2021年8月30日月曜日

[積読立読斜読] 『戦争はいかに終結したか』(千々和泰明著、中公新書、2021年)第5章 ベトナム戦争 ― 終幕をひかえた離脱

 




スローリーディング中の中公新書『戦争はいかに終結したか』。本日は「第5章 ベトナム戦争 ― 終幕をひかえた離脱」を読みました。本書では「アメリカの撤退」に記述が偏っていますがベトナムのフランス植民地からの歴史を理解していないと全体を見失ってしまいます。ベトナム戦争の始点・終点をどこに置くかで犠牲者数に差異がありますが本書はその最大値をとっているようです。


ベトナムから外国軍隊が姿を消したのは、1858年の第二帝政期フランス軍による侵略以来、115年ぶり。

 

本書では1973年のパリ協定締結によるアメリカの離脱をベトナム戦争の終結ととらえる。

 

ベトナム戦争の死者数、サイゴン側約190万人、ハノイ側約420万人。

 

P198
ベトナム戦争も、前章で見た朝鮮戦争と同様、「妥協的平和」の極に傾いた決着となった。本来優勢であるアメリカは、やはりベトナムでも事態が中国やソ連との戦争にエスカレートして「現在の犠牲」が多大なものとなるこを恐れた。一方、ハノイとの妥協が、アメリカ本土に直接脅威を及ぼす「将来の危機」を残すとまではいえなかった。最後にアメリカが求めたのは、アメリカ軍の撤退というかたちでの離脱と、サイゴンの崩壊という終幕のあいだに、「時間的間隔」を置くことであった。


ベトナム戦争自体がよく分かってないので復習します。



百科事典マイペディア「ベトナム戦争」の解説

ベトナム戦争【ベトナムせんそう】
第2次インドシナ戦争ともいわれる。1954年ジュネーブ協定締結後,南ベトナム(ベトナム共和国)に成立したゴ・ディン・ジェム政権は米国の援助下に反共・独裁政策を強行。これに反対する共産主義・民族主義勢力は各地でゲリラ活動を展開し,1960年南ベトナム解放民族戦線を結成。1963年―1964年クーデタが頻発(ひんぱつ)し,ゴ・ディン・ジェム政権は倒れた。

このころまでは内戦的性格をもっていたが,1965年米国は北ベトナム(ベトナム民主共和国)による解放民族戦線への援助阻止を主張して北ベトナム爆撃と南ベトナムへの増兵を開始。米国は50万の地上軍を投入し,韓国・タイ等の派遣軍も加わり,北ベトナムも正規軍を南下させて解放民族戦線を援助し,国際紛争に発展した。1968年旧正月直後の攻撃(テト攻勢)以来,解放民族戦線が戦争主導権を握り,サイゴン地区やトンキン湾沿岸都市部を除く大半の地域がその勢力下に入った。

一方,1968年以来パリで和平交渉が進められてきたが,1973年1月和平協定が成立し,3月米軍戦闘部隊が南ベトナムから撤退,戦争の終結が宣言された。この戦争による北ベトナム・解放戦線側の死傷者は推定227万人,米国・南ベトナム側は約98万人。→ベ平連
百科事典マイペディア「ベトナム戦争」の解説


ジュネーブ協定【ジュネーブきょうてい】
1954年ジュネーブ会議の結果調印されたインドシナ戦争終結に関する協定および諸宣言の総称。インドシナ三国(ベトナム,ラオス,カンボジア)における休戦,ベトナムにおける暫定的軍事境界線(北緯17度線のやや南)の設定,国際監視委員会設置,インドシナ三国の独立・主権・統一の尊重,外国軍隊の駐兵・基地建設を禁止することなどが定められた。しかし米国とバオダイ政権は休戦協定承認に関する最終宣言に参加しなかった。


インドシナ戦争
1946年―1954年,新たに建国したベトナム民主共和国がインドシナ支配権の回復をもくろむフランスに対して行った独立戦争。戦局はラオス,カンボジアも含めて続いたが,1950年以降ベトナム民主共和国が主導権を握った。フランスは米国の膨大な軍事援助にもかかわらず,1954年5月ディエンビエンフーの戦での敗北が決定的となり,同年7月ジュネーブ協定が成立,休戦した。なお,1961年―1973年の〈ベトナム戦争〉を第2次インドシナ戦争と呼ぶこともある。
百科事典マイペディア「インドシナ戦争」の解説


仏印進駐(ふついんしんちゅう)
日本が、対独降伏後のフランスのビシー政権を圧迫し、協定によって行った仏領インドシナの軍事占領。日本の南進政策の重要な一歩として太平洋戦争の原因の一つとなった。(1)北部仏印進駐。援蒋(えんしょう)ルート遮断の名目で1940年(昭和15)8月30日に日本軍隊の通過、飛行場使用、駐兵を認める松岡‐アンリ協定が締結された。9月23日から南支那(しな)派遣軍所属の2万5000の兵が進駐したが、その際一部部隊は平和進駐の約束を無視し武力進駐を強行した。(2)南部仏印進駐。南方作戦のための基地獲得のねらいで、1941年7月28日から行われた。フランスは日本の要求をのみ、日仏議定書(同29日調印)の締結に応じたので、無血進駐となった。しかし、これにより日米関係は極度に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結(7月25日)、対日石油輸出の全面禁止(8月1日)に踏み切り、イギリス、オランダもこれに倣った。[荒井信一]