スローリーディング中の中公新書『戦争はいかに終結したか』。本日は「朝鮮戦争」の章を読みました。
太平洋戦争で講和の時期を誤らなければ、朝鮮半島の南北分断は、ひょっとしたらなかったかも知れませんが、朝鮮戦争は大国間の代理戦争で始まり、大国間の都合で停戦(休戦)となり、その状態が今も続いていて「終戦」にはなっていません。
著者の見立てでは「将来の危険」を低く見積もり「現在の犠牲」から「妥協的和平」の極に近い「戦争終結」になりました。
「南北分断の後、米ソが撤退し、民主化した統一国家建設の予定もあった」のは本書で初めて知りました。
朝鮮戦争は間接的に日本の戦後と重要な関連性があり、『世界大百科事典』から引用します。
<本書より>
P196
1950年に国連軍が中国参戦の可能性を見誤り、エスカレーションの覚悟のないまま戦争目的を拡大したのは失敗であったし、1952年春以降の、捕虜問題でこじれてからの戦争は不必要であった。(中略)。
その後約70年にわたり、冷戦終結を経た今日ですら、一定のコントロール下にはありながらも、朝鮮半島は依然緊張状態にある。日本を含む北東アジアが武力衝突の「危険」にさらされ続けているのは、朝鮮戦争当時における「現在の犠牲」の回避の代償なのである。
<『世界大百科事典』より>
さらに,戦争が日本の戦後の歩みに与えた影響も大きかった。
それは早期講和と日米安保体制を決定的なものにするとともに,さらにアメリカ軍の日本での緊急調達(特需)は急激な需要増大をもたらし,戦後経済復興の原点ともなったのである。
また,自衛隊の前身たる警察予備隊は,朝鮮戦争の開戦直後の1950年8月に創設されている。
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう Korean War)
大韓民国(韓国),朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)間の武力衝突に起因する国際的紛争。
朝鮮戦争は1950年6月25日未明の北朝鮮軍の38度線を越えての南下によって開始された。この攻撃は,その準備,規模,作戦のいずれをとってみても,ソ連による事前の承認と援助なしには実行不可能なものであった。
しかし,巨視的にみれば,北朝鮮軍南下の背後には,太平洋戦争末期からの朝鮮半島をめぐる米ソの勢力圏争いと統一朝鮮国家の指導権をめぐる国内的対立が存在し,それらが戦争の勃発に大きな役割を演じたことも否定できない。その意味で,朝鮮戦争は典型的な国際内戦の一つであったといえる。
金日成が戦争を北朝鮮の〈民主基地〉からの民族解放戦争とみなしていたことは明らかであるが,ソ連がそれを支援した理由についてはいまだに定説がない。もっとも説得力のある説明は,前年6月末に完了したアメリカ軍の韓国からの撤退と1950年初めまでに明確になった対日早期講和および日本の軍事基地化の動きがスターリンを朝鮮における軍事的冒険に駆り立てたとする極東戦略説である。
しかし,どのような解釈をとるにせよ,それはヨーロッパにおいて失墜した威信(ベルリン封鎖の失敗)の回復,毛沢東に対する立場の強化などの理由と密接に関連していたものと思われる。また,当時のソ連がアメリカとの全面的対決を望んでいなかったことも確実である。北朝鮮軍の南下に対して,トルーマンは従来の朝鮮への軍事的不介入の政策を放棄し,6月27日には海空軍部隊の投入を,また6月30日には地上軍の派遣を命令した。アメリカの参戦は,形式的には〈武力攻撃を撃退し,かつ,この地域における国際の平和と安全を回復する〉という6月27日の国連安全保障理事会決議に基づくものであり,その軍隊も7月7日の同決議によって国連軍の一部を構成するものとなった。トルーマンはまた朝鮮以外でも,台湾海峡の中立化,フィリピンとインドシナへの軍事援助促進などの措置をとった。
アメリカが朝鮮戦争に介入した理由は軍事戦略的なものであったというよりは,政治戦略的なものであった。
第1に,北朝鮮軍の奇襲攻撃がアメリカの最高指導者たちに〈ミュンヘンの教訓〉を想起させ,第3次世界大戦を抑止するためには朝鮮での宥和(ゆうわ)を拒否しなければならないと確信させたこと,
第2に,攻撃が国連監視下の選挙で樹立された韓国政府に向けられたものであったために,北朝鮮軍を撃退することによって国際連合の権威を守護しなければならないと考えられたこと,
第3に,中国革命の成功につづいて韓国の共産化を座視すれば,アジア地域においてだけでなく全世界的にアメリカの威信が大きく失墜すると判断されたこと,などがその重要なものである。
アメリカ軍の参戦後も,しばらくの間,戦争は圧倒的に北朝鮮軍の優勢のうちに進展し,8月初めには,米韓両軍は半島の南東端に釜山橋頭堡を維持するにすぎなかった。しかし,北朝鮮軍の補給線が伸びきった9月15日,アメリカ軍はマッカーサーの指揮のもとに仁川上陸作戦を敢行し,9月26日には首都ソウルの奪回に成功した。また,アメリカ軍は10月7日には38度線を北上した。アメリカ軍の北上は同日の国連総会決議に基づくものであったが,明らかに当初の戦争目的である〈北朝鮮軍の撃退〉を〈北朝鮮の占領〉へと拡大するものであった。9月初めには,限定戦争の概念を原理的に理解しようとしなかったマッカーサーや政治的な立場から朝鮮統一を強く要求した国務省極東関係者だけでなく,統合参謀本部や大統領までが,〈ソ連や中国の軍隊が介入する兆候または脅威が存在しないかぎり〉という条件のもとで,アメリカ軍の北進を承認していたのである。
戦争目的の変更がもたらした事態は11月末の中国人民義勇軍の全面的介入であった。
この結果,アメリカ軍は38度線以南への後退を余儀なくされ,1951年1月4日,ソウルはふたたび共産側の占領するところとなった。しかし,アメリカと同じく中国も朝鮮を軍事的に統一する力をもたなかった。これ以後,戦況は二転三転し,同年6月以後,戦線はほぼ38度線沿いに膠着(こうちやく)した(図)。
休戦交渉の直接的契機となったのは6月23日のソ連国連代表 Ya. A. マリクの演説であった。しかし,それを可能にしたのは4月11日のマッカーサー解任であった。トルーマンは,鴨緑江(おうりよつこう)以北の爆撃,中国大陸沿岸の封鎖,国府軍の朝鮮への投入など戦争の拡大を主張するマッカーサーを国連軍司令官その他の職務から解任することによって,和平への意思を表明したのである。
7月10日に開城で開始され,その後会場を板門店に移した休戦会談は,軍事境界線や捕虜交換の問題で難航し,戦闘が継続するなかで2度にわたって全面的に中断されたが,1953年7月27日に最終的な合意に到達した。
しかし,休戦に反対する韓国の李承晩大統領は協定への署名を拒否し,反共捕虜を一方的に釈放することによってそれに抗議した。休戦協定への署名者は金日成,彭徳懐,M. W. クラークである。
朝鮮戦争の歴史的意義について付言するならば,その最大のものはそれが東西冷戦の軍事化と世界化をもたらしたことである。
トルーマンは戦争を契機に NSC68(国家安全保障会議文書68号)を承認したが,それは当時130億ドルであったアメリカの年間軍事予算を一挙に350億ドルに増大させ,ヨーロッパからアジアにまたがる反共軍事包囲網の形成を企図するものであった。また,戦争は朝鮮の分断を固定化し,台湾の軍事的解放を不可能にし,その後20年に及ぶ米中対決の原型を形成した。アメリカのベトナムへの介入もその影のもとで実行に移されたのである。
さらに,戦争が日本の戦後の歩みに与えた影響も大きかった。
それは早期講和と日米安保体制を決定的なものにするとともに,さらにアメリカ軍の日本での緊急調達(特需)は急激な需要増大をもたらし,戦後経済復興の原点ともなったのである。
また,自衛隊の前身たる警察予備隊は,朝鮮戦争の開戦直後の1950年8月に創設されている。⇒冷戦
小此木 政夫
[南北朝鮮の傷痕] この戦争が南北朝鮮にもたらした物的・人的被害は甚大であった。
戦線が南は洛東江から北は鴨緑江まで,あたかもローラーをかけるように移動したため,軍事施設・戦略拠点のみならず,民間施設や民衆が蒙った直接の被害は大きい。正確な数量的推計は困難だが,当時の国民経済規模で計30億ドル,工業部門だけで1億1500万ドル,建造物の40%,生産設備の30~75%(部門によるばらつきがある)が破壊されたとの数字がある。
人的被害はさらに深刻で,同族同士が相争った戦争は,朝鮮人だけで南北計126万人に及ぶ死者を出し,別離・死亡・孤児の大量発生などにより現在も1000万人(南北総人口の1/5)といわれる離散家族を生みだした。
同時に戦争以前からおしすすめられた南北両国家の異質化は,この戦争をへて決定的なものとなった。南で非合法化されていた共産主義者や左派人士は越北し,北の地主やキリスト者は大量に越南したことも関連して,休戦ラインをはさんだ南北の不信・憎悪は増幅された。北朝鮮は南朝鮮を〈米帝の占領下〉にあるものとみなし,また李承晩政権下の韓国は朝鮮民主主義人民共和国を〈北傀〉とよんで中ソの傀儡とみなし,滅共・北進統一を叫ぶなど,相互不信はぬぐいがたいものとなった。
戦争がもたらした南北分断体制の固定化をいかに克服するかが,以後の民族的課題となっている。 鶴田 文夫
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