合国側のアジア植民地を勢力下に置こうとした日本の計画を合理化するスローガンとして脚光をあびた。
日独伊三国同盟によって枢軸国側の世界戦略構想の一環につらなり,太平洋戦争の開戦目的にもなった。日本は東南アジア各地を実際に占領したが,その支配は過酷な軍政か反動的な傀儡(かいらい)政権の樹立を通じて行われ,戦争遂行のための物資と労働力の一方的な収奪に終始し,〈共栄圏〉の美名にはほど遠かった。しかも各地の生産事情の相違や輸送力の不足から,戦時経済への寄与もごくわずかなものにとどまり,戦局の悪化とともに構想はもろくも破綻した。 岡部 牧夫
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日独伊三国同盟 (にちどくいさんごくどうめい)
1940年,第2次近衛文麿内閣がドイツ,イタリアと結んだ軍事同盟。
ベルサイユ体制に対して最大の不満を抱いたのは第1次世界大戦の戦敗国ドイツであったが,戦勝国であるイタリアもかなりの不満をもっていた。同じく戦勝国側にあった日本も,ベルサイユ体制の太平洋版であるワシントン体制への不満から,ベルサイユ体制の柱となっていた国際連盟に挑戦するにいたった。
日本,ドイツ,イタリアが相ついで国際連盟を脱退する前後から,これら3国の接近が予想されていたが,軍事同盟への歩みは錯綜(さくそう)したものであった。日独防共協定(1936年11月25日)につづいて日独伊防共協定(1937年11月6日)が成立した後,ベルリン駐在武官大島浩と,1938年2月に外相に就任するリッベントロップとのあいだで,防共協定を軍事同盟に発展させるための交渉がつづけられた。日本海軍首脳部を中心に,日本国内にはドイツ,イタリアとの結合の強化への抵抗が強く,日本政府の態度はあいまいであった。
リッベントロップは,さしあたり日本をぬきにしてイタリアとの〈鋼鉄の同盟〉と呼ばれた独伊軍事同盟(1939年5月22日)を成立させると同時に,3国の仮想敵であるはずのソ連に接近して,独ソ不可侵条約(同年8月23日)を結んだ。ここに,当時日本で〈防共協定強化問題〉と呼ばれていた,同盟への道程の第1段階は挫折をもっていったん終りを告げた。
同盟への道程の第2段階が本格化したのは,第2次世界大戦が〈奇妙な戦争 phony war〉の様相を脱して,ドイツの電撃戦によるヨーロッパ制覇に終わるようにみえた1940年初夏以後のことである。40年9月にリッベントロップ外相の特使シュターマー Heinrich Stahmer が来日して,9月27日に日独伊三国同盟が成立する。この第2段階での交渉は,三国同盟にソ連を加えた〈大陸ブロックcontinental block〉によりアメリカを牽制してその参戦をくいとめようという,リッベントロップの日独伊ソ四国協定構想にもとづいて進められる。
外相松岡洋右を中心とする日本側がこの構想に全面的に賛成し,日本海軍も反対をやめたために急速にまとまった。しかし,ヒトラー独裁下のドイツでは,独ソ戦に執着するヒトラーが,リッベントロップの路線とは逆に,独ソ開戦(1941年6月22日)に踏み切ったため,四国協定構想は幻想に終わり,三国同盟はいたずらに日米関係を悪化させる結果をもたらした。 三宅 正樹
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仏印進駐 (ふついんしんちゅう)
太平洋戦争前における日本軍の2度にわたるフランス領インドシナ占領。日中戦争解決の目途を失った日本は,1940年6月フランスがドイツに降伏したのに乗じ,援待ルートの切断と東南アジア侵略の前進基地獲得をめざし,国境監視,日本軍の仏印領内通過,飛行場使用などをフランスに要求した。富永恭次参謀本部第1部長らの強硬意見にもとづき現地交渉の結果,9月22日平和進駐に関する協定が成立したが,23日現地の陸軍第5師団の一部が鎮南関付近で独断越境してフランス軍と交戦し,25日フランス軍は降伏した(北部仏印進駐)。
そのため日本とアメリカ,イギリスとの対立が強まり,アメリカは9月26日漢鉄の対日禁輸を発表し,イギリスも10月18日援待ビルマ・ルートを再開した。ついで日米交渉が難航し,独ソ戦争が開始された直後の41年6月25日,大本営政府連絡会議は〈南方施策促進に関する件〉により,南方作戦準備のため,仏印との軍事的結合関係の設定,新たな飛行場と軍港の確保,日本軍の南部仏印への進駐の諸要求を武力をもってでも貫徹するとの強硬方針を決定した。フランスは7月21日にほぼ日本の要求を受諾し,23日には現地で細目の話合いが成立した。7月28日日本軍は南部仏印へ上陸を開始し,29日仏印共同防衛に関する日仏議定書が調印された(南部仏印進駐)。
これにより日本の東南アジア侵略の方針が明確となり,日本とアメリカ,イギリス,オランダ3国との対立が決定的となると同時に,日本はインドシナの民族解放運動と対決することになった。 木坂 順一郎
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東条英機 1884‐1948(明治17‐昭和23)(とうじょうひでき)
陸軍軍人,政治家。陸軍中将英教の子として東京市に生まれ,1905年陸軍士官学校第17期卒業。15年陸軍大学校卒業後スイス,ドイツに駐在し,陸大教官などを経て28年陸軍省整備局の初代動員課長として総力戦の準備を推進した。ついで参謀本部第1課長,陸軍省軍事調査部長などを歴任し,永田鉄山らとともに統制派の中心人物となった。35年関東軍憲兵隊司令官,36年中将昇進,37年関東軍参謀長,38年陸軍次官,航空総監などを経て,40年第2次,41年第3次近衛文麿両内閣の陸相として日独伊三国同盟締結と対米英開戦を主張した。41年首相兼陸相就任と同時に大将昇進,太平洋戦争突入を強行した。その間内相,軍需相,参謀総長等を兼任し,〈東条独裁〉と呼ばれたファシズム体制を完成させたが,44年7月総辞職した。敗戦後,極東国際軍事裁判で A級戦犯として死刑判決を受け,48年12月23日処刑された。 木坂 順一郎
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東郷茂徳 1882‐1950(明治15‐昭和25)(とうごうしげのり)
外交官。鹿児島県に生まれ,東京帝国大学を卒業し,1912年外務省に入る。中国,欧米で勤務ののち欧米局長,欧亜局長を経て37年駐独大使,38年駐ソ大使となる。41年東条英機内閣の外相兼拓相に就任したが,42年大東亜省設置に反対して辞任,貴族院議員に勅選された。45年鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜相として太平洋戦争終結に努力した。敗戦後極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け,50年7月23日アメリカ陸軍病院で病死した。著書に《東郷茂徳外交手記――時代の一面》がある。 木坂 順一郎
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