司馬遼太郎さんの河井継之助を主人公にした『峠』を高校時代に読んだのですが、これを機に再読中です。おそらくNHK大河ドラマ『花神』の原作の一つで父親が所有していたのを読んだものと思われます。
<作品発表年>
1966年(昭和41年)11月から1968年(昭和43年)5月まで『毎日新聞』に連載。
1968年に新潮社上下巻で刊行。
1977年の大河ドラマ『花神』の原作のひとつ。
2020年『峠 最後のサムライ』(主演・役所広司)のタイトルで映画化予定。
2019年9月BSプレミアム『英雄たちの選択』で特集あり。
<新潮文庫版『峠』(上)の紹介>
新潮文庫版は上中下の三巻仕立てです。上巻から自分なりに重要点を抜粋します。
あくまで司馬遼太郎さんの歴史小説ですので史実とは違っている場合があります。
上巻は20代で江戸に遊学するため故郷の越後長岡を出立し雪の三国峠(史実では碓井峠)を越えるところから始まります。
太平の世であれば微禄の下級武士として終えた河井継之助ですが、幕末動乱の混乱時に藩主に登用され藩政をまかされ、北越戦争時には筆頭家老として対陣します。
P28
三国峠は越後と関東とのあいだにそそり立つ峻嶮で、街道最大の難所とされ、江戸幕府の初期にきりとおされた。冬期、この峠をぶじ越えればまず命をひろったとみていい。
「一種の狂人かもしれない」(中略)陽明学とは、人を狂人にする。
冬の三国峠 建設省のサイトより
P187
福地源一郎の紹介で横浜でスイスの商人に会います。スイスの国家の成り立ちに越後長岡藩の立ち位置のヒントを得ます。
「なによりも風変わりな点は」と、福地はいった。スイスはかつてフランスの保護国であったが、この四、五十年前、ヨーロッパ列強の承認により、このスイス連邦は永世局外中立国になったという。だから、国外侵略のための軍隊をもっていない。
(それはめずらしい)
継之助の興味は、その点にするどく反応した。
P246
この藩は小藩ながら伝統と立藩の歴史がふるいだけに、藩士同志はほとんどが姻戚か血縁でむすばれており、目上目下も、伯父甥の情義のようなものが流れている。
「おみしゃんが、家老になるというのか」
頼母(注:主席家老・牧野頼母)は、念のためにきいた。
P256
「天下に、武士は多い。しかし一人として越後屋の番頭がつとまる者がいるだろうか」
継之助にいわせれば、越後屋の番頭がつとまるほどの武士でなければこれからの一国一天下を宰領してゆけぬ、という。
「一人だけ、いるらしい」
と継之助はいった。
備中松山藩の方谷山田安五郎こそそうだと聞く。そこへ留学するためにおれは江戸をさる。
P292
この訪人癖は、継之助だけではない。この時代、人に会うこと以外、自分を啓発してゆく方法がなかった。天下の士は、そのために諸国を周遊している。
P294
「米が、いかぬ」
と、鉄心(注:大垣藩の経世家、小原鉄心)はいう。
藩の経済基礎は石(こく)ではかる米であるが、これは戦国時代のままである。その後貨幣をにぎる町人が勃興し、「米屋」の藩が「銭屋」の町人に追われている。今後の藩は「銭屋」になれねばならぬ。
P392
(本来なら、殺されているところだ)
と継之助はおもった。改革者というものは多くは美名が残らない。
むしろ悪名が残る。
(古来、そうである)
というのが、継之助のかねての感想であった。
P396
伯備線方谷駅、人名が駅名になった例外。地元懇願でできた駅。
P412
「似ている」
方谷は、つぶやいた。方谷が想像している陸宣公の風姿と、この越後長岡藩河井継之助のそれとが、である。
「もし貴公が、この唐の徳宋の世に生まれていたとすれば、どうなさるか」
「陸宣公たるべく努めるでしょう」
「なるほど」
方谷は、貌(かお)をひきしめた。陸宣公への道は多難であり、悲壮であり、しかも痛烈な美に満ちている。継之助はの悲壮美の行者たろうとしているのであろう。
P417
東日本の諸藩は(長崎に藩邸を)もっていない。信越、関東、奥州の諸藩は、長崎という世界への窓とはまったく没交渉であった。
(これは、立ち遅れる)
という恐怖が、継之助の心臓を凍らせた。
P423
このあたりで、河井継之助についての前半部をおわらねばならない。
前半は、何事もなかった。後半、この人物はその性格と思想どおりみずから進んで険峻によじのぼり、わざわざ風雲をよび、このため天地が晦冥(かいめい)するほどの波瀾をよぶのがた、しかしその根はすべて前半にある。このため、ながらかで物語的起伏のすくない前半の風景のなかを、筆者は読者ととおに歩かざるをえなかった。
P425
また方谷は、のち、ひとに語った。
「どうも河井は豪(えら)すぎる。豪すぎるくせにあのような越後のちっぽけな藩にうまれた。その豪すぎるこおが、河井にとり、また長岡藩にとり、はたして幸福な結果をよぶか、不幸をよぶか」
P444
「人間の才能は、多様だ」
と、継之助はいった。
「小吏にむている、という男もあれば、大将にしかなれぬ、という男もある」
「どちらが、幸福でしょう」
「小吏の才だな」
継之助はいった。藩組織の片すみでこつことと飽きもせずに小さな事務をとってゆく、そういう小器量の男に生まれついた者は幸福であるという。自分の一生に疑いももたず、危険の淵に近づきもせず、ただ分をまもり、妻子を愛し、それなりで生涯をすごす。
「一隅ヲ照ラス者、コレ国宝」
継之助は、いった。叡山をひらいて天台宗を創設した伝教大師のことばである。まじめな小器量こと国宝である、というのである。
P485
この地球上の、いかなる国のいかなる政治史にも例のないことだが、幕府自身が珍妙にも「自分の支配体制は非合法ではないか」とひとかに思いはじめている時代なのである。
<参考資料>
<新潮社サイトから上巻の紹介>
幕末、雪深い越後長岡藩から一人の藩士が江戸に出府した。藩の持て余し者でもあったこの男、河井継之助は、いくつかの塾に学びながら、詩文、洋学など単なる知識を得るための勉学は一切せず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうと努めるのであった。さらに、江戸の学問にあきたらなくなった河井は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するため旅に出る。
https://www.shinchosha.co.jp/book/115240/
<世界大百科事典での河井継之助の扱い他>
薩長史観、では賊軍長岡藩の一家老ですので、あまり扱いは大きくありません。
河井継之助 1827‐68(文政10‐明治1)
かわいつぐのすけ
江戸末期の越後長岡藩士で,戊辰戦争のとき新政府軍に頑強に抵抗した。名は秋義,号は蒼竜窟,継之助は通称。藩の上士の家に生まれて20代で江戸に遊学し,斎藤拙堂や古賀謹堂に儒学を学んだ。またペリー来航後の30代には,西日本に足をのばして備中松山の山田方谷に師事し,さらに長崎にも遊んで見聞を広めた。判断力,行動力ともに独特の強烈さをもつ人格が形成される。1864年(元治1)の郡奉行から68年の家老に至る藩の要職を歴任したが,彼の特異性が最もよく発揮されたのは,戊辰戦争に際しての中立主義である。継之助は上京中だった藩主を連れ帰ると同時に外商から最新式の銃砲を大量に購入し,藩兵1000余を藩境に配置した。新政府,旧幕のどちらにも荷担しない局外中立を宣言する。むろん新政府軍はこれを認めず攻めこみ,長岡城占領,奪還,再占領の激戦となった。中立主義のために城下町が壊滅するという珍しい戦争だった。継之助もこの戦闘で傷を負って死ぬ。日記《塵壺》がある。 松浦 玲
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『世界大百科事典』
北越戦争
ほくえつせんそう
戊辰戦争のうち越後中・北部の戦争。江戸開城後も会津藩や庄内藩などは抵抗の姿勢を示し,越後平野に出兵し,やがて奥羽越列藩同盟を結成する。新政府は,1868年(明治1)4月14日,醍摩藩,長州藩などを会津征討のため越後方面に出兵させ,高倉永祐を北陸道鎮撫総督に任命し,黒田清隆,山県有朋を参謀に起用した。新政府軍は,動向に疑惑をもたれた長岡藩めざして進撃し,5月に柏崎に本営を,小千谷と関原に会議所を,高田に民政局を設立した。河井継之助に指導された長岡藩は,奥羽越列藩同盟へ走って頑強に抗戦し,長岡城の争奪戦を繰り広げた。戉辰戦争中,もっとも激しい焦土戦は,8月11日,村上藩の落城で終息した。居之隊らの,村役人を中心とする農兵隊の新政府軍支援も見られたが,各地で,兵夫供出などの戦時の負担に反対する百姓一揆も起こり,新政府軍も年貢半減令を出して,兵站(へいたん)線の確保に努めねばならなかった。
井上 勝生
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『世界大百科事典』
陸贄 754‐805(りくし)
中国,唐の官僚。徳宗の政治顧問。字は敬輿。蘇州嘉興県(浙江省嘉興県)の人。18歳で進士に及第し地方官を歴任したが,780年(建中1)徳宗の川林学士となって難局に当たった。当時河北,河南の各藩鎮は同盟して唐朝と兵を交じえ,関中でも朱耕(しゆし)・李懐光の乱が起こって,徳宗は2度にわたって長安を脱出,避難をよぎなくされた。陸贄はつねに帝の左右にあって詔勅の起草,政策の立案に当たり,実質上宰相の役割を果たしたので,内相と称された。財政収入の増加のみを事とする盧杞(ろき),裴延齢(はいえんれい)ら聚斂(しゆうれん)の臣を君側から除き,租庸調法の精神にもとづいて両税法の弊害を是正し,貞観の風にならってひろく諫言(かんげん)の道を開き,また己を罪するの詔を発して兵民を慰撫するなどの建言を行って政局収拾につとめた。792年(貞元8)には同中書門下平章事となったが,795年裴延齢らに讒言(ざんげん)されて忠州(四川省忠県)別駕に左遷され,同地に没した。諡(おくりな)を宣といい,その草した詔勅や奏議は,《陸宣公川苑集》(《陸宣公奏議》)24巻に収める。 谷川 道雄
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奏議 (そうぎ)中国における文章の一形式で,臣下が君主に上(たてまつ)る意見書のこと。古くは上書といい,漢代では章,奏,表,議などといった。魏・晋時代以後は啓といい,唐・宋時代では表,状,剳(さつ),書などともよばれた。内容は政治の得失を論じるのが多いが,儀式や謝恩や天変地異について述べる場合もある。最も有名なのは,唐の陸贄(りくし)の《陸宣公奏議》であって,日本でも江戸時代に数種の和刻本が刊行された。文体としては譜文(べんぶん)(四六譜儷文)が模範とされた。奏議はもともと個人の文集に収められ,目録分類でも集部に入っていたが,のちにはそれだけを別行することもあり,この際には目録分類上において史部の詔令奏議に入れられた。宋代の奏議を集録したものとして趙汝愚輯の《国朝諸臣奏議》150巻があり,歴代の奏議を集めたものとして明代の永楽年間(1403‐24)勅輯の《歴代名臣奏議》350巻がある。また林則徐の《林文忠公奏議》と曾国藩の《曾文正公奏議》は近代史研究にしばしば利用される。 礪波 護
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中江藤樹 1608‐48(慶長13‐慶安1)
なかえとうじゅ
江戸初期の儒学者。日本における陽明学派の始祖とされる。名は原,字は惟命(これなが),通称は与右衛門。藤樹は号,別号は珂軒(もくけん),顧軒。祖父吉長は伯耆国米子藩主加藤貞泰の家臣。父吉次は近江国高島郡小川村で農業に従い,北川氏を妻とし1男1女を生む。藤樹はその長男。9歳で祖父に引き取られ,翌年加藤家の転封にともない,伊予国大洲に移住した。17歳で《四書大全》を読み,朱子学に傾倒していく。19歳のとき郡奉行として在職。27歳のとき老母を養うことを理由に,藩の許しを待たずに致仕し,近江に帰る。酒を売り米を貸して生計を立てたという。《礼記(らいき)》の教えどおりに30歳で結婚したことからもわかるように,儒教の礼法の順守を志していたが,1640年(寛永17)33歳のとき,大きな転機を迎える。それは,(1)《孝経》に深い意味を見いだしたこと,(2)太乙神(たいいつしん)を祭りはじめたこと,(3)《翁問答》を著したこと,(4)《王竜渓語録》を入手し陽明学を知ったこと,などだったという。34歳のとき伊勢の皇太神宮に参拝し,また儒教の礼法を固守する弊害を認めるようになる。44年(正保1)37歳で《陽明全書》を読み,陽明学にしだいに没入していった。また備前国岡山藩主池田光政の尊信を受け,彼の遺児3人はつぎつぎに召し抱えられた。藤樹は儒学,医学を講じて多くの門人を養成したが,熊沢伯継(蕃山)と淵岡山は,その陽明学風を継承した双璧といわれる。徳行をもって聞こえ,数々の逸話が伝えられるが,死後とくに名声が高まり,近江聖人と呼ばれるようになった。著書に《翁問答》をはじめ,《論語郷党啓蒙翼伝》(1639),《孝経啓蒙》(1642),また《大学考》《大学解》《中庸解》《中庸続解》や《鑑草》(1647)など儒学関係のもののほか,《捷径医筌》(1638),《神方奇術》(1644)など漢方医書があり,《藤樹先生全集》増補再刊版5冊(1940)に著作が網羅されている。 三宅 正彦
[人物像] 藤樹は江戸時代中期には,名利を避け,清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として広くその名を知られた。藤樹の徳化は近隣の農民にも及び,その感化力に驚いた熊沢蕃山が入門を請うた話,老いた母の喜びをわが喜びとした逸話は,近代になってからも孝の道徳をあらわす典型として,国定教科書に収められ,また内村鑑三は,日本史上最も理想的な教育者として,《代表的日本人》の中で藤樹の求道生活を紹介した。
大隅 和雄
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