『幻影の書』(ポール・オースター著、柴田元幸訳、新潮社、2008年)
旧刊です。同じ作者の『ブルックリン・フォーリーズ』が面白かったので東区図書館より借覧。
ポール・オースターは1947年アメリカのニュージャージー州生まれ。オリジナルは2002年の刊行です。
妻と息子2人を飛行機事故でなくした大学で文学を教えている語り手のデイヴィッドは、失意の底でサイレント映画のヘクター・マンの演技に魅せられ、なぜか保存されていないと思われていたオリジナル・プリントが匿名で世界各地のフィルム・ライブラリーに匿名で送られていた偶然もあって、全作品を解説した作家論を出版することを生きがいとした。
出版後にすでに失踪して亡くなっていたと考えられていたヘクター・マンと暮らしている女性から手紙が舞い込み、ヘクター自身がデイヴィッドに会いたいと希望していることを知る。
行き渋っていたデイヴィッドのもとに、これもヘクターと暮らしているという30代の謎の女性が使者として迎えに来る。その女性アルマが語った失踪後のヘクターの生活、さらに現在暮らしている農場で撮影した死後に焼却される幻の映画の話を聞く。
オースターの物語を作る才能を集約したような傑作です。
作中のサイレント映画のヘクター・マンの作品(当然架空の映画ですが)を観て、その内容を文章で再現するという離れ技を使って、作中作品の存在感を高めています。
語り手のデイヴィッドも、逃亡を続けたヘクター・マンも、「何故人は生きるのか」、そして何を残すのか、という大きな主題にはからずも挑んだ人生のようです。読み終わって劈頭のフランスのシャトーブリアンの書物からの引用を読み返すと、この作品の奥深さがわかります。ちなみにこのフランスの作家・政治家は実在した人物です。
P2
人は同じひとつの生を生きるのではない。多くの、端から端まで置かれた生を生きるのであり、それこそが人間の悲惨なのだ。
―シャトーブリアン
作品を死後焼却するように指示したヘクター・マンも、この一人称語りの小説を死後に刊行するように遺言したデイヴィッドも、残さなかったモノにも人生はある、と語っているようです。達成しなかった夢にも人生はある。
デイヴィッドが書いた研究書、書かなかった作家の本は暗示的ですね。
P16
二冊目の『アビシアへの道』は書くことを放棄した作家を論じた本、沈黙をめぐる考察である。ランボー、ダシール・ハメット、ローラ・ライディング、J・D・サリンジャー等々、
並外れた才能がありながら、何らかの理由で書くのをやめてしまった詩人や小説家。
『ブルックリン・フォーリーズ』に比べて諧謔性が低く、ちょっと重い作品でした(よく人が死ぬ)。
以下は私の個人メモですので、気になさらずに。
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シャトーブリアン 1768‐1848
フランスの作家,政治家。ロマン主義文学の先駆者といわれる。ブルターニュ半島北岸サン・マロの貴族出身。1791年,フランス革命の渦中にあった祖国を後にして,北米に渡り,新大陸の風土から強い印象を受けた。92年,帰国して反革命軍に投ずるが,負傷してロンドンに亡命。1800年,フランスに帰り,《アタラ》(1801)および《キリスト教精髄》(1802)を発表した。前者は,北米大陸の自然を背景にインディアンの悲恋を描き,後者は主として美的な立場からキリスト教を擁護したものである。09年,歴史的・叙事的物語《殉教者》を刊行,14年には政治的パンフレット《ボナパルトとブルボン王家》を発表して,王政復古に貢献した。22年,まず駐英大使,次いで外務大臣に任ぜられた。30年の七月革命とともに公職を辞し,自伝《墓のかなたの記》の執筆に専念した。最晩年の作に修道士の生涯を描いた《ランセ伝》(1844)がある。彼は,フランス革命後の動乱の時代にあって,新しい時代の心情をすぐれて詩的な文体により表現した。当初《キリスト教精髄》の一部をなし,のちに小説として独立した《ルネ》は,理由なき不安と畏怠,すなわち世紀病的心情を表現して一世を風靡した。しかし,彼の最大の傑作は,死後に刊行された自伝的回想録《墓のかなたの記》(1849‐50)である。これは,作者の内面の記録であるとともに,ナポレオン,ルイ18世など,当時の代表的人物に接した者の手になる,時代と人間の記録である。
高山 鉄男
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P2
人は同じひとつの生を生きるのではない。多くの、端から端まで置かれた生を生きるのであり、
それこそが人間の悲惨なのだ。
―シャトーブリアン
P7
喜劇映画について書くというのは、ひとつの口実でしかなかった。
一年以上にわたって、自分のなかの痛みが万一鈍ってくれればと思って毎日飲みつづけた奇抜な薬にすぎなかった。
P11
自分がまだどん底まで堕ちていないことを私は悟った。私のなかのどこか一部分が、まだ生きたがっているのだ。
P21
こんなことを本当にする価値があるのか、などと自問したりはしなかった。とにかくやることが見つかったのであり、
唯一大事なのは、やりつづけること、最後までやりとおすことだった。
P16
二冊目の『アビシアへの道』は書くことを放棄した作家を論じた本、沈黙をめぐる考察である。ランボー、ダシール・ハメット、ローラ・ライディング、J・D・サリンジャー等々、
並外れた才能がありながら、何らかの理由で書くのをやめてしまった詩人や小説家。
P40
トランプのカード52枚がすべて自分に不利なように仕組まれているなら、勝つ唯一の手段は、ルールを破ることしかない。
P57
自分が何者かも、何を欲しているかもまだわからなかったし、他人とともに生きるすべをふたたび見出すまでは、人間として半人前でしかないだろう。
P64
要するにシャトーブリアンは、自伝を抵当に入れて晩年の生活資金を得たんだ。前金でたっぷり出してもらって、それで借金は清算できたし、老後の年金も保障された。絶妙な取り決めだった。
唯一問題だったのは、彼がなかなか死ななかったことだ。
P65
でデイヴィッド、生者たちはどうなんだ?生者たち相手には時間を使ったかい?
極力使わなかった。
そう言うだろうと思った。
P66
デイヴィッド、君はまだ40にもなってないじゃないか。人生はまだ終わってないんだぜ。
配達不能郵便課に勤務する我が旧友がよく言ったとおり、そうしない方が好ましいのです。
P71
私はテクストの召使いであって創造主ではなかったから、『ヘクター・マンの音なき世界』を書いたときとは別種のエネルギーが要請された。
翻訳は石炭をくべるのにいくぶん似ている。
P93
その後2年あまりにわたって何度か思い出したように同様の記事が現れることになるが―いわゆる「ヘクター目撃記(サイティングス)」である
P100
アルマ・グルンド
フリーダ・スペリングによって送り込まれた女
撮影技師の娘
農場での映画も撮影
P103
その自分はもう誰でもなく、本当に生きているとは言えなかった。
単に生きているふりをしている誰か、死んだ男の本を翻訳して日々を送っている死んだ男でしかなかった。
P114
いくつもの偶然が私の生を私から盗み、やがて返してくれたのであり、その間際、それら二つの瞬間のあいだの小さな隔たりにおいて、私の人生は別の人生になったのだ。
P120
それは巧妙に考案された処罰の一形態のように思えた。あたかも神々が、私がいったん過去に戻らないことには未来を手に入れることも許さないと決めたかのようだった。
P122
ナサニエル・ホーソーン、短編「あざ」
P123
(顔にあざのある女性)
ほかの人たちは自分の人間性を内に抱えているけれど、私は自分のそれを顔に着けていた。それが私と他人との違い。私は自分が何者かを隠すことは許されていない。
私を見るたび、みんなは私の魂をのぞき込むことになる。
P128
奇妙なことに、そうした思いを意識し、母と子をめぐる思いを自分が呼び出したことを自覚したとたん、息子のトッドの体のなかに自分が滑り込むのを私は感じた。
P148
映画を作ることは、譫妄状態で生きることに似ていた。人間が発明したなかでこれほど困難で過酷な仕事もほかにないが、困難であればあるほどヘクターのやる気も高まった。
P150
自分一人のアルカトラズに幽閉された年月、ヘクターは、己が生き残ったその状況について考え、魂のなかの絶えざる、容赦なき疼きを理解するための新たな言語を習得していった。
アルマによれば、この厳格な自己鍛錬が彼を徐々に別の人間に変えていった。
(ヘクター)
いまではもう死者としか話をしない。信頼できるのは、俺を理解してくれるのは、死者たちだけだ。彼らと同じく、俺も未来なしで生きている。
P210
(息子の死をきっかけに誰も観ない映画を作る)
そうして、悪魔と契約を結んだの。もし森のなかで一本の木が倒れて、誰もそれが倒れるのを聞かなかったら、木は音を立てたことなるか、ならないか?
P218
あたしが何のあてもなしにフィルムを一本ずつ世に送り出して、あなたがそれを全部見つけたのよ。それだけであたしたちはもう長年の仲間なのよ、そうでしょう?
P221
(死ぬまで見せない自伝)
P222
それでもまだ、本当に心を開いてくれた証拠にはならないんじゃないかな。君は彼の昔の映画を世の中に復活させた。それで何が困る?
世間が彼のことを思い出す。ヴァーモントの阿呆な学者が彼について本まで書く。でも物語自体は何も変わっていないよ。
P223
今度こそ絶対嘘だと思っても、調べてみるとやっぱり事実なのよ。だからこそこれはありえない物語なのよ、デイヴィッド。何もかも事実だからこそ。
P244
(ヘクターとデイヴィッドは同じ本を読んでいた)運命のいたずら
本は真ん中あたりで開き、一つのセンテンスの下に鉛筆で薄く線が引かれてあるのが目に入った。
Les moments de crise produisent un redoublement de vie chez les hommoes.
危機的な瞬間は人間のなかにいつにない活力を生み出す。あるいは、もっと簡潔に訳すなら―人は追い詰められて初めて本当に生きはじめる。
P279
よかれ悪しかれ、哲学者たちの言ったとおりらしい。我々の身に起きることは、何ひとつ失われはしないのだ。
P320
農場は売却され、NY近代美術館に寄贈された。
古い映画を保存するための匿名の基金に入れられるんです。ずいぶん不思議な話だと思いませんか?と弁護士は言った。いいえ、不思議じゃありませんよ。
と私は言った。残酷でおぞましい話ではあるかもしれないけど、不思議じゃない。悪趣味なジョークが好きな人だったら、これ一本で何年も笑っていられますよ。
P323
私がアルマを知っていたのは八日間だけだった。
どうしようもなく頭が混乱した私は、自分を生かしておくこと以外、彼女を悼む方法が思いつかなかった。何か月か経って、翻訳を終えてヴァーモントを去ると、まさにこれがアルマのしてくれたことなのだと私は思い知った。
わずか八日で、彼女は私を死者の世界から連れ戻してくれたのだ。
P325
昔から好んできたフレーズを使うなら、借りものの時間で自分が生きていることを私は思い知ったのである。
(ヘクターの失踪後の物語と周辺人物の本)を書いたが、死後に出版の遺言を作った。
P326
まともな精神の持ち主なら誰一人終わるのを残念に思いはしないであろう世紀がいま終わろうとしている。
(ヘクターが作った誰も観ないで焼却された映画は、アルマによってどこかに保存されている。)
いつの日か誰かが、アルマがそれらを隠した部屋のドアを偶然開けて、物語はまた一からはじまることだろう。
私はその希望とともに生きている。
家に帰りつくころには、返事を書くしかないと私は覚悟を決めていた。こういう手紙を無視するわけには行かない。いったん読んだら、しっかり腰を据えて返事をしないことには、一生それについてくよくよ考えつづける破目になるのだ。(p.6)
彼の作品を正しく評価するには、『ミスター・ノーバディ』を最後の作品と見なさねばならない。それは彼自身の消滅をめぐる省察である。いくつもの曖昧さを抱え、ひそかな暗示に満ち、さまざまな倫理的疑問を呈示しながらそれに答えを出すことを拒んでいるものの、これは基本的に、自己というものの苦悩をめぐる映画である。ヘクターは我々に別れを告げるすべを、世界にさよならを言う方法を模索しているのだ。(p.54)
銃をつきつけられたのは生まれて初めてだったが、それがいかにしっくり来るか、自分がいかにあっさりこの瞬間がはらむさまざまな可能性を受け入れているかに、私は我ながら驚いてしまった。ひとつ間違った動きをすれば、ひとつ間違った言葉を言えば、私はまったく無駄に死んでしまいかねない。そう考えたら、怯えてしかるべきだろう。逃げ出したくなってしかるべきだろう。だがそんな思いには駆られなかったし、起きようとしていることを食いとめたいという気も湧いてこなかった。巨大な、ぞっとするような美が私の目の前でぱっくり開いたのであり、私はただひたすらそれを見つづけていたかった。(p.110)
アルマ・グルンドがあのリボルバーを取り出して私の胸につきつけたとき、私は恐怖よりもむしろ魅惑に貫かれたのだ。その銃に込められた弾丸が、私がいままで思いついたことすらない想念を内包していることを私は理解した。世界はさまざまな穴に満ちている。無意味さの小さな開口部に、精神が歩いて通り抜けられる微小な裂け目にあふれている。自分の生から、自分の死から、自分に属するあらゆるものから解き放たれる。その夜、自宅の居間で、私はそういう穴に行きあたったのだ。それは銃という形をとって現れたのであり、自分がその銃のなかに入ったいま、そこから出ることになろうがなるまいがどちらでもよかった。私は完璧に落ち着いていて、完璧に錯乱していた。瞬間が差し出すものを受け入れる態勢が完璧に整っていた。(p.111)
映画を作ることは、譫妄状態で生きることに似ていた。人間が発明したなかでこれほど困難で過酷な仕事もほかにないが、困難であればあるほどヘクターのやる気も高まった。彼はいままさに仕事のこつを学んでいる最中であり、込み入ったいろいろな要素を一つひとつ呑み込んでいるところである。あと少ししたらきっと一流の映画人になれるにちがいない。自分に関してヘクターの望みはそれだけだった。このひとつの仕事がうまくできるようになること。望みはそれだけなのだから、まさにそのことだけは二度と自分に許すまいと思った。罪のない娘を狂気に追いやり、妊娠させて、地中二メートル半の深さに死体を埋めておいて、ぬくぬくそれまでと同じ生活を続けられるわけがない。そんなことをやった人間は、罰を受けねばならない。社会が罰しないのなら、自分で自分を罰するまでだ。(p.148)
他人の作品を研究するのが君の仕事だ。君のほかの本も読んだよ。翻訳や、詩人の研究書を。ランボーの問題について君が何年も費やしたのは偶然じゃない。何かを捨てて逃げることの意味が君にはわかっている。そういうふうに考えられる人間を私は尊敬する。(p.229)
記憶すべき事柄が乏しいせいで、私は同じことを何度も何度もふり返り、何度も同じ数字を足し算し、同じ貧しい合計にたどり着いた。車二台、ジェット機一機、テキーラ六杯。三度の夜、三つの家の三つのベッド。電話の会話四回。どうしようもなく頭が混乱した私は、自分を生かしておくこと以外、彼女を悼む方法が思いつかなかった。何か月か経って、翻訳を終えてヴァーモントを去ると、まさにこれがアルマのしてくれたことなのだと私は思い知った。わずか八日で、彼女は私を死者の世界から連れ戻してくれたのだ。(p.323)





































