先月新潟県を旅行し長岡市の長岡藩家老・河井継之助記念館にもよりました。高校時代に司馬路遼太郎さんの小説『峠』を読んで河井継之助を知った次第です。これを機に再読しました。読書メモです。
暇なときは気になったところをタイプしてますが、大量にあったので方法を変えました。
(1)ページの上端を三角に折り畳む(dog ear)方式でしおりにする
(2)そのページのみ切り取りスキャンにかける
(3)パソコンに保存、メールで自分あてに送る
という方法で読書メモ代わりにしました。
『峠(中)』は遊学から長岡藩に戻った継之助が藩主に抜擢され次々と内政改革を実行していく様が描かれています。
史実によると改革は多岐に渡っていますが小説ではかなり省かれて小説的構成が興があるものが多いです(例:畜妾の禁止、博打の禁止、など)。
中巻の後半は藩主の意向に沿い鳥羽伏見の戦い前の京都に兵を率いて駐留し開戦後は長岡藩まで撤退します。
ここでは横浜で知り合った商人の自家用船に乗せてもらい且つ買い占めたコメを北海道で売ったり相場の差を使用して買い占めた銅を新潟で売り抜け巨利を得て軍資金にしました。政治家としても軍事化としても経済人としても一流でした。
陽明学に傾倒した継之助ですが、この知識をどこから得たのか興味があります。諸国漫遊時に横浜の商人から「経済」を、備中松山藩の山田方谷から「政治」を、は類推できますが、軍事の才能はわかりません。今後の課題。
以下は自分用の資料編です。
<世界大百科事典より>
長岡藩(ながおかはん)
越後国(新潟県)古志郡長岡に藩庁を置いた譜代小藩。
1618年(元和4)4月,すでに長岡城下の町づくりを始めていた蔵王(堂)城主堀直竒(なおより)が越後村上に移封された後をうけて入部した牧野忠成により創始され,明治の廃藩まで牧野氏の支配が続いた。
藩祖忠成は徳川家康の重臣であった康成の子で,1616年7月に上州大胡(おおご)から越後長嶺(中頸城郡吉川町)城主に封ぜられたが,長嶺には入城しないまま直接長岡に入り,6万2000石を領した。さらに20年には栃尾郷など1万石を加増され,古志,山東(三島),蒲原(かんばら)の3郡にわたり7万4000石を領知した。新田開発も進められ,34年(寛永11)次男康成に1万石(与板藩),四男定成に6000石(のちの三根山藩)の新墾田を分与した。忠成の治世は46年間に及ぶが,幕府の重臣として江戸に在勤し,江戸城西丸の修築などの政務に従事していたので,実際に長岡の領地に入ったのは入封12年後の1630年である。
その後,3代忠辰(ただとき)は諸士法制を整え,殖産興業策を進めて藩体制の基礎を固めた。9代忠精(ただきよ)は所司代から老中に栄進し,藩においても古義学を取り入れ,藩校崇徳館を設立して文教政策を進めた。続く忠雅,忠恭(ただゆき)も老中として幕閣に重きをなしたが,信濃川の洪水や飢饉のほか1843年(天保14)新潟湊の上知もあって財政は疲弊し,一揆が頻発した。
68年(明治1)戊辰戦争の北越戦争に際して家老上座・藩軍事総督の河井継之助は新政府軍と戦って敗れ,みずからも戦傷によって失意のうちに世を去った。12代忠訓(ただくに)はいったん領地を没収され,忠毅(ただかつ)が2万4000石で再興を許されたが,財政は破綻し,70年廃藩,柏崎県に合併された。
土田 隆夫
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<河井継之助記念館のサイトより 年表>(藩政改革部分)
http://tsuginosuke.net/?page_id=174
改革の具体的な例を説明しましょう
まず藩の組織・財政改革はもちろんのこと、慣習化した賄賂や賭博を禁止し、遊郭も廃止させました。
また、武士の不当な取り立てを罰して農民を救い、商業発展のため、河税や株の特権を解消。藩士の禄高是正や教育改革・兵制改革も当時、画期的なものでありました。
継之助は、封建社会の古びた秩序を一掃し、人心の刷新を図りました。夢に描いたのは新鋭な国家構想ー他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていく「独立国家」の実現。
そのために軍備にも極めて力を入れました。クリミア戦争で活躍した「ミニエー銃」のほか、手動機関銃「ガトリング砲」を横浜の貿易商ファーブル・ブラントから購入しています。
また中島村(現在の中島)には兵学所を整備してフランス式兵制を推進し、こうして長岡藩は雄藩も目を見張る、近代武装を成し遂げました。
<新潮社のサイトより内容紹介>
https://www.shinchosha.co.jp/book/115241/
司馬遼太郎『峠(中)』(新潮文庫版)
幕府にも官軍にも与せず小藩の中正独立を守ろうとした男の信念!
旅から帰った河井継之助は、長岡藩に戻って重職に就き、洋式の新しい銃器を購入して富国強兵に努めるなど藩政改革に乗り出す。ちょうどそのとき、京から大政奉還の報せが届いた。家康の幕将だった牧野家の節を守るため上方に参りたいという藩主の意向を汲んだ河井は、そのお供をし、多数の藩士を従えて京へ向う。風雲急を告げるなか、一藩士だった彼は家老に抜擢されることになった。
