2022年11月13日日曜日

[惹句どんどん] 三島由紀夫「インドに行ける者と行けない者」



インドには行ける者と行けない者がいるけれど、
君はそろそろインドに行けるんじゃないかな。


死の三日前に電話で横尾忠則さんに語ったことば。古い雑誌を整理しておりましたら出て来た記事です。雑誌『ポパイ』(2021年11月号)「コーヒーと旅の話。」より。



三島由紀夫  1925‐70(大正14‐昭和45)

みしまゆきお 

小説家,劇作家。東京生れ。本名平岡公威(きみたけ)。1931年学習院初等科に入り,高等科まで学習院で学ぶ。この時代に文学活動を開始し,第1作品集《花ざかりの森》(1944)を刊行。20歳で敗戦をむかえるが,敗戦を何ものかの喪失と感じた時代感覚は,のちに三島の思想の根幹を形づくる。47年に東大法学部を卒業。49年に《仮面の告白》を刊行して作家としての地位を確立し,つづいて長編小説《愛の渇き》《青の時代》(ともに1950)を刊行。後者は当時話題になった金融業の学生社長をモデルにしたもので,《金閣寺》のモデルの場合と同じように反社会的な情熱が作品の主題になった。この時期の三島は,ニヒリズムを持った反社会的人物を知的な文体でえがき,その美と悪の香気によって青年読者をひきつけた。《禁色(きんじき)》(1951)とその第2部《秘楽(ひぎよう)》(1953)にも同様な傾向が認められる。52年におけるギリシア訪問を契機に,ギリシア的な健康への希求が生まれ,牧歌的な小説《潮騒》(1954)に結実しただけでなく,のちにボディビルで肉体を鍛える態度の伏線を形づくった。56年に《金閣寺》で芸術的な一つの到達点をきわめたのち,《鏡子の家》(1959)で〈戦後〉という時代のニヒリズムと行為をえがいたが,60年安保のあと二・二六事件に取材した《憂国》(1961)にいたって〈戦前〉的なものが作品に入りはじめる。この傾向はやがて《林房雄論》(1963)や《英霊の声》(1966)でいっそう鮮明になり,《豊饒(ほうじよう)の海》(1965‐70)にいたる。この過程で67年に自衛隊に体験入隊,68年に〈楯の会〉を結成し,70年11月25日に自衛隊市谷駐屯地で隊員の決起をうながしたが果たさず,割腹自殺した。このようなナショナリズムの軸のほか,西欧的な芸術造形が三島の作品の魅力のひとつを形づくっている。劇作家としての作品では《鹿鳴館》(1958),《サド侯爵夫人》(1965)が優れている。 磯田 光一


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横尾忠則
Tadanori Yokoo

 横尾忠則は1936年兵庫県生まれ。56年より神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、59年に独立。唐十郎、寺山修司、土方巽といった舞台芸術のポスターなどを数多く手がけ、69年にパリ青年ビエンナーレ版画部門大賞を受賞。72年にはニューヨーク近代美術館で個展を開催するほどの活動を見せるも、80年7月に同館で開催されたピカソ展に衝撃を受け、「画家宣言」を発表。以降、画家としてニュー・ペインティングととらえられる具象的な作品を制作するようになる。洞窟や滝といった自然風景から、街中の「Y字路」を描いたシリーズ、俳優、ミュージシャンといったスターたちの肖像画まで、多様な作品を手がけることでも知られている。

 84年には横尾の作品を収蔵・展示する西脇市岡之山美術館が、また2012年には横尾からの寄贈・寄託作品を保管・展示する横尾忠則現代美術館が兵庫県神戸市にオープンした。13年には建築家・永山祐子が設計した豊島横尾館が2013年の瀬戸内国際芸術祭の一環として香川県・豊島に開館した。近年の主な個展は「TADANORI YOKOO」(カルティエ現代美術財団、パリ、2006)、「冒険王・横尾忠則」(世田谷美術館、2008)、「未完の横尾忠則?君のものは僕のもの」(金沢21世紀美術館、2009)、「横尾忠則の『昭和NIPPON』-反復・連鎖・転移」(青森県立美術館、2013)、「横尾忠則 HANGA JUNGLE」(町田市立国際版画美術館、2017)など。旭日小綬章受章(2011)、高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞(2015)。

https://bijutsutecho.com/artists/195
美術手帖