事後法の①「平和に対する罪」、③「人道に対する罪」を受け容れ、主権回復後の対米協調路線(当時はそれ以外に選択肢がなし)を円滑に進めるために、東京裁判があった、という結論です。
ただしアジア諸国への贖罪は永遠について回るのは致し方ないことだと思います。
<著者プロフィール>
日暮 吉延(ひぐらし よしのぶ、1962年11月-)は日本の政治学者。鹿児島大学法文学部法政策学科教授。専門は日本政治外交史。2003年、著書『東京裁判の国際関係』で2002年度吉田茂賞を受賞、2008年『東京裁判』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞受賞。東京裁判史の研究者として知られている。
https://sendatakayuki.web.fc2.com/etc5/syohyou196.html
第10章 東京裁判における法と政治 (日暮吉延)
◆A級戦犯とは何か
東京裁判:正式名称「極東国際軍事裁判」(1946年5月3日~1948年11月12日)、戦勝国連合国11か国(アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピン)が敗戦国日本の指導者28名を告発し審理した戦争犯罪裁判
先行事例の裁判として米英仏ソ四か国がドイツを裁いた「ニュルンベルク裁判」(1945年11月20日~1946年10月1日)がある
東京裁判は「昭和の戦争の帰着点」、「戦後思想の出発点」
2つの善悪二元論が対立
「文明の裁き」論(肯定論):侵略や残虐行に責任を有する日本の野蛮な軍国主義者が裁かれるのは当然
「勝者の裁き」論:処罰の根拠や公平性において報復的だ
→1978年A級戦犯靖国神社合祀は精神的施策
筆者の主張:東京裁判は「文明の裁き」「勝者の裁き」の両面を兼ね備えた「国際政治の政策」と捉えている
①侵略戦争の計画、開始等を国際犯罪とする「平和に対する罪」(A級犯罪)
②伝統的な戦争法規慣例に違反する「通例の戦争犯罪」(B級犯罪)
③一般住民に対する非人道的行為や迫害を国際犯罪とする「人道に対する罪」(C級犯罪)
今日的な「戦犯」=「敗北や失敗の責任者」は、本来の語義とは違う
◆新しい戦争犯罪の成立
①「平和に対する罪」、③「人道に対する罪」、は第二次世界大戦の末期につくられた事後法
1941年、アメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチルによる「大西洋憲章」
「ナチ専制国家を最終破壊」する戦後構想
ナチの即決処刑の案もあったが、アメリカ陸軍長官・スティムソンによるナチ指導者の「逮捕・捜査・裁判」による「文明」的な裁判方式こそがナチの邪悪な犯罪を公的記録に
1945年6月、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスによるロンドン協定で「国際軍事裁判所憲章」基本法が(①「平和に対する罪」、③「人道に対する罪」)定立
◆連合国の検察活動
ポツダム宣言受諾は戦犯裁判の実施を認めることであり、連合国の戦犯裁判に協力する義務を負った
敗戦時に日本は組織的に書類を焼却
被告人選定基準
①「平和に対する罪」で起訴できること
②事件や組織の代表者であること
③有罪確実な証拠があること
④侵略の共同謀議に積極的だったか、もしくは反対しなかったこと
◆判決の作成過程
判事の中にはインド判事パルのように鮮明な否定論ではないが、慎重論を唱える裁判官も存在
「平和に対する罪」
ニュルンベルグの原則に賛成しない判事4名を判決作成から排除して、「多数判決」「多数意見書」を作成
(反対判事は個別に意見書を作成)
◆死刑の根拠は何だったのか
判決時の被告人は25名(大川周明は精神異常、松岡洋右、永野修身は病死)
死刑の根拠は、戦争法規慣例に反する「重大な残虐行為」(B級犯罪)であり、「平和に対する罪」だけでは終身刑にとどまった
◆サンフランシスコ講和条約と戦犯釈放
東京裁判の終結後、1950年から総司令部(GHQ)による減刑・仮釈放の赦免システムが動き出す
サンフランシスコ講和条約により日本は主権回復後の戦犯受刑者の刑を執行する義務を負った
日本にとって戦犯受刑者は「占領の残滓」であり、独立国に似つかわしくない「不平等」という認識が、与党・野党ともにあり、日本政府は戦犯の仮釈放を積極的に勧告
P235
「最終局面は事実上の政治的解決であるが、アメリカは最後まで仮釈放・減刑といった司法的解決の建前を崩さなかった。「文明の裁き」の「正義」を守るためであった。他方、日本は占領を経て、対米協調を基軸とする国家となった。その際、戦争責任を清算するための関門であった東京裁判が、対米協調への転換を円滑にしたといえよう。」

