第6章の要点
・戦時期の総力戦体制から戦後の民主化のなかで、「社員の平等」への道が開かれた。その背景は、戦争による一体感の高まりと、敗戦後の生活苦による平準化だった。
・戦後の労働運動は、年齢と家族数に応じた生活給のルールを確立した。
・しかし戦前の三層構造は、簡単に崩れなかった。また生活給は、勤続年数とは連動していなかった。労使交渉のなかで、勤続年数を重視する傾向は出てきていたが、「日本型雇用」が完成するのは高度成長期以後である。
・1950年代半ばから、大企業と中小企業の「二重構造」が注目された。大企業で「社員の平等」があるていど達成されたため、代わって大企業と中小企業の格差が目立ってきた反映と考えられる。
・社会保障制度も、こうした二十構造に沿って1950年代後半に制度化した。これによって、「カイシャ」と「ムラ」を基本単位とする制度が作られた。
・1960年代前半までの政府と財界は、職務給と普遍的社会保障、企業横断的労働市場による変革を構想した。しかし経営者たちは企業横断的なルールの導入を嫌った。
P351
愛国心と「差別意識」
戦争は雇用のあり方に、大きく二つの影響をもたらした。一つは、労働者不足と戦時体制による格差解消。もう一つは、ナショナリズムの高まりと連動した身分差別批判である。
これらは二つとも、戦後に「社員の平等」が達成される下地となった。
戦争による軍需景気は、労働者不足をもたらした。これは労働者の賃金を上昇させ、待遇の悪い企業から労働者が離職する傾向をひきおこした。
P352
むしろ戦争の影響で大きかったのは、インフレがもたらした平準化と、ナショナリズムの高まりからおきた運命共同体意識だったと思われる。これが企業内の身分差別批判につながり、戦争による第二の影響となった。
P352
戦争による労賃上昇と、インフレによる金融資産の目減りは、労働者の地位を相対的に上昇させた。西洋の「自由主義」への批判や、「贅沢は敵だ」というスローガンがとびかい、「資本主義」と旧特権階級を批判する風潮が高まった。
P355
戦争経験と戦後の民主化の関係は、明示的に語られることは少ない。しかし後述するように、戦後の労働争議では、「身分制」の撤廃、企業幹部の戦争責任追及、そして「産業復興」が掲げられることが多かった。これらの要求は、企業幹部が不正によって生産能率を下げ、国を破滅に導いたことを、労働者たちが怒っていたことを間接的に物語っている。戦後の労働運動は、こうした背景のもとで行われたのである。
P355
企業別混合組合(工員・職員混合)の台頭
敗戦後の1945年10月、占領軍は一連の指令を発し、労働組合の結成を奨励した。(中略)1949年6月には(中略)推定組織率55.8%にまで高まった。
P358
敗戦後の都市は産業が壊滅し、人々は食料がある農村に縁故を頼って疎開していた。二村(労働史研究者)は「焦土と化した都会にとどまったのは、帰るべき田舎をもたない人々であった。彼らにとって、企業は最後の拠り所となった」と述べ、これが企業別の混合組合を生んだ大きな背景だったと指摘している。
P361
戦前の職員は特権層であり、職工との差別は激しかった。それを考えれば、戦前の労働運動で混合組合が広まりえなかったのは、当然のことだった。企業別の混合組合は日本の文化的伝統などではなく、戦争と敗戦による職員の没落を背景として生まれたものだったのである。
P397
二重構造論の出現
だがこの時期には、そうした「社員の平等」を達成していたのは、おもに大企業だった。前述のように敗戦後の一時期は、中小企業の方が大工場よりも、操業率や賃金が高い傾向すらあった。だがそうした時期がすぎた1950年代には、企業規模による賃金格差が広がっていた。
企業規模による賃金の格差は、戦前からあったとされている。しかし、それが社会的な問題として注目され話題になったのは、1950年代後半のことだった。
第2章で述べたように、アメリカやヨーロッパでは、企業規模による賃金格差は重要な話題ではない。職務や職種による賃金格差の方が重要だからである。
また戦前の日本でも、このテーマは、さほど話題にならなかった。戦前にも大企業と中小企業の賃金差はあったが、それよりも大企業内の職員と現場労働者の賃金差が明白だったことが、一因だったと考えれられる。
P400
「地元型」「残余型」の形成
現実には、むしろ二重構造を追認し、強化する形で近代化と制度化が進行した。その一つが社会保障制度である。結論から先にいえば、日本の社会制度はまず大企業従業員をカバーする制度からでき始め、その残余をカバーする制度が後からできた。それによって「大企業正社員」と「それ以外」の分断を強化することになった。
P403
つまり日本では、まず大企業、つぎに地域を単位として、健康保険組合が作られた。第1章で述べたように、社会保障の研究者である広井良典は、これを「日本の制度は、『カイシャ(職域)』と『ムラ(地域)』という、日本社会において基本的な単位となる帰属集団をベースとして組み立てられた」と形容している。とはいえこうした「カイシャ」と「ムラ」は、伝統的に存在した実体というよりは、近代的な政策で作られた類型だった。その場合の「ムラ」は、「カイシャ」の残余である雑多な人々の寄せ集めで、実体があったわけではなかった。むしろ社会保障制度が、「カイシャ」と「ムラ」を日本社会の基本的単位とみなす慣行を制度化したとさえいえる。
P405
こうして「大企業型」「地元型」「残余型」の類型が、1950年代後半の二重構造と社会保障制度によって表現され、制度化された。それは、戦後の民主化と労働運動によって、大企業から長期雇用と年功賃金が広がったことで、形成されてきた類型だったともいえる。
P418
日本の経営者たちは、たしかに一時は、職務給と横断的労働市場を称賛した。しかしそれは、中高年労働者の賃金を下げ、解雇を進めやすいという動機からだった。だが企業横断的な労働市場が本当にできたら、企業内だけで職務や賃金を決定できなくなる。それに気づいたとき、経営者たちは職務給を警戒したというのである。
P418
(GHQの勧告にもかかわらず)職務給の導入と、それに連動した政策パッケージは立ち消えとなった。代わって定着していったのは、長期雇用や年功賃金とひきかえに、企業別労組と妥協した「日本的労使関係」だった。
