スローリーディング中の中公新書『徒然草』。本日は「終章 再び「つれづれ」とは何か」を読みました。章の順番ごとに読んでません。
終章では『徒然草』冒頭の「つれづれ」の解釈が、年代で違っているという点に注目し、長く読み継がれる古典には解釈の相違があって当然という認識です。内田樹さんはどうもこの著者の論文を参照にされたようです。古典に関する認識で同じような記述がありました。
P236の図は大変よくわかりました
本書は先人の『徒然草』の読み方を通して、その特質・魅力を探る目的
現代とは言語的・思想的に異なる近世人の読み方は、現代人の解釈の盲点を指摘させる
17世紀の注釈者の解釈
『伊勢物語』『源氏物語』に連なる「文学」の書+儒教・仏教・道教・老荘などの「思想」書
18世紀後半から「つれづれ」の解釈として「寂寥」系の意味ではなく「退屈」系の解釈が現れる
1890(明治23)年、国文学者、鈴木弘恭によって徒然草注釈史上初めて「徒然=退屈」説が出てくる
ここには『徒然草』の「思想」ではなく「文学」を評価しようとする考え
藤岡作太郎
兼好が仏教思想を説いている部分は、彼の深い経験に根差しているとは思われない
しかし「趣味」(美意識・感性くらいの意)を説いた部分には、経験に裏打ちされた真実の言葉がある
当時の文壇にも「文学」としての評価の動きがある
1911(明治44)年、国文学者・内海弘蔵の説
『徒然草評釈』
何もすることがなく、いかにも退屈、いかにも徒然(とぜん)なので、…
かようの次第で、この書はほんの随筆なので、もとより、何の主張があるのでもない。又、何の寓意があるものでもない。―かう、作者がまづ、ことわってゐるのだ。
何の主張も寓意もない、単なる退屈しのぎの慰みであるという序段の読みが、きわめて明快に主張されている
小林秀雄『無常といふ事』の「徒然草」論
「健康にとって徒然とは、「紛るる方なく、唯独り在る」幸福並びに不幸を言ふのである」
文部科学省検定高校国語教科書は9社
9社すべてが『徒然草』を収録
「つれづれ」は「退屈」として定義
P268
確固とした正解が出る問題を考えることだけが、ほんとうに意味のあることなのか。正解の出ない問題に取り組むことは、ほんとうに意味のないことなのか。
確固とした正解が出ないからこそ、古典はずっと読み継がれてきた。簡単に正解が導き出されるものは、その時代には価値あるものとしてもてはやされているかもしれないが、何百年という時の審判に堪えることができない。
ほんとうの古典は、その時々に勝ちを見出される、いい意味での「ゆるさ」を備えている。ゆえに絶対的な正解はなく、相対的な正解しか出ない。しかし、たとえ相対的なものであれ、その正解を求める行為自体に、じつは大きな意味がある。人間や社会、生き方や美意識といった、すぐれて現代的な問題について内省するきっかけを、古典は与えてくれるからだ。
『徒然草』で言えば、恋愛、地位、名誉、孤独、虚偽、友人、親子、節義、臆病、慢心、飲酒、慳貪(けんどん)、豪胆…そいういったさまざまなテーマが思い浮かぶ、そして正解がないからこそ、それらの問いは永遠に続くのである。

