2014年8月20日水曜日

[あの頃のレコード] Bob Dylan "Desire"(1976)



28期の高校時代はボブ・ディランが音楽的・商業的に頂点にあった時代かも知れません。

当方は熱心なボブ・ディランのファンではなく、A君やK君から借りて聴いていたのを覚えてます。

ディランのアルバム、『血の轍』の「轍」という漢字。"Desire"で「欲望」の英単語を覚えました。

このアルバムからは、不思議な魅力を持つ"One more cup of coffee"を良く聴きましたね。

レコードは最近、広島駅前の中古レコード屋さんで入手。久しぶりに全部通して聴きました。

高校時代はこの『欲望』のレコーディングの前後の話をまったく知らずに聴いていたので、内容もさっぱりつかめてなくて、熱心なファンからは怒られそうです。

先日、岩波新書から出た『ボブ・ディラン ロックの精霊』(湯浅学著)から、『欲望』前後のディランの活動を長くなりますが紹介します。それにしても「ローリング・サンダー・レヴュー」は破天荒ですね。いまさらながら。

『欲望』はメロディーラインも親しみやすく(詩は難解です)、楽器編成も非常に少なく、民族音楽のような雰囲気を醸し出してます。バック・コーラスで参加した、後にカントリー界の大御所となるエミリー・ハリスの声が印象的です。

Side one
1.Hurricane  8:33
2.Isis  6:58
3.Mozambique  3:00
4.One More Cup of Coffee (Valley Below) (Dylan)  3:43
5.Oh, Sister  4:05

Side two
1.Joey  11:05
2.Romance in Durango  5:50
3.Black Diamond Bay  7:30
4.Sara (Dylan)  5:29


下記、大変長い引用になりますが、岩波新書『ボブ・ディラン』より。

P161
ドサまわりの楽団

 『血の轍』(1975年1月)は、音楽的にも商業的にも、ボブにとって満足のいくアルバムだった。
完成後しばらくは、パーティやらイヴェントへの参加などで過ごした。久しぶりにサラと一緒のところを目撃されたが、その表情は冴えなかったと伝えられている。

75年4月23日、フォード大統領はヴェトナム戦争の終結を宣言する。

 カリフォルニアの家にはいずらかったのだろうか、ボブは75年夏、グリニッジ・ヴィレッジに長期滞在した。ジャック・エリオットやボビー・ニューワースらと話すうちに彼らのライブに客演するようになる。彼らのバックを務めていたミック・ロンソン、ロブ・ストーナーらとの交流もそこから始まった。演出家で作詞家のジャック・レヴィとある日、道でばったり会ったのを機に曲を共作するようにもなった。

獄中で無実を訴えるルービン・ハリケーン・カーターのことを描いた歌「ハリケーン」も生まれた。ボブは刑務所にカーターを訪ね支援を約束する。ボブとレヴィは多くの多くの共作曲を作った。ボブの抽象的表現をレヴィが具象化するという作業がうまく噛み合った。ボブはレコーディングに着手する。

 75年7月にそれは始まった。まず20人を超すミュージシャンが一堂に集められ、そこから何人かずつがセッションしていく。人の出入りは雑然としていた。何回かそれがつづいた後、一度セッションは解散し、すぐに小編成のセットが組まれ仕上げられていった。ヴァイオリンのスカーレット・リヴェラは、ヴァイオリンを持って歩いていたところをボブに誘われたという。

 神話をモチーフにした戯作、女性への恋愛のヴァリエーション、社会事象を演劇的に描いたり、皮肉な笑いもある。レコーディングに突然現れたサラの前で歌ったといわれる純愛ソング「サラ」、冤罪糾弾の「ハリケーン」もある。

 このセッションとヴィレッジでの交友関係の中から、ボブは音楽で小さな町を訪ねていく旅まわりの公演を実行する。この構想についてはボブから60年代中ごろすでに聞かされていた、とロビー・ロバートソンは言う。「ジプシー・キャラバンのように、なんとなく人が集まって、いろいろなところで好きなようにやって、それでいてひとつのまとまりをもつようなツアーをしたい、とボブは語っていた」。

 具体的になったのは75年春だ。76年がアメリカ建国200年の年であることは、そのときボブの頭の中にはなかった。74年のツアーが1万人以上を収容するホール/スタジアムをまわるだけの、成長産業としてのロックを象徴するものだったことへの反動から構想されたのでは、との見方が強い。イタリア即興喜劇旅演芸のコンメディアルデラルテや、アメリカのイディスン・ショーの”ボブ・ディランとその仲間版”である。組織化され音楽ビジネスマンが跋扈する”レコードを売るためのツアー”への反発があったことは確かだろう。素朴で奇想天外ならなおいい。かつて夜ごと歌手が観客と交歓していた60年代のヴィレッジの空気とも、それは通じるところがあった。

 がさごそと人が出入りして伴奏が増えたり減ったり、歌い手が入れ替わり立ち替わり現れる、ドサまわり公演。楽団の基礎にはロブ・ストーナー、スカーレット・リヴェラら、レコーディングの若手を置く。ボブはジャック・エリオット、ロジャー・マッギンに参加を要請し、65年に別れて以来、ほとんど会うことがなかったジョーン・バエズも誘った。 友人が友人に声をかけ合って参加者は増えていった。キンキー・フリードマン、T・ボーン・バーネット、スティーブン・ソールズ、アレン・ギンズバーグ、デイヴィッド・マンスフィールドが加わり、ロバート・アルトマン監督の映画『ナッシュビル』に主演した女優ロニー・ブレイクリーも旅のメンバーになった。

 旅芸人になる、ということはそれまでのミュージシャン活動の延長にはあるが、少し姿勢が異なる。非日常的営みがそこに加わっている。ボブはこのツアーを映像として残すことを思いつく。それもただ記録するのではない。出演者、旅の帯同者による演技も収録する。ツアーの演奏シーン、ステージの裏の様子、旅中の会話、そこに旅の中で思いついた台本による演劇が加わる。最終的にそれらがボブの手によってひとつに編み上げられる。

 ボブはそのために二組の撮影班を編成した。脚本担当としてサム・シェパードを同行させた。しかし、シェパードがボブのやり方を理解するのは難しかった。映画に関しては、同行者全員がボブの構想と方法を理解しようにもできなかったようだ。ボブは演技のちょっとした指導とセリフを伝えることはあるが、演出といえるような演出はほとんどやらない。

 面談しているときボブはシェパードに、フランソワ・トリュオフォー監督の映画『ピアニストを撃て』を観たことがあるか、と尋ねた。あのような映画を作りたいのか、とシェパードが反問すると、ボブは「ああいうやつだ」と答えたという。

 ボブの映画のタイトルは、『レナルド・アンド・クララ』。旅が進んでも、ボブもシェパードも台本をまったく書かなかった。台本が作られているように同行者、出演者に見せかけるために自分は呼ばれたのだろう、とシェパードは思うようになった。

  75年10月23日、旅の前祝いのおうにツアー参加者一同と撮影隊はフォークシティ(*)に集合した。その日は店のオーナー、マイク・ポーコの61回目の誕生日だった。誕生会と決起集会が合体したような内輪のステージが繰り広げられた。

 ツアーは「ザ・ローリング・サンダー・レヴュー」と名づけられらた。計画の初期にはメキシコのアステカ王国最後の王の名を冠した、「モンテズマ・レヴュー」という名称をボブは考えていたともいわれる。”ローリング・ササンダー」は単に、庭でツアー名を考えていたら雷が聞こえたからだとボブは言う。後に”ローリング・サンダー”がネイティブ・アメリカンの教えで「真実を語る」という意味をもつことを知って、ボブはとても喜んだ。

 もともとボブは全員が列車で移動することを夢想していたが、実質的にそれは不可能なため、バスとキャンピング・カーを連ねてあちらこちらアメリカ北東部を巡回した。小さな会場を仮名で借り、ショーの一週間前に告知ビラを配布する先行部隊を、地元大学のキャンパスに送り込む。チケットは口コミで売られる。ショーの前夜にその町に行き、終わるとすぐに次の地へ移動した。一行は総勢70人にものぼった。

 75年10月30日、旅はマサチューセッツ州プリマスで幕を開けた。1620年にイギリスからやってきた清教徒たちが最初に上陸した土地、アメリカ合衆国建国の起点だ。演出担当ジャック・レヴィの発案かもしれない。

 一回のショーは3~4時間の長丁場だったが、観客は予測のつかない空間に身を置き、緊張感を持ちながらステージに見入った。観客のほとんどは、このようなコンサートは初めての体験であっただろう。

 ツアーの一行はボブの思いつきでの即興演技シーン撮影のためにたびたび止まった。出演者としてその時々で指名された者が、ボブのいう場所に連れて行かれて、そこあで何かをやるというものだった。”何か”といっても何のテーマもないことも多く、ただの雑談や身の上話が収録されることがほとんどだった。

 参加者は日を追うごとに増えていく。ボブの昔のガールフレンドがいつの間にか加わっていることも多かった。サラも同行していた。サラは映画の中で娼婦クララ約だったからだ。そのクララに追われるレナルド役がボブだ。つまり、ボブ夫妻が主演の劇映画にレヴューが組み込まれている、という構造だった。

 がわかりにくいことに、映画にはボブ・ディラン役でロニー・ホーキンスが、その恋人役(サラにあたる人物)としてルース・ティランギエル(後にボブに慰謝料請求訴訟を起こす)も出演していた。現実と虚構が半現実と半虚構になった合体しているので、セリフが何についての話なのかが判然としないシーンが続出する。しかし、ステージの模様は非常に躍動していた。他では感じられない奇妙なメリハリが『レオナルド・アンド・クララ』にはある。膨大な量の撮影フィルムは、その後一年以上をかけてボブ監修で編集され、4時間の作品として完成する。78年に都市部で劇場一般公開されたが、一週間で打ち切りになった。ボブは痛恨の極みで、仕方なく二時間の短縮版もすぐに作ったが、そちらもまったくの不評だった。日本では78年に、二時間版が短期間公開されたことがあった。

 ローリング・サンダー・レヴューは75年12月8日、ルービン・ハリケーン・カーターの弁護費用調達のチャリティ・イヴェントとしてニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでおこなわれたショーで一旦幕を降ろす。アメリカ北東部、トロント、モントリオールをまわり、全31公演がおこなわれた。この第一期のライヴ音源は2002年にザ・ブートレッグ・シリーズの第5集『ザ・ローリング・サンダー・レヴュー』として発売された。活きのいい歌と演奏が聴ける。

 明けて1976年1月16日、『欲望』が発売される。ローリング・サンダー・レヴューの起点のひとつとなった75年のセッションを収録したアルバムとして評判はとても良好だった。全米チャート首位を獲得する。

 ローリング・サンダー・レヴュー一行は、76年1月25日、ヒューストンのアストロ・ドームで2回目のハリケーン・カーター支援公演をスティーヴィー・ワンダーの協力のもとで開催する。が、収客(ママ)は少なかった。 4月18日、レヴューは再開される。フロリダ州レイクランドを皮切りに南部をまわり、5月25日のユタ州ソルトレイク・シティ公演で幕を閉じる。全22回公演だった。このうち76年5月23日のコロラド州フォートコリンズでのステージの模様がNBCテレビで全国放映され、その音源の一部が、ライブ・アルバム『激しい雨』として76年9月10日にリリースされた。

 後期ツアーでボブは前期よりもラフな歌声を聴かせている。バックの演奏も刺激的にテンポ・アップし、リアクティヴなフレーズをくり出したりして煽っている。

 ボブは不足している映画製作資金の捻出に苦心していた。しかし、旅廻りの歌一座というひとつの理想を、不備をかかえながらも実現したことで束の間の充足感を得られたかもしれない。