2020年1月23日木曜日

[惹句どんどん] チェーホフ(ロシアの小説家)



「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、
第2幕にはそれが発砲されるべきである。
そうでないなら、そこに置いてはいけない。」


チェーホフ  1860‐1904
 Anton Pavlovich Chekhov

ロシアの小説家,劇作家。アゾフ海に面する港町タガンログで,雑貨商の三男として生まれた。祖父は農奴身分であったが,自由の権利を地主から買いとった。父が破産してモスクワに夜逃げした後,彼はひとり故郷に残り自活して中学を卒業した。モスクワ大学医学部に入学して医学を学ぶかたわら,ユーモラスな小品を雑誌,新聞に書きまくり家族を養った。医者となった後,かつてドストエフスキーを文壇に送り出した老作家 D. V. グリゴロービチの忠告を受け入れ,より真剣に文学に身を捧げる決心をした。グリゴロービチを通して有力な保守派の新聞《新時代》の社主スボーリンと知り合い,彼の新聞に寄稿するようになってから経済的余裕も生まれ,よく練り上げられたチェーホフ独自の作風が育っていった。

1887年の戯曲《イワーノフ》の上演は,劇作家としてのチェーホフの地位を不動のものとした。90年結核の身をおしてサハリン(樺太)に旅行,《サハリン島》(1893‐94)と題するルポルタージュを書いた。92年モスクワ州メーリホボに別荘を求めて住んだ。この地で飢饉の救済やコレラ防疫,学校の建設などの社会事業に参加しつつ,中編《六号室》(1892),《わが人生》(1896),戯曲《かもめ》(1896),《ワーニャ伯父さん》(1897)などの傑作を書いたが,99年病気療養のためクリミアのヤルタに移った。晩年はもっぱら戯曲の革新のために捧げられたが,モスクワ芸術座とのつながりの中で,一座の女優オリガ・クニッペルと1901年5月に結婚した。04年病状が悪化し,南ドイツのバーデンワイラーに転地,その地で死んだ。

 チェーホフは世紀末の〈灰色〉の時代の〈たそがれの歌い手〉〈絶望の詩人〉といわれてきた。平凡な人々の日常の行為を通して,人間のおかしさ,愚かさ,無意味さを描いたが,チェーホフその人の本質は南国生れの健康人の快活さとユーモアである。科学的で冷静な観察者であると同時に,未来を信ずるヒューマニストであったが,これは医者としての立場をよく反映している特質である。1886年から90年にかけてのトルストイ主義に共鳴した時代を除けば,同時代の支配的な潮流には荷担せず,そのため〈主義や原則をもたない〉作家という非難を浴びたが,このことはチェーホフが農民出の商人の家の出身で,ロシア文壇の主流であったインテリゲンチャの伝統と無縁であったこととつながりがある。

チェーホフが世界的な名声を得たのは,まず短編の名手として,次いで雰囲気劇,静劇,〈間(ま)〉を巧みに用いた抒情的な劇の作者としてであった。《かもめ》,《ワーニャ伯父さん》,《三人姉妹》(1900‐01),《桜の園》(1903‐04)の四大劇が世界の近代劇に及ぼした影響ははかりしれない。

チェーホフの作品は,明治の末に瀬沼夏葉によって紹介されて以来,ロング・ガーネットなどの英訳を通して日本に根づき,正宗白鳥,広津和郎,井伏箆二などに大きな影響を与えた。演劇も築地小劇場以来,日本新劇のレパートリーの根幹をなしている。         川端 香男里

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