歴史書で定評のある中公新書の日本近現代史講義。長らく積読でしたが少しずつスローリーディング中。
本書の成立経緯は少し変わっていて、自民党の「歴史を学び未来を考える本部」(2015年12月~2018年7月、当時の谷垣幹事長が本部長)での講義を新書にまとめたものだそうです。(最近の自民党国会議員は読んでるのかな?)。
巻末に簡単な年表、索引までついており、ざっと読んだところ、最新の日本近現代史の知識が身につく良書と思いました。
本日は「第9章 米国の日本占領政策とその転換(楠綾子)」を読みました。
<中公新書のサイトより内容紹介>
『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』
(山内昌之/細谷雄一 編著、2019年8月21日刊、中公新書)
明治維新から一五〇年余り。日本近現代史の研究は日々蓄積され、塗り替えられている。日本国内の閉じた歴史にとどまるのではなく、世界史と融合した新しい歴史を模索する流れが強まっている。明治維新に始まり、日清・日露戦争、第二次世界大戦、東京裁判と歴史認識問題、戦後日中関係、そして未来に向けた歴史観の問題まで。特定の歴史観やイデオロギーに偏らず実証を旨とする、第一線の研究者による入門一四講。
<第9章の著者紹介>
楠綾子(くすのき・あやこ)
1973年生まれ。神戸大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(政治学)。関西学院大学准教授を経て、2015年より国際日本文化研究センター准教授。専攻は日本政治外交史、安全保障論。著書に『吉田茂と安全保障政策の形成―日米の構想とその相互作用 1943~1952年』(ミネルヴァ書房、2009年)、『現代日本政治史1―占領から独立へ 1945~1952』(吉川弘文館、2013年)ほか
(top photo by Ryusuke KAMIYA)
第9章 米国の日本占領政策とその転換(楠綾子)
はじめに
敗戦から対日講和条約の発効まで6年8カ月の連合国の占領
近代日本の構築してきた政治、経済、社会システムに劇的な変化をもたらした
(1)軍国主義の日本を、民主的な平和国家に生まれ変わらせたアメリカの日本占領は、アメリカにとっては偉大な成功物語であった
(2)「戦後レジームからの脱却」という理念
(1)(2)は相互に自己完結的な「大きな物語」の世界観、相対する理解
両者の違いは「変化」をどの角度から見るか(変化の実相と、構造的要因)の違い
ドイツとの比較の中で
連合国の戦後構想において、永続的な平和・安定の基礎に位置づけられたドイツ・日本の占領
(1)ドイツは米英仏ソの四か国四地区に分割統治
(2)日本は沖縄・小笠原諸島・北方領土を除いて連合国が統治(日本政治システム間接統治)…国家としての一体性を維持できた
(1)アメリカのドイツ占領は軍政府と駐独米軍の役割が不明確(半年以上占領行政が中心を欠く)
(2)アメリカのマッカーサーが占領行政機関と強制力(連合国軍)の頂点に一人でたち、日本を民主的な平和国家に生まれ変わらせる強烈な使命感を持っていた
P207
「毀誉褒貶の多い人物ではあるが、日本占領が大きな混乱なく実施されたのは、マッカーサーという存在に負うところが大きい。」
占領改革の特徴
第二次世界大戦前まで敗者の国家改造という発想・例はなかった
連合国が枢軸国に対して「無条件降伏方針」をとった必然的結果で、被占領国の国家体制の改造もしくは建設を強制した
ポツダム宣言の改革メニュー(非軍事化・民主化改革)←投稿末の『世界大百科事典』項目参照
民主化実現のための諸改革はプロセスに注目すると3つに類型化できる
(1)日本政府による自主的な取り組み
選挙法改正(1945年12月、婦人参政権)
労働組合法の制定(1945年12月、国際水準化)
(2)GHQが日本に強制した取り組み
財閥解体(1945~1947年)
独占禁止法(1947年4月)…のちに改正
過度経済力集中排除法(1947年12月)…のちに緩和
(3)日本政府が着手したが、途中からGHQが介入して急進化した改革
憲法改正(1946年11月)
国会法(1947年4月)
農地改革(1946年10月)←投稿末の『世界大百科事典』項目参照
地方自治(1947年、内務省の解体)
警察権力の分権化(1947年12月)
教育改革(1947年3月)
P211
「日本社会にシステム改革の方向性が内在していたとしても、あの時期にあのような形で改革が実現したことが戦後の日本の政治、社会、経済の現実をつくったのであり、それを可能にしたのが連合国の日本占領であったという厳然たる事実から目を背けるべきではないであろう。」
非軍事化・民主化改革から経済復興へ
敗戦から対日講和条約の発効まで6年8カ月の連合国の占領
(前後二期に区分できる(1947・48年を境))
前半:非軍事化・民主化改革の遂行が重要視された時期
後半:日本経済の安定と復興に重点、講和・独立へ向かう時期
P214
「共産主義に対して脆弱でない、政治的、社会的、経済的に安定した日本の建設が、米国の冷戦戦略上の利益となる。」
日本の生産能力の極小化を意図した賠償政策の緩和(1949年5月、米国は賠償打ち切り)
P215
「賠償の緩和方針は最終的に講和条約にも反映され、日本は原則として賠償の責任を課せられなかった(東南アジア諸国に対しては役務賠償が実施されることになった)。ガリレオ・エロア援助に始まる米国からの各種の援助は、このあと1950年代を通じて日本経済を支える不可欠の要素となる。」
日本占領をどう評価するか
P217
「占領改革の成果は対日講和条約・日米安全保障条約とともに、1950年代以降の日本の政治・経済・外交の基本的枠組みとなっていった。なぜ「体制」となったのか。自由で民主的な改革の受益者が多かったということであろう。占領政策は総合的にみて、政治、社会、経済における自由度を高めるとともに、富の偏在を強制的に是正し平等化を進める効果をもった。自由と平等の実現が長期的には統治の正統性と社会の強靭性を高めたことは間違いない。」
<資料編>
ポツダム宣言
ポツダムせんげん
アメリカ,イギリス,中国3国首脳により1945年7月26日に発表された日本に対する共同宣言。ベルリン郊外のポツダムで開かれたトルーマン・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相,スターリン・ソ連首相による3国巨頭会談で決定されたのち,待介石中華民国総統の同意をえて米英中3国首脳の名で発表された。ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名せず,45年8月8日の対日宣戦布告ののちこの宣言に署名した。ポツダム宣言は,カイロ宣言(カイロ会談,1943年11月27日)とヤルタ協定(1945年2月11日)につづき,連合国首脳が太平洋戦争の終結条件と戦後の対日処理方針を決定したもので,その大要は次のとおりであった。(1)日本軍国主義の駆逐および軍国主義指導者の権力と勢力の永久除去,(2)〈平和,安全及正義の新秩序〉が建設されるまでの連合国による日本占領,(3)日本国の主権の本州,北海道,九州,四国および連合国が決定する諸小島への制限,(4)日本国軍隊の完全武装解除と兵士の復員,(5)戦争犯罪人の処罰と日本国内における言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重,(6)軍需生産の禁止,(7)前記諸目的が達成され,日本国民の自由意志による平和的政府が樹立された後における占領軍の撤退,(8)日本国軍隊の無条件降伏。
7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が,この宣言を〈黙殺〉すると言明したため,アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下し,ソ連の参戦を経たのちの8月14日,日本は御前会議における天皇の〈聖断〉によりポツダム宣言の受諾を決定した。敗戦後における日本の民主的改革は,ポツダム宣言の精神に基づいて実施されたが,連合国の日本占領がアメリカによる事実上の単独占領となり,1946年3月チャーチルの〈鉄のカーテン〉演説を契機に米ソの冷戦が激化するなかで,ポツダム宣言の精神はしだいに歪曲され,日本の民主化は貫徹されずに終わった。 木坂 順一郎
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農地改革
のうちかいかく
一般には,連合国軍の占領下に日本で実施された農地改革を指す。それは,1946年10月公布の〈自作農創設特別措置法〉および〈改正農地調整法〉に基づいて47年から50年にかけて実施された。その骨子は,(1)不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地で保有限度(都府県で平均1ha,北海道で4ha)を超える部分を国が強制買収し,それを小作農に売り渡す,(2)自作農の農地最高保有限度を原則として都府県平均3ha(北海道は12ha)とする,(3)小作料を金納制とし,最高小作料率を設け(田は収穫物価額の25%,畑は15%),小作料統制を実施し,さらに小作契約の文書化を義務づけ,土地取上げの制限を強化し,耕作権の移動を当面知事の許可制とする,(4)農地の買収・売渡しは2ヵ年間で完了させることとし,買収・売渡し計画の作成主体である市町村農地委員会の階層別委員構成を,地主3,自作農2,小作農5とする,などである。この農地改革によって,地主的土地所有制度は基本的に解体され,それにかわって自作農的土地所有制度(自作農体制ともいう)が広範に創出されることとなった。
[背景] 明治維新以降農地改革にいたる近代日本の歴史において,地主制度は経済的にも政治的にも重要な役割を演じた。すでに地主制度が後退していた1941年においても,日本の全耕地の46%,水田では53%が小作地であり,耕地をまったくもたない純小作農は全農家の28%,それに多少とも地主から耕地を借りている小自作農や自小作農を加えると69%に達した(図1,図2)。小作農はとりわけ経営が零細であり,水田を中心にその収穫物(米)の約半分に及ぶ高額高率の現物小作料を地主から徴収された。小作農は,収穫米から小作料を支払い,肥料代や借金の利子を差し引くと自分の飯米すら事欠く状態であった。しかも小作農民は地主による土地取上げの脅威に不断にさらされていた。
こうして多数の貧窮小作農民層から,欧米に比較して格安な低賃金の不熟練労働力が多数生み出された。戦前期(1945年以前)に輸出=外貨獲得業として,日本で基軸的地位を占めた生糸(対アメリカ輸出中心)や綿糸布(対アジア輸出中心)の生産は,これら貧農層から生じた低賃金と過酷な労働条件に耐えて働く女工の労働によって支えられていた。原料資源が乏しく,先進的機械の多くの部分を欧米からの輸入に依存しなければならないという弱点をもった日本が発揮しえた強い国際競争力は,実はこれら貧窮小作農民層から生じた低賃金労働力の存在に由来していた。
さらに,農業・小作問題は日本の軍国主義と対外侵略とも関連していた。1930年の昭和恐慌は小作農のみならず全農家(約550万戸)を,さらにはその数200万戸に達すると推定された小規模の不耕作・耕作地主層をも長期にわたって窮乏させた。長期農業恐慌下にともに困窮した地主・小作がせめぎあうという一種の〈閉塞状況〉のもとで,右翼急進派によるクーデタなど政治的危機が発生した。日本の支配層は恐慌と危機打開を軍事,経済両面で対外的に打って出る道に求めた。恐慌と踵(きびす)を接して31年に日本は満州(現,中国東北部)侵略を開始し,〈十五年戦争〉へと突入する。日本の農村は軍人の重要な供給源でもあったが,地主のみならずその搾取をうける小作農でさえも,困窮と閉塞状況打開の希望を侵略戦争に託した。こうして日本資本主義の基礎を構成した農村は,重要な低賃金労働力源であるとともに軍国主義の温床ともなった。
第2次大戦後,ポツダム宣言を背景に連合国軍による対日占領の実権を掌握したアメリカは,当初その占領政策の基調を日本の民主化と非軍事化におくことになった。経済分野でも財閥解体・非独占化,労働者保護・労働運動規制解除などの政策とならぶ重要な柱として農地改革を据えた。小作農民の要求や共産主義勢力の主張をいわば先取りし,占領軍の指揮下に日本の統治機構を利用しながら推進される〈上から〉の農地改革が実施されることとなった。ところが,日本の内外における共産主義勢力の進出,とりわけ中国の共産化の急速な進展といった事態に直面して,アメリカは1947,48年ころを境に占領政策の基調を日本の非軍事化・民主化から反共・経済自立化へと転換させ,対資本・労働政策では非独占化政策の骨抜き,労働運動奨励からその規制への転換が行われていく。これに対して,非軍事化・民主化という初期占領政策の目標に即して行われることとなった農地改革は,そのまま反共・経済自立化の後期占領政策の目標にも沿ったものとして政策転換はなされなかった。
[改革の結果] 図に見られるように,農地改革の結果,小作地は田で14%,畑で12%に激減し,大部分が自作地となった。また,純小作農は8%に,自小作農や小自作農を含めても43%に減り,自作農家は55%と過半を占めるにいたった。農地解放は有償ではあったが,当時のインフレ急進にもかかわらず農地の買収・売渡し価格は固定されたために,小作農民は格安に自作地を手に入れることができた。買収・売渡し価格は田で賃貸価格の40倍,全国平均10a当り約760円とされた。1947‐49年の米150kg当り公定政府買上げ価格は3232円であったから,10a当り水田価格は35.3kg(2斗3升5合)分にすぎず,仮に10a当り米の収穫量が330kg(2.2石)としても,その10分の1程度で水田が入手できた。まして,当時の食糧不足下の高い闇米価の存在を考えると,小作農は農地改革によって格安に自作化しえたといってよい。また残存小作地の小作料も,改革前10a当り収穫米2石,小作料1石,小作料率50%であったものが,改革後の1948年産米では公定政府買上げ価格150kg当り3600円で計算しても,小作料75円,小作料率1%と激減し,小作農の地位は自作農に接近した。
こうして,農地改革は日本の耕作農民に〈労働の成果を公正に享受する〉契機を農地所有関係の点では与えたといってよい。1955年の1200万tを超える史上最高の米豊作と以後の米生産力水準の階梯的上昇も農地改革と切り離しては理解しえないといってよい。そして,この農地改革の成果を今後とも維持すべく,農地移動・転用統制,小作料統制,土地取上げ制限などを盛り込んだ〈農地法〉が1952年7月に制定された。なお,1950年の農地価格統制の撤廃と農業生産力水準の上昇に促進された高地価形成のもとで,旧地主層の農地買収価格を不満とする声が全国的に高まった。彼らによる違憲訴訟は53年12月の最高裁による買収価格合憲判決により決着をみたものの,彼らの解放農地国家補償要求はその後も根強く継続し,高度成長下で地価上昇がさらに進む65年〈農地被買収者等に対する給付金の支給に関する法律〉が公布され,10a当り2万円の給付金支給(無利子・10年償還の国債)によって旧地主補償要求の決着が政府・与党の手で図られた。
[改革の限界] ところで農地改革には他面でさまざまな限界もみられた。第1は,農地改革が旧来からの農民の個々の保有地が零細な耕地片から成り,しかもそれが各所に分散して他人の耕地と入り組んでいる〈分散錯圃制〉のもとでの零細農民経営の枠組みを打破しえず,日本農業の合理化という点で重大な限界をもったことである。1930年代をとってみても,全国農家平均経営耕地面積はわずかに1.1ha,1ha未満の経営農家が全農家の66%までを占めるという零細さであった。しかもこの平均1.1haは耕地が1ヵ所に集団化して存在しているのではなくて,十何ヵ所の零細耕地片に分散していることが多かった。農地改革は法規上は耕地の交換分合による集団化などを行って農業合理化を推進しうることになっていたが,交換分合といった当事者間の利害錯綜する事業を2ヵ年という期限の付された農地改革と合わせて実施することは困難だった。こうして,農地改革の〈上から〉の性格ともかかわって,それは全体として各零細耕地片の所有権を機械的に旧来の地主から小作農へ移し換えたにすぎぬという性格を強くもった。
さらに農地改革の対象が農地に限定され,国土の7割,農地の5倍強に達する山林原野までを含む土地改革としては遂行されなかったことも,零細農民経営打破と日本農業合理化を困難にした。日本の林野を国土保全,林業,生活(観光,保養)のための基地としてのみならず,畜産(肉牛,酪農など)を中心とする農業基地として活用することの意義は大きい。だが,農地改革は農民による個別的・集団的畜産経営の展開のための林野解放を行うことがきわめて少なかった。そのことと関連して,農地改革以後日本で展開する畜産業は,土地所有・利用と切り離され,外部からの飼料の購入・輸入に強く依存する加工型・施設型畜産という性格に偏したものとなった。こうして農地改革後の農民経営は,総じて旧来の分散錯圃制下の零細経営という枠組みを継承し,それに縛られたまま全階層的に自作化の度合を格段に強めたということができる。
農地改革の限界の第2は,全小作地の解放を主張したソ連の農地改革案への対抗とかかわって,在村地主に1haの貸付地保有を認めたことによる残存小作地の存在である。解放農地との均衡上,残存小作地の賃借条件は小作農民にとって改革前に比べてはるかに有利化されはしたが,一部の小作人がその意思に反して農地解放から排除されることとなり,残存小作地問題の処理を後の課題として残すこととなった。
以上のような重大な諸限界を農地改革は有するとはいえ,改革前の状態に比べるならば,それは全体として農業生産力と農民の生活水準の上昇に寄与したといってよい。改革後の零細自作農民は,1960年代の高度成長期以降急激に分解を遂げ,農家労働力の脱農・賃労働者化,農家の兼業化が急進する。しかし,その場合の賃労働者化も,改革前の貧窮小作農民の賃労働者化に比べるならば,総じてよりましな賃労働者化だといってよいのである。 暉峻 衆三
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学校(がっこう)より、戦後の教育改革部分
[戦後の教育改革] ポツダム宣言には,〈日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ〉とあった。ここでいう障礙のなかで強力なものの一つは学校であったから,必要なのは戦前の教育への反省であった。しかし文相はポツダム宣言受諾にあたり,学校関係者に対し,未曾有の国難を招来した原因は〈皇国教学ノ神髄〉を十分発揮できなかったところにあるとし,今後は教職員,学生・生徒とも〈国体護持〉に努めるべきだとの訓示を出した。これは学校教育の敗戦責任を問うものであり,戦争責任は不問に付されたままであった。しかし,いつまでも国体護持のみを学校の使命としていることはできず,1945年9月15日に文部省の出した〈新日本建設ノ教育方針〉では,なお国体の護持をかかげながらも,世界平和と人類の福祉に貢献する新日本建設のための教育方針が示された。ここには社会教育もとりあげられていたが,やはり中心課題は学校教育の改革であり,学校から軍国的思想や軍事教育を一掃し,科学的思考力や平和愛好の精神を育てることであった。一方,連合国軍最高司令部は10月22日に〈日本教育制度ニ対スル管理政策〉を出し,学校の教育内容から軍国主義,超国家主義を廃し,代りに基本的人権の思想に合致する諸概念の教授および実践の確立を奨励し,続いて〈教育関係者ノ調査,除外,認可ニ関スル件〉(10月30日),〈国家神道,神社神道ニ対スル政府ノ保証,支援,保全,監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件〉(12月15日),〈修身,日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件〉(12月31日)という指令が出された。これは教育に関する占領軍の〈四大指令〉といわれている。いずれも学校教育のあり方に強い反省を迫るものであった。
46年3月には,第1次アメリカ教育使節団が来日,報告書は,高度に中央集権化された教育制度は,かりにそれが極端な国家主義と軍国主義の網のなかにとらえられていないにしても,強固な官僚政治にともなう害悪を受けるおそれがあり,教師は画一化されることなく,その職務を自由に発展させるには地方分権化が必要であるとし,学校は,非文明主義,封建主義,軍国主義に対する一大抗争に加わるだろうと期待していた。報告書は教育の目的・内容・方法から制度や教員養成など,学校教育に直接関係のある問題のほか,国語改革,成人教育などにも言及していた。この報告書が戦後教育改革の方向を示唆したことは確かだが,すべてこのとおりに実行されたのではないし,また日本側にも教育改革のための努力があった。同年6月,文部省の出した〈新教育指針〉には,平和的文化国家の建設と教育者の使命が熱っぽく説かれており,同年8月設置された教育刷新委員会(総理大臣所轄,委員長安倍能成,1947年11月以降,南原繁。49年6月,教育刷新審議会と改称)は,教育の諸問題について精力的に審議を行い,改革のための建議を行った。同年12月27日に出された第1回の建議は,日本国憲法の理想の実現は根本において教育の力にまつべきであるとの考えに立って教育基本法を制定する必要を説いたものである。翌47年3月に公布された同法では,第6条で学校とその教員について〈法律に定める学校は,公の性質をもつものであって,国又は地方公共団体の外,法律に定める法人のみが,これを設置することができる。法律に定める学校の教員は,全体の奉仕者であって,自己の使命を自覚し,その職責の遂行に努めなければならない。このためには,教員の身分は,尊重され,その待遇の適正が,期せられなければならない〉と規定された。
この教育基本法にもとづいて日本の学校は新たな出発をすることになる。この法でいう〈法律〉とは,同日に公布された学校教育法であり,この法は,教育の機会均等,普通教育の向上と男女差別撤廃,学制の単純化,学術文化の進展という見地から,学校制度を改革し,6・3・3・4制を発足させるために作成され,この公布により,国民学校令,中等学校令,大学令などは廃止された。そして4月から新学制による小学校(国民学校初等科を改称)と中学校が発足し,翌48年高等学校,ついで49年大学(キリスト教系・女子系の12の公私立大学はひと足先に48年),さらにこの年に大学に入学した者が卒業する53年に大学院がそれぞれ発足したのである。普通教育の新教科として1947年9月から社会科が設けられ,教科書は学校教育法で国定制を廃止,49年4月から検定教科書が使用されるようになった。国定教科書廃止の後,文部省は,教師が自主的に教育計画をたてるさいの手引きとして1947年3月以降《学習指導要領(試案)》を刊行し,今後の学校教育について〈下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行く〉(《学習指導要領一般編(試案)》,1947年3月20日刊)という方針を示した。この方針に従い,各地で教師自身による調査を基礎にして地域教育計画がたてられ,あるいは教科書にこだわらず,自主的選択教材による授業が展開されるなど,学校には,かつてない自由で活気ある雰囲気がみられた。
[教育政策の転換と学校] しかしこのような学校は長続きしなかった。米ソ冷戦,朝鮮戦争勃発を背景に,1951年9月,サンフランシスコで単独講和条約と日米安全保障条約が調印され,その直後の11月に,占領下の改革を検討し直すため同年5月内閣に設けられた政令改正諮問委員会が,〈教育制度改革に関する答申〉を行った。答申は,戦後の改革が民主的教育制度確立に資するところが少なくなかったとしながら,国情を異にする外国の諸制度に範をとったので,日本の実情に即しないところがあるという,その後たびたび繰り返される理由をあげ,教育委員会制度や教科書制度とともに学校制度についても再改革の案を示した。そこでは,6・3・3・4の学校体系は原則的に維持するとしながら,画一的な制度を改め実際社会の要求に応ずる弾力的な制度にすること,普通教育偏重を改め,職業教育を重視することがあげられていた。これらは,すぐには実現しなかったが,学校の再改革は50年代の終りから高校多様化を中心にすすめられた。これは指導層と中堅技術者と現場労働者という各層の養成に適した学校を制度として整えさせようとの要求であり,以後,経団連,日経連など経済団体は80年代中葉まで百数十回に及ぶ教育関係の要望書を公表,関係機関に提出し,学校教育のあり方の変更を迫る。
とくに1960年代の高度経済成長政策下,学校はその政策実現に必要な人材開発の手段とされた。経済界からの要望をいくつかあげると,60年7月,経済同友会〈産学協同〉,12月日経連〈専科大学創設〉,61年8月日経連・経団連〈技術教育の画期的振興策の確立〉,63年11月経済同友会〈工業化に伴う経済教育〉(高校社会科内容の刷新),65年5月日経連〈後期中等教育〉,68年11月経済同友会〈大学教育の基本問題〉,69年2月日経連〈当面する大学問題〉等々である。1960年代末の大学紛争にあたって大学問題についての見解が出されるが,焦点は後期中等教育であり,61年に5年制の高等専門学校が創設され,6・3・3・4制という単線型の一角が崩された。ついで63年1月の経済審議会答申〈経済発展における人的能力開発の課題と対策〉では,諸条件の変化が新しい基準による人の評価・活用のシステムを要請しているとし,教育における〈能力主義の徹底〉を提唱した。66年10月の中央教育審議会答申〈後期中等教育の拡充整備について〉では,各人の個性・能力・進路・環境に適合する教育(多様化)が提案された。これの別記として愛国心育成を強調した〈期待される人間像〉がそえられたところにも,以後の教育で後期中等教育の改革が重要視されていたことがあらわれている。
以上の要望や答申の総まとめとして出されたのが71年6月の中教審答申〈今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について〉であり,幼児教育から大学院にいたるまでの全学校教育についての改革案が示され,これにもとづく学校改革は〈学制〉公布,敗戦後の改革につぐ〈第三の教育改革〉であるとされた。5歳児全員の幼稚園就園,4,5歳から小学校低学年までの同一教育機関での一貫教育,中等教育のいっそうの多様化,大学における高度化した研究と大衆化した教育との分離などが提案された。しかし幼稚園については保育所などの反対があり,多様化は70年代中葉にいたって破綻が明らかとなり,大学については研究と教育の結合という原則の重要性が改めて大学人によって確認されるなど,この答申はそのままでは実現されなかった。しかし70年代以降,学校制度には,中学・高校の接続や義務教育年限など問題が多いことは多くの人の認めるところとなり,日教組も教育制度検討委員会を70年代と80年代の2度にわたって設置し,制度改革構想の検討を委嘱したほどである。
一方,小・中・高校の教育内容は1950年代以降,学習指導要領がほぼ10年ごとに改訂されてきた。50年代後半からはその性格が改められ,教科書への拘束力が強化され,このため教科書は画一化と寡占化の傾向を強めた。また50年代以降の国際的な科学・技術の発展への対応にあたり,教育内容を十分に整理しないまま新しい内容を付け加えた(たとえば小学校算数に〈集合〉を追加)ため,内容が難しく,しかも量が増えたので,70年代からは〈落ちこぼれ〉が流行語になるほど,授業についていけない子どもが増えた。これとほぼ並行して高校で,80年代に入っては中学校で校内暴力,登校拒否,非行が急増し,教師は学園の秩序の回復に向け懸命に努力しなければならなくなった。
⇒教育∥教師∥大学 山住 正己
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ドッジ・ライン
Dodge line
1949年2月 GHQ 経済顧問として公使の資格で来日したアメリカのデトロイト銀行頭取ドッジJoseph Morre Dodge(1890‐1964)が指導して行った厳しい財政金融引締政策。ドッジ・プランともいう。第2次大戦終了後継続していたインフレーションはこれによって急速に収束させられたのであり,日本の近現代史上,松方財政,井上財政とならぶ代表的なデフレーション政策である。もっともドッジ・ラインはドッジ個人の政策とはいえない。というのは,ドッジ来日前の1948年12月,アメリカの統合参謀本部,国家顧問会議,国家安全保障会議により,日本について〈経済安定九原則〉が決定されているからである。その九原則は,(1)総予算の均衡,(2)徴税強化,(3)信用膨張制限,(4)賃銀安定,(5)物価統制強化,(6)貿易統制改善と外為統制強化,(7)輸出増加のため資材割当改善,(8)重要国産品増産,(9)食料集荷改善を定めており,これらは単一為替レート設定の早期実現の不可欠の前提だとされている。この時点でアメリカがこうした政策を打ち出したのは,日本のインフレーションを鎮静させて経済復興を軌道にのせ,激化が予想される極東の冷戦に備えて日本をアメリカの強力な友好国たらしめようとしたからであろう。その政策の具体化がドッジに任されたのである。
ドッジ自身は古典的な自由主義観,勤倹貯蓄志向,安価な政府論の所有者で,西ドイツの1945‐46年の通貨安定政策にも携わっており,当時の日本のインフレ政策やそれを指導していた GHQ に強い批判をもっていた。ドッジによれば一見生産も輸出も増加しているかにみえる当時の日本経済は,実はアメリカの援助と価格差補給金に支えられている〈竹馬経済〉にすぎず,この竹馬をはずさなければ日本経済の自立と安定はなしえないのであった。その手段として彼は次の四つの政策を中心として,厳しい引締政策を遂行した。(1)1949年度超均衡予算の編成,(2)復興金融金庫の新規貸出停止,(3)米国対日援助見返資金特別会計の設置,(4)1ドル=360円レートの設定。すなわち,(1)は,単に一般会計にとどまらず,特別会計や政府関係機関をも含めた総合予算の均衡であり,しかも純計は黒字を計上して復金債等の債務償還に充当するところの超均衡予算となった。また(2)は,当時のインフレの主因であった復金債の日銀引受の根が断たれることとなったのであり,両者あわせた通貨収縮により,インフレーションが鎮静させられることとなった。さらに(3)と(4)とについていえば,単一為替レート設定は,輸出商品を国際競争に直接さらし,アメリカの援助が従来見えざる輸出入補給金として利用されてきたのを,見返資金特別会計を設けることで会計上の表面に出すとともに,予算上の補給金の廃止と重要物資の統制撤廃を要求したのである。ちなみに1ドル=360円レートはおおかたの予想330円よりかなり円安であり,その後の時期についてはいうまでもないが,当時にあっても輸出促進に好都合に作用したものと思われる。
ドッジ・ラインがあまりにも厳しかったため,日本側では GHQ 経済科学局と連係して,財政による資金引上げを金融面で緩和すべく日銀の買いオペレーションを実施し,デフレーションをディスインフレーション程度にとどめるべく努力した。さらに50年6月に勃発した朝鮮戦争により,ドッジ・ラインは事実上終りをつげた。 林 健久
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ガリオア・エロア資金
ガリオアエロアしきん
〈占領地域統治救済資金 Government andRelief in Occupied Areas〉(略称ガリオアGARIOA)と〈占領地域経済復興資金 EconomicRehabilitation in Occupied Areas〉(略称エロアEROA)の総称。いずれも第2次大戦後,アメリカが占領地に対して与えた資金ないし援助である。ガリオアは主として疾病・飢餓を防いで社会不安を除き,もって占領行政を円滑ならしめる目的で,アメリカ政府の予算から1947‐50年度(アメリカ会計年度)にかけて支出された。この資金で食料,医療品,肥料などが供給され,日本ではその代金は見返資金として積み立てられた。エロアは,冷戦の展開に応じ,単なる救済でなく経済の復興と強化を目的として,アメリカ政府の予算から1949,50年度(アメリカ会計年度)の2回,日本や韓国を対象として支出された。この資金では鉄鉱石,石油,石炭,機械などの基礎資材が輸入された。両資金とも当初は贈与とされていたが,結局債務ということになり,日本の場合合計18億ドルにのぼった資金の返済交渉は,1954年以来続き,61年に妥結した。⇒対日占領政策 林 健久
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