スローリーディング中の『日本近現代史 ―成功と失敗の歴史に学ぶ』(中公新書、2019年)から、本日は「第7章 戦間期の軍縮会議と危機の外交」を読みました。
著者の小谷賢さんはイギリス政治外交史が専門で、各国のインテリジェンスについての著書があります。
本章は、第一次世界大戦の犠牲が大きかったにもかかわらず、第二次世界大戦はなぜ起こったのかを、戦間期の各国の動きを概観して、教訓を得ようとするものです。
日本の事情と欧州の事情とは、若干違いがあります。
<著者プロフィール>
1973年京都市生まれ。立命館大学卒業後、ロンドン大学キングス・カレッジ大学院修士課程、京都大学大学院博士課程修了(学術博士)。2004年から防衛省防衛研究所戦史部教官。現在、英国王立防衛安保問題研究所(RUSI)客員研究員。専門はイギリス政治外交史、インテリジェンス研究。主著に『イギリスの情報外交―インテリジェンスとは何か―』、『日本軍のインテリジェンス―なぜ情報が活かされないのか―』、共著に『インテリジェンスの20世紀―情報史から見た国際政治―』、『世界のインテリジェンス―21世紀の情報戦争を読む―』、『名著で学ぶインテリジェンス』等がある。
新潮社のサイトより
https://www.shinchosha.co.jp/writer/3905/
第7章 戦間期の軍縮会議と危機の外交
はじめに(欧州における第二次世界大戦の起源の概観)
第一次世界大戦は1918年11月11日休戦協定によって終結
死者2,000万人の犠牲者
戦争を経験した国々はこのような大戦争を起こさないための協議をした
(1)集団安全保障体制の導入:ヴェルサイユ条約(国際連盟規約)、ロカルノ条約
(2)不戦協定:パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)
(3)軍縮国際会議
しかしわずか21年後の1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発
<原因>
(1)ドイツでヒトラー政権が誕生し対外膨張主義的な政策を志向
(2)英仏の不戦への消極的な態度がドイツの増長を招いた(イギリスの歴史家ティラーによる『第二次世界大戦の起源』)
(3)英仏独伊ソの指導者のパーソナリティー
第一次世界大戦後の国際制度
大戦の原因は、欧州における各国の勢力均衡策にあると考えられていた
アメリカのウィルソン大統領は国際連盟の創設を訴えた
欧州における戦後の平和は、敗戦国ドイツの犠牲の上に成り立っていた
(1320億マルクの賠償金(支払いは現在でも継続中)、領土・人口の喪失
<集団保障体制>
理論的に大国間の対立、潜在的敵国間では機能しがたい
強制力がなければ紛争に介入も難しい
<不戦条約>
何が侵略戦争かが明確に定義されておらず、条約としての効力は持っていなかった
軍縮会議の成功と挫折
戦間期には軍縮会議が多く開かれている
人道主義的な議論(毒ガスの廃止)
戦略的な議論(各国の武器の制限)…比較的うまく機能した→例:ワシントン海軍軍縮会議
しかし1929年に世界恐慌が起き、各国政府は国際協調よりも自国中心的な対応をとった
植民地の少ない日独は大きな影響(経済的損害を被った)
日本の世論は、1931年の満州事変を歓迎
1937年以降、海軍分野では無条約の状況が出現し、各国の建艦競争が激化した
(ワシントン体制の崩壊)
1932年からのジュネーブ軍縮会議は独仏の対立により破綻
ドイツはヴェルサイユ条約の制約から逃れたかった
独仏で国力に差があった(ドイツの工業地帯は被害が少なかった、フランスより人口が2,000万人多かったなど)
フランスはイギリスに安全保障の援助を望んでいたが、イギリスのマクドナルド政権は無関心であった
ジュネーブ会議における英仏の軍縮に消極的な態度は、ヒトラー政権のドイツに再軍備の口実を与えることになった
危機の外交
1933年から1934年が戦間期のターニング・ポイント
1935年、イタリアのムッソリーニ総統によるエチオピア進攻
国際連盟の集団安全保障体制は崩壊
1936年3月、ドイツはロカルノ条約を破棄し、非武装地帯のラインラント進駐を断行
この段階で英仏が協力すれば、ドイツ軍の侵攻は止められた可能性がある
この時期のフランスは国内の政情が不安定でドイツに対する断固たる政策が取れなかった
フランスの優柔不断な態度は周辺国を不安の陥れた(フランスの孤立)
英仏はイタリアへの接近を模索したが、独伊接近のほうがペースが速かった
1937年7月、日中戦争が勃発←計画されていたものではなく、偶然と機会主義が重なった結果
(1936年8月の「国策の基準」で南北併進の戦略を打ち出してはいた)
1936年11月25日調印の日独防共協定によって、欧州情勢と東アジア情勢はリンクするようになった
東アジアにおけるイギリスは、アメリカの支援なしには、単独で対日工作を取れなかった
蒋介石はアメリカへの接近を検討
第二次世界大戦の勃発
資料参照
おわりに
戦間期における欧州の国際関係から教訓を得ようとした著書
イギリスの歴史家・外交官、E・H・カー『危機の20年』
道義的なユートピアニズムが、権力的なリアリズムに代わる様子を危機感をもって論じた
戦間期の国際関係を規定したヴェルサイユ条約が敗戦国ドイツにとって不合理だったのも原因
1930年代後半の各国の動きは展開が早く、同盟が機能するには時間がなかった
ヒトラーが各国の先手を取り、英仏は常に後手にまわった
(民主主義国は政策決定までに時間がかかる)
<資料編>
国際連盟
こくさいれんめい League of Nations
国際平和の維持を目的として第1次世界大戦後設立された国際機構。第2次大戦の勃発によって形骸化し,戦後国際連合にその任務をゆずって消滅した。
[成立] 平和維持のための国際機構という構想は古代ギリシア以来繰り返し提唱されてきた。さまざまな分野の国際協力は国際関係の緊密化とともに19世紀後半以来発展したが,戦争と平和という高度に政治的な問題には及ばなかった。大規模な常設の国際平和維持機構の必要は,第1次大戦の惨禍によって初めて痛感され,1918年1月ウィルソン・アメリカ大統領の〈平和のための14ヵ条〉の中にとりあげられた。かつてのユートピア思想はようやくここに現実の課題となった。戦後開かれたパリ講和会議はウィルソンの主張を基礎に国際連盟憲章を作成し,これをベルサイユ条約その他の講和条約の一部とした。連盟は従って法的には20年1月10日,ベルサイユ条約発効とともに成立した。戦勝国および招請された中立国計42ヵ国が原加盟国となったが,最大の役割を期待されたアメリカが国内における孤立主義の台頭により不参加となり,連盟の力を少なからず弱めることとなった。なお本部所在地はジュネーブ,初代事務総長はイギリスのドラモンド James EricDrummond(1876‐1951)であった。
[任務] 連盟の第1の任務はいうまでもなく平和維持であって,その根底には,従来の勢力均衡論に代わって台頭した集団安全保障 collectivesecurity の思想,つまり戦争は当事者のみならず連盟全体の重大関心事であり,全員の努力によって防がねばならない,という考えがあった。憲章10,11条はこの思想を宣言し,12~15条は解決困難な紛争は仲裁裁判,司法的解決(このために常設国際司法裁判所を設置),または連盟理事会の審査に付すべきこと,16条は以上に違反して戦争に訴えた国に対して全員が協力して経済制裁(および若干の補助的軍事措置)を加えることを定めている。また紛争を未然に防ぐため,軍縮(8,9条),条約と国際協定との公開(18条)が約された。連盟の第2の任務は,平和維持の前提となる公正な国際関係および人道的諸問題のための国際協力である。憲章の規程は簡単で,人道的な労働条件(このために国際労働機関が設置される),交通の自由,保健衛生などの課題を列挙したにすぎないが(23条),平和維持の分野に比べ,この分野では相当の成果をあげた。そのほか特殊任務として,戦敗国旧植民地等の統治をいくつかの国に委任して監督する委任統治があった。
[機関] 連盟には中央に総会,理事会,常設事務局があり,さらに自主機関として常設国際司法裁判所と国際労働機関,また補助機関として多くの専門機関と諮問委員会があった。中心は総会と理事会で,若干の分業はあったが,ともに連盟関係事項すべてに及ぶ権限をもった。総会は全加盟国が1国1票で参加し,通常毎年9月に会合した。中小国の意見を反映して,より原則的・理想的であった。理事会は常任理事国と非常任理事国からなり,通常年数回会合し,その機動性を生かしておもに政治問題にとりくんだ。大国の意見を反映して,より現実的・妥協的であった。常任理事国は当初イギリス,フランス,日本,イタリア,のち1926年にドイツ,34年にソ連も連盟加入と同時に就任,33年に日本とドイツが,37年にはイタリアが脱退,39年にソ連が除名された。なお総会,理事会とも原則として決議は全員一致によるが,現実にはとくに総会で相当緩和して運用された。
[盛衰] 連盟の歴史は4期に分けられる。1923年までは生成期(第1期)であって,連盟主要機関のすべてが整備されたが,ヨーロッパで戦後処理に関する問題が続出し,連盟は十分な威信を確立するに至らなかった。しかし24年以後ヨーロッパも安定に向かい,イギリス,フランス,ドイツは連盟中心外交を唱え,連盟は国際政治の中心となった(第2期)。しかし31年満州事変から36年イタリアのエチオピア併合にかけて,連盟は難局を迎える(第3期)。前者についてはリットン調査団を派遣し,その報告に基づいて事態収拾をはかったが,日本はこれを拒絶して連盟から脱退した。後者については初の経済制裁を実施したものの,石油等の重要物資に及んでおらず,また主要国のイギリス,フランスが消極的であったため侵略を阻止しえず,イタリアの併合宣言後制裁を解いてしまった。これは連盟にとって致命的な打撃となって,以後の第4期には,アジアとヨーロッパで紛争がいっそう拡大したにもかかわらず,連盟に対する期待は著しく弱まり,39年第2次大戦の勃発とともに,連盟の活動は事実上停止された。
[連盟と日本] 第1次大戦の主戦場から遠く,むしろその受益者であった日本には,平和への強い理想主義的取組みはみられなかった。日本は連盟の構想に対して冷淡であり,日本の行動が制約されることへの懸念から,その不成立ないし機能の限定を望み,次いで連盟中に有利な地位を占めることをめざしたにすぎなかった。実際,連盟成立過程での日本の関心は,旧ドイツ領赤道以北太平洋諸島の受任統治国となることと,結局失敗に終わった人種平等原則の挿入の二つに限られていた。しかし連盟が成立すると,ヨーロッパに利害の少ない唯一の常任理事国として,第1・2期の活動には比較的公平な立場から貢献したといってよい。理事会における石井菊次郎,事務次長としての新渡戸稲造,杉村陽太郎,常設国際司法裁判所における安達峰一郎らの活動は広い信頼を得た。しかし東アジアの問題に関しては,日本はかたくなに連盟の行動を排除して自国の利益を貫こうとした。その結果が満州事変と連盟脱退であり,日本は連盟崩壊の口火を切ることになった。 北岡 伸一
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ロンドン軍縮会議
ロンドンぐんしゅくかいぎ
ワシントン海軍軍備制限条約(1922)の有効期間満了が近づいたため,マクドナルド・イギリス首相の提唱で,イギリス,アメリカ,日本,フランス,イタリアの五大海軍国がロンドンで開催した会議(1930年1月21日~4月22日)。
1927年6~8月に開かれた5ヵ国によるジュネーブ軍縮会議は,長い海岸線防衛用に主力艦を重視するアメリカと,世界にまたがる帝国防衛のために小型巡洋艦に制限を加えまいとするイギリスの対立が鋭く,暗礁にのりあげていた。これを受けたロンドンの会議ではイギリス,アメリカがともにその要求を取り下げた。日本は対米70%の大型巡洋艦を要求したがいれられず,結局小型巡洋艦と駆逐艦についてイギリス,アメリカの70%,潜水艦は均等という条件で,大型巡洋艦に対するワシントン条約の比率(60%)適用を受諾した。この結果4月22日にイギリス,アメリカ,日本の間で,ロンドン海軍軍備制限条約が締結された(有効期間6年)。地中海の制海権を争うフランス,イタリアは話合いがつかず,参加しなかった。同条約の協定保有量は表のとおりである。この会議では,ワシントン条約による1931年からの代替建造が36年まで延期され,イギリス,アメリカ,日本が主力艦を1年半以内にそれぞれ5,3,1隻廃棄して,保有量をイギリス,アメリカ各15隻,日本9隻にすることも取り決められた。
この条約は現有量と協定保有量の差が小さく,そのうえイギリスの主張で〈エスカレーター条項〉(第21条,非締約国の新艦建造で安全を脅かされた締約国は,他の締約国に通告のうえ必要な艦艇を増加でき,他の締約国もそれに比例して増加できる)が設けられたため,軍縮の効果はあまり大きくなかった。同条約の期間満了を控えて,1935年末から再びロンドンで会議が開催されたが,すでに日本は1934年に,36年末をもってワシントン,ロンドン両条約による制限が終結することを通告しており,またベルサイユ条約に違反してドイツは有力な海軍国になっていたため,意味のある合意の基盤は失われていた。36年末ワシントン,ロンドン両条約の失効とともに,各国は激しい建艦競争をくりひろげた。⇒統帥権干犯問題
納家 政嗣
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ジュネーブ軍縮会議
ジュネーブぐんしゅくかいぎ
(1)1927年ジュネーブで開かれたアメリカ,イギリス,日本3国による海軍軍縮会議 NavalConference。アメリカ大統領クーリッジがワシントン軍縮会議で除外されていた補助艦(巡洋艦,駆逐艦,潜水艦)の数・トン数を制限しようと提議した。しかし,フランス,イタリアが参加を拒絶したうえ,会議では英米間が対立したため,なんの効果もなく閉会した。日本からは斎藤実,石井菊次郎が全権に任命された。⇒ロンドン軍縮会議
(2)国際連盟が規約第8条(軍備縮小)に基づいて1932年2月から34年末まで,59ヵ国の参加を得てジュネーブで開催した全般的軍備縮小に関する会議 Disarmament Conference。連盟は1925年12月に軍縮会議準備委員会を設置した。30年12月になって同委員会で軍縮条約の概要(軍事予算の制限,兵役期間の制限,常設軍縮委員会の創設など)につき,条件つきながらいちおう合意が得られたため,連盟理事会が開催を決定した。この軍縮会議では,国際連盟警察軍(フランス),特定攻撃兵器全廃(イギリス),兵力一律削減(アメリカ)などの提案があったが,いずれも合意にいたらなかった。32年7月になって会議は,(a)一般民衆への空中からの爆撃禁止,航空機数の制限,(b)特定規模以上の重火器,戦車の制限,(c)化学的戦争手段の制限,を内容とする決議案を表決に付した。41ヵ国の賛成が得られたものの,これもソ連,ドイツの反対にあい,会議はゆきづまりを見せた。その後もイギリスがヨーロッパ軍縮案を提案し,フランスも2段階軍備制限案を作成したが話合いはつかなかった。もともと世界的な不況,東アジアにおける満州事変,ドイツにおけるナチス勢力の台頭などの難しい環境下での会議であったが,最大の障害となったのは,ベルサイユ条約の束縛を脱しようとするドイツと,ドイツの再軍備に反対し,それを認める前に確固たる国際安全保障体制を求めるフランスの対立であった。33年10月14日,ドイツが軍縮会議と国際連盟を脱退し,その後のイギリスの独仏調停も失敗したため,同会議は34年末以降再び開かれることがなかった。
納家 政嗣
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ミュンヘン会談
ミュンヘンかいだん
1938年9月29日,ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー,イギリス首相 A. N. チェンバレン,フランス首相ダラディエ,イタリア首相ムッソリーニの四大国首脳会談。翌30日未明,チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する,いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ,イタリアに対してとってきた,弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和(ゆうわ)政策のピークであった。
1938年3月,ドイツがオーストリアを併合すると,チェコスロバキアは直接ドイツからの脅威を受けることになった。すでに前年11月5日,ヒトラーは秘密会議で,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画という〈遺言〉を明らかにしていた(〈ホスバッハ覚書〉に記録)。チェコスロバキアと相互援助条約を結んでいたソ連は,危機収拾のための国際会議を提案したが,イギリスはこれを拒否した。4月下旬にはチェコスロバキアでは,ドイツの意を受けてズデーテン・ドイツ人の自治を要求する親ナチス運動が激化した。こうしてズデーテン問題はにわかに国際化したが,イギリスは,チェコスロバキア政府の一方的譲歩による解決を働きかけ,ついに9月初めには,後者はズデーテン・ドイツ人の要求を受けいれるにいたった。しかし自治よりも領土そのものを要求していたドイツはチェコスロバキア政府への攻撃を強め,両国関係は緊迫した。チェンバレン首相は,集団安全保障方式よりも個人外交による危機管理に頼り,9月15日,22~23日の2度にわたってヒトラーと会談し,フランスを誘ってズデーテンの割譲をチェコスロバキア政府に迫った。ドイツとの対決を何よりも恐れていたチェンバレンは,ヒトラーの決意の固さを知って,いっそうドイツに対する宥和を強め,9月27日,ムッソリーニを通じて国際会議の斡旋を依頼し,ミュンヘン会談が開催の運びとなった。
10月1日,ドイツ軍はズデーテン地方を占領し,チェコスロバキアは最も重要な戦略的拠点を失った。ソ連はズデーテン危機の全局面を通じて交渉から排除され,さらにチェコスロバキアおよびフランスとの相互援助条約も有名無実となり,国際的孤立のなかで新しい安全保障の方向を模索せざるをえなくなった。イギリスの宥和政策がナチス・ドイツに対する恐怖と無力さに発していることを見抜いた小国は,中立主義を宣言するか,せまい民族主義的衝動に身をまかせた。たとえば,ポーランドとハンガリーは,チェコスロバキアから,それぞれテッシェン地方(10月),南部スロバキアおよび南部ルテニア(11月)をもぎ取った。反ファシズム人民戦線を象徴していたスペインの国際義勇軍も11月には撤退した。しかし四大国の和解も幻想にすぎなかった。チェンバレンが〈わが時代のための平和条約〉と自賛したミュンヘン協定も,翌39年3月,ヒトラーのチェコスロバキア解体によって,わずか6ヵ月にして〈ほご〉と化した。⇒第2次世界大戦 平井 友義
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第2次世界大戦
(より抜粋)
[チェコスロバキア解体] ヒトラーの次の目標はチェコスロバキアであった。チェコスロバキアの内部では,ドイツ系住民が多く住むズデーテンで,ズデーテン・ドイツ党がヒトラーの第五列として自治要求を掲げ,チェコスロバキア政府を揺さぶっていた。オーストリアの〈併合〉を静観していたイギリスも,ドイツのチェコスロバキア侵攻には警戒をみせていた。1937年11月にイギリスのハリファクスがヒトラーを訪問し,平和を維持するためにドイツに植民地や東方進出に譲歩する提案を行っていたが,チェコスロバキアの解体を認めるものではなかった。それ以後もイギリスはズデーテン問題の平和的解決を申し入れてきたが,ヒトラーにとってこのような姿勢はイギリスがチェコスロバキアについて介入する意思を示しているものと映った。そのなかでヒトラーは,軍に作戦行動(〈緑色作戦〉)の検討を命じると同時にイタリアの支持を取り付けようとし,38年5月上旬イタリアを訪問し軍事同盟の締結を提案したが,イタリアはそこまでドイツに傾斜することには躊躇(ちゆうちよ)していた。他国の対応が必ずしも明らかでない状況のなかで,5月20~21日にかけてウィークエンド危機といわれる事件が発生した。ドイツ側の演習に対して,チェコスロバキアは部分動員をかけ,イギリス,フランスはドイツに厳重警告を発したのである。イギリス,フランスの介入をみてヒトラーは対英接近をあきらめ,5月下旬には10月1日を期限とする軍事作戦を命令した。9月上旬ズデーテン問題をきっかけとしてチェコスロバキアは危機に陥った。このなかで,チェコスロバキアに侵攻しようとするドイツと,交渉によって事態に収拾をはかろうとするイギリス,フランスとの緊迫した対応が展開された。ズデーテンをドイツに割譲することを取り決めたミュンヘン協定が締結された9月30日まで,ヨーロッパは戦争か平和かの瀬戸際に立たされたのである。
この〈ミュンヘン危機〉あるいは〈9月危機〉といわれる国際危機は,ヒトラーの脅しのまえにイギリスとフランスがチェコスロバキアを犠牲にして平和を維持したものとして宥和政策の象徴とされているが,当時ヒトラーは敗北感を抱いていたことに注意する必要がある。ヒトラーはイギリス,フランス,イタリアの3国の介入によってチェコスロバキア解体という目標を妨害されたと感じたのである。10月に入りヒトラーは残部チェコスロバキアの解体を考えはじめた。一つは,残部チェコスロバキアにかけられた国際的な保障を切り崩すことであり,無力感にとらわれていたフランスに接近し,12月6日には独仏共同声明が出されイギリスを牽制した。二つめはチェコスロバキア内でのチェコとスロバキアの対立を利用することであり,1939年3月14日スロバキアを独立させ,同じ日チェコスロバキアの大統領ハーハを脅しボヘミア,モラビアを保護領とすることに同意させ,翌15日ドイツ軍はプラハに入り,ここにチェコスロバキアは解体された。
[戦争の勃発] 9月危機以降,イギリスは本格的に戦争準備を開始した。イギリスの防衛力強化をはかるとともに,敗北主義にとらわれドイツと接近しかねないフランスへも軍事援助の申入れがなされ,両軍の協力も強化された。その一方,ドイツもイギリス,フランスとの戦争を想定しはじめ海・空の軍事力増強がなされた。イタリアはこのなかにあって,戦争準備の遅れと国内の強い反戦感情から戦争を回避しながらも外交上の成果を達成しようとした。しかし,1938年秋のフランスへの強硬要求も失敗に終わり,39年3月のスペイン内戦の終結もイタリアの成果とはならず,なんらかの行動が必要となり,4月アルバニアに侵攻した。それに対してイギリスは直ちにギリシア,トルコへの軍事援助を申し入れ,イタリアは孤立化の恐れに直面し,ドイツに接近し,5月22日鋼鉄条約が締結され,ドイツとイタリアは軍事同盟関係に入った。しかし戦争準備が不十分であることは明確であり,8月ドイツから参戦要請がなされると,イタリアの指導者は参戦派と中立派に二分され,結局8月25日非参戦の通告を行った。
チェコスロバキア解体後,焦点はポーランドに移された。1938年秋よりドイツはポーランドにダンチヒ(現,グダンスク)の返還等を要求しており,39年3月には一層の圧力をかけ,4月上旬に侵攻作戦(〈白色作戦〉)の準備を開始した。それに対してイギリスは,3月31日ポーランドの安全を保障する声明を発表した。イギリスとドイツはソ連接近を開始した。4月より徐々に軌道にのりはじめたソ連とイギリス,フランスの交渉は,双方が相手は自国だけをドイツと戦わせるのではないかと疑いながら進められたためほとんど進展をみせず,その一方,5月より開始された独ソ交渉も進展をみせなかったが,ソ連の安全保障の懸念から,またドイツの対伊関係の不調から8月に入り急速に進み,23日独ソ不可侵条約が締結された。おりしも8月上旬ダンチヒをめぐりドイツとポーランドとの関係は極度に悪化しており,8月23日ヒトラーは26日に予定した攻撃命令を出した。しかし,25日にイタリアから非参戦の回答とイギリス,ポーランド間の相互援助条約締結の知らせが届いたため,攻撃命令を取り消し,イギリスと再度交渉をもった。しかし,それも失敗したため,31日攻撃命令を下し,9月1日ドイツ軍はポーランドに侵攻した。第2次世界大戦の勃発である。
日独防共協定
にちどくぼうきょうきょうてい
1936年11月25日調印された日本とドイツの対共産主義協定。正式名称は〈共産インターナショナルに対する日独協定〉。コミンテルンの活動に対抗するため,相互協力と情報交換,国内共産主義活動の弾圧を約束した本文・付属議定書,一方の国がソ連と開戦した場合には他方の国はソ連に有利となるいっさいの行動を控えることを協定した秘密協定からなる(付録に交換公文が付随)。協定締結をめざす交渉は正規の外交ルートの外側,すなわち駐独陸軍武官大島浩とナチ党のリッベントロップとの間ではじまり(1935年5~6月ころ),協定原案のめどが立ったのちに正式の政府間交渉へと移され,最終的には武者小路公共駐独大使と特命全権大使リッベントロップとの間で調印された。日本側の主たるねらいは仮想敵国ソ連に関する情報の入手,対ソ戦時にドイツをしてソ連を牽制させることにあり,協定内容を秘密にしておくことを望んだが,ドイツ側が公表を強く希望したため,日本側の意図は付属議定書・秘密協定に盛り込まれるかたちになった。防共協定には第三国の参加を奨励することがうたわれていた。日本側はイギリス,オランダに加入を求めたが失敗に終わった。イタリアは積極的に参加を求め,37年11月6日に防共協定と付属議定書に原署名国として調印,参加した。38年夏から防共協定を対ソ・対英仏の軍事同盟にまで強化しようとする動きが日独伊3国の間に生まれ,日本ではそれを強硬に要求する陸軍と,対英仏軍事同盟には否定的な海軍・外務省が外交路線の選択をめぐって激しく対立しあった。いわゆる防共協定強化問題である。⇒日独伊三国同盟 永井 和
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