<著者インタビュー>
2015.05.31インタビュー・対談
はじめて明かされる、死者たちのヒロシマの物語
「本の話」編集部
『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』 (堀川惠子 著)
講談社ノンフィクション賞を受賞した『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』や新潮ドキュメント賞を受賞した『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』など、司法制度をテーマにした一連の作品で知られるジャーナリストの堀川惠子さん。最新作『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』は広島の原爆によって犠牲となり、引き取り手が見つからないまま平和記念公園内の片隅にある供養塔の地下にひっそりと祭られている、7万人もの遺骨をめぐる物語だ。
――広島の平和記念公園といえば丹下健三設計の原爆慰霊碑と資料館が有名ですが、その一角に遺骨が納められた供養塔があることを知っている人は少ないと思います。原爆供養塔を取材することになった経緯について教えてください。
堀川 原爆供養塔に祭られている遺骨の多くは身元が不明ですが、名前や住所などがわかっている遺骨については広島市が毎年納骨名簿を作成、発表し、遺族探しを続けています。納骨名簿については、広島のテレビ局に記者として勤めていた時からずっと気になっていました。名前や番地までわかっていながら、なぜ引き取り手が現れないのだろう、と。ただ当時は日々の取材で忙しく、名簿までは手がまわりませんでした。
きっかけは2004年、広島湾の似島で被爆者の遺骨の発掘作業を取材したことです。原爆が投下された後、市内で被爆した人々を似島まで運び、穴を掘って遺体を埋葬したのです。そのとき初めて本物の遺骨を目にし、衝撃を受けました。それまでは、生きている被爆者の証言を集めることにのみ精力を傾け、死者については「14万人が亡くなりました」と1行で済ませていた。いちばん見なくてはならないところを、まったく見ていなかったことに気づかされました。あの時に似島に行かなかったら、この本を書いていなかったと思います。
――しかし、すぐに取材に着手されたわけではなく、その直後、堀川さんはテレビ局を辞めて上京。フリーのジャーナリストとして、主に死刑制度を主題にしたテレビ番組やノンフィクション作品を次々と手掛けられてきました。
堀川惠子 1969年広島県生まれ。ジャーナリスト。広島テレビ放送にて報道記者、ディレクターを兼務した後、2004年に退社。フリーのジャーナリストとして番組制作に取り組むとともに、ノンフィクション作品を執筆している。『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』で第32回講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』で第10回新潮ドキュメント賞、『永山則夫 封印された鑑定記録』で第4回いける本大賞、『教誨師』で第1回城山三郎賞を受賞。広島の原爆をテーマにした著書に、『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』(小笠原信之との共著)がある。
堀川 死刑制度でどんどん新しいテーマが見つかって、原爆まで手がまわりませんでした。2014年に死刑囚に悟りを説く僧侶を扱った『教誨師』を書きましたが、その主人公である教誨師の渡邉普相さんは広島の被爆者でした。取材しながら、「これは呼ばれている。そろそろ広島に帰らないといけない」と思ったわけです。
ただ私の中では、死刑も戦争も根っこではつながっています。死刑は国家が正義の名のもとに人を殺す制度であり、それは戦争も同様ですから。
――堀川さんの作品の特徴に、粘り強い取材力が挙げられると思います。『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』では、40年前に刑が執行された元死刑囚とその家族が辿った軌跡が克明に再現されています。『永山則夫 封印された鑑定記録』では、精神鑑定の時に録音された膨大なテープから、永山則夫の知られざる苛酷な生い立ちを浮き彫りにしました。今回も、納骨名簿のわずかな情報だけを手がかりに、70年前の遺骨の身元探しに挑んでいます。
堀川 正直、こんなに大変とは思いませんでした。まさに暗中模索、シャドーボクシングを繰り返すような日々でした。本の中に出てくるエピソードの7、8倍は取材しましたが、ほとんどが空振り。やはり70年という時の壁は厚かった。せめてあと10年早く取材を始めていればもっと身元が判明したのに、と忸怩たる思いが残ります。
実際に身元がわかっても、色々な事情で遺骨を引き取ることができなかったり、名乗り出ることができないケースがありました。遺族を探し出せば、皆さん感謝していただけると思い込んでいたので、これは予想外でした。親や子供、きょうだいが亡くなってしまうと、親族が引き取りを躊躇されることもあり、これも70年という歳月を実感しました。
――長年、原爆供養塔の墓守として遺骨を守り、遺族探しを続けてきた「ヒロシマの大母さん」こと佐伯敏子さんの、95年におよぶ波瀾に富んだ半生もこの本の大きな読み所です。
堀川 広島時代、供養塔に行けば佐伯さんに会えたので、一緒によくお好み焼きを食べたり、近くの川で亡くなった学生の制服のボタンを拾ったりしていたんです。語り部としては有名だったのですが、遺族探しをされていたことは知りませんでした。あえて取材しようとは思わなかった。それがある時から見かけなくなって、「倒れたらしい」と聞いたんです。ただ、その時はお見舞いには行けなかった。
今回、原爆供養塔の取材を始めた時、佐伯さんがまだご存命だと知って、すぐに会いに行きました。寝たきりで目も見えなかったのですが、私のことは覚えてくれていました。そこから、あらためて佐伯さんの生い立ちをお聞きしました。8月6日に母を探しに広島市内に入った佐伯さんは二次被爆をし、原爆症に苦しみながらも、長年にわたって遺骨の身元探しを続けました。その姿勢がやがて行政を動かし、多くの遺骨が遺族のもとに返るきっかけになったわけです。長年、笑ったり喋ったりする間柄よりも、一度でも真剣な姿勢でインタビューするほうが、深い関係が築けることがある。そのことを今回、あらためて思い知りましたね。
また、遺族探しで壁にぶつかり、気持ちが折れそうになった時など、よく佐伯さんに怒られました(笑)。95歳の叱咤激励は、困難な取材を続けるうえでの大きな助けになりました。
――佐伯さんの意志を継ぐかのように、堀川さんは遺骨の身元探しを続けます。その過程で、死んだはずの人物が生き返ったり、死者たちの名前を後世に書き残した少年特攻兵たちの存在が明らかになるなど、予想もつかないような展開を見せます。原爆の犠牲者についての新事実や新証言が満載された本作品を、戦後70年の節目の年に出された意義とは何でしょう?
堀川 あの戦争で亡くなられた方々のおかげで今の我々がある、ということを忘れてはいけないと思います。戦没者310万人と簡単に言いますが、そこには数字だけではなく、一人一人の人生がある。生きていれば子や孫がいた。そんな屍の犠牲の上に我々がいるという事実を、今回の取材を通じて痛感しました。その意味でも私自身、初めて本当のヒロシマと向き合った気がします。
https://books.bunshun.jp/articles/-/2667
<文庫解説>
死者に寄り添い、その言葉に耳を澄ますということ
文:平松洋子 (エッセイスト)
『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(堀川惠子 著)
その日は抜けるような青空の広がる五月晴れで、ひと足先の初夏を思わせた。「原爆ドーム前」で路面電車を降り、平和記念公園内の北側を目指す。連休のまっただなか、地元の家族連れや観光客の姿でにぎわっており、ライブ演奏があたりに響くなごやかな昼下がりである。しかし、いま自分が歩いている足の下にはかつて市内有数の繁華街が広がっていたのだと思うと、複雑な感情に捕まって混乱してくる。
原爆投下の照準とされた相生橋、連絡橋南詰近く。原爆の子の像が建ち、被爆した墓石が当時の地形のまま安置されている。そこからほど近く、緑の芝生に覆われた土盛りの小山が目に入ってくる。
原爆供養塔である。鬱蒼と生い茂る木々に護られ、ふっくらと盛り上がる塚の頂に石塔が立つ。伏せたお椀に似た塚に向かい合うと、静寂がひたひたと押し寄せてきた。公園内の喧噪が、すうっと遠のく。この広島の墓を、佐伯敏子さんは身を削って生涯守り続けてきたのだ。そして一九九三年、著者が佐伯さんに出会ったのもこの場所なのだった。
死者を葬り去ってはならない。死者を忘れてはならない。死者を歳月のなかに埋もれさせてはならない。なぜなら、原爆供養塔におさめられているのは、無差別殺戮によってもたらされた無念の死であるから。本書が問いかけてくるのは、死者の想いとともに私たちが生きることの意味である。
昭和二十年八月六日午前八時十五分、爆心地は瓦礫の海と化す。その中央に位置した慈仙寺や広島市役所に行き場のない遺骨が次々運び込まれた。人肉の焼かれる匂いと煙を浴び、野宿同然のまま遺骨を拾って歩く僧侶。市長室に畳一枚を持ちこんで遺骨を守り、供養する二十代の若い女子職員。または昭和二十九年、供養塔再建に向けて行政を動かした建設局長や、舞台裏で財源を死守した漁協のボス。彼は、原爆によって愛娘をふたり奪われた父親だった。
私たち生きる者は、これまで死者と正面から向き合い、寄り添い、ひとりひとりの人生が語りかけてくる言葉に耳を澄ましてきただろうか。著者の視線は、日本の戦後そのものにも注がれている。
本書でつまびらかにされる佐伯敏子さんの修羅の人生。戦後七十年の歳月から丁寧に掬い上げられてゆく知られざる事実の数々。この原爆供養塔にも、存続の背景には人々の辛苦が秘められていた。縷々語られる事実は、打ちのめされるほかない凄まじさである。いっぽう、目をそらさず、こうして読む行為そのものが死者に向き合い、寄り添い、考えることでもあるという思いがしだいに湧き上がってくる。なぜか。それは、一言一句が著者が自身に課した覚悟と厳しさによって貫かれているからだ。
掘り起こされる事実のあらゆる細部に、堀川惠子そのひとが遍在している。ジャーナリストの執念や誠実を超えた、人間としての生き方が事実の毛細血管のすみずみに血を通わせているのである。だから、読む者を突き動かす。ノンフィクション作品に真に胸を打たれるのは、記された事実や記録の凄みによってだけではなく、それらを通じて書き手の人格の深部に触れるときだ。
著者が佐伯さんの行方を探したのは二〇一三年が明けた頃、とある。九年前、著者は広島のテレビ局の報道部デスクとして、似島で行われた遺骨発掘作業の取材を最後の現場にしようと考え、しかし割り切れない思いを抱きつつ広島を去った。その心の揺れを、著者は、病に倒れたのち老人保健施設で暮らす佐伯さんに打ち明ける。いまなお似島で目にした遺骨が気にかかるのは、これまで自分が死者の存在について深く考えていなかったからではないか、と。告白を受けた佐伯さんは、示唆をあたえる。
「あなたが似島で見たのは、供養塔の地下と同じ、あの日のまんまの広島よ。死者の本当の気持ちにふれてしもうたんじゃ。じゃから、自分がこれからどうするか、自分の頭で考えんといけんよね」
本書は、佐伯さんの発問にたいする全身全霊の返答でもある。毎年七月、広島市が公表する「原爆供養塔納骨名簿」は、佐伯さんが原爆供養塔の地下室にこもり、懐中電灯で照らしながら写し取った記録を下敷きにしている。その名簿を手がかりに、船に乗り、新幹線や鉄道を乗り継ぎ、レンタル自転車を漕いで遺族探しをはじめる著者の姿は、まるで佐伯さんが乗り移ったかのようだ。そして、推理小説を地でゆく困難な作業を続けるうち、疑念が湧きはじめる。納骨名簿に記されている情報は、いったいどこまで正しいのか?
半年後の七月、取材の経緯を報告するため、著者はふたたび佐伯さんのもとを訪ねている。疑念を率直に打ち明けると、「おうとるほうが、不思議よね」。虚を突かれ、あわててテープレコーダーの録音ボタンを押した。では、間違っているかもしれないのに、なぜ佐伯さんはあれほど根気よく遺族を探し続けたのか。
堰を切ったように語られる、九十三歳の語り。
「――じゃから、遺族が分かるということのほうが奇跡なんよね……。でもそれもまた、本当は違うとるかもしれん、だけど、もし何か手がかりが見つかったら、それは伝えんといけん。いらんと言われても、伝えるだけは伝えんといけん。それは知った者の務めよね」
固唾をのむ著者の気配が伝わってくる。
では、生きる者は何を伝えるべきか、何をなすべきなのか。
「現実は厳しいからね。二〇〇〇柱、名前の分かっとる遺骨があって、その中のたった一〇人とか二〇人くらいしか、本当の真実はないかもしれん。だからといって、それを捨てることはできんのよ。死者を見捨てることは、できんのよ。名前や住所が違うとるのは、生きている者のしわざじゃから。あそこに眠る死者たちはみんな、息をひきとる前に家族のもとに帰りたいと思いながら、自分の名前や住所を伝えていかれたんじゃから。その気持ちを考えるとね、知ってしまった人間として知らんふりはできんのよ」
著者を、佐伯さんは質したのである。終生いかなる政治組織や団体にも属さず、一市民として原爆供養塔の守り人であり続け、志半ばで病に倒れた悔しさもにじむ。くわえて、おたがい真実に近づこうとする者同士としての、連帯の表明でもあったろう。正義感や使命感だけではない、「知らんふりはできない」とは、つまり生き方に関わる問題なのだ。
自身の葛藤や孤軍奮闘ぶりについて、著者はみずからを律して多くを語ろうとはしない。しかし、事実に即して忠実に語られる言葉は、緻密な取材によって集められた証言、丹念な資料収集、煩雑な裏付けを厭わぬ精査のたまものである。その結果、私たちに手渡される事実の数々は、日本の戦後史の発掘に繋がってゆく。全国の農漁村から軍事拠点広島に動員された少年特攻兵たちの存在。朝鮮半島出身者たちの身の上と、理不尽に抹殺された人生。納骨名簿に記載されながら、じつは生存していた従軍看護婦。半世紀以上の歳月を乗り越えて弟の遺骨を手にした、かつての原爆孤児の半生。沖縄出身の被爆者は、戦後のアメリカ統治下、社会的に放置されたままだった……納骨名簿の名前ひとつひとつに、家族にまつわるおびただしい物語があった。ようやく連絡がついても、遺骨はすでに戻っていると言われ、受け取りを拒まれることさえあったという。読みながら、遺族の方々が抱えてきた煩悶の深さを、想像したことさえなかった自分の無知が恥ずかしく、歯がゆい。佐伯さんが洩らした言葉「おうとるほうが、不思議よね」のリアリティが、ひたひたと黒い雲のように迫ってくる。
著者を奮い立たせた存在は、ほかにもあった。佐伯敏子を十数年にわたって取材しながら、二〇〇八年に急逝したジャーナリスト、中島竜美。遺族から著者のもとに託された取材ノートが、執筆を励ます伴走役となったことも、ここに書き留めておかなければならないだろう。死者たちへの鎮魂の祈り、知らんふりのできない生き方、このふたつが本書を支える両輪の轍である。
原爆供養塔に眠るおよそ七万人、納骨名簿に記載される遺骨八一五柱。死者がひと括りの数字で語られることへの違和感、怖さを思う。数字のなかにひとりひとりの生を埋没させてはならない。二〇一七年、遺骨八一五柱のうち一柱の身元が判明、七十二年ぶりに遺族のもとに戻った。死者の語りに、私たちは耳を澄まし続ける必要がある。それが生きる者の義務であり、務めである。同年十月三日、佐伯敏子さんは九十七歳の生涯を閉じられた。
五月に萌える新緑が、原爆供養塔を取り囲むようにしてさわさわと揺れている。初めて私が原爆ドームの前に立ったのは、小学生のときだった。平和記念資料館で受けた衝撃は今日まで色褪せることはないが、近年その展示内容が原爆の凄惨さを減じる傾向にあることが、どうにも引っかかる。さまざまな思いが湧き上がるなか、それでもあたりの静寂に導かれて心の波立ちを鎮め、手を合わせた。佐伯さんがこの世にいなくとも、佐伯さんそのひとの魂はきっとここにある。死者を葬り去ってはならない。忘れてはならない。歳月のなかに埋もれさせてはならない。しばらくひとり佇みながら、この原爆供養塔の前で出逢った佐伯敏子さんと著者の姿に思いを馳せた。そして、本書『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』によってもたらされた〈読む〉という行為の強度を思い、あらためて畏敬の念を抱いた。
https://books.bunshun.jp/articles/-/4303
<著者プロフィール>
堀川惠子 1969年広島県生まれ。ジャーナリスト。広島テレビ放送にて報道記者、ディレクターを兼務した後、2004年に退社。フリーのジャーナリストとして番組制作に取り組むとともに、ノンフィクション作品を執筆している。『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』で第32回講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』で第10回新潮ドキュメント賞、『永山則夫 封印された鑑定記録』で第4回いける本大賞、『教誨師』で第1回城山三郎賞を受賞。広島の原爆をテーマにした著書に、『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』(小笠原信之との共著)がある。
https://books.bunshun.jp/articles/-/2667
