2020年11月18日水曜日

[積読立読斜読] 『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』(田中優子著、集英社新書、2020年)

 



集英社新書の新刊。

法政大学総長・田中優子さんの妖艶な着物姿と、水俣病のルポとしての認識しかなかった石牟礼道子さんの『苦海浄土』が折り合わず、そういえば池澤夏樹さんが選んだ文学全集に採用されていたのを思い出し、自分のあいまいな好奇心を確認するために購入してみました。




著者は1970年法政大学1年の日本文学科の授業で『苦海浄土―わが水俣病』が朗読され「これも文学か。この世にこういう文学があったのか」との衝撃を受け、以来石牟礼さんの文学を追走してきたそうです。


石牟礼道子の文学は私にとって「異世界」でありつつ「普遍」であり、一地方の言葉の世界でありながら、身体に響く言葉であった。そしてなにより、私の世代に向けられた言葉であった。胎児性水俣病患者の最初期の人々は、私と同世代だった。「私は彼らだったかもしれない」という思いを、私はずっと持ち続けている。

P12


『苦海浄土』をはじめとする石牟礼道子さんの作品は、残念ながら読んだことがなく、水俣病のルポ程度の認識しかありませんでした。池澤夏樹さんの個人編集の河出書房新社『世界文学全集』『日本文学全集』の両方で石牟礼道子さんの作品を採用し、「世界」のほうでは日本人作家の長編としては唯一『苦海浄土』を採用。


<池澤夏樹さんの推薦の弁>

水俣の不知火海に排出された有機水銀によって、自然が、人間が、破壊し尽くされてゆく悲劇。

美しい風土に恵まれた水俣の地を故郷として育った著者は、中毒患者たちの苦しみや怒りを自らのものとして預かり、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」として、優れた文学作品に結晶させた。「苦海浄土」「神々の村」「天の魚」の三部からなる、戦後日本文学を代表する必読の書。

http://www.aoyamabc.jp/fair/ishimure/



著者の田中優子さんがコロナ禍の2020年に本書を世に問うた意味は何なのでしょう。


経済(経世済民)はいのちのために存在するものだが、経済と人命を天秤にかけながら政治が動いていくこの毎日を、石牟礼道子ならどう観察し、ほとんどがその当事者である世界の人々の苦悩を、どう言葉にしたであろう。この問いは、私ならどう言葉にできるか、という問いでもある。まだ答えは見いだせない。しかしこういう災禍のときこそ、「石牟礼道子ならどう書いたであろう」と問うことが、必要なのである。

P14


本書は石牟礼道子さんの社会活動よりも文学作品の解説を柱に、基礎を石牟礼道子さんの生涯に置くことで、水俣病という現代社会の矛盾よりも、近代の人間の自我(特に女性)の解放も論点に置き、重層的な評論となっています。


序章 石牟礼道子の重層する「二つの世界」

第一章 母系の森の中へ

第二章 闘う共同体

第三章 もだえ神

第四章 祈るべき天と思えど天の病む


特筆すべきは序章にある田中優子さん作成の「石牟礼道子の世界」の図。近代と現代の葉境に立ち、家と外の境界に立つ、石牟礼道子さんの重層的な矛盾を表しています。



自殺願望が強かった石牟礼さんが農家の嫁として趣味で文学を続けようと小さく決心した時に水俣病に出会い、まるで憑依したかのように活動する様は現代の「巫女(シャーマン)」と言えるかも知れません。

第二章は島原・天草一揆に材をとった『春の城』の解説です。石牟礼道子さんが水俣病の闘争を通じて夢想したのは、虐げられた女性の自我をフェミニズムに向かわせることではなく(自我の解放は他の自我の浸食となる)、公害企業に対して訴訟を起こし賠償金を勝ち取ることでもなく、圧政からの解放でもなく、「新しい共同体」でした。


P101

「共同体というのは、万物が呼吸しあっている世界だと思ってきました」



水俣病にはチッソという敵が可視化できましたが、COVID-19(新型コロナ)は見えません。直接の原因はウイルスですが、遠因は「生態系への人間の進出」で①生態系の破壊、②グローバル化による人間の移動距離・速度の拡大、が重なって世界的なパンデミックになったようです。際限のない経済成長を改めない限り同じことが繰り返されますが、それを語る文学者もおらず、手をこまねていいるしかないのかも知れません。


当方のような凡庸な人間でも「石牟礼道子ならどう書いたであろう」という認識を持ち続けることが重要なのでしょう。読了まで時間がかからない新書ですが読後感は重いです。


本書は田中優子さんの著作となっていますが、アンカーがフリーライターの宮内千和子さん、編集者の伊藤直樹さん(集英社)、との共作のようです。(全員法政という偶然だそうです)。



<石牟礼道子さんプロフィール>


 1927年、熊本県生まれ。10代より歌作を始め、20代からは歌壇に作品を投稿、才能を認められるようになる。69年、『苦海浄土』三部作の第一部となる『苦海浄土―わが水俣病』を刊行、第一回大宅壮一賞に選ばれるが受賞を辞退する。73年、マグサイサイ賞受賞。その後『椿の海の記』『あやとりの記』など次々に作品を発表する。92年刊行の『十六夜橋』で紫式部文学賞受賞。2001年、朝日賞受賞。『はにかみの国―石牟礼道子全詩集』で02年度芸術選奨・文部科学大臣賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。2018年没(90歳)。


https://temiko9430.wordpress.com/2018/01/29/%E8%8B%A6%E6%B5%B7%E6%B5%84%E5%9C%9F/


<著者プロフィール>

田中優子(たなか・ゆうこ)

1952年神奈川県生まれ。法政大学社会学部教授(近世文学)等を経て法政大学総長。2005年紫綬褒章受章。

著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫/芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、『近世アジア漂流』(朝日文芸文庫)、

『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』(ちくま文庫/芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞)、

『江戸の恋-「粋」と「艶気」に生きる』(集英社新書)、『カムイ伝講義』(ちくま文庫)、『布のちから 江戸から現在へ』(朝日文庫)など多数。


https://shinsho.shueisha.co.jp/



<内容紹介>

水俣病犠牲者たちの苦悶、心象風景と医療カルテなどの記録を織りなして描いた、石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』は類例のない作品として、かつて日本社会に深い衝撃を与えた。

だが、『苦海浄土』をはじめとする石牟礼文学の本質は告発だけではない。

そこには江戸以前に連なる豊饒な世界と近代から現代に至る文明の病をも射程に入れた世界が広がる。

経済原理優先で犠牲を無視し、人間と郷土を踏みにじる公害、災害。

それは国策に伴い繰り返される悲劇である。

新型コロナウイルスの蔓延が状況を悪化させる中、石牟礼本人との対談、考察を通し世界的文学者の思想に迫る、評伝的文明批評にして日本論。

今は亡き文学者に著者は問い、考える。

「石牟礼道子ならどう書いたであろう」と。


https://shinsho.shueisha.co.jp/



<資料>

水俣病  

みなまたびょう 


工場排水に含まれたメチル(有機)水銀が海や川の魚介類を汚染し,それを食べたヒトに発症したメチル水銀中毒。熊本県水俣市で最初発見されたのでこのように呼ばれている。公害病の代表的なものとして内外に有名。

 1956年,水俣湾を中心に不知火海(八代海)一帯に発生した水俣病のほかに,65年の新潟水俣病(阿賀野川有機水銀中毒事件)もある。両者ともアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀が原因で,水俣の場合は,新日本窒素肥料(のち,チッソと改名)水俣工場が汚染源であった。原因究明は1959年7月,熊本大学医学部水俣病研究班によってなされたが,政府がそれを正式に認定したのは68年9月であり,この遅滞が対策の遅れをもたらし,政府が正式に解決策を提示したのは実に95年12月であった。

[症状] 中枢神経系の障害が特徴である。初期の患者では手足のしびれ感,脱力,歩行時動揺,言葉不明りょう,手足痛などから始まり,痙攣,よだれ(流涎),ふるえ,そして四肢麻痺,視力障害,意識混濁,精神錯乱がみられ,発病3ヵ月以内に半数以上が死亡するという激烈なものであった。典型例では末端に強い四肢の感覚障害,運動失調,難聴,言語障害,求心性視野狭窄,ふるえなどの共通の症状群を示した。これは,最初にメチル水銀中毒の症状を詳細に報告したイギリスの医師たちの名にちなんでハンター=ラッセル症候群と呼ばれている。病理学的にも特徴があって,後頭葉鳥距野(視覚中枢),中心回領域(運動および感覚中枢),側頭葉横側頭回領域(聴覚中枢)など大脳皮質が選択的に強く障害される。小脳では皮質の顆粒細胞層の脱落,末梢神経では感覚繊維の変性などが認められる。

 1970年になってから,これらの典型・急性激症患者のほかに,とくに家族や近隣者にさまざまな神経症状が認められることが明らかになり,潜在性水俣病と呼ばれた。すなわち,等しく汚染された住民にさらに多数の,多彩な,さまざまの程度のメチル水銀中毒の存在が明らかになった。これらは非典型例,不全型,軽症水俣病と呼ばれた。そのほかに,水銀の摂取を止めても症状が進行する例(遅発性水俣病),徐々に症状が進行する例(慢性型水俣病)などの存在も明らかになった。

[胎児性水俣病] 妊娠中に母親がメチル水銀を含んだ魚介類を食べ,それが胎盤を通過して起こった先天性(胎児期)のメチル水銀中毒で,1958年ころに発見され62年に最終的に結論が出された。妊娠中,分鞄時に異常はなく,出生後の精神・運動機能の発達遅滞によって気づかれた。症状は一般の脳性小児麻痺に酷似しているが,発生率が異常に高く(多発地区の発生率は9.0%,対照は0.59%),家族に水俣病患者が多く認められ,毛髪や臍帯中の水銀が高値を示すなどによって診断される。現在,水俣で64例,新潟で1例,外国ではスウェーデン,アメリカで各1例,イラクで5例が見つかっている。

[疫学] 1950年代から70年代前半まで患者の発生をみる。60年の人口統計でみると,猫が魚を食べて狂死したような汚染地区に住み汚染を受けた住民は20万人を下らない。この人たちの現在の実態はまだ明らかではない。96年1月現在,公害健康被害補償法に基づく熊本,鹿児島両県の公害被害者認定審査会が正式に水俣病と認定したものは2260人,棄却1万4205人,そのほかに審査未処理者が1019人いる。新潟では認定患者690人,棄却されたもの1304人である(図)。

[補償問題] 1969年6月,患者の一部(29世帯)はチッソを相手に総額6億4239万0444円の損害賠償請求訴訟を熊本地方裁判所に起こした(一次水俣裁判といわれる)。73年3月20日,熊本地裁はチッソの過失責任を認め,患者勝訴をいい渡した。その結果,1600万円から1800万円が症状に応じて支払われることになった。さらに,この訴訟派や新しい認定患者のうち自主交渉を求める人たちはチッソとの直接交渉を求めて東京本社前に1年8ヵ月にわたる座り込みを行い,この激しい闘争の結果,73年7月9日,患者とチッソは〈水俣病補償協定〉を結んだ。1959年の見舞金契約,70年の補償処理など第三者のあっせんによる補償契約はすでにあったが,患者がチッソの加害責任を認めさせたうえで自主的に契約したものであり,判決で救済されなかった患者の将来の生活と医療の保障を年金と基金という形で認めさせた点で画期的なものであった。しかし,それでも救済の枠は認定審査会の審査によって狭く限定されており,全面救済には至らなかった。認定審査会から棄却(水俣病でない)された患者が直接チッソを相手に起こした二次訴訟(一審では14人中12人を水俣病と認定),国・県の認定(救済)の遅れの責任を追及する不作為違法確認請求は勝訴した。さらに,国・県の責任と水俣病であることの認定を求めた三次訴訟(熊本,福岡,関西,京都,東京)は原告2200人にのぼった。新潟でも230人が二次訴訟を起こした。しかし,96年5月,関西訴訟を除いて政府の解決案を受入れて和解し,訴訟を取り下げた。その結果,一定の神経症状をもつ患者1万4000人が一時金280万円と医療費,療養手当を受けることになった。

[安全宣言] 熊本県と国は,チッソが36年間にわたって水俣湾にたれ流した高濃度(25ppm以上)の水銀を含むへどろを,14年の歳月と約484億円をかけて埋め立てた(1990年3月完了)。処理面積2110km2,浚渫汚泥量1500km3という世界でも例をみない大工事であった。その間,汚染魚の移動防止という理由で74年1月から2350mの仕切網で水俣湾を取り囲み(ただし,船舶の出入りのため250mは開いていた),さらに漁獲を禁止した。97年7月,熊本県知事は湾内の魚の水銀値が3年間安全基準以下であったとして安全宣言を行い,9月に仕切網が撤去された。しかし,今後の環境監視,医療や福祉,地域の振興や心のケアなど残された問題は多い。

 一方,チッソは,増大する補償金とへどろ工事費などのために経営危機にあって,熊本県は地方債(県債)を発行しているが,96年2月の段階で償還予定額は元利合わせて約2500億円になっており,熊本県の財政そのものにも深刻な問題を投げかけている。                原田 正純


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島原の乱  

しまばらのらん 


江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。領主松倉・寺沢両氏の重税は有名であるが,年貢減免等の世俗的要求でも,かつてキリシタンの中心地であったがゆえに,信仰による抵抗にすりかえ,さらなる弾圧と収奪が正当化されたところに〈苛政〉の特質があった。加えて相つぐ凶作のため,終末観念や救世者出現の期待は急速に広まった。10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。しかし諸藩は幕府の指示を待って動かず,一揆は4万石の藩全域に及んだ。27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。

 板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。また平戸のオランダ商館長に命じて船砲を打ち込ませ,長崎在住の明人や町人の参戦,矢文や捕われの四郎の縁者等による投降勧告も続けられた。しかし城内の結束は固く,ついに食糧等が尽き果てた2月27,28日の総攻撃で全員殺害された。一方幕府側も攻城の期間を通じて死者2000余,負傷1万以上をかぞえ,抵抗の激しさを物語っている。この乱を乗り切った幕府は,信綱を中心に幕閣機構を確立し,松倉勝家に斬罪,寺沢堅高に天草没収,軍紀違反の大名・旗本に閉門を科す一方,禁教の強化をてこに農民統制を強め,ポルトガル貿易禁止にふみ切り(1639)鎖国政策を大きく前進させた。今日,宗門一揆説より農民一揆説が有力であるが,蜂起当初諸藩が探った情報によると,転びキリシタンの〈立上り〉とする宗門一揆説のほか,領主の苛政原因説,さらに信仰を掲げるのは上使の下向を引き出して領主の失政を越訴する策謀であるとする偽装宗門一揆説もあった。 中村 質


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