2020年4月29日水曜日

[あの頃のレコード] "Sheet Music" (10cc, 1974)



"Sheet Music"はイギリスのバンド、10ccの2枚目のアルバム。1974年の作品。

10ccは1972年に結成、翌年"10cc"でデビュー、メンバーが入れ替わりつつ現在も活動している非常に息の長いバンドですが、オリジナルの4人のメンバーが在籍していたのは197年から1976年まで。いずれのメンバーもキャリアは10年以上あり実力充分のデビューだったようです。

全部のアルバムを聴いたわけではありませんが、オリジナルメンバーによるデビューからの4枚の世評が高く、当ブログでもかなり前に"How dare you!"を記事にしました。


2014年5月28日水曜日
[あの頃のレコード] 10cc "How dare you!"
https://28minami-owaki.blogspot.com/2014/05/10cc-how-dare-you.html

このレコードは長らく当方のレコード棚にあったもので、改めて記事にしたのは、最近よく観る音楽系YouTubeの「みのミュージック」が取り上げていたからです。


https://youtu.be/gsZy3Y2AFG0
「みのが選ぶマジで好きなアルバム50後編」

採用の理由が面白く、70年代に活躍していた伝説のバンド「葡萄畑」がパクった、オリジナルの曲だ、というものです。後付けで聴いてみたら超カッコよかったのでということで、若いミュージシャンの方なので10ccは現役では聴いていなかったのでしょう。

そのパックった曲はマンガ『がきデカ』から生まれた曲です。

『がきデカ』は1974年から1980年まで『週刊少年チャンピオン』に連載された漫画で、1975年に葡萄畑というバンドが原作5巻では歌詞も掲載している「恐怖のこまわり君」(作詞 - 山上たつひこ / 作曲 - 青木和義)という曲をポリドール(現・ユニバーサル ミュージック)から発売し、ヒットした。この曲がまるまる本アルバムの"Silly Lo
ve"のパクリ。

改めて数回聴き通してみると、メロディーの主旋律は非常に単純な親しみやすいラインなのですが、転調につぐ転調を繰り返し、ヴォーカル・コーラスとも非常に凝った、楽器の使い方も一筋縄でなく、実力十分なバンドの努力の跡を見せない佳曲が続きます。

ミュージシャンのみのさんから見たら、楽曲制作のサンプルのヒントのように思えたかも。

アルバム全体を貫くコンセプトはないようです(全体的にはアメリカ人をバカにした曲が多いですが)。タイトルの"Sheet Music"も「バラバラの楽譜」と取るか、「シーツに包まれた音楽」と取るか、不明です。(デザインは例によってよく分からないHipgnosisが担当)。

ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、最近では再評価が高いクイーンなどの大御所と比べると物足りないかも知れません。ストーンズはストーンズ、ツェッペリンはツェッペリン、それはそれで。

もし10ccがUKのロックシーンに存在しなかったら、それは随分と退屈なものだったかも知れません。


side A
1."The Wall Street Shuffle"
2."The Worst Band in the World"
3."Hotel"
4."Old Wild Men"
5."Clockwork Creep"

side B
6."Silly Love"
7."Somewhere in Hollywood"
8."Baron Samedi"
9."The Sacro-Iliac"
10."Oh Effendi"

[その他] GWスペシャル スピーカー自作レポート①




皆実28期軽音楽部四畳半オーディオ課 特別企画
GWスピーカー自作レポート

いつもは雑誌『stereo』が毎年7月頃発売するスピーカーユニット付のムックでスピーカーを自作しておりましたが、コロナ禍による外出自粛でGW期間中行くところがなく暇なので、前倒しでスピーカーを自作することにしました。

講談社から出版されているスピーカー自作派のバイブル『世界でただひとつ自分だけの手作りスピーカーを作る』(長岡鉄男著、講談社、2004年)から、20cmウーファー(低音用)と10cmフルレンジ(中高音用)を使ったスピーカーを作ります。

市販品と同じような四角い箱だと面白くないので、ろくろ首のような奇怪な外観のタイプを選びましたが、理論的には整合性があるそうです。フルレンジは取付面からの音の干渉を極力防ぐため点音源に近い形の設計になっています。ウーファーはバスレフタイプで後方にダクトが開いています。横から見るとフルレンジが後退して付けられています。面位置で揃えると高音が張り出して聞き苦しくなるからだそうです。

自作スピーカーのユニットにあまり高額なものを使用しても面白くないので(四畳半オーディオ課の理念に反するため)、フルレンジは定評あるフォステクスのP100K(1ユニット、1564円(税込み))、ウーファーは中国製の8PF-8(1ユニット、3181円(税込み))としました。すべて秋葉原のスピーカーユニット専門店コイズミ無線からの通販で揃えました(便利な時代になりました)。

完成まで続報します。






<日々是不穏 like a rolling stone> 新型コロナウィルス どのように日常は戻るのか

自分は職も失わず、テレワークもなく、適度に外出もしており、まったくの日常に近い生活を送っています。しかし飲食店やデパートは閉まっており、何か申し訳ない気持ちです。

いつもとの状態に戻るのかと思っておりましたところ、時宜にかなった記事が新聞に。この程度の内容もアメリカの研究所の報告書に頼らないといけないのでしょうか。

2020年4月29日(水曜日・祝日)朝日新聞記事より。

この記事によると国内の感染者は累計で約1万4千人。亡くなられた方は376名だそうです(厚労省発表)。

適当に参照した死者数ですが、餅などの誤嚥による死者が年間8000人いるそうで、餅による誤嚥は1月だけで1300人おられるそうです。

コロナ禍の対策は餅の誤嚥を防ぐためにすべての飲食店に休業を強いているような感じもします。








[積読立読斜読] 『勉強が死ぬほど面白くなる 独学の教科書』(中田敦彦著、SBクリエイティブ、2019年11月27日)



当方はいつのまにかテレビをまったく観なくなりました。

代わりにパソコンで、YouTubeの番組、映画を見ています。

教育系YouTubeの分野で、2019年春に「中田敦彦のYouTube大学」を2019年春に開設し、瞬く間にチャンネル登録者数100万人を突破した中田敦彦さんが開設から現在までの手の内を明かしてくれたのが本書です。番組もよく観ています。

高学歴芸人の本領発揮で、戦略をきちんと構築されているようです。大変面白かったです。YouTubeの有効活用のガイドとしても読めます。

・テレビ界での行き詰まり(メディア、自分の両方)から「教育系YouTube」をめざす
・テレビ番組は枠が決まっている(時間、視聴者(高齢)、MC中心の議論)

・「YouTube×教育×お笑い」をコンセプトとした、短時間でザッと学べる「エクストリーム授業」を思いついた(対象は20~30代)

・YouTubeはテレビの歴史を10倍速でトレースしている世界(中田さんの仮設)
・教育系YouTubeのキュレーションをしている人は少ない

・「新時代を生き抜くための教養」
・「YouTube界の池上彰」を狙っている


中田式独学勉強法6つのルール
①「読書」の目的を明確にする
②情報収集は「1冊の本」を軸にする
③本で学んだ知識を「体感」してみる
④「誰かに話すこと」を前提に本を読む
⑤「テレビ番組」を学びのツールにしない
⑥「歴史」を軸に、その他の分野を横展開で学ぶ…自分の頭の中で知識を1つに体系立てて整理しやすくなる


<歴史の独学法>
世界史→日本史の順に学ぶと歴史が10倍面白くなる
覚えておくと便利な日本史の年号

①卑弥呼にサンキュー(卑弥呼239)
②こくみ(593)ん思いの聖徳太子
③なんど(710)見事な平城京
④鳴くよ(794)うぐいす平安京
⑤いい箱(1185)つくろう鎌倉幕府
⑥いざ国(1392)まとめる南北朝
⑦室町滅びて以後なみ(1573)だ…安土桃山時代の始まり
⑧人群れ見(1603)上げる江戸幕府
⑨一夜むなしき(8167)しき大政奉還
⑩従く意思(1914)固める第一次世界大戦
⑪いくさく(1939)るしい第二次世界大戦
⑫いくbヴぁく(1989)かの希望を持って平成時代



例:鎌倉幕府に注目せず、宗教家に注目
法然・親鸞・一編・日蓮・栄西・道元

法然・親鸞・一編・日蓮:念仏や題目を唱えれば救われる
法然:阿弥陀様にお願いすれば救われる
親鸞(法然の弟子):1回唱えれば大丈夫
一編:踊念仏

栄西:座禅・禅問答
道元:座禅重視


江戸時代の幕府の統治方法
①武断政治…徳川家康のパーフェクト・コントロールに注目
②文治政治
③享保の改革
④大御所時代
⑤大政奉還


<政治経済の独学法>
米中対立:「トゥキディデスの罠」、かつての覇権国家と次の覇権国家は仲良くできない
独裁制とハイテクは親和性が高い


<英語の独学法>
英語のチャンネル
Hapa英会話、IU-Connect英会話、バイリンガール英会話
中田さんは将来アメリカで生活したいため英語を学んでいる


<特別対談>
ヨビノリたくみ(数学)
ムンディ先生(歴史)

[積読立読斜読] 『要点で学ぶデザインの法則』17/30


081 最上位桁(左端桁)効果
082 レジビリティ(視認性)
083 ライフサイクル
084 平均顔効果
085 マジック・トライアングル












[積読立読斜読] 読了しました → 『米の日本史  稲作伝来、軍事物資から和食文化まで』 (佐藤洋一郎 著) 第1章 稲作がやってきた―気配と情念の時代―弥生時代の前半まで


スローリーディング中の中公新書『米の日本史』。本日は「第1章 稲作がやってきた―気配と情念の時代」を読みました。これで読了です。

「日本史」と謳う割には百科事典の記述以上の知見はなく、ご専門が農学で、一般読者があまり興味のなさそうな米の品種の記述が多く、少し冗長な内容でした。

末尾で地球環境問題から日本で「米と魚(淡水魚)」(大規模水田以前の水田)への回帰を提言されていますが、具体的な事例がなく残念でした。

末尾に相当長いですが平凡社の『世界大百科事典』より「徐福」「米」「稲作」の項目を引用します。

第1章 稲作がやってきた―気配と情念の時代―弥生時代の前半まで
西日本各地で水田での稲作が始まる
米はまだ主食にはなっていない

著者が使った「気配と情念」という言葉は、「日本文化のもっとも広くもっとも古い基層を形づくる時期の精神性の面」からの言葉だそうです。

従来は「縄文文化」とされていた時代で、稲作・米食史からは、「水田耕作と米食が渡来し、ゆるやかに社会に浸透していった時代」

縄文時代=土器のはじまり=集団の定着性が高まったことを意味する

日本での農耕のはじまりは、縄文時代中期

日本列島にいつイネがやってきたかの定説はない

水田稲作に限定すれば、約3000年前に渡来(国立民族博物館研究グループ)
(水田稲作以外ではさらに古いと推測される)

焼き畑地での稲作文化は、米は主要なエネルギー源ではない

水田稲作の最初のトライは九州北部

「徐福」伝説のように少人数の集団が渡来し稲作を持ち込んだ説もある
収穫できるまでの間「屯田」として後方支援があったと推測される

渡来の経路
①半島経由
②直接渡来
③琉球列島経由

籾摺り器以前の時代で、杵と臼で、搗き米を食べていた可能性が高い


<資料編>
徐福 (じょふく)

中国,秦代の方士。徐市(じよふつ)とも。斉(山東省)の出身で,斉の地に伝わる神仙説を宣伝し,秦の始皇帝に取り入り,東海中の三神山(楕族,方丈,瀛洲(えいしゆう))に仙人や不死の仙薬を求める探検に巨額の援助を受ける。童男,童女数千人をつれて船出をしたほか,のちにはまた海神と戦うと称し兵士ももらい受けた。彼は海上に広々とした土地(一説に亶洲(たんしゆう)という)を発見しその地の王になったとされる。徐福は日本の熊野に来たのだという伝説のほか,亶洲は種子島だとする説,あるいは彼がすなわち神武天皇で,日本に入って国を立てたのだとする説などがあるが,いずれも実証を欠く。           小南 一郎

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.


稲作文化 
いなさくぶんか

稲作文化とは長い歴史を通じて形づくられた稲作民族の伝統的な生活様式であり,稲作をめぐる技術・社会・文化・宗教の体系として組み立てられ,統合された文化の型をいう。地域的にはインド東部から東南アジア,中国南部をへて日本にいたる地域にほぼ共通にみられる文化の特色,とくにそのうちの基層文化を指していうことが多い。また,この文化の地域的なひろがりを稲作文化圏と呼ぶこともある。もちろん,稲作文化という明確な定義があるわけではなく,諸民族の稲作そのものにも技術段階の相違と多様性があり,狩猟・漁労をはじめ他の生業との兼ねあいもあるから,上記の諸地域に生活する民族のすべてを稲作文化の担い手というわけにはいかない。また,稲作以前の農耕様式,たとえばいも類やサゴヤシ栽培などから稲作への移行についても,必ずしもはっきりしているわけではない。したがって,稲作文化と呼ばれる民族文化の様式とその構成要素のすべてが,もっぱら稲作に由来するものであるかどうか,必ずしも明らかではない。したがって当面のところは,現にさかんに稲作を行っている上記の諸地域に特徴的な文化を,稲作文化としてとらえるほかはない。

【焼畑陸稲栽培民の文化】
 稲作文化について考える場合には,山地にひろがっている焼畑陸稲栽培民の文化と平地に展開している水田稲作民の文化を区別し,比較検討をくわえながら,それぞれの文化の本質を明らかにするとともに,両者の関係を分析することが必要である。もちろん,一口に焼畑陸稲栽培民の文化(焼畑陸稲栽培文化)といっても,その分布はインド東部から東南アジア大陸部の山地および島嶼(とうしよ)部におよぶ広範なものであるから,簡単に概括することは困難である。しかし,彼らの文化に共通する特色がみられることも事実であるし,それが後に水田稲作文化として展開し,発達する以前の,より古層の文化を代表していることもほぼ認められるであろう。
 彼らは乾季のさなかに山地斜面の森林を伐採し,十分に乾燥したことをたしかめてから火入れをする。その後,跡地を整理し,倒木などを利用して畑地を家族ごとに割りあててから,雨季の到来を待ち,掘棒を用いて畑地に穴をあけながら種もみをまいていく。その後,害鳥を追い,雑草を引くなどの管理をへて,やがて刈入れの時期を迎えることになる。石記丁あるいは穂刈り鎌を用いて成熟した穂をつみ取り,刈稲を背負籠に入れて村に運ぶ。刈稲はそのまま米倉ないし大籠に収納され,必要に応じて脱穀,精米される。その際,竪杵,竪臼を使うことが多いが,ときには数人の女性が同時に使用するために横臼を用いることもある。
 焼畑陸稲栽培民の特色は移動農耕の形式をとることである。2~3年ないし数年ごとに耕地を移動させるだけでなく,やがては集落そのものの移動を余儀なくされることになる。連作による地力の低下と,雨季の激しい降雨にともなう土壌浸食,および雑草の繁茂がその原因であるが,結局は森林の破壊が彼らの定着を困難にしているのである。
 焼畑作業には多量の労働力を必要とするから,耕作期間を通じて,親族関係にある人びとを中心にグループをつくって村を離れ,出作り小屋に泊まりこんで共同生活を行うことが多く,やがてこれが核になって新たな村落の形成につながることも少なくない。また,限られた耕地をめぐって部族間に紛争のおこることも多く,これが強固な組織をもった部族社会の成立と内部における階級組織を生みだす原因ともなっている。貴族,戦士,平民,奴隷とでもいうべき階級がそれであるが,階級区分のあり方は民族,部族によって異なる。貴族と呼ばれるものは部族の首長ないし村長クラスをふくむ支配層であり,戦士はその名の通り戦闘に従事するもの,平民はもっぱら農耕に従事するものである。奴隷の多くはかつての戦いの捕虜およびその末裔である。ただし,これらの組織は地域ごとに相違があって一様ではない。また,北部ラオスに住む黒タイ族のように水田稲作民でありながら階級組織をもつものもある。彼らの住居は,上記のような社会状況を反映して,集合住宅に似た長大家屋,すなわちロングハウスをつくって共同生活をする場合もあり,大家屋に多数の家族人口を収容する場合もある。また,若者宿ないし集会所を中心に広場のまわりに住居を配置して環状集落を形づくる場合もあって,集団生活に適した形式をとっていることが多い。個別的な家族中心の生活よりも,集団的・防御的な村中心の生活が優先しているということができる。
 焼畑農耕民の場合にも陸稲栽培の折り目ごとに農耕儀礼(稲作儀礼)が行われている。例えばボルネオのクニャー(ケンヤー)族の場合には,(1)焼畑地選定の際に卜占を行い,(2)開墾の日を決定するときにも卜占により,(3)もみまき直前に稲魂(いなだま)を招く儀礼があり,(4)稲の生長を祈って豚と鶏を供犠し,(5)そして最後に収穫儀礼を行うが,このときまず稲魂を宿した稲から刈り取ることが定められている。これらの儀礼を通じて見られる特色は,水田稲作民のそれに比べてより呪術的な色彩がつよく,儀礼のなかにさまざまな卜占が組みこまれていることである。
 同じボルネオのイバン族の場合にもほぼ同様な儀礼が行われるが,その際稲魂の去来が人間の魂の輪廻と重ねあわされている点に特色がある。つまり,死者の魂は雲になって山にただよい,そこで稲のなかに入って稲魂になり,やがてそれが人間の魂として再生するというのである。稲作儀礼が同時に民族の霊魂観ととけあって,そこに独特の世界観が形づくられているのである。

【水田稲作民の文化】
 水田稲作民の場合は,焼畑陸稲栽培民と比べて稲作の技術が高度化しているだけでなく,稲作をめぐる宗教儀礼とそのなかにひそむ霊魂観念が彼らの文化・社会のなかにより深く浸透しているように思われる。平野を占拠してそこに定住生活をいとなむにつれ,社会的・経済的な安定度が著しく増大したこと,広い地域におよぶ社会的・政治的な組織化が実現したことに伴う現象であろう。地方社会の形成とそのある程度の成熟を土台にして,民族ごとの国家形成への歩みがすすんだのである。この過程とともに,稲作文化もまた成熟,多様化していった。
 もちろん,水田稲作民の社会もその初期の段階では焼畑陸稲栽培民とのあいだに顕著な相違はみられなかった。例えばボルネオ北部やマレー半島中部に住む民族のなかには,陸苗代をつくって苗を育て,掘棒そっくりの田植棒を用いて乱雑に苗をさし,手製の穂刈り鎌によって稲刈りをしているような水田稲作民もいる。彼らは谷間の湿地を利用して沼田をひらき,畦はつくらず,雑草をぬいた跡地を水田に転用している。そういう地域では刈稲をそのまま高倉に収め,その柱に鼠返しをつけ,刻み目をつけた丸太の梯子を利用している場合もあって,これらの点をみる限りでは焼畑陸稲栽培民の場合とほとんど見わけがつかない。
 このような原初的な技術段階を出発点として,その後どのようにして稲作文化が成熟していったかを跡づけるためには,古代以降の日本の文献記録を分析することができるし,今日の生活様式としては東南アジアの平地諸民族の生活とその文化が参考になる。ここでは主としてタイ族,クメール族の事例にしたがって稲作文化の骨組みをさぐってみよう。
 その場合にまず考えられることは,稲作のリズムと生活暦との相似である。クメール族についていえば,年の初め,つまり正月は今日のカレンダーの4月にあたる。4月を中にはさんで,その前後に,旧年を送り新年を迎えるさまざまな行事が配列されているのである。農事暦のうえからみても4月は農閑期にあたり,5月から始めて翌年の1,2月に終了する稲作作業の中休みの時期にあたっている。つまり,2月にはすべての稲刈り,脱穀作業を終え,収穫したもみを米倉に運んだあとで,村祠の祭りがあり,つづいて米倉の祭りがある。収穫感謝祭にあたるであろう。次に,新年になって間もなく5月には,吉日をえらんで再び村祠の祭りが行われる。前者が日本の秋祭にあたるならば後者は春祭に対応し,このとき稲の豊作を祈願するとともに村人の健康が祝われる。この祭りがすぎると,そろそろ水田の耕起,苗代づくり,田植といった作業の連鎖が始まる。
 正月前後の行事はこれだけではない。2月の吉日を選んで行われる行事に鎮魂祭がある。この場合の鎮魂は,〈魂しずめ〉というより〈魂振り〉にあたり,1年間の稲作労働で疲労した村人の魂をよみがえらせるためのものである。村のなかに仮小屋をつくり,村の女性がこもごも神がかりとなって親族の魂を招きよせ,その上で酒を飲み踊りを踊って魂の蘇生を願う行事である。3月になると,すでに農作業はすべて終了しているので,村人の結婚式,成人式,新築儀礼などが行われ,しばしば葬式が行われる。彼らの習俗として複葬が普及しているので,その第2回目の葬式をこの時期に行うわけである。このように農閑期に各種の儀礼が集中しているのである。
 このようにして4月,つまり正月を迎えると,月初めの1~3日が小休止の休日となっていて,このとき山登り行事がある。おそらくは日本の初山入りにあたる行事で,村々の男女が着飾って登山する。峰が二つにわかれ,雄山,雌山の形をした平野のなかの孤立峰に登り,若水をかけて新年を祝福する。次いで12,13,14日のうちの1日に仮装踊があるが,これは日本の歳神(としがみ)来訪の行事と似ている。7人1組となって男性は女装,女性は男装して村の家々を訪問する行事である。この行事が古来の元日(16日)の直前に行われ,その後16日から22日にいたる大休止の休日を迎えることになる。この時期には正月を祝う数々の行事が行われる。たとえば球投げ,立杵踊,綱引きなどが行われ,日本の歌垣に似た行事もあるという。
 以上が正月行事の数々であり,この時期をすごしたあとで5月の村祠の祭りを行い,つづいて新たな稲作作業がくりひろげられることについてはすでに述べた。
 以上の各種行事を通じて注目されることがいくつかある。第1はそこに表現される神々の性格についてである。クメール族のあいだでは稲魂をめぐる折り目ごとの稲作儀礼と村の祖先神を祀る村祠の祭りが合体していることが注目されるが,彼らの意識では稲の神(稲魂),祖先の神,土地の神が同時に,同じ神格であるかのごとく祀られているのである。第2には農耕儀礼,とくに年ごとの稲作の始めに行われる鋤入れ式がその年の豊凶の卜占と予祝に結びつくだけでなく,同時に,国土と国民の安泰,繁栄の祀願と結びついて宮廷儀礼,国家儀礼に転化する傾向があることである。民俗行事が国家行事になっている。第3には,稲作という植物生命のリズムが農民における人生のリズムと類比されることによって,鎮魂ないし魂振りの呪術が村の文化に組みこまれていることである。この呪術的儀礼が宮廷儀礼のなかに取りこまれて,国王の即位式に転化している場合がある。日本の大嘗祭をこのように位置づけても誤りではないであろう。魂の再生についての稲作民族の伝統的な生命観,霊魂観に由来するものである。
 神話についても同様である。稲作民族の習俗と伝承がそのなかに取りこまれているのである。例えばクメール族のあいだに伝えられている稲魂の逃走譚と日本の天の岩屋戸神話のあいだには驚くべき類似がみられるのである。この事実は,神話要素の伝播によって説明するにしろ,しないにしろ,そこに稲作民族の世界観の反映をみないわけにはいかないし,その底に稲作民族の生活の実感がよこたわっていることを否定することはできない。
 山地から平地に展開した稲作民族が,まずは川ぞいの小盆地,小河谷平野を占拠して村をつくり,水田稲作を始める。最初は10戸,20戸の小集落をつくっていたものが,人口増加とともに数十,数百戸の大集落をつくり,朝市をはじめ,常設の店舗と市場をひらき,親族の連帯と地域社会の連合を手がかりとして村々をふくむ地方社会を形づくっていく。それが稲作にもとづく自律的な社会発展の型であり,国家形成の道すじであったとすれば,このような社会の進化過程の上に,上記のごとき稲作文化の諸要素が結びつくことによって,やがてそこに成熟した稲作文化の姿を見いだすことになるのである。⇒イネ∥照葉樹林文化∥農耕文化∥焼畑                 岩田 慶治

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.


米 
こめ rice


イネの種実をいう。収穫された米はもみ殻をかぶっており,これを〈もみ(粋)〉という。日本では,もみ殻をはずした玄米の形で包装,集荷,貯蔵するのが多いが,最近一部ではもみのばら集荷,貯蔵が行われている。外国では米はすべてもみの形で集荷,貯蔵される。玄米を精米機にかけて,ぬか層や胚芽を取り除いたものが精米(白米)である。米は小麦とともに人類の最も重要な食糧だが,小麦がソ連やアメリカなど冷涼で比較的乾燥した地域で生産されるのに対し,米は日本をはじめアジア南部など高温で水の豊富な地域で生産される。それらの地域では永年の間,主食として膨大な人口を養ってきた。
[種類] (1)日本型とインド型 世界の米は日本型とインド型に大別される。この区別はイネの分類からきたもので,日本型は日本およびその周辺から中国北・中部に多く,エジプト,イタリア,スペイン,あるいは北・中・南米にもある。インド型は東南アジアから中国南部におもに分布し,インドやアメリカ南部でも作られている。インド型の米は日本型にくらべて粒形が細長く,飯に粘りがないのが特徴で,日本人の嗜好(しこう)にはあわない。
(2)うるち(粳)米ともち(糯)米 日本型,インド型のどちらの米にも,うるち米ともち米がある。飯に炊いて普通に食べるのがうるち米で,精米は半透明なものが多く,光沢がある。それに対して蛭や赤飯にするもち米は,精米が白くて不透明である。米のデンプンはブドウ糖が鎖状に1列に並んでいるアミロースと,ブドウ糖が樹枝状に分かれた形をつくっているアミロペクチンからできており,うるち米デンプンではアミロース約20%,アミロペクチンが約80%の割合であるが,もち米デンプンではほとんどアミロペクチンだけであり,これが両者の大きな違いである。もち米のなかには精米にしたとき半透明で,うるち米と見分けにくいものがあるが,ヨード・ヨードカリ溶液で染色すると,うるち米は青藍色に,もち米は赤褐色に染まるので,簡単に区別できる。
(3)水稲と陸稲 うるち米,もち米ともに水田につくる水稲と畑につくる陸稲(おかぼ)がある。陸稲は日本では畑の多い関東や南九州におもに栽培されている。米の栄養価値のうえでは両者に大きな差はないが,陸稲の飯は粘りがないので,食味は水稲に劣るといわれている。
(4)硬質米と軟質米 米の乾燥を太陽熱による自然乾燥にたよっていた1945年ころまでは,太平洋側や四国,九州で生産される米は概して乾燥がよく,北陸,山陰,東北,北海道で生産される米は収穫時期の天候などの関係で多水分のものが多く,前者を硬質米,後者を軟質米と呼んでいた。火力を利用する人工乾燥が普及した今日でもこの習慣は続いているが,これは商習慣のうえからきた区分であり,必ずしも米粒の質の硬軟を意味していない。現在市場に流通している玄米の水分は,検査で一般にはその最高限度を15.0%としているが,北陸,山陰の米については0.5%,東北,北海道の米では1.0%,最高限度をあげており,軟質米についてはそれだけ水分の多いものが流通していることになる。また軟質米という言葉は清酒の原料になる酒造米でも使われているが,これは飯用の米とは違って,吸水が速く,こうじ菌のくい込みがよく,もろみで溶けやすい米を指しており,酒造米としては軟質であることがよい米の条件になっている。
(5)早期栽培米 東海地方以西の西南暖地,とくに中国,四国,九州地方において,東北,北陸地方の早生の稲を植え付けて,8月中に収穫する栽培法が1955年ころから普及した。これが早期栽培米で,そのおもなねらいは,台風による災害や秋落ち現象を防いで,米の生産の安定をはかることにあった。早期栽培米は当初,搗精(とうせい)歩留り(精白歩留りともいう)が低い,食味が悪いなどと評判がよくなかったが,その後,搗精歩留りや食味のよい品種を普及させることによって改善されている。なお,一般に9月中に市場に出回る米は早場米(はやばまい)と呼ばれる。
[性状] もみ殻をとった玄米の構造は,外側から果皮,種皮,糊粉(こふん)層などのぬか層と呼ばれる部分と,米粒の基部に小部分を占める胚芽と,残りの大部分の胚乳からできている(図1)。果皮の表面には駐様物質があって,害虫や病菌を防ぐといわれている。種皮の隔膜は酸,アルカリにかなり強く,半透過性隔膜の生理作用をもっており,米粒の内部を保護する役目をしている。糊粉層の細胞にはタンパク質と脂質が多量に集積している。また胚芽は発育してイネになる部分で,タンパク質,脂質,ビタミン B1に富む。胚乳は主としてデンプン粒でみたされ,精米(白米)として食用にする。以上の各部分の全粒に対する重量比は,ぬか層がほぼ5~6%,胚芽2~3%,胚乳が92%の割合になる。食用にするのは胚乳の部分であるので,玄米を精米機にかけて白米をつくると,その搗精歩留りは理論的には92%になるが,一般に市販されているものはもう少しついてあり,91%前後と考えられる。玄米の性状については,米の検査規格をみれば,どのようなものが流通しているか,また精米の原料としてどういう項目が重視されているか,およそ見当がつく。原料米としては搗精歩留りの高い,貯蔵性のすぐれた,食味のよい米が望まれるが,搗精歩留りの指標となるのは容積重,整粒,被害粒などであり,貯蔵性はおもに水分で示されている。しかし食味に関する項目は盛り込まれていない。
[食味] 米が栽培されてから消費されるまでには数多くの過程があり,多かれ少なかれ味に影響する要因としては,品種,産地,気象条件,栽培方法,収穫,乾燥,貯蔵,精米加工,炊飯などがあげられる。そしてそれらのなかでは品種,産地(気象条件を含む),栽培方法の三つがおもな要因であり,米の味はこれらによって形成される米自体の特質とみることができる。したがって,米の味にとって品種と産地はきわめて重要である。また収穫以後の炊飯に至るまでの諸操作においては,米の味を損なわないようにすることが必要である。例えばもみの火力乾燥では急速な乾燥を避け,穀温を40℃以上に上げないようにする。玄米の貯蔵では夏季でも低温貯蔵を行う。精米加工では調質,色彩選別,ブレンド(混米)などの技術を十分活用する。炊飯においては,水漬(すいし)時間,水加減,蒸らしなどに注意を払うことなどである。
 1979年産米より生産者から政府が買い入れる価格に,1~5類に区分した品質格差が導入されたが,1・2類に該当するのは品種と産地が指定された銘柄米で,検査等級が1・2等のもので,これらが食味のよい米として選ばれている(表1)。なお,4類は青森県の中津軽郡などの一部を除く区域で生産された米と,東海地方以西で9月30日までに政府に売り渡された米で,5類は巴(ともえ)まさり,ユーカラという品種を除く北海道産米である。3類は以上のいずれの類にも属さない米である。
[成分] 米の主成分はデンプンで,精米では76%である。米のもつ栄養的意義はエネルギー源としてであるが,その主要源をなすのがこのデンプンである。タンパク質は精米で約7%含まれているが,日本人はタンパク質の必要摂取量の約5分の1を米からとっており,これも栄養源として重要である。タンパク質の栄養価を比較するのには,プロテインスコア(タンパク価)が用いられており,理想状態のプロテインスコアを100とすると,精米は77で,牛乳と同じような良質のタンパク質が含まれていることになる。
 脂質は1.3%である。脂質は品質劣化の原因になることが多いので,食味の点からいえば,脂質の少ないことは米の利点ということができる。米は無機質に乏しく,精米では0.6%である。無機質のなかではリンが多く,カルシウムやナトリウムは少ないといえる。ビタミンのおもなものは B1,B2で,A,C,D はまったくない。しかし B1や B2は胚芽やぬか層に多く分布し,胚乳では少ないので,玄米と精米では含量が著しく違う。⇒イネ
                      竹生 新治郎
[食用] 白米の精白歩留りが90~92%であるのに対して,歩留りが95~96%のものを半搗米または5分搗米,93~94%のものを7分搗米と呼んでいる。また,胚芽を残してぬか層のみを除いたものを胚芽米と呼んでいる。一般に米を玄米のまま炊飯利用せず,白米として炊飯利用するのは,玄米は不味であり消化率も低いためである。半搗米,7分搗米,胚芽米は,玄米のぬか層を部分的にあるいは胚芽を残すことにより,この部分に多く含まれているビタミン B1など B 群ビタミンの米粒中への残存を高めることを目的としている。軟質米は食味がよいが,炊き増えが少なく貯蔵性に劣り,夏期になるとかえって硬質米より食味が劣るようになる。日本では米は主食であるため周年利用されるが,本年度産米は翌年秋に新米が出回ると古米と呼ばれる。一般に新米は食味がよく古米は食味が落ち,ときとしてにおいも悪くなる。この変化を古米化と呼び,この状態の好ましくないにおいを古米臭と呼んでいる。古米化は米粒中の一部の脂質が分解,酸化することや酸素活性の低下にみられる生命力の弱化などがおもな原因となって起こる。古米化を防ぐには,温度,湿度が高くなる時期に,米を13℃以下,相対湿度70%以下に保つことが可能な低温倉庫で貯蔵すると,比較的長期間品質を損なうことなく貯蔵できる。日本人にとって,米は主食であり摂取量も多いので,重要なエネルギー源であり,またタンパク質の供給源としても無視できない。しかしカルシウム,ビタミン類のように含量の少ないものは他の副食品で補わねばならない。米の粉はおもに和菓子の材料として使われている。うるち米を水洗し臼びきして得られる椙粉(しんこ),もち米を水洗し臼びきし多量の水で洗った後乾燥した白玉粉,蛭またはもち米を蒸してから乾燥し石臼で粗びきした道明寺粉などがそれである。このほかうるち米の粉を原料としためんの一種であるビーフン,うるち米を蒸して乾燥した α 米,同じようにもち米から作る即席蛭などの製品もある。また,清酒はもとより,焼酎,みりん,米酢,みそなどの醸造加工にも米は重要な原料となっている。⇒飯 菅原 竜幸
【世界の米生産と輸出動向】
米は,小麦,トウモロコシとならぶ世界でもっとも重要な穀物だが,世界の米の生産のほとんどは,第2次大戦前も今も,米を主食にしているアジアの国々で生産されている。世界の米総生産量は戦前(1934‐38平均)約1億5000万tで,その95%が日本を含むアジアの国々によって生産されていたし,5億5000万tと大幅に増加した今日(1995)も,その90%は依然としてアジアの諸国が生産している(数字はもみ重量,以下も同じ)。なかでも最大の生産国は中国で,第2次大戦前は2000万haの作付面積で5000万t余を生産していたし,今日では3100万haの面積で1億8700万tを生産している。第1次大戦前もそして今も,世界の米の3分の1は中国大陸で生産されているわけである。1995年のおもな米生産国は中国についでインド,インドネシア,バングラデシュ,ベトナム,タイ,ミャンマー,日本の順になり(表2),以上の8ヵ国が世界の米の84%を生産する主要米産国である。また世界全体では単位面積当り収量の増加もなったが,それ以上に収穫面積拡大が生産量の増大に大きく寄与したことに留意すべきである。表のなかでは,収穫面積を大きく減らしながらも,もっぱら単位面積当り収量増で生産量を増加させたのは日本だけであることが注目される。
 ところで,米の世界総生産量は戦前の1億5000万tが5億5000万tへと3.6倍にふえたが,世界の輸出量は965万tが2330万tになったにすぎない。これは三大穀物のなかで,米が小麦やトウモロコシと決定的にちがう点である。小麦は戦前1億6750万tの生産で1730万tの輸出量だったが,今(1995)は5億4400万tの生産で1億1200万tの輸出量になっている。トウモロコシは1億1500万tの生産,1020万tの輸出だったのが,5億1500万tの生産,7800万tの輸出量になっている。いずれも総生産増加率より輸出増加率のほうがはるかに高い。小麦やトウモロコシの生産増大が,輸出のための増産として行われたのに対し,米の増産は基本的にいって米食国での自給のための増産という性格が強いのである。
 輸出総量としてはほとんど変わらないが,しかし主要輸出国は戦前と今ではかなり異なる。戦前の輸出国は第1にビルマ(現,ミャンマー),そして旧フランス領インドシナ,タイであり(韓国,台湾のそれは植民地から本国日本への移出で,国際市場への輸出ではなかった),この東南アジア3国が国際市場への大手供給国だった。それが,今も輸出国なのはタイだけであり,ミャンマーは輸出量急減,旧フランス領インドシナのラオス,カンボジア,ベトナムからの輸出はなくなった。第2次大戦後もこの地で続いた戦乱によることはいうまでもない。かわって輸出国になったのが,アメリカであり中国である。中国は高価格の米を輸出して,安い小麦を輸入する政策をとっているので,輸出国としてはやや特殊だが,注目すべきはアメリカである。かつてはタイ,ビルマ,インドシナなどの低単収が示すように,米は原生的生産力に依存した後進国の輸出品だった。今もタイの米輸出にその性格が見られるが,アメリカの米は高単収が象徴しているように,高度の農業技術の所産である。オーストラリア,イタリア,エジプトの米生産も同じであり,米の輸出国は先進国に移りつつある。
 なお,ウルグアイ・ラウンドの農業合意(1993)にもとづき,日本は米をミニマム・アクセス(最低輸入量)のかたちで恒常的に輸入することとなった(95年には国内消費量の3%,6年後の2000年には8%)。
[日本の米生産] 20世紀に入ってからの日本は,つねに米不足だった(図2)。1878‐80年の年平均1人当り消費量(酒米など主食用以外の消費もふくむ)は115kgで,国内生産量は国民の総消費量を十分まかない,わずかだが輸出もしていた(3年間の輸出総量14万t,輸入総量2万t,輸出超過量年平均4万t。輸入していたのは安い南京米)。農村ではアワ,ヒエを常食にしているところもあったし,都市でも中小工場職工の主食は〈恐割一升ノ中ニ米二合位〉〈南京米ト恐麦ト半分交ゼタルモノ〉(《職工事情》付録)という状況だった。米とくに国産米は,当時優等財だったのである。国民所得の上昇は当然ながら劣等財のアワ,ヒエ,麦から正常財の米に主食を集中させ,消費量を増大させる(図2)。明治・大正を通じての1人当り米消費量の顕著な増加に注目されたい。1人当り米消費量が148.5kgに達した1891‐95年期以降,今日の米過剰時代の開幕を告げる1965‐70年期まで,日本は米輸入国になるが,輸入国になってからも1人当り消費量は増えつづけ,1921‐25年期に170kgのピークに達する。片山潜が〈あきらかに日本における民衆運動の全般的覚醒の最初の力強い端緒であって,現代革命運動の火蓋をきったもの〉と評価した米騒動が起きたのが1918年である。それは1人当り米消費がピークにくる時期であり,そして国内産米の供給不足量がさらに大きくなっていく時期であった。シベリア出兵にともなう軍買上げ,米商人の投機による米価高騰が引金になったことは確かだが,1人当り消費量の増大,国内供給の不足が基調にあったのである。
 1人当り米消費量は1921‐25年期をピークに減少する。第2次大戦直後の食糧危機期にあたる46‐50年期の急激な落込みを別にすれば,1921‐25年期以降今日まで,ほぼ同じペースで1人当り消費量は減少している(図2)。昭和元年が1926年だが,昭和改元は今日につながる食生活の近代化――米飯とみそ汁からの脱却――の開始でもあったのである。しかし1人当り消費量は減っても人口増大があったので,総消費量は1921‐25年期以降も増加し続けた。これも第2次大戦期とその直後の食糧危機時代の41‐50年の急減を異常な時期の現象として除いて考えれば,61‐65年期まで総消費量は明治になって以降ほぼ同じペースで増加し続けた(図2)。増大する米需要に対し,国内産米は20世紀に入って需要を完全には満たせなくなったものの,1人当り消費量がピークになるまでは需給ギャップを大きく拡大させない程度には供給を増加させてきた。だが1人当り消費量が減少に向かい始めるころから,需給ギャップはむしろ拡大する。総消費量は前と同じペースで増えるのに,国内産米の生産増加率が鈍化したからである。1878‐80年期の418万tから1916‐20年期の855万tまでの39年間の生産増加を年率にすると,1.8%の増加率になる。ところが16‐20年の855万tから36‐40年期の980万tへの増加年率は0.7%でしかない。かなりの鈍化というべきである。
 拡大した需給ギャップを埋めたのは,朝鮮,台湾からの移入だった。移入のピークは1938米穀年度(1937年11月~38年10月)だが,その年は995万tの国内生産の23%にもなる227万tという大量の米が移入されている。この米移入激増は,米騒動に深刻な危機を感じとった日本政府の植民地産米増殖政策が作り出したものだが,朝鮮,台湾から入ってくる米の価格は国内産米よりも2~3割安く,移入米の増大は国内産米に対し生産抑制的に作用することになった。1.8%から0.7%へという生産増加率ダウンの一つの要因がそこにあった。またこの移入でバランスをとる米需給政策は,戦時経済下に崩壊する。きっかけは1939年の朝鮮の干ばつによる大減収だが,そればかりではなかった。朝鮮や台湾の農民は安い雑穀(満州から輸入もした)を主食とし,生産した米を移出するという一種の飢餓移出をしていたのだが,戦時経済下で植民地にも戦争景気とインフレが浸透していくにつれ飢餓移出まではしなくてよくなり,米をみずから消費するようになったのだった。朝鮮,台湾での米消費増大は当然に移出を激減させる。そのため政府は南方米の輸入に手をつけ,42年には食糧管理法を制定,米麦などの主要食糧について乏しきを分かつ〈配給ノ統制〉(1条)を行うようになった(この食糧管理制度は内容は変わっても今日なお続けられている)。しかし戦争の拡大で輸送難になり,44年には南方米輸入もゼロになって敗戦を迎える。敗戦直後は〈配給〉食糧だけでは生きていけず,都市住民は食糧確保に四苦八苦しなければならなかった。米消費が底になった1946米穀年度の1人当り消費量は81kgで,数量としては今日と同じレベルだが,当時はカロリーの約6割(今は約2割)を米からとっていたという状況の違いがある。81kgは今は飽食を意味するが,当時は飢餓を意味したのであって,もつ意味はまったく異なるのである。
 敗戦の年の産米は587万tしかなかった。明治30年代(1897‐1906)のレベルである。冷夏そして秋の風水害と天候もこの年は悪かった。肥料をはじめとする資材もむろんなかった。“1千万人餓死説”がささやかれ,〈米よこせデモ〉(1946年5月12日),〈食糧メーデー〉(同年5月19日)が発生,デモ隊が皇居に入った。米の増産は何よりも急務であり,農地改革をはじめとする施策が集中的にとられるが,その効果は1946‐50年期の865万tが51‐55年期には919万tに,56‐60年期には1185万tになるという形で現れる。1000万t以上の記録は戦前では1933年の1062万tだけであるが,戦後は55年に1185万tと上回り,59年1250万t,62年1300万t,67年1445万tとつぎつぎに記録を更新する。第2次大戦後の米生産の発展はきわめて急速だったとしてよいであろう。
[単位面積当り収量の増加] 日本の米生産の特徴は,生産量増大を,ほかの国のように収穫面積増にかなり依存するというのではなく,もっぱらといっていいほど単位面積当り収量増加で実現してきているところにある。その特徴は明治以来のものである(図3)。たしかに収穫面積も明治10年代(1877‐1886)250万ha,1910年代300万haと増えている(戦前の最高は1932年の325万ha,戦後の最高は60年の333万6000ha)。しかし250万haを起点にして最高面積をとっても,面積増は33%にとどまる。これに対し総生産量は1878‐79年期の427万tから1965‐69年期の1274万tへ3倍近くにふえており,日本では単位面積当り収量増こそが総生産量増大にとって決定的だった。単位面積当り収量の引上げは,明治以降三つの画期をもって進展した。(1)ha当り1700kgのレベル(今日のインドやタイのレベルと考えてよい。表2はもみ重量,表以外の数値は玄米重量,換算率80%で比較されたい)からha当り2772kgになる1915‐19年期までの年率1.26%で伸びた上昇期,(2)それから戦時経済をはさんで50‐54年期に至る3018kgになった年率0.24%増の停滞期,(3)以降今日までの4560kgになる年率1.7%増の急上昇期である。
 (1)は明治農法の確立普及期である。乾田馬耕,塩水選,短冊苗代,正条植,多肥多収品種(神力,愛国,雄町)の普及,そして金肥(魚かす,豆かす)施用の一般化がその内容だが,それはひと口にいって労働集約的土地生産性追求の農法であり,1960年ころまではこの農法が日本の米作技術の骨格を形づくっていた。(2)の停滞については,魚かす,豆かすといった有機質肥料が硫安などの無機質肥料にかわり,地力低下が不安定性を増したということもあるが,より決定的には第1次大戦後の戦後恐慌,そして昭和恐慌と続いた経済変動が長期の農村不況をもたらしたこと(低価格植民地米の移入増大もあった),それに地主制の重圧をあげておくべきであろう。そして戦時経済はもっとも重要な生産力構成要素である農業労働力を奪い,また肥料などの生産資材も入手困難にした。停滞は必然だった。(3)1950年以降の急上昇は,停滞期を規定した要因がすべて逆になったことによってもたらされたといってよい。農地改革は所有の魔力を農民に与え,生産意欲を高めた。国家投資による土地改良の生産安定効果,食管制度のもつ価格安定機能が,農民に対し増産努力が所得向上に直結することを保証し,その上で,それぞれの地域条件にあった短稈(たんかん)穂数型耐肥性増収品種(ホウヨク,藤坂5号,レイメイなど)が開発され,分施施肥法,間断灌漑,病虫害防除技術など,品種に適した肥培管理技術が体系的に普及した。その効果は全国的に単収レベルを引き上げはしたが,単収増をふくめての増産効果には大きな地域差があり,北海道,東北,北陸でもっとも増産効果が高く,近畿,中国,四国などで低く,米産県序列を大きく変えた。戦前のもっとも生産量が多かったころ,単位面積当りの収量序列は高い順で佐賀(ha当り3890kg),奈良(3790kg),大阪(3600kg),香川(3520kg)と西日本各府県で占められていた(数値は1934‐38年平均)。東日本では5位に山梨(3470kg),8位に石川(3320kg)が入っていたにすぎない。しかし戦後最高の1445万tをあげた68年の順位をみると,山形(5690kg),秋田(5430kg),長野(5350kg),青森(5200kg),新潟(5180kg)となっており,上位県は東北,北陸諸県が占めている。西日本諸県は10位以内には9位に佐賀(4980kg)があるだけである。戦前は最下位の北海道(2070kg)も68年には11位に上がり,稲作の中心が西日本から東日本に移ったことを象徴的に示している。
 米の生産が史上最高を記録する時期が,総消費量の逆に減少する時期だったことは歴史の皮肉である。20世紀に入って以来の恒常的米輸入国の状況をようやく脱却できるようになったその時点から,過剰生産をどうするかが最大の農政問題になり,今日に至っている。1970年から減産政策が行われており(〈生産調整〉の項目を参照),米生産は現在きびしい作付制限下にある。過剰時代に入って〈配給ノ統制〉をしていた食糧管理制度も改正され,自主流通米が認められるようになった。自主流通米制度は,コシヒカリ,ササニシキなどの良質米作付けを条件のあわないところにまで拡大し,気象変動を受けやすくしている。80‐83年の4年続きの冷害の一因はここにある。⇒米価
                         梶井 功

【日本人と米】

【古代,中世】
縄文時代の晩期から農耕がはじまり,九州地方では米も作られたというが,弥生時代に入ると広く各地に稲作が行われる。大和朝廷の時代に入ると,朝廷に納める租は稲の種実を主体とするようになる。《正倉院文書》のなかの幾つかの国の正税帳をみると,納められる形には穀,穎稲(えいとう),糒(ほしいい)の三つがあり,さらに醍摩,駿河,豊後,紀伊その他では,稲穀のほかにアワが租として納められている。アワ納の場合も穀と穎粟(えいぞく)があるが,アワ納の多い醍摩の2郡の場合でも,米納分の25%くらいである。正租は稲穀主体といってよい。穎はついて殻を除いた玄米であり,穎稲は穂首刈りをした穂つきのもみで,束,把の単位で数えられる。穎稲20束は扱(こ)き,ついて米1石となるとされる。糒は乾飯で,長期の保存に耐える。《延暦交替式》にのせる799年(延暦18)の太政官符には,正税を旧来のように穎納にせよといい,その理由として,土地によって稲には早晩種があるが,租全部を穀にすると早晩の区別がつかないので,穎納に返すのだとしている。正租中の穎稲を20束1石で換算して穀納分に対する比率をみると,数%から十数%の間にある。国衙(こくが)が保存して種子として用いるための穎納なのであろう。
 租の用途は祭祀用,官途にあるものへの給米のほか,役民使役のためにも用いられる。朝廷や官に仕える人々の食事は米を主食とするようになっていることがわかる。諸史料によれば,米には黒米,白米,赤米などの名があり,これは搗白の程度によるものである。黒米は玄米で,白米は舂白(しようはく)米である。黒米は大嘗会,新嘗会などの神事に用いられるほか,臨時の雑役や下級の職にある人々への給与に用いられる。《延喜式》の各所にそのことが記され,例えば〈駈使雇夫単五十人食料,黒米人別日二升,塩二勺〉などとある。織部司に働く織手のうち薄機の織手には白米1日1升6合が与えられるが,普通の織手や手伝人,機工には1日に黒米2升を与える定めとなっている。つき減りの歩合を考えると,この二つの量は同じである。このことが直ちに玄米食だったことを示すとはいえないが,朝廷で雇用する人々でも,不熟練労働に従事する人々のなかには,玄米食をする可能性はあったといえよう。
 米の種類にはこのほかにうるち(粳),もち(糯)の区別がある。今日では米飯用と蛭用の差であるが,古代史料に現れた給与または消費の量に現れたところでは,截然とそのように区別することはむずかしい。《延喜式》大膳上に現れる諸神社の祭事のさいの雑給料には,多少の差はあるが白米とあるものともち米の量がほぼ同量であり,内膳司の部の正月,5月,7月,9月の節の料もうるち,もちの量は同様であり,供御月料でも米3斗6升4合に対してもち米2斗4升7合5勺のほか,もち糒1斗2升7合5勺などとあるからである。蛭料と記されるものにもうるち,もち同量が記される。これは当時の飯が需(こしき)を使って蒸す強飯を常態としたからかも知れない。水を加えて炊く今日の飯は粥(かゆ)のうちの堅粥であった。
 中世荘園制下にあっても,広く各層の食料の実態を伝える史料は乏しい。一荘園領主が毎年手にする年貢の種類別総量に対する検討も少ない。しかし例えば皇室領の一つで,長く持明院統の御領であった長講堂領諸荘園の1407年(応永14)の年貢は,米4140石余に対してほかに雑穀などはなく,油,絹,糸,綿,白布,炭,紙,材木薪,香,小莚(こむしろ),漆があげられている。また1266年(文永3)の東寺領丹波大山荘の領家得分は米200石を主体として麦10石,亡麦6斗,蛭120枚のほか,少量ずつの苧(からむし),紙,布,菓子,搗栗(かちぐり),甘栗,生栗,漆,栃(とち),串柿(くしがき),題蕷(しよよ),野老,牛房(ごぼう),苟若(こんにやく),土筆(つくし),干蕨(ほしわらび),胡桃(くるみ),平茸(ひらたけ),梨,熟柿,山牛房,糸,油があり,さらに桶類,薦(すごも),続松(たいまつ)などが見られる。荘園領主層の食料が,米を中心とすることは明らかである。
 米食が広く国民の各層に及んでいたかどうかを史料的に確かめることはできない。しかし稲穀に代わってアワを租として納めることを認めた715年(霊亀1)の詔は,アワは〈支ふること久うして敗れず〉という特色を述べており,麦作の奨励をする723年(養老7)の太政官符では,麦はもっともたいせつで窮乏のときの救いとしてこれ以上のものはないと述べている。小麦,大豆,アズキ,ヒエなどは奈良朝・平安朝期の諸史料に現れている。安房国の義倉にアワの納められていることも知られており,庶民のなかには地方により畑の雑穀類を常食するもののあったことは推測しうるところである。
 米は主食の材料であるだけでなく,酒,甘酒の原料となり,さらに調味料としてのひしおなどの製造にも用いられ,酒のかす類は野菜類の漬物の原料として用いられていることが知られる。米は古代からわが国食文化の中枢を占めていた。

【近世】
[食糧としての米] 米は古来日本人の食糧の代表のようにいわれてきたが,昭和戦前期のように広く各層が米食を普通とするようになったのは,それほど古くはない。近世については全国的な生産統計の類はないので,個別事例によって知る以外には方法がない。そこで幕末期の状態に近いという意味で1878‐82年(明治11‐15)平均の米収量(陸稲,もち米を含む)をみると2974万石余,同期間の米輸出入額を加除すると,その期間の平均総人口3635万人余に対する米の国内供給量は2953万石余となる。1人当り年間8斗1升2合という数字となり,通常昭和戦前期の年間1人当り消費量を1石1斗とみるのに対して,低くなっている。この1人当り年米供給量を同様の方法で計算すると,1878年の〈農産表〉では7斗7升2合,1875年の〈府県物産表〉では7斗2升となる。幕末期を想定しても,この数量よりさらに少額となることが考えられる。江戸時代の米の生産量総額は知ることができないが,耕地につけられた石高の40%くらいは,本年貢として領主層の手に納められる。このほかにも米で納められる年貢,諸役がある。このことから武士層と農民層とでの米消費量には大きな差の生じることが推定される。この分割比率も知ることができないが,都市居住者,旧武士層は年間米1石を消費するものと仮定し,その人口を400万人と推定すると,残された3100万人の人々の1人当り年消費量は,1878年の米供給量基準で7斗2升5合となる。明治前期についてこのような推計をしたうえで,江戸時代の農民の米消費の状態を示す幾つかの資料を見てみよう。
 元禄(1688‐1704)前後にいたるまでは,農民の食糧の実態を知りうる資料はない。そのころの紀州紀ノ川沿いの人の著書《地方の聞書(才蔵記)》の記述は象徴的である。〈正月五節句盆神事,年中二十六日米給(たべ)申候〉と記している。この書中には田2町,畑5段,石高31石に及ぶ,当時の大経営の収支計算をのせている。そこでは年貢26石余を納めたあと,手もとに米13石5斗,麦40石,その他雑穀を残すが,これらの多くは売られ,大麦17石7斗5升とキビ5石6斗8升が,10人の日常の食事にあてられている。先の26日分の米の量は1人1日3合米を食べるとしても7升8合にすぎない。ここで年貢米としたのは玄米での量である。江戸時代の年貢米はもみ殻を除いた玄米が通例の形であり,《民間省要》などによれば精選したものを納めるとしている。地方によると山間部などでもみ納の所もあるが,その分布は正確には確かめられてはいない。米を作る農民は,自分たちは麦・雑穀主体の食事をするのである。1707年(宝永4)の加賀石川郡の《耕稼春秋》は,石高50石の収支計算をのせる。収穫物は米57石7斗,菜種20俵,大小麦15~20俵とし,米は年貢25石,村掛り2石,種もみ米1石3斗,1年の諸入用を満たすための販売米25石4斗であり,残米3石8斗6升と大小麦で1年の食事を支えることとなる。もみを選別するさいに出るしいな(粃)や砕米を粉にしたゆる粉で作っただんごも食糧の補充物であり,加賀田所の大百姓も〈麦は百姓給物(たべもの)〉という生活をしているのである。このような雑穀中心の食事に,里芋,カンショ,大根なども雑炊の材料として用いており,米は領主への年貢,町場への販売物にすぎない。
 幕末になると農民の生活にも少しずつ米が加わってくる。その例を天保(1830‐44)後年以後編纂(へんさん)された長州藩の《防長風土注進案》から二,三あげてみよう。同書では1人当り年間食糧を米,雑穀計1石4斗4升(1日当り約4合)とする地帯と,同1石余(1日当り3合)とする地帯に分けて,1村ごとに米,雑穀の収量,年貢諸役,生計費などをいかに満たすかを記している。それによると桜畠村(現,山口市)では,田89町3反余,畑23町7反余からの米の収量は1518石4斗9升である。うち年貢諸役835石余,販売199石8斗余,借銀利米など138石5斗弱で,自家食糧にあてうる米は345石1斗5升となる。総生産の23%にあたる。総人口1人当りで5斗8升5合となる。米所では米を農民も食べるようになっている。その他は1人当り麦5斗8升5合,雑穀2斗7升を自給して,藩役人の考える標準年間1人1石4斗4升を満たすことになる。これに対して海岸村の久賀村(現,大島郡久賀町)では1人1年の食糧は米2斗8升9合,麦2斗4升,雑穀5升2合,カラ芋雑穀換算2斗5升5合,大根雑穀換算1斗4升,計9斗7升8合が村内自給で賄われる。御用紙漉立(すきだて)に対して米の支給をうける広瀬村(現,玖珂郡錦町)の例では,1人年間2斗5~6升の米を食うが,これは1日当り0.6~0.8合にあたり,他に麦,雑穀,芋,大根を食べて,標準の3合を満たすことになる。天保後年以後になって,農民も一定量の米を食うものと藩役人も考えるようになっているが,農民は生産する米のうち多くの部分は藩へ年貢として納め,町場の人々に供給する存在だったのである。
 江戸時代の領主および家臣団の人口は正確に知ることができない。その層の後身は明治期には華族と士族としてとらえられる。その数は190万前後である。これに家内使用人など同一家計で生活するものを加えても300万人足らずであろう。その人たちの生活は年貢収入によって支えられる。大名,旗本,地方知行(じかたちぎよう)の家臣団は,各々その知行地からの年貢が生活の基盤となり,扶持米給与の家臣団は給与される禄米で暮らす。初期の年貢には米主体の本年貢のほかに,多様な農民の生産物が小物成その他の名目で納められる。塩田に課される塩,長州藩の紙など領主の販売する蔵物となるものもあり,その多くは領主層の生活の資となったが,早期に代金納される。直営鉱山や長崎貿易,株仲間からの納金などをもつ幕府でも,幕末期にはその歳入の95%は本年貢と計算される。その収入の実体からみて,領主・家臣団の食事の中心は米であったと考えられる。これとともに人口200万前後と考えられる三都,城下町,人口の多い宿駅,港町に住む商人・職人などでは主食に占める米の割合は,農民より多かったと考えられる。

[米の流通] 幕末期長州藩領の農村では米所の場合,農民上層の米販売もあったし,同様の例は各地で確認されている。秋田藩では藩米のほかに商人米が大坂に回漕されたことが知られているが,一般的には農民販売米の流通は,その藩の城下町や宿場,港町など狭い範囲であったと考えられる。遠距離の流通は領主の収納した年貢米の一部であり,大坂,江戸に海路輸送(廻米)され,蔵屋敷などをへて大都市市場に出る。そのことと関係して市場での米の銘柄は,各領主の所領の国名で呼ばれることが多い。江戸における米品質の評価において特異な点は,明治以後良質米とされる東北日本海岸の軟質米が劣等品とされたことであろう。これは西廻海運によって大坂に集まり,さらに海路江戸に送られる輸送事情から,昨年の収穫米が江戸市場に出る時期が,梅雨期以後になることから生じることである。

[特殊米と農民の改良の意欲] 以上米として扱ってきたのは,日本人の食用に供してきた米一般である。これらの米の大部分は短粒白色の日本型稲の種実であるが,本草学者,民俗学者の興味をよせる特殊の稲米に,大唐米,赤米,香稲などがある。これらは早く《清良記》(寛永年間(1624‐44)または延宝年間(1673‐81)成立といわれる)にその名を現す。早中晩のうるち,畑稲の品種名にならんで,蛭稲,太米の品種名をあげるが,蛭稲のなかに香蛭,赤蛭があり,太稲中には大唐を名とするものがある。本草書のなかでは小野必大の《本朝食鑑》がもっとも簡明に大唐米の特質を示している。その米は小粒,赤白2色あってきわめて早生,雨に腐りやすく,実は落ちやすいなどと記し,中華の種を移し植えたもので唐乾(とうぼし)ともいうとして,鉦(せん)であろうとする。インド型の稲米である。この種中に赤米や鼠米(ねずみごめ)が入るようにも記し,鼠米は香稲ともとれる記述をする。赤米は対馬などで神事に用いられることから民俗学者の注意を呼ぶ。大唐米に関して注意すべき記述は,越中の農書《私稼農業談》(正保年中(1644‐48))に中国より取りよせた仏像の荷造用のわらに残るもみから生じたとすることである。必ずしも古来の伝来ではなく,各種の交易物の包装によって,江戸時代にも伝来する可能性のあることを示すからである。大唐米についての本草書の評価は多収であり,炊き増えすることから農民食糧として好適であるとするが,先に例示した周防桜畠村の例で米の実収量の56%,田畑石高1823石余に対して46%の年貢諸役を米で納め,さらに販売分もあって,収量の23%だけが自家食糧となる事情の下では,稲作は年貢ならびに販売用として日本米を作らなければならない。在来種の田植後,そのそと回りに1列2列植えたり,広い株間に植えるものであるともされる。
 江戸時代後期にいたって,農民の米食量も増加するが,それには多数の農書が農民の手で著されたことにも示された農民の技術改良の努力が前提となっている。改良は種子の選択,苗作り,耕作法,施肥の改良,乾田化など稲作の全過程に及んでいるが,多収稲や土地に合った種類の選択は,多くの農民の帳簿からもうかがわれる。多収品種の発見は,ふつう選穂(えりほ)といって,同じ田の稲穂中の生育のよいものを選び,その種の試作を通じて新品種を選び出す方法によっている。その努力が各地域に多数の優良品種を成立させている。

[明治以後の米] 明治以後の米について影響を与える条件は,外国貿易,地租の金納化,工場労働者・都市人口の増加,近代農学による品種改良などである。貿易統計によって米の輸出入のあとを知ることができるが,明治1‐5年(1868‐72)には米の輸入超過が続く。輸入超過量は5ヵ年平均51万石余,うち明治3年には215万石に及んでいる。明治7年収穫量に対して,同3年の215万石は8.3%である。以後25年まで5ヵ年平均では輸出超過であるが,以後輸入超過となる。30年代以後輸入超過量は著増し,同じ年度の平均収量に対して36‐40年平均では8.3%,実量で385万石となる。この期の米収穫量は明治11‐15年平均に対して56%を増しているので,この輸入増加は1人当り消費量の増加の結果でもある。36‐40年平均ではその量は1人1年当り1石5升となっている。その輸入先をみるとインド,フランス領インドシナ,タイの地位が高くなっている。いわゆる南京米が,増加する工場労働者の重要食糧となっているのである。この国民の米消費量は大正・昭和と漸増し,大正7年(1918)には前2年度の減収による米価高騰で米騒動が起こっている。国内での稲作面積の著増は望めないので,台湾,朝鮮での産米増殖改良が計画され,日本米との交配による楕族(ほうらい)米や新品種に改良された朝鮮米の移入が不可欠のものとなる。国内総生産量は第2次大戦前期にあっては昭和11‐15年(1936‐40)の平均が最も多く6587万石余で,明治11‐15年平均を100として221.5と2.2倍となっている。
 江戸時代・明治期を通じて,農民の手で選出された優良品種が各地に普及し,商品米の銘柄が問われるようになるが,明治40年代に国立農事試験場が,純系分離・交配による育種を始めて以後,府県の奨励品種の決定に伴って農事試験場育成の品種中心となっていく。この品種改良は多量の肥料にも倒伏しないこと,寒冷気象,病虫害に強い性質を備えることなどを目的とし,北方地域への稲作拡大と,平均収量の上昇を結果した。
 地租の金納化は米作農民・地主をも完全な米の販売者とした。そこから新しい米流通機構が生まれ,さらに最多量の農民的商品である米の輸送をめぐって,旧来の河海舟運に替わる陸上輸送の方法が開けた。明治期における荷車,荷馬車,鉄道の発展の要因となった。        古島 敏雄

【民俗】
第2次大戦後までの日本人,まして農民の多くの願いは,毎日の3度の食事に米の飯が登場すること,あるいは国民に十分な米を供給することであった。豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)思想は記紀神話にもとづく日本国家の理念であったとしても,長い歴史を通して日本人が稲作民族であるという前提をつくりあげるのに役だった。そのために,日本の社会も文化も稲作をぬきにしては考えられない。それほど強い影響を与えたのはなぜか。米の特色として,計画的に栽培でき,貯蔵や運搬と同時に計量と分配も容易である点に加えて,調理がしやすく,食べてうまいことなどが挙げられる。しかしそれだけでなく,国の政治,経済,宗教のすべてが米を絶対的基準としてしくまれていたために,米を作ることは国民としての義務であったし,国の基礎はそのうえに成り立つと考えられてきた。宮廷において天皇の行う最重要の祭政は,高天原から中津国にもたらされた稲の種子を奉じて,それをあやまりなく栽培することであり,祈年祭は米の豊作の祈願であり,新嘗祭は収穫のよろこびの奉告であった。また天皇の代替りに行われる大嘗祭は,米の霊的力によって皇太子が天皇としての霊魂を聖体に鎮ませる儀式であった。
 米が天皇をはじめとする人々の霊魂を再生復活させる力をもつ食べ物であるという信仰は,民俗としてはさまざまな形で伝えられている。まず日本人にとって米は常食でも主食でもなかった。稲を作るための祭りや年中行事などの祝い事のときに,米を調理して神や先祖に供え,人も食べることにより新しく強い力を補充することができると考えた。各地の祭りに,飯を強いたり,酒をふるまったりして多量の米を消費する強飯祭や甘酒祭,蛭をついて分配する祭りの多いのはそのためである。とくに氏神や旧社,大社に属する神田で栽培した米で調理した食べ物は,神聖な力が強く働きかけてくるものと考えられてきた。熱帯の植物である稲は,日本列島以外から渡来してきたために,天孫降臨神話とは別に,弘法大師のような貴い僧が持ち帰ったとか,ツルが運んできたとかの伝説が各地に伝えられているのも,米の神聖性とともに外来の作物であることを反映している。打蒔(うちまき),散米(さんまい)とか散供(さんぐ)といって,神や仏の前などで米をまく習俗があるが,これは米の霊的な力によって邪悪な霊を追い払い,そこを聖域にしようとする意図をもっている。
 米が霊的な力をもつという観念は,人間の一生の儀式にも見られる。出産にあたって産室に米をまくとか,米俵を持ちこんで妊婦にすがりつかせるのも,米の力によって妊婦を勇気づけるとともに,米の神が出産を助けたことを意味している。結婚の儀式に,椀に高く盛った飯を嫁に食べさせるのも,これまで生家で育ってきた嫁が,婿方の人間として新しく生まれかわるための儀式と考えられる。死者のまくらもとに高盛りにした飯を供える習俗(枕飯)も全国的であるが,この世からあの世へ生まれかわっていくための再生の儀式と考えることができる。このような人生上の通過儀礼ばかりでなく,凶事としての火災,洪水,台風,津波など予期せぬ災害にあって,人々が疲労し精神的不安に立ったときも多量の米が消費されているが,それは消耗したエネルギーを米によって補うとともに,人の精神を立ち直らせるためであった。戦争という事態に米がもっとも必要とされたのは,戦争が集団全体の運命に関係するからであった。そのほか,開拓工事,道普請,新築,田植や稲刈り,山仕事など,短い時間に多くの人の共同の力を必要とし,危険なしごとのときに米は必要であった。このように,米は日常の生活に必要なのではなく,めでたいときや不幸のとき,大きなしごとを成功させようとするときのように,非日常の状態におかれたときに食べるものであった。
 日常の生活で米を食べてきた者は,近世でも貴族や武士その他の上層階級の人々であり,都市民その他の非生産者であった。庶民にとって米は非日常的な食べ物であったために,なんとかして日常も3度ごとに米を食べることが生活の理想となってくる。米を作るための苗代祭,田植祝,虫送り,雨乞い,風祭などは,少しでも多くの米を収穫して生活の理想を達成させ,幸福を得たいと考えたからである。米を生産できない地方が後進的な文化の低い所とする考え方や,米作農民が一人前の農民であるという優越性が生み出されて,日本人の間に米作志向が極度に進行したのであり,非農民であっても3度の食事に飯が食えないということが恥ずかしいこととされるようになった。稲作の栽培過程や非日常における生活の中から,米の民俗はしだいに姿を消しているが,それは米の生産量が過剰となってきた最近の現象といってよい。日本の庶民にとって,もともと米を常食化していなかったところへ,現実に米が豊富に供給されるようになると,そこから米離れを起こし,本来の雑食化が形を変えて復活してきたともいえよう。すると米を基盤とした日本の文化は終わったのかということになるが,決してそうはいえない。長い歴史を通して,今日の日本的同質性は米によって形成されたものであり,その米の文化が日本人の社会行動や思考の様式を育ててきたのである。したがって今,工業化社会に転換した日本にとって,米の文化とは異質な文化と接触したことになる。異質な文化との接触によって,日本人はそれとどのように対応したらよいか,その選択に迷っているとみてよかろう。日本人が形成してきた米を基盤とする行動や思考の様式とは何であったのかを,過去の米作文化の中から探り出さねば,新しい状況を正確に判断し,対応の方向を見つけることはできないといえる。その点で米の文化の研究は,日本人の未来を発見していくための重要な鍵となってくる。⇒赤米∥稲作文化 坪井 洋文

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.

2020年4月27日月曜日

[惹句どんどん] 映画『イェスタディ』より






マーケティングのトップ:次はホワイトアルバムだが、ダイバーシティに問題がある。

ジャック:どこが?

マーケティングのトップ:白すぎるんだ((白人)ホワイトがたくさんすぎる)。

(※マーケティングのトップは黒人、ジャックはインド人の移民二世)。


2019年の快作映画『イエスタディ』より。ロードショーで観ましたが、このくだりが面白かったです。アマゾン・プライム・ビデオでレンタルできるようになったので引用しようとしましたが英語字幕に対応してませんでした。残念。

パラレルワールドにスリップした売れないミュージシャン、ジャック。その世界ではビートルズが存在していなかった。覚えている限りのビートルズの曲でメジャーデビューし、初のアルバム発表前にタイトルを決めるマーケティング会議。候補は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「ホワイト・アルバム」「アビイ・ロード」。いずれも落選でしたが、『ホワイト・アルバム』落選理由が面白かったです。

英語が聞き取れなかったので日本語ですみません。今度DVDを借りて英語字幕で確認します。


<追記>

2020年5月29日(金曜日)

DVDをレンタルしたので英語字幕で確認しました。

こうなっています。

And , uh, The White ALbum...

has some diversity issues.

How?

That's a lot of white, Jack.



[積読立読斜読] 『猫を棄てる 父親について語るとき』(村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋、2020年)


1979年に出版されたデビュー作品『風の歌を聴け』以来の村上春樹さんファンです。翻訳の絵本を除くほとんどの作品を読んできました。

新刊の『猫を棄てる 父親について語るとき』(村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋)は亡くなられた自分の父親についてのエッセイです。

村上春樹さんは1949年1月12日生まれ。若々しいイメージがありますが御年71。さすがに、ここ数年人生の断捨離のような行為をされています。

2018年に蔵書やレコードライブラリーを早稲田大学に寄贈し、「早稲田大学国際文学館(通称:村上春樹ライブラリー)」の開館が決定(オープンは2021年)。早稲田大学が広く寄付を募っていましたが同窓で同い年のユニクロの柳井正さんが私財12億円を寄贈されました。

2019年8月に翻訳されたジャズ・プレーヤー、スタン・ゲッツの評伝『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』(新潮社)のあとがきによれば、スタン・ゲッツのレコードをオリジナル盤で完全コレクションを目指して世界中の中古レコード店を巡っておられたそうですが、「おかげで、『ほぼ完全』というところまではなんとか到達したのだが、あと数枚を残すところで中断している。ひとつには、この本を訳しているうちにだんだん、『ものばかり集めてもしょうがないよな』という心境になってきたからだ。」と述べています。

これまでほとんど家族のことを文章にされてこなかった心境の変化は加齢による成熟なのでしょうか。

前置きが長くなりました。初出は『文藝春秋』(2019年6月号、オリジナル・タイトルは「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」)。

村上春樹さん自身のあとがきによると、単行本としては短い文章ですが他のエッセイとトーンが違うという判断で単独での出版となったそうです。イラストは台湾出身の無名の女性イラストレーター高妍(Gao Yan、1996年生まれ)さんのもの。どこか昭和の時代の感じる作風です。これは村上さんのご指名だそうです。

村上さんの父親は1917(大正6)年生まれ。京都の浄土宗安養寺の次男として生まれ、京都大学に進み国語の教師をされていたそうです。学徒出陣で何度か学業を妨げられましたが苦学して27歳で卒業されたそうです。

P60
「こんな平和な時代に生まれて、何にも邪魔されず、好きなだけ勉強できるというのに、どうしてもっと熱心に勉学に励まないのか」と、僕の勤勉とはいいがたい生活態度を見て、おそらく口惜しく思っていたことだろう。(中略)父は慢性的な不満を抱くようになり、僕は慢性的な痛み(無意識的な怒りを含んだ痛みだ)を感じるようになった。(中略)僕は今でも、この今に至っても、自分が父をずっと落胆ささえてきた、その期待を裏切ってきた、という気持ちを―あるいはその残滓のようなものを―抱き続けている。

毎朝、朝食をとるまえに、菩薩を収めた硝子の小さなケースに向かって長時間お経を唱えていたという父親のイメージも残っているそうです。

本書の執筆は担当編集者によると村上さん自身からの申し出だそうです。当方のような無名の人間が語る父親象でなく、世界的な小説家としての立場ですが~、おそらくは石板に鏤刻するような重い行為だったに想像は難くないです。

村上さん自身は個人的な文書を書いた理由を本文で明らかにされています。

P89
こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、僕にはわからない。しかし僕は手を動かして、実際に文書を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので(抽象的に観念的に思索することが生来不得手なのだ)、こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていく必要がある。そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。

『ねじまき鳥クロニクル』での中国戦線の記述、『辺境・近境』でのノモンハンへの旅行記、谷崎潤一郎『細雪』への愛惜は、母親が船場の商家出身故かも知れません。

村上文学のルーツを知るうえで重要な作品となりました。

改めて作品に付けられた帯の「時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある」というコピーが身に沁みます。父親が背負っていた業を、村上さん自身がまた背負う決意なのでしょうか。

2020年4月26日日曜日

[その他] 10日と25日は 'Punk in' の日 Pain Cloche (安佐南区祇園)




10日と25日はパン屋さん巡りの日。

戸坂に嫁いだ下の娘の家に行く途中、ちょっと大回りして祇園の「パン・クロッシュ」へ寄りました。日曜日午前10時でお客様が途切れてません。繁盛店のようです。

7点購入で1598円(税込み)とちょっと高めの設定です。パンの見た目も味もよく、また行きたくなるパン屋さんでした。


<店舗データ>

パン・クロッシュ
Pain Cloche
広島市安佐南区祇園2丁目14-3-102


<日々是不穏 like a rolling stone> 厳冬期の鉄鋼 日本製鉄が呉製鉄所の閉鎖を発表




昨年まで仕事の関係で呉を訪れることがありました。ちょっと呉市の先行きが心配です。

門外漢でまったくの見当はずれかも知れません。呉市の政策に疑問点あり。

かつて日本がアメリカの製鉄市場を奪ったように、中国が日本の製鉄市場を奪うのは長期的に見れば自明のことだったのでは。撤退も視野に入れ税収の大幅減を見越しての政策の検討をされていたのかどうか疑問です。

人口減・高齢化・税収減を避けるにはどうすればよいのか。市の活性化には何が必要なのか。広島市から呉市に仕事に行っていろいろ思いました。


・呉市へのアクセスが非常に悪い(広島、東広島、島嶼部の結節点にあるのだから道路のアクセスをまず最優先すべき)

・豪華な市庁舎が必要か(いまだに空き家になっている呉駅前のデパートを活かせなかったのか)

・広島市の広域経済圏として住みやすく・子育てのしやすい住宅地区の一点突破しかないのではないか


答えがわかるまで30年ぐらいかかりそうです。

広島市も自動車がなくなったらどうするのか答えはありません。




[惹句どんどん] マイルズ・デイヴィス




ジャズの歴史は四つの単語に集約できる。
ルイ、アームストロング、チャーリー、パーカー。


マイルズ・デイヴィスはかつてこう言った。ジャズの歴史は四つの単語に集約できる。ルイ、アームストロング、チャーリー、パーカー。この二人は疑いの余地なく音楽の天才だ。いささか単純化のしすぎかもしれないが、彼らはセザンヌとピカソに喩えることもできよう。アーム外ロングとセザンヌは新しいアートの形式を創りだした。そしてパーカーとピカソはそこに充満する、眼も眩むような可能性を外に向けて破裂させた。

『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』(ドナルド・L・マギン著、村上春樹訳、新潮社、2019年)P42より



2020年4月25日土曜日

[その他] a day in the life お好み焼きの出前、ギター教室・ベース教室

4月25日(土曜日)。

昼食は自分の母親がお好み焼きのデリバーリーを頼んだので相伴する。
街では新進外来のデリバリー屋さんが目立つ。


15時から地蔵通りのギター教室、17時30分から並木通りのベース教室へ。

教室は開いているが、ギター教室はオンライン・レッスンを開始、ベース教室のスタジオはガラガラの状況。

レコード・プレーヤーを買い替えたので、レコードのコレクションごとギター教師の先生に寄贈。教室内にレコードを飾ると様になります。自分が必要なときは教室から借り出せるのでよい断捨離になりました。(要するにレコード再生のステレオ装置は持っているが、レコードがない、という倒錯した状態です)。

ギター教室は現在ビートルズの"Tow of us"、ベース教室はクイーンの"Crazy little thing called love"というどちらも渋い曲を練習中。


[積読立読斜読]『米の日本史  稲作伝来、軍事物資から和食文化まで』 (佐藤洋一郎 著) 第3章 米づくり民間経営される


スローリーディング中の中公新書『日本の米』、本日は第3章を読みました。

第3章 米づくり民間経営される―停滞と技術開発が併存した時代―室町時代まで
奈良政権の「三世一身法」「墾田永年私財法」=土地所有を認める制度始まる
貴族・寺院が土地を開墾、富の蓄積
肥料の発明、二毛作の導入
戦国時代は軍事物資の役割


律令国家の水田経営を国家経営に置くシステムから、743年の墾田永年私財法などを経て「荘園」が誕生。稲作の民営化が始まった時代。

民営化は稲作へのモチベーションがあがり収穫率があがったと推測される。
(二毛作、肥料などの技術開発が進んだ)

水田の民間経営では貴族・寺院が土地を開墾し、富の蓄積を重ねていった。

諸説あるものの、荘園のガードマンとして武士が誕生し、律令国家の衰退とともに武士の時代が始まる。終末期には国内が戦乱に巻き込まれた。

米は備蓄・運搬が容易だったため軍事物資となった。

小和田哲男による戦国時代の四段階は「米食文化」観点からは2つに分類できる。

①守護大名と新興の大名の交代時期(農民兵士)
②織田信長以降の時期(兵農分離)

P106
永原慶二の研究
上杉謙信の軍事行動(1561~74年)は「秋の収穫後に軍事行動、春の農繁期には帰村」が原則←農民兵士の時代

兵農分離がされ近世の身分制度である「士農工商」の基礎となった
軍事行動が長期化・大規模化すると同時に米の「兵站」としてのシステムが確立した(備蓄・集荷・運搬・運用)

寿司のおこりは「初期水田稲作民の淡水魚の保存方法として成立した食品」(石毛直道)

酒も米料理の一種

P127
行事食(米とその加工品が多い)



P141
節供に限らず行事に餅と酒がついて回るのは、先の時代に生まれ、この時代に社会に根付いた習慣

供え物の「白」は色彩の白ではなく清めたという意の白





<資料編>
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう) 

743年(天平15)に出された墾田についての法令。日本の律令における班田法は,墾田に対する開墾者の権利をはっきりとは認めていなかったので,その対策として723年(養老7)に三世一身法が出され,期限付きで開墾者の田主権を認めた。しかし収公の期限が近づくと耕作の意欲が衰え,そのために荒廃する田もでてきたので,743年に墾田永年私財法を定め,三世一身法による収公期限を廃止し,墾田は永年(いつまでも)私財として収公しないこととした。ただし,三世一身法では墾田地の占定面積に制限を付していなかったのを改め,一位の500町から,初位・庶人の10町に至るまで,位階によって墾田地の占定面積に制限を付し,郡司にはとくに大領・小領に30町,主政・主帳に10町の占定を認めた。なお国司が在任中に開墾した田は任期終了とともに収公することとした。開墾のために墾田地を占定するには,国司に申請して許可を得ることを必要としたが,占定ののち3年間開墾しなければ,その権利が失われ,他の人が墾田地として改めて申請することができることとした。この743年の墾田永年私財法は,765年(天平神護1)にいったん廃止され,寺院がすでに占定している墾田地と,現地の百姓が開墾する1~2町を除いて,私財とすることを禁止したが,772年(宝亀3)には再び開墾田を私財とすることを認めた。なおこの772年の法令によって,墾田地の占定面積の制限が廃止された可能性が強いが,おそくも《弘仁格》が編纂施行された820年(弘仁11)までには無効となっており,大規模な墾田地の占定が許されることになった。墾田永年私財法によって,律令の班田収授法は大きく修正されることになるが,墾田地の占定には国司の許可を必要とし,開墾された田は田図に登録されて田租が賦課されたのであるから,律令国家の田地に対する支配体制は,これによってむしろ強化された可能性が強い。そしてなによりも永年私財法は,水田の総面積を増大させる重要な契機になったと推測される。                   吉田 孝

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.


いっしょけんめい【一所懸命】
命がけで事にあたるさま。真剣に打ち込むさま。
注記もともと日本で、中世の時代に主君から賜った一か所の領地を命がけで守ることをいったことば。そこから「一生懸命」という語が派生し、いまでは同義語。
学研 四字熟語辞典

2020年4月24日金曜日

[積読立読斜読] 『要点で学ぶデザインの法則』16/30



076 逆ピラミッド
077 反復
078 KISSの原則
079 プレグナンツの法則
080 階層化











[同窓会] 2020年の皆実有朋会総会は中止となりました。。。


皆実有朋会サイトより、本日付けのお知らせです。

8月22日(土)に予定されていた「皆実有朋会総会」は中止になりました。

ご準備いただいた当番期の方々、有朋会の方々におかれましては、苦渋の決断かと思われ

残念です。

当番期がスライドするのかどうかは現在照会中です。(スライドすると28期の当番期は2023年(65歳の年)になります)。


[ひとり「広島掃除に学ぶ会」] 4月20日(月)~4月24日(金)


宇品橋下の空き地です(出島地区)



水曜日は雑草とり


水分がないのになぜか雑草は生えます


通勤途中のひとり掃除です。

月曜日は雨模様だったので近場の「情報プラザ交差点」付近のたばこの吸い殻を拾いました。

他の日は宇品橋ガード下の空き地のゴミ拾い、雑草抜き、をしました。フェンスが施錠してなかったので中に入れてゆっくり作業できました。