芝のころ(その一)(昭和九年六月―十七年)Ⅲ
152 波の音をりをりひゞき震災忌
153 番町の銀杏の残暑わすれめや
154 しらつゆのむれておなつも泣きにけり
155 露の夜の空のしらみて來りけり
156 萩にふり芒にそゝぐ雨とこそ
157 あるじなき月の二階を仰ぎけり
158 露寒のあさがほのまだ咲きつゞけ
159 谿(たに)淺く露のみちゆく足音(あのと)あり
160 草の葉も露もおどろきやすきかな
161 月かくす術(すべ)なき屋根となりにけり
「昭和十四年九月七日午前二時四十分、泉鏡花先生逝去せらる」の前書きのある153から「鏡花先生初七日」の158まで、泉鏡花の追悼句。
泉鏡花 1873‐1939(明治6‐昭和14)
いずみきょうか
明治・大正の小説家。金沢生れ。本名鏡太郎。父清次は腕のいい彫金師で,母鈴は江戸損野流の鼓打ちの娘。鏡花文学には父方の工人の血と,母方の芸能の血とが一つになって流れていた。1882年母が死亡。84‐87年まで,金沢のミッションスクール北陸英和学校に学ぶ。やがて貸本などにより多くの小説類を耽読。90年小説家たらんとして上京,91年尾崎紅葉の門人となる。93年京都《日出新聞》に《冠弥左衛門》を,94年には《読売新聞》に《義血惟血》(上演名《滝の白糸》)を連載,95年《夜行巡査》《外科室》を当時最大の文芸誌の一つであった《文芸抑楽部》に発表するに及んで観念小説と名づけられ,新進作家として脚光をあびる。この間94年には父清次が死去,祖母や弟をかかえて生活苦を味わう。96年《照葉(てりは)狂言》を《読売新聞》に発表,少年を主人公とする清新な抒情で新しい境地をきりひらき,やがて《高野聖(こうやひじり)》(1900)などにおいて,師紅葉を超えるほどの人気作家となる。しかし06年ごろより活発になる自然主義文学の隆盛の影響をうけ,文壇的には不遇となるが,能楽や江戸文学を素養とする鏡花の世界は,亡き母を恋うる感情,華やかな色彩性と夢幻性をあわせもち,不遇の期間にも《春昼》(1906),《草迷宮(くさめいきゆう)》(1908)など幻想的な作品を多く発表する。その一方で《婦系図(おんなけいず)》(1907)をはじめ《白鷺》(1909),《歌行灯》(1910)といった風俗性の濃い作品でもすぐれた業績を示した。さらに大正期には戯曲《天守物語》(1917)などで独特の幻想世界をくりひろげた。1899年,後の夫人すず(神楽坂の芸妓桃太郎,鏡花の母と同名)を知り,1903年同棲,紅葉の怒りにあって一度は離別するが,紅葉没後結婚したことは有名。39年《縷紅新草(るこうしんそう)》を最後に永眠した。今日,鏡花再評価の声が高いが,それは旧来の近代自我史観と呼ばれる文学史の訂正を含むものであり,民俗の根と深くつながる側面においても注目されている。
笠原 伸夫
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