超スローリーディング中の岩波文庫版『断腸亭日乗』。本日は大正十二年の一月から六月までを読みました。
この年の9月1日に関東大震災が起こり、首都・東京のみならず日本中が混乱の局地に陥ってしまいますが、
大正十二年の前半の荷風は、極めて狭い範囲の知己と、狭い範囲の地域で遊興・飲食、その間を縫って文藝活動といった、
独身貴族生活を満喫していました(と想う)。鷗外全集の編者で『渋江抽斎』の高い評価文が読めます。
文壇仲間で彫刻家のイサム・ノグチの父親の野口米次郎と交流があったようです。
1923年(大正12年)
「関東大震災」が発生。
皇太子(のちの昭和天皇)暗殺未遂事件が起こる ([虎の門事件])。
虎の門事件
とらのもんじけん
1923年12月27日午前,帝国議会の開院式に出席する途中の摂政宮裕仁が,東京・虎の門近くで難波大助に狙撃された事件。杖の仕込銃から発せられた弾丸は命中せず,摂政は難を免れた。難波は〈革命万歳〉と叫んでいるところを逮捕され,翌年11月13日死刑を宣告された(15日刑執行)。難波は山口県の大地主で,庚申抑楽部所属の代議士作之進の四男で,三高入試に失敗したころから貧民窟の実情を知り,社会主義的書を読み,また,関東大震災時に起こった大杉栄虐殺(甘粕事件)や亀戸事件に憤激して,テロを行ったという。当時25歳。この事件は,群集の眼前で起こった大逆事件であったため,支配層に異常なショックを与え,時の山本権兵衛内閣は直ちに総辞職した。警視総監湯浅倉平,警視庁警務部長正力松太郎らは懲戒免官となった。また,山口県知事は減俸となり,難波の出身小学校の校長,訓導は辞職し,父作之進は閉門の形式をとって謹慎した。
金原 左門
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
甘粕事件
あまかすじけん
関東大震災後の1923年9月16日に東京憲兵隊鵬町分隊長甘粕正彦らが無政府主義者大杉栄らを計画的に殺害した事件。大震災による戒厳令のもとで亀戸事件など軍隊・警察による社会主義者迫害が続いたが,甘粕は東京憲兵隊特高課の森慶次郎曹長と大杉を探索し,この日大杉が妻伊藤野枝と神奈川県鶴見に弟の勇を見舞い,7歳のおい橘宗一をつれて帰宅するところを東京憲兵隊本部に連行し,3人を絞首し,死骸を構内の古井戸に埋めさせた。大杉が行方不明になると,新聞記者らの活動が始まったため,軍部も隠しきれず,20日に甘粕と森を軍法会議に送り,福田雅太郎戒厳司令官の更迭,小泉六一憲兵司令官と小山介蔵東京憲兵隊長の停職を発表した。次いで大杉ほか2人が殺害されたことが発表されたが,ほかの2人が妻と少年であることは,10月8日の初公判で初めて公表された。亀戸事件などが明るみに出されるのもこの直後である。甘粕は大杉が軍隊撤退後に混乱に乗じて不逞(ふてい)行為に出る危険があるので殺害したと述べたが,司令官の命令によるのではないかと疑われ,また憲兵隊内で犯行が行われたことに対する陸軍当局の責任が問われた。しかし軍法会議はこれらの点を追及せず,12月8日に甘粕に懲役10年,森に同3年の判決を宣告し,少年殺しで追起訴された兵3名は命令への服従として無罪となった。甘粕事件は震災への出動を機に勢力盛返しをはかった陸軍への批判をよびおこしたが,軍部や在郷軍人は甘粕減刑運動を行った。12月16日には大杉の葬儀が行われたが,その朝には右翼の大化会が大杉の遺骨を奪取して葬儀を侮辱した。大杉派の無政府主義者もテロリズムにかりたてられ,震災1周年には和田久太郎,村木源次郎が福田元戒厳司令官の暗殺を企てて失敗し,無政府主義の衰退を早めた。甘粕は3年後の1926年10月に早くも仮出獄し,陸軍の機密費で1年半ほど渡仏した。帰国後満州に渡って満州事変で策動し,満州国の陰の帝王と目されたが,敗戦で自決した。 今井 清一
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
亀戸事件
かめいどじけん
1923年9月1日に起こった関東大震災の混乱に乗じ,東京亀戸警察署で9名の労働運動家が虐殺された事件。9月3日,元友愛会幹部・元純労働者組合組合長平沢計七,共産青年同盟委員長・南損労働会組合員川合義虎らが亀戸警察署に拘留され,同夜から5日未明の間に騎兵第13連隊の兵士によって殺された。10月10日に事件が発表されたが,事件発生直後から南損労働会,総同盟などの労働組合と自由法曹団が真相究明に乗りだした。江東地方は南損労働会,純労働者組合を中心に労働運動の先進地で,労働争議,政治運動も盛んで警察とはたえず摩擦を生じていたことからこの事件が起こったとみられる。震災時の朝鮮人虐殺事件,大杉栄らの虐殺(甘粕事件)とともに社会運動に大きな影響を与え,日本労働総同盟の現実主義路線への転換の一要因となった。1970年9月に〈亀戸事件犠牲者之碑〉が亀戸の赤門寺(正称浄心寺)に建立された。 渡辺 悦次
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
朝鮮人虐殺事件
ちょうせんじんぎゃくさつじけん
1923年9月1日の関東大震災の直後におこった大規模な虐殺事件。数千人にのぼる朝鮮人が虐殺され,200人をこえる中国人と数十人の日本人も殺された。1910年に日本の植民地とされた朝鮮では19年の三・一独立運動が弾圧されたのちも義烈団等の実力テロ闘争が続き,国外での独立運動も広がった。朝鮮人の日本内地への渡航はきびしく制限されていたが,安価な労働力を求める資本の要求で22年12月に自由渡航制とされ,渡航者が急増した。23年は前半だけで約4万人が増加し,土木工事等の重労働に劣悪な労働条件で従事した。1922年夏に信濃川発電所工事場で朝鮮人虐殺事件がおこると,これに抗議して日朝労働者の連帯の動きも生まれたが,他方では日本人労働者との争闘事件もおこっていた。
9月1日正午2分前に関東大地震がおこると,その日の夕刻から朝鮮人の放火・投毒の流言が散発的に生まれ,翌2日昼ごろから朝鮮人来襲の流言となって急激に広がった。夕刻前には東京付近に戒厳令がしかれ,すでに出動していた軍隊が増強され,治安維持の権限をにぎった。軍隊,警察は各所に在郷軍人,青年団,消防組を中心に自警団をつくらせ,ときには武器を与えて朝鮮人を狩りたて集団的に殺害したり,迫害,検束した。中国人が集団的に殺される事件もおこった。さらにいたるところに検問所が設けられ,朝鮮人と見ると迫害,虐殺した。流言の発生原因については諸説あるが,朝鮮人を敵視・警戒していた警察の動きが問題で,流言の伝わり方は多分に警察の動きと対応している。そしてこれが警察,軍隊の通信網を通じて権威ある情報として全国に流され,戒厳令による軍隊の出動で一挙に盛り上げられた。一般民衆も日本が独立を奪った朝鮮人に対してかねて差別感と恐怖感とを植えつけられていただけに,たやすく流言にまきこまれた。地域の旦那衆に督励されたとび職,職人,小商人などいわゆる下層民衆は残虐行為に加わることで日常の不満を発散させ,モッブと化した。まもなく流言が事実無根とわかると,当局は朝鮮人の大部分は順良だとして,自警団を抑えにかかり,朝鮮人,中国人を検束して習志野演習場等に収容する方針をとった。だがそれは〈一部不逞鮮人の妄動〉を認めた不徹底なものであったから,虐殺事件は6日ごろまで続いた。4日から5日には埼玉県,群馬県などで興奮した群衆が警察に護送中ないしは留置中の朝鮮人を奪い取って集団殺害する事件が続発した。習志野収容所でも反抗的と見られた朝鮮人が7日ごろ陸軍から自警団に引き渡されて殺害され,その数は十数人を下らないという。習志野収容所や横浜沖の華山丸などに収容された朝鮮人は東京府,神奈川県で1万4000人をこえる。彼らはひどい待遇ときびしい監視をうけ,やがて罹災地の労働奉仕,とくに死体処理に動員された。
当局は10月20日にようやく朝鮮人虐殺事件の報道禁止を解除し,同時に朝鮮人の〈犯罪〉と称するものを発表して帳消しにしようとした。こうした工作の総仕上げが,無政府主義者朴烈と金子文子を大逆罪に仕立てあげた事件である。自警団の検挙も行われたが,警察に反抗した者などが中心で,最高刑も懲役4年と軽かった。警察,軍隊は何の処分もうけなかった。虐殺された朝鮮人の数も明らかにはされなかった。司法省では明確な殺人事件による死者は233人にすぎないとした。だが朝鮮罹災同胞慰問班が10月末日までに調査し,これにもとづいて吉野作造がまとめたものでは2613人を数える。これにその後の調査をつけ加えたものは6433人に達している。
朝鮮人虐殺事件には広く民衆もまきこまれただけに,国民の抗議や批判は甘粕事件や亀戸(かめいど)事件に比しても弱かった。衆議院では田淵豊吉,永井柳太郎が政府の責任を追及し,田淵は最も人道上悲しむべきところの大事件を明らかにして謝罪することを主張したが,これは無視された。翌年3月16日には労働団体等を中心に東京で〈日支鮮人追悼会〉が開かれたが途中で解散を命じられた。少数の批判の声が届かず,政府も大多数の国民もけっきょく事件の上に居直ったことは,日本人の独善的,排外的な国家意識を助長し,軍国主義への道をもたらすことになった。⇒関東大震災 今井 清一
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
関東大震災
かんとうだいしんさい
1923年(大正12)9月1日11時58分,神奈川県中部から相模裁東部,房総半島南端にかけての一帯を震源域として発生したマグニチュード M7.9の大地震(関東大地震)に伴う日本史上最大の地震災害。震央は神奈川県西部の東経139.2ツ,北緯35.4ツ に求められているが,これは震源域の北西端に当たる。上記のマグニチュード値は日本の観測資料による値で,全世界の資料を用いた表面波マグニチュードは8.2となる。この地震は相模トラフから北東に傾く断層の右ずれ逆断層運動によって起こった。この断層はユーラシアプレートと,その下に相模トラフからもぐり込むフィリピンプレートとの,境界面に当たると考えられる。地震は南関東一帯に著しい地殻変動を伴い,房総半島南半,三浦半島から神奈川県の相模湾岸は隆起し,隆起量は房総半島先端で1.8m,三浦半島で1.4mに達した。また,丹沢山付近を中心とする神奈川県中西部一帯は最大80cmの沈降を示した。水平方向へは房総半島,神奈川県一帯の地殻が南東に最大約5m移動した。相模裁の海底で100mに及ぶ昇降があったという報告もあるが,現在の地学の常識からみて考え難いので,測定の誤りではないかといわれている。地震に伴った地殻変動と世界各地の地震計による観測から,この地震を起こした断層の寸法は長さ約100km,幅約50km,ずれは約5m,断層面の破壊は北西から南東へ約2km/sの速度で進行したものとみられている。なお,三浦半島や房総半島南部でいくつかの小断層のずれが地表に現れたが,これらは地震を起こした主断層ではなく,二次的なものと考えられる。
この地震は北は函館,西は広島まで人体に感じられたが,被害が生じたのは神奈川,東京,千葉,埼玉,山梨,静岡の各府県のほぼ全域と,長野,群馬,栃木の各県の一部である。特に神奈川県,東京府と,千葉県の房総半島南東部,静岡県東部と山梨・埼玉両県の一部では震度6に達した。当時は震度7という階級がなかったが,神奈川県南部,房総半島南東部では家屋の倒壊が30%を超えているので,現行の震度では7となる。地震そのものの規模は最大級ではなかったが,人口密度の高い地域が被災し,特に東京,横浜などで大火災が発生したため,災害は甚大で,死者9万9331人,行方不明4万3476人,家屋全壊12万8266,半壊12万6233,焼失44万7128,流失868を数えた。死者・行方不明の合計は14万2807人,うち東京府で10万7519人,神奈川県で3万3067人,その他の県で2221人である。東京と横浜ではそれぞれ全戸数の70%と60%が焼失した。その他,横須賀,鎌倉,浦賀,厚木,秦野,真鶴などの市・町でも火災が発生した。東京における死者の多くは火災による焼死,水死(火に追われ川に入ったため)であり,特に本所の被服宜跡地では避難していた約4万人のうち3万8000人が,火災による旋風により焼死または窒息死した。家屋の倒壊は神奈川県で多く,全壊家屋の半数以上を同県が占め,小田原,鎌倉などでは全壊率が50%を超えた。東京では本所,浅草,深川,下谷,神田の各区など下町に倒壊家屋が多かったが,木造家屋の全壊率は本所区の13%が最高で,日本橋,京橋,四谷,鵬町,本郷,小石川の各区では1%に満たなかった。また相模湾沿岸は2~10mの大津波に襲われ820戸が流失した。山崩れも多く,特に神奈川県根府川の土石流は大災害を伴った。
この地震は前震がまったく記録されず,また海岸の昇降など目だった前兆的地殻変動も観測されていない。ただし,地震前の2年間に南関東でM6.0ないし7.0の地震が4回あり,小被害を生じているので,地震活動はやや高まっていたとはいえる。 宇津 徳治
[震災下の社会状況] 関東大震災による大混乱のなかで起こった諸事件は,その後の日本の歩みに重大な影響を及ぼした。第1次世界大戦で急激に発展した日本では,普選運動,労農運動など民主化を求める民衆運動が広がり,社会主義運動も台頭してきた。前年のワシントン会議を機に軍縮論も高まり,シベリアや中国山東省からの撤兵がおこなわれ,日ソ復交も日程にのぼった。しかし,中国の国権回復運動が広がり,中国,朝鮮の民族解放運動に対するコミンテルンの影響が強まると,軍部や国家主義者は巻返しに出た。政府は前年(1922)に過激社会運動取締法案の制定を企て審議未了となったが,その年7月に結成された日本共産党に対しては,この年5月の早稲田軍教事件をきっかけに第1次検挙をおこなった。民衆運動の台頭に適応して民主化の方向で政治体制の再編成をすすめるか,それとも治安立法を強化して民衆運動にくさびを打ちこむかという二つの方向が競り合っていた。
大震災は京浜地方を大混乱に巻き込んだ。地震の瞬間に電話は切断され交通機関は破壊され,水道,電気もとまった。東京では大火災が丸ノ内官庁街の一部を含めて下町一帯を焼き払い,3日未明まで燃え続けた。大戦景気で大都市が膨張したのに都市計画が実施されず,木造家屋が密集し,街路も公園も狭く,そのうえ避難民の持ち出した荷物が火を呼び多数の木の橋が燃え落ちたことなどが焼死者を増やした。10万人近い罹災民が上野公園,皇居前広場,日比谷公園等に群がり,ただならぬ状況となった。一方,横浜では全市が壊滅し,幾日間も救援が及ばなかった。
震災の当日は加藤友三郎首相の死による政変の最中で,水野錬太郎内相らの閣僚が職務をとっていた。彼らは,米騒動や朝鮮三・一独立運動の経験から民衆暴動を恐れていた。陸軍では地震直後に非常警備を開始し,まもなく政府も出兵を請求した。2日になると朝鮮人来襲の流言が急激に広がり,東京市と周囲の5郡に戒厳令の一部が施行された。警察,軍隊は各地に自警団をつくらせ,朝鮮人を狩り立て,大規模な虐殺事件(朝鮮人虐殺事件)を引き起こした。戒厳令施行の直後には第2次山本権兵衛内閣が成立した。3日には戒厳区域が東京府,神奈川県に拡大され,地方師団が続々と到着した。不安におびえる民衆に安心感を与えることで,軍部は勢力盛返しをはかったのである。社会主義者に対する攻撃が強化され,亀戸(かめいど)事件が起こった。朝鮮人暴動がデマと判明したのちには,虐殺事件を正当化するために朝鮮人の暴行事実を極力調査して赤化分子が背後で扇動したと宣伝する方針がとられ,社会主義者が続々と検束された。7日には緊急勅令で〈治安維持の為にする罰則に関する件〉が公布され,言論をきびしく弾圧した。これは過激社会運動取締法案にかわる治安立法としての意味をもち,つぎの臨時議会で事後承認され,治安維持法の露払いとなった。9月中旬には軍隊による直接警備を逐次解除して警察に移す方針がとられたが,そのなかで軍部は中国人の知識青年で社会運動家の王希天殺害事件と無政府主義者大杉栄夫妻らを殺害した甘粕事件とを起こした。これらの事件は報道を禁止され,新聞記者等の活動で逐次これを解除したが,真相は隠された。甘粕事件は曲りなりにも軍法会議にかかったが,亀戸事件は戒厳令下の当然の措置とされ,王希天は行方不明とされ,朝鮮人虐殺事件はごく一部の自警団が裁判にかけられただけで,それらの刑も軽かった。軍隊,警察としての責任は問われることもなく,また世論や民衆の側からの批判や抗議も弱かった。他方で虐殺事件を正当化しようとする宣伝や工作がすすめられ,言論統制も強化された。
震災後の保守化した風潮のなかで支配層は〈天譴(てんけん)論〉を唱えた。震災は大戦後のぜいたくや自由放縦に対する天罰であり戒めだとしたのである。これをうけて11月10日には国民精神作興詔書が出されて国民の思想統制がすすめられた。11月16日には戒厳令が解除されたが,東京警備司令部がおかれ憲兵隊が大増強された。社会主義運動に対する弾圧もつづき,群馬県や長野県の社会主義青年グループが秘密結社を組織しているなどの理由でつぎつぎに検挙された。震災下の血なまぐさいテロに加えて民衆に白眼視されたことは社会主義運動に衝撃を与えた。翌年2月には日本共産党は解党し,日本労働総同盟も方向転換を宣言する。
[復興と社会の変化] 関東大震災による物的被害は,東京市統計課の推計では1府6県合わせて55億0600余万円に達し,前年度の一般会計予算の3倍半を超える。項目別では商品20億余円,建物18億余円を筆頭に家財,工場,在庫品,電気施設,堤防,道路,橋梁,上水道,船舶,河港,下水道の順で続く。経済活動の停止による損害や救護費は含まない。救護費は国の支出分が2300万円,義援金が国内3700万円,外国2200万円,その他を含め計8500万円で,義援金に大幅にたよっている。政府は経済活動の混乱を防ぐため9月7日に支払猶予令(モラトリアム)を出し,罹災地一帯の金銭債務で9月中に期限の到来するものは,給料賃金や100円以下の預金支払を除いて30日間支払を延期させ,寛大な条件で銀行に融資して営業を再開させた。同27日には震災手形割引損失補償令を出し,9月1日以前に銀行が割り引いた手形を日本銀行に再割引させ,これで日銀が損失をうけた場合は1億円を限度として政府が補償することとした。日銀が再割引した震災手形は4億3000万円にのぼり,その約半数が支払不能となり,これが昭和恐慌の原因となった。火災保険には地震による火災の損害については支払わないとの約款があったが,前例のないことなので保険金支払要求運動が起こり問題化した。そのため政府が援助して小口保険で1割程度の見舞金が翌年5月に支払われた。
震災直後には遷都論も起こったが,9月12日に帝都復興に関する詔勅が出され,さきに東京市長として8億円の大改造計画を立てた後藤新平内相が40億円の理想的な復興計画案をつくり,これが諸官庁の復旧事業を別にして13億円で横浜市を含めて帝都復興事業をおこなう案となったが,大蔵省で7億円に削られた。ついで開かれた帝都復興審議会では軍備や農村対策を重視する保守派の反対で6ヵ年継続事業5億7000万円に減らされ,さらに臨時議会ではそのうち1億余円が東京,横浜両市の負担とされた。各省の復旧費は7億円であった。こうして復興計画は縮小されたものの,震災前に比べると東京と横浜の道路,公園などが格段に整備された。震災の打撃で下町を基盤とする伝統的な商工業は衰退し,震災後の緊縮財政のもとで資本の集中と大企業による合理化がすすんだ。東京では丸ノ内のオフィス街と山手の郊外住宅地域が急激に発展し,サラリーマンの時代となった。山手環状線とこれにつづく私鉄網が完成し,新宿,渋谷,池袋等の副都心が発展した。京浜南部の臨海埋立地には重化学工業を中心に続々と大工場がつくられ,京浜工業地帯として整備された。しかし団結権や耕作権など勤労民衆の権利は保障されず,サラリーマンの層もうすく,〈大学は出たけれど〉の嘆きとなった。小市民のモダン生活は街頭だけのことで,地域には絶対主義的な国家構造の基礎としての〈イエ〉と〈ムラ〉とが根をはっていた。大都市を中心に大衆文化も発達したが,そこにはかげりがあった。1925年には大衆雑誌《キング》が創刊されたが,色濃く通俗道徳が流しこまれていたし,ラジオ放送も発足したが,それは政府のきびしい監督下におかれた。震災の打撃をうけた新聞界でも,大新聞の制覇と新聞の企業化がすすみ,政治批判の機能は低下した。関東大震災は重苦しい大衆社会の幕あけとなった。 今井 清一
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
