2020年3月1日日曜日

[積読立読斜読]『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』 第1章 立憲革命としての明治維新

引き続き『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』(中公新書)をスローリーディング中。本日は「第1章 立憲革命としての明治維新」を読みました。

「憲法制定」に重点を置いた明治維新概論で非常に読みごたえがあり、読書ノートも膨大なものになりました。



非西洋諸国で独力で憲法を制定して長期間維持できたのは日本のみであり、明治政府の指導者は国制の設計にあたり、立憲制=議会制(代議制)を導入させると同時に、国政を担う国民の創出という共通認識があった、という重要な知見を得ました。

大久保・木戸亡き後、国政の設計という視点で伊藤博文の評価が高く、明治憲法の草案の中心となった井上毅も評価しています。

「立憲革命としての明治維新」は裏返せば、早急な憲法改革は厳に慎むべきであるという、現自民党政権への批判とも受け取れました。

この筆者に歴史講義を依頼した当時の自民党の懐の深さを感じました。


<著者プロフィール>
瀧井 一博(たきい かずひろ、1967年生 )は福岡県生まれ。京都大学法学部卒。法制史学者。専門は主に国制史、比較法史。国際日本文化研究センター教授。

筆者は法制史が専攻で、明治憲法を中心とした近代日本の国制(国のかたち)の成立と変容が中心研究課題。

第1章 立憲革命としての明治維新

世界史にとっての明治維新

日本の明治維新以来の近代化を客観化し(2018年は明治維新150年)、そこから世界の他の歴史に繋げられ、また何が寄与できるかという知的資源を編み出すことが重要。

この章では、明治憲法の制定に至る立憲制度の受容・生成の過程を概説し、そこから日本憲法史の世界史的意義について試論する。

19世紀において、立憲制度とは、国民の政治参加を保障する議会制度の存立と不可分であったので、本章においては、立憲制=議会制(代議制)として、同義語に用いる。


公儀輿論―立憲体制導入の前提

1868(慶應4)年の五箇条の御誓文に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と議会制の導入が掲げられていた。当初の原案では「列候会議ヲ興シ」とされていたが「会議」に変更された。

維新の指導者の間では天皇主権・国民代表機関(議会)の創設は共有されていた。岩倉具視は1869(明治2)年に行った提言の中で「議事院」の創設を説いている。

議会制度の採用には時間がかかり、帝国議会の開設は1890(明治23)年であり、20年以上の時を必要とした。

廃藩置県は、公儀輿論体制の制度的確立という観点から見れば、その頓挫

転機となったのは岩倉使節団
参加した大久保利通、木戸孝允が、ともに立憲制度の採用について意見書を著した


岩倉使節団と憲法制定への旋回―木戸孝允と大久保利通の立憲論
木戸孝允の立憲論
当初は天皇と政府による有司専制として、国家を担言える国民の創出を待って、独裁から君民同治へと斬新させる

大久保利通の立憲論
欧米各国の多様な国制は、それぞれに歴史的背景があり、どれが優れていると一概に判断できない
その国の政治の仕組みとは、その国の文化や国民性といった所与の条件によって自ら形作られたもの
日本の環境と政治風土にあった国制の確立が重要

木戸と大久保は憲法の制定という大方針で意見が一致していた

木戸も大久保も存命中に立憲制度の成立を目にすることはできなかったが、実現にこぎつけたのは伊藤博文


伊藤博文と明治憲法の制定

日本の立憲国家への歩みは、明治政府の指導者たちによってまず官主導として始まり、征韓論政変後、板垣退助ら在野の勢力による自由民権運動(国会開設運動)が起こり、官民双方からの立憲化の運動が起こった

明治憲法制定への画期となったは明治十四年の政変
政府内でイギリス流の議員内閣制を提唱する急進的な大隈重信は、汚職事件にも連座し、大隈一派は政府から追放

内からの大隈意見書、外からの自由民権運動による政府批判により、明治政府は勅諭によって1890(明治23)年の国会の開設と、先立つ憲法の制定を公約

政府内では井上毅を中心に、プロイセンに範をとった、君主主義的な憲法構想を作成すると同時に、憲法を実際に機能させるために不可欠な憲法附属法(皇室典範、議員法他)も起草された

憲法を機能させるための全体的な国家制度の設計は、伊藤博文による「滞欧憲法調査」(明治15)でヨーロッパの憲法調査が反映されている

伊藤博文の一連の改革
(1)宮中改革(天皇に立憲君主としての教育)
(2)内閣制度の導入(太政官制度を刷新、国民が誰でも大臣になることができる)
(3)官僚制の整備
(4)帝国大学の設立(官僚養成機関)


世界史的遺産としての明治立憲制

明治維新の革新性についてはさまざまな評価がある

(1)植民地化の脅威をはねのけて国家としての独立を維持した独立革命・民族革命と見なす
(2)廃藩置県や四民平等といった重大革命を成し遂げて統一的主権国家を樹立した国民革命と見る

筆者は、明治維新を立憲革命として捉えている。明治22年の大日本帝国憲法の成立をもって、20年以上に及ぶ長い革命のプロセスとして、明治維新を捉えるべき。

非西洋世界で憲法を制定したのは、チェニジア(1861年)、オスマン帝国(1867年)があるが、いずれも長続きせず、憲法停止を余儀なくされた。

(1)長期的視野
木戸、大久保らの政治指導者は、立憲制度の導入に漸進主義をとった

(2)国民国家という前提
立憲制度とは国民の政治参加を保障する制度
国の政治に責任を負う国民という主体の確立施策にはさまざまなものがある
「歴史主義の宣揚」は、岩倉使節団、伊藤博文に共通した認識

西洋世界では国ごとに政治制度・社会の仕組みは異なるが、歴史主義が基本的な思潮であり、歴史を共有する国民が法や制度の担い手であるという認識は共通

(3)憲法の相対化
伊藤博文は、憲法の運用には、有機的な制度の連環が必要と考えた

(良い面)実際に議会政治が始まると藩閥政府との対立をもたらしたが、やがて政党政治が定着、議員内閣制への制度的変容の兆しもあった

(悪い面)昭和期に入って、世界的な反議会主義の潮流のなかで日本も全体主義と総力戦体制に取り込まれていく

日本憲法史は正負の側面があり、日本は憲法史の歴史的経験を踏まえて、これから立憲制度を導入しようとする国、うまく機能していない国、に対して、なにがしかの助言ができる立場にある。


<資料編>

大日本帝国憲法  (だいにほんていこくけんぽう )

1889年2月11日発布され,90年11月29日より施行され,形式的には1947年5月2日まで存続した憲法典で,〈明治憲法〉あるいは〈旧憲法〉とも呼ばれる。

[制定過程]  明治維新にあたり政府は五ヵ条の誓文,政体書を出し政府組織を整えるとともに,版籍奉還,廃藩置県,身分制の廃止,徴兵令,地租改正等によって近代国家としての体裁を形成していった。しかし,西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるためには,富国強兵政策を推進する一方で,文明国にふさわしい近代法典を整備する必要があった。法典の中心をなす近代憲法制定の動きは1874年の民斤議院設立建白書に触発されたが,政府は急速な憲法制定を望まず漸進主義をとった。翌年設立された元老院がこの方針の下で憲法案の作成にあたり,ベルギー憲法,プロイセン憲法に範をとった〈日本国憲按〉が78年にできたが,その立憲的傾向は岩倉具視などのいれるところではなかった。
 他方,明治10年代に活発化した自由民権運動の中からは,イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな憲法私案(私擬憲法)が発表されたが,もとより政府の採るところではなく,自由民権運動自体がやがて抑圧されていった。
 しかし,〈明治14年の政変〉により〈国会開設の詔〉が出され,これによって1890年を期して国会が開設されることになり,それまでに憲法も制定されることになった。そこで伊藤博文が渡欧し,主としてドイツ,オーストリアでグナイスト,シュタインについて憲法制度の取調べを行った。帰国後,伊藤はレースラーの意見を参考にしつつ,井上毅,伊東巳代治らとともに憲法案を起草し,その成案は1888年に設置された枢密院の諮詢を経て,89年2月11日,大日本帝国憲法として公布された。しかし,公布に至るまでその内容は国民にはまったく秘匿されていた。

[内容]  (1)基本的特色 大日本帝国憲法は,西欧諸国の近代憲法の体裁を一応とっていたが,君主権の強いドイツ型立憲君主制を範とし,それに日本独自の天皇中心の国家観を加味したものであっただけに,絶対主義的色彩を強く帯びていた。このため旧憲法は,議会を設けるなどの立憲的要素と絶対主義的要素の両要素からなっており,しかも後者が顕著なので〈外見的立憲主義〉との評価が与えられている。旧憲法は上喩と7章76条からなる簡潔なものであるが,天皇が制定した欽定憲法であり,その改正発案権は天皇のみにあり,発布の際の勅語では永遠に不滅な〈不磨の大典〉として位置づけられていた。実際,日本国憲法制定まで一度も改正されることがなかった。なお,皇室に関する事項については,皇位の継承等を含めて,別に皇室典範が制定され,宮務法の最高法規とされており,政務法の最高法規とされた旧憲法とともに二元的法体系がとられていた。

(2)天皇 第1章が天皇であり,それは17ヵ条という比較的多くの規定で構成されていることに示されるように,天皇は旧憲法の中核であった。〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉(大日本帝国憲法1条)とされて天皇は主権者であるとともに,元首として統治権を総攬した(4条)。この天皇の地位は天孫降臨の神勅によって根拠づけられていたので,〈天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス〉(3条)との規定から文字どおり天皇を現人神(あらひとがみ)とみる解釈を生む一方で,国家に対して強い宗教性を与え,神道の国家宗教化をもたらした。天皇は憲法の条規により統治権を行使したが,立法権は議会の協賛によって,また広範な大権は原則的に国務各大臣の輔弼(ほひつ)によって天皇がこれを行い,司法権は天皇の名によって独立の裁判所がこれを行った。他方,天皇は皇室の長として皇室事務を統裁した。

(3)統治構造 天皇の下で統治権の行使に関与する機関は帝国議会,国務大臣,裁判所の3機関分離制をとっていた。立法に協賛する機関として帝国議会が存在したことは旧憲法の立憲的側面の最たるものであるが,天皇に議会が関与しえない独立命令権(9条)などの副立法権が認められていたことや,公選による衆議院と基本的に対等なものとして皇族,華族,勅任議員などからなる貴族院が設置され国民の意見を抑制していたことなどに非立憲的側面が表れている。大権・行政権を輔弼する国務各大臣は天皇によって任命され,天皇に対してのみ責任を負うものとされており,内閣総理大臣は同輩中の首席にすぎず,その権限は弱かった。また,統帥大権や栄誉大権などには国務大臣の輔弼が及ばないなど,その権能には限界があった。他方,財政権については議会の責任追及を免れうるよう配慮されており(63,67,71条),非立憲的要素が加重されている。司法権の独立は大津事件(1891)などをとおして一応守られていたが,軍法会議といった特別裁判所や,行政事件を終審として扱う行政裁判所(行政裁判)が設置されていた。
 以上の立憲的な機関のほかに,天皇の諮詢にこたえて重要な国務を審議する枢密院が設けられていたが,枢密顧問官は勅任であり,国民の統制は及ばなかった。また,憲法外の機関として,天皇を常時輔弼する内大臣や,次期内閣総理大臣を天皇に推薦した元老などがあり,事実上政治に関与した。軍は慣習法的に認められていた〈統帥権の独立〉によって天皇以外の何ものにも制約されない立場にあった。このように,旧憲法下には非立憲的機関が複雑に存在し,天皇以外にこれらを統括するものはなく,各機関が各個に無責任になりがちであった。

(4)権利 旧憲法は一応表現の自由などの権利を認めていたが,それは西洋の近代憲法における基本的人権のような自然権的・前国家的な権利ではなく,天皇が恩恵的に〈臣民〉に与えた後国家的権利にすぎなかった。実際に,信教の自由を除いて,いずれも法律によって制限できるか,法律の範囲内において認められる権利であった(〈法律の留保〉)。〈法律の留保〉のない信教の自由についても〈安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限〉(28条)において認められる権利であったから,現人神たる天皇ひいては国家神道(靖国神社,伊勢神宮)を礼拝することが臣民に強制されることになった。
 なお,非常時には,天皇はこれらの権利を全面的に停止することができた(非常大権)。また,皇族・華族などの特権身分を設けたので,平等原則に関する一般的な規定はない。
[解釈と運用]  絶対主義的・立憲的の両面をもつ旧憲法の解釈において,天皇大権を強調する方向で理解しようとする穂積八束,上杉慎吉ら(神権学派)と,立憲的側面を中心に理解しようとする美濃部達吉ら(立憲学派)との対立があった。両者は,〈国体〉概念を憲法上認めるか,天皇は統治権の主体であるか,天皇を神格化するか,大権行使に議会の参与は許されるか,輔弼は大権行使の要件であるかなどの点で鋭く対立した。この結果,神権学派によると,神格化された天皇が具体的決断を行い,他の機関は天皇の決断を助ける存在でしかないことになるが,立憲学派は,国家の最高機関である天皇とともに議会を直接機関として位置づけることによって天皇の地位・権能を相対化し,憲政の議院内閣制的運用を期待した。また,後者では国務大臣の輔弼に実質的拘束力が期待されていたので,現実の政治は議会の信任に基礎をおく内閣によって行われ,天皇はその上部に権威として存在することが構想されていた。

 旧憲法の実際の運用において,大正デモクラシーの時期から立憲学派的理解が有力となり,議会主義に重点をおく政党内閣制の時代が実現した。しかし,昭和に入り軍部の勢力が強まると政党内閣制は崩壊し,立憲学派的理解も批判の的となり,1935年の〈天皇機関説事件〉を契機に政治的・物理的に圧殺された。また,立憲学派でも肯定されていた〈統帥権の独立〉によって内閣等が軍令事項に口をはさめない一方で,陸・海軍大臣は武官でなければならないという〈陸海軍大臣武官制〉(軍部)によって軍は公然と政治に口をはさめるばかりか内閣の進退をも左右できたので,昭和になっての軍部の独走を制度的にも許すことになった。しかも,陸軍・海軍を唯一人統括できる天皇が軍令機関の輔弼に対して消極的に対応する状況の下では,各軍の独走を制約するものは何もなく,結局は歯止めのないまま全面戦争に突入することになったのである。権利についても,治安維持法や治安警察法などの権利制約立法が乱立し,実態的に権利はなきに等しい状況があった。そして,法律規制事項を大幅に命令規制事項にした1938年の国家総動員法によって旧憲法の立憲的要素は実質的に払拭された。⇒天皇
                        横田 耕一

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伊藤博文  1841‐1909(天保12‐明治42)(いとうひろぶみ)

明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換をはかったが失敗した。幕府の第1次長州征伐に対する藩首脳の処置に反対して高杉らと挙兵,藩内戦に勝利して藩の主導権を握り,幕府との武力対決に備え諸改革を進める中でとくに武器の輸入や他藩との交渉の任に当たった。

 1868年(明治1)外国事務掛として明治政府に出仕し,参与兼外国事務局判事,兵庫県知事を歴任,翌69年には陸奥宗光らとともに中央集権化構想を含む政治改革案を建白し,木戸孝允の下で開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔に転じ民部少輔を兼任,鉄道建設や貨幣制度の改革を推進した。さらに71年には遣外大使岩倉具視の副使となって米欧に出張(岩倉使節団),その間に同行した大久保利通の信任をえた。73年帰国,政府内で問題化していた征韓論争では岩倉・大久保らを支持して征韓派を退け,その後の政府改造により33歳の若さで参議兼工部縁に就任した。75年には前年の台湾出兵に反対し下野していた木戸の政府復帰のために大阪会議を斡旋し,漸次立憲政体に進むとの詔勅や,元老院・地方官会議の新設など,政治体制の一定の改革を実現した。

 78年大久保の横死後,内務縁を継いで政府の中枢に位置し,明治14年の政変では進歩的な立憲政体を構想する参議大隈重信とそのグループを政府から追放するとともに,90年の議会開設を約束する詔勅を出して自由民権運動の鎮静化をはかった。1882年に渡欧してプロイセンの憲法ならびに諸制度の調査に当たり,帰国後,華族令の制定をはじめ立憲体制への転換に対応する一連の制度改革に着手した。

 85年12月内閣制度を創設して初代首相に就任し醍長両藩出身者を中心に第1次内閣を組織した。議会開設に備えて官僚組織を整備し,市制,町村制など,地方名望家層中心の地方制度確立をはかるとともに,小学校令から帝国大学令に至る一連の学校令を制定して戦前における基本的な教育体系を整えた。また,87年外相井上馨の下で進めてきた条約改正に反対する声が政府内からおこり,さらに民間からも旧民権派などを中心に大同団結運動,三大事件建白運動が高まると,改正交渉を中止し,井上外相を辞任させるとともに,12月には保安条例を公布して反政府運動を弾圧した。この間,伊藤首相と井上毅,伊東巳代治,金子堅太郎らの手によって大日本帝国憲法,皇室典範ならびに憲法付属の法典の起草が進められていたが,それらの審議のため88年4月には枢密院を新設し,伊藤は首相を辞任して議長に就任,各草案の審議を主導した。

 帝国議会の開会に当たって,90年には初代の貴族院議長となり,山県有朋・松方正義両内閣が民党からの攻撃に直面した議会の運営に助言を与え,92年にはみずから政党結成をも企図した。同年8月組織した第2次内閣は閣僚に元勲層を網羅する強力内閣として民党と対抗,翌93年には懸案の軍艦建造費を詔勅によって実現した。さらにこの内閣の条約改正に反対する対外硬運動の高まりに対しては再度衆議院を解散して交渉を続け,ついに94年7月日清戦争開戦の直前に日英通商航海条約を調印し,法権と一部税権の回復に成功した。また日清戦争に際しては強引な開戦外交を展開し,一応挙国一致の態勢による戦争指導に成功するが,95年日清講和条約の調印直後に三国干渉をうけて遼東半島の還付を余儀なくされ,再び対外硬派の批判をうけることになった。そのため軍備拡張を中心とする戦後経営の実現が必至の課題となり,第9議会では自由党の支持をとりつけて膨張した予算案ならびに関連諸法案を通過させ,閉会後には自由党総理板垣退助の入閣を実現した。さらに進歩党の指導者大隈重信を入閣させて挙国一致内閣をめざしたが,閣内不統一となって96年8月総辞職した。

 98年1月伊藤は第3次内閣を組織し,自由・進歩両党との提携を策して失敗,第12議会に提出した地租増徴法案が両党の反対で否決されたため衆議院を解散した。その一方で政党結成に乗り出すが,山県らの強い反対にあって挫折し,6月総辞職した。その後,清国を遊歴して帝国主義諸列強によって租借地や利権が獲得されている実態を直視して帰国,国内体制の強化を緊急の課題であると認識し,政党結成に着手,1900年9月には伊藤系官僚と憲政党を中心に立憲政友会を創立して総裁に就任した。10月政友会幹部を閣僚として第4次内閣を組織したが,第15議会に提出した増税案がその政党内閣的な色彩に反発する貴族院各派の反対に直面し天皇の詔勅によってかろうじてその難局を切り抜けた。しかし次年度の財政政策をめぐって閣内対立し,01年5月総辞職した。これ以後,政友会総裁として桂太郎内閣との折衝を任とする一方,元老として日露協商の可能性を打診するため訪露するが,政府の推進する日英同盟の交渉が先行して予期した成果は得られなかった。また,野党化した政友会と桂内閣との利害対立が表面化し,伊藤が推進した妥協策はかえって党内の紛糾を増幅することになり,03年7月総裁を辞任して枢密院議長に就任した。続く開戦前の対露交渉から講和に至るまで日露戦争の全局面を元老の一人として最重要政策の決定に関与し,戦後の05年12月には新設の韓国統監府の初代統監となり,韓国の保護国化を進め,07年のハーグ密使事件を契機に皇帝を譲位させ,内政権を大幅に削減するとともに軍隊を解散した。しかし朝鮮民衆による義兵闘争は高まり,日本政府内にも併合の早期強行論が台頭する中で09年6月統監を辞任,枢密院議長に復帰した。同年10月日露関係の調整のためロシアの蔵相ココフツォフと会談すべく渡満,26日ハルビン駅に到着直後に韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

 伊藤は幕末の激動の中で貧農の家から身をおこし,明治藩閥政府の官僚として権力の階梯を上って位人臣を極めた。その間,藩閥間の対立を調停したり,敵対していた政党とも提携するなど,妥協性を発揮し,また,国際通をもって自任し対外政策の面では複雑な国際関係を顧慮してつねに慎重な対応を示した。元老中では明治天皇の信任厚く,明治国家が当面していた困難な内外政局を藩閥官僚層の頂点にたって処理したその政治的手腕は凡庸でなかったといえる。  宇野 俊一

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明治14年の政変 (めいじじゅうよねんのせいへん)

明治14年(1881)10月,醍長藩閥政府の専制的な体制を固め,天皇制立憲国家への道を確定した政変。その具体的内容としては,(1)開拓使官有物払下げの中止,(2)10年後の国会開設の公約,(3)参議大隈重信一派の追放などがあげられる。

 1879年末から翌年にかけて,伊藤博文,井上馨以下の諸参議は憲法意見書を奏上していた。そのころ,自由民権運動もしだいにその基盤を広げるとともに,80年3月の第4回愛国社の大会を国会期成同盟へと改組し,国会開設を運動の主要目標にしはじめていた。太政官に提出された〈国会を開設するの允可を上願する書〉には,天賦人権論にもとづく参政権,徴兵義務・地租納入にともなう政治的権利の獲得,財政危機の克服,国権の確立等の実現のために国会を開設せよ,とうたわれていた。政府は集会条例(1880年4月公布)によって運動の取締りを強化したが,同年11月の第2回国会期成同盟の大会は,その団結や実力養成を標榜するとともに,政党組織や憲法案の研究が課題とされ,豪農商層を中心とした民権運動はいちだんと国会開設要求を強めつつあった。

 1881年1月,伊藤博文,井上馨,大隈重信の3人の参議によるいわゆる熱海会議がもたれた。自由民権運動に対応して,国会開設や新聞発行などをめぐって意見が交わされたのである。しかし,具体的構想については必ずしも意見は一致しなかった。伊藤,井上の慎重論に対して大隈は急進論を唱えていたからである。その大隈が,督促によって3月,左大臣有栖川熾仁(たるひと)に憲法意見書を提出した。この大隈の意見書は,すでに出されていた他の諸参議の官僚的漸進論に対立的な急進論で,基本的には欽定憲法を認めてはいたものの,イギリス流の政党内閣制を主張し,ただちに憲法を制定し,82年末から83年初めにかけて国会を開け,というものであった。執筆には福沢諭吉門下で大隈のもとにあった矢野竜渓(文雄)があたっていた。6月,太政大臣三条実美を通じてこの大隈意見書を借覧した伊藤は,君権の放棄だと大隈を非難し,右大臣岩倉具視と結んで,皇室の基礎を強固にし,天皇の大権を確立する国家組織の方針を固めた。そのためにも大隈とその背後にあるとみられた福沢一派の交詢社系をたたき,醍長藩閥体制の強化を図らなければならないと考えた。そこに開拓使官有物払下事件が起こったのである。開拓長官黒田清隆は,政府がそれまで10年間に約1400万円つぎこんできた開拓使の官有財産を無利息30ヵ年賦38万円という不当な安値で,醍派の政商五代友厚らの関西貿易商会に払い下げようとした。これは開拓使内部で黒田が,醍摩出身の開拓大書記官安田定則らに北海社という新会社の設立とそれへの払下げという形で検討させていたものであった。この払下げが民間にもれるや,藩閥政府攻撃の世論は高まり,民権運動は激しさを加えた。政府部内には大隈が反対していたから,矛先は大隈攻撃に向けられ,いわゆる大隈陰謀説が流された。大隈は醍長藩閥打倒のために河野敏鎌農商務縁らと謀り,輩下の官僚に働きかけて福沢ら三田派と通謀し,後藤象二郎,板垣退助ら土佐派の民権家と気脈を通じ,政商岩崎弥太郎(三菱)に資金を出させ,陰謀をはかっている,というのである。当時,すでに伊藤と大隈の対立は不可避になっていた。醍派(黒田・西郷従道ら)と大隈との間にも対抗関係があったから,開拓使官有物払下事件をきっかけに,それらが表面化したのである。大隈に対する醍長派の対立・緊張関係が,伊藤と黒田とを結びつけ,大隈追放劇としての明治14年の政変を進行させた。

 政府は開拓使官有物の払下げを中止するとともに,大隈の罷免,1890年を期しての国会開設を約束した詔書の発布という三つの措置に出た。それはおりから高まる自由民権運動を弾圧するためにも必要な政治的処断だった。1881年10月12日,大隈が参議を免じられ,一派と目されていた農商務縁河野敏鎌,駅逓総監前島密,判事北畠治房以下,矢野文雄(統計院幹事兼太政官大書記官),犬養毅(統計院権少書記官),尾崎行雄(同),中上川彦次郎(外務権大書記官),小野梓(一等検査官),島田三郎(文部権大書記官),中野武営(農商務権少書記官)らも相ついで罷免され,あるいは職を辞した。そして,10年後に国会開設を約束する詔書は,岩倉―伊藤ラインの懐刀として活躍した井上毅がいうように,それによって多数の人心と中立派を政府側にひきつけ,また,反対派には抵抗を呼び起こして敵と味方とを明確にせしめるという政治的意図が秘められているとともに,政府反対派へは,〈処スルニ国典ヲ以テスベシ〉と弾圧を明確に宣言していたのである。

 この明治14年の政変の意義としては,次の諸点が指摘できる。第1に,自由民権運動の展開が国会開設をもはや不可避の課題として政府を追いつめていたこと,そして,政府内の不統一や財政政策の破綻が暴露されて,政府は10年後の国会開設の明示を余儀なくせしめられ,政変は立憲制への画期となった。第2に,その反面,政府はこれを機に藩閥体制をいっそう強固にした。大隈の罷免後ただちに太政官制が改正され(10月21日),太政官と諸省の分離も中止され,再び参議は諸省の縁を兼任した。また,太政官中に強力な権限をもつ参事院が設置され,伊藤が参議兼参事院議長となって,醍長藩閥政府の陣容が整えられた。第3に,政変の背後には政商ブルジョアが存在し,それが一定の政治的影響力をもちはじめた。また,この政変を機に大隈財政は松方財政へと変わり,商人資本の産業資本への転化がなされはじめた。第4に,翌82年の朝鮮の壬午軍乱(壬午の変)以降の対外緊張と相まって,国家権力の専制的軍国主義的体制強化が急速に推進された。かくして,一方では立憲制への方向を打ち出しつつも,他方では専制的軍国主義的な体制の強化が促進され,明治14年の政変は近代天皇制国家確立への大きな画期となった。        田中 彰

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大隈重信  1838‐1922(天保9‐大正11)(おおくましげのぶ)

明治維新から大正期にかけて,財政・外交にすぐれた手腕を発揮した政治家。佐賀藩の上級士族の家に生まれ,幼少から藩校弘道館で漢学を学び,のち蘭学に移り,ついで長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英学を学び世界的な視野を開いた。幕末の政局で,彼は尊攘派として長州藩の外国船砲撃事件(1863)を支持し,1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしたが捕らえられ,王政復古のときも藩主に討幕出陣を勧めたが入れられなかった。68年(明治1)新政府の成立と同時に徴士参与職として外国事務局判事となり,キリスト教徒処分,贋貨処分などの外交を担当した。このあと外国官副知事,会計官副知事,民部大輔,大蔵大輔,大蔵省事務総裁,地租改正事務局総裁,大蔵縁,参議などを歴任し,鉄道・電信の建設,工部省の設立や幣制改革,地租改正,秩禄処分などを主宰し,1881年(明治14)までいわゆる〈大隈財政〉を展開した。また,三菱汽船会社を助成し,三菱財閥との関係を深めた。しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,醍長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。96年進歩党を結成して党首となり,第2次松方正義内閣の外務大臣となったが,98年6月に板垣退助と憲政党を結成して日本最初の政党内閣(隈板内閣)を組織した。しかしこの内閣は,醍長藩閥ならびに官僚グループの抵抗と党内の自由,進歩両派の対立から,みるべき政策を展開することなく10月に瓦解した。1907年に党首を辞して早大総長となり,著述や講演などの文化活動を続けた。第1次護憲運動後の14年立憲同志会を与党として第2次大隈内閣を組織した。この内閣は,成立後まもなく第1次世界大戦への参戦を決め,翌年中国に二十一ヵ条を要求するなど,日本を軍国主義と中国侵略へ導く役割を演じて16年10月辞職した。葬儀は国民葬として行われた。                中村 尚美

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井上毅  1844‐95(弘化1‐明治28)(いのうえこわし)

明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10‐20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72‐73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナード,レースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩みつづけ,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。            長尾 竜一

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