手本は二宮金二郎
9月8日(日曜日)大柿中学校のトイレ掃除に参加。
校庭には二宮金二郎。
そうだ、日本は、これでいいのだ。
文部省唱歌
1 柴刈(しばか)り縄(なわ)ない 草鞋(わらじ)をつくり
親(おや)の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟(きょうだい)仲(なか)よく 孝行つくす
手本は二宮金次郎
2 骨身(ほねみ)を惜(おし)まず 仕事をはげみ
夜(よ)なべ済(す)まして 手習読書(てならいどくしょ)
せわしい中にも たゆまず学(まな)ぶ
手本は二宮金次郎
3 家業大事(かぎょうだいじ)に 費(ついえ)をはぶき
少(すこ)しの物(もの)をも 粗末(そまつ)にせずに
遂(つい)には身(み)を立(た)て 人(ひと)をもすくう
手本は二宮金次郎
二宮尊徳 1787‐1856(天明7‐安政3)
にのみやそんとく
江戸後期の農政家。幼名金次郎。小田原在栢山(かやま)村生れ。少年時に父母を失い,伯父の家を手伝い,苦しい農耕をしながら《論語》《大学》《中庸》などを独自に学ぶ。青年期に家を再興。その後,小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功した。この経験をもとに独特の農法,農村改良策(報徳仕法)により,小田原,烏山,下館,相馬藩などのおよそ600村を復興。晩年は日光神領の立直しの命をうけ,得意の計量的,合理的な策を立てたが業半ばに死去した。農村の生産力に応じて分度を定め,勤倹を説き,その結果としての富を推譲(譲り合う)という社会的行為に導く報徳思想を広めた。主著に《三才報徳金毛録》など。すぐれた門人が多く,幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を進め,農村の振興に益した。彼の人と思想は,福住正兄《二宮翁夜話》,富田高慶《報徳記》などによって知ることができる。 塚谷 晃弘
[人物像] 尊徳の思想と行動は,生前や没直後には報徳社運動の周辺に影響をもつだけであったが,明治10年代になると,政府によって注目,称揚されるようになる。門人の手になる《報徳記》と《二宮翁夜話》は相次いで天覧に供せられ,さらにそれらを大日本農会などが印刷,頒布し,1889年尊徳は従四位を追贈された。これは,尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって,荒廃した農村を立て直した人物として理解されたことによると考えられている。また内村鑑三は《代表的日本人》(1894)の中で,〈その精神の“自然”の法則と結ばれたる〉〈農民聖人〉として尊徳を評価している。一方,門人や後継者たちによって報徳社は発展し,92年には神奈川県小田原と栃木県今市に尊徳を祭神とする報徳二宮神社が創建され,のちにいずれも県社となった。
教育の場においては,明治30年代から修身の手本として顕彰されるようになる。尊徳は1900年の検定教科書《修身教典》にまず登場し,04年から使用された最初の国定教科書《尋常小学修身書》では孝行,勤勉,学問,自営の4徳目に現れる。また唱歌では,1902年の幼年唱歌に見え,11年の尋常小学唱歌には〈柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり,親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し,兄弟仲良く孝行つくす,手本は二宮金次郎〉と歌われた。かくて尊徳は明治天皇に次いで国定教科書に最も多く登場する人物となったが,いずれもその少年時代の姿を語るものであった。なお,薪を背負って書を読む少年金次郎の像を小学校に建てることが広く行われるようになるのは,昭和に入ってからのことで,当初は銅像であったものが,戦時中の金属供出によって石像にかえられたものが多い。戦後最初に発行された1円札の図柄も尊徳の肖像であった。 大山 雄三
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