2020年5月31日日曜日

[積読立読斜読] 書き写し『徒然草』第二十五段 飛鳥川の淵瀬

書き写し『徒然草』。本日は第二十五段。

されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟おきてんこそ、はかなかるべけれ。

(自分の死後のことまで心配してもしかたない)。




徒然草 第二十五段

現代語訳
 気ままに流れる飛鳥川は、昨日まで深かった場所が、翌日には浅瀬になっている。人の生きる世界も永遠に今の状態で続くことはない。時は過ぎ、始まりは終わりになり、喜びや悲しみも過ぎ去る。繁華街も整地されて原野となり、古民家の住人も過去に住んだ人とは違う。昔から咲いているのは、桃やスモモの木だけだ。彼らはコミュニケーション能力を持たないから、昔日の繁栄を語り継ぐ術を持たない。だから、見たこともない太古の大遺跡は、あぶくと一緒だ。

 京極殿や法成寺の廃墟を見ると、施工主の願いが叶わず、都市計画の跡形さえないので、心に淋しい風を立てる。藤原道長がデベロッパーとなり、土地を転がし、複合施設を建設してピカピカに磨き上げた。当時は「自分の肉親だけが天皇を食い物にして、いつまでもこんな日が続きますように」と願っていただけに、どんな世界になろうとも、ここまでメチャクチャになるとは想像さえしなかっただろう。寺院の門や、本殿は最近まで残っていたが、花園天皇の時代に南の門が火災にあった。本殿も地震で倒壊し、復旧計画は無い。阿弥陀堂だけは現存しており、五メートル弱の仏像が九体並び「我関せず」と他人事のように安置されている。達筆な藤原行成が書いた額縁や、源兼行が書いた扉の文字が鮮やかに残っている光景は、異様なほど虚しい。仏道修行をする建物もまだ残っているが、そのうち燃えて無くなるだろう。このような伝説さえなく、建物の基礎だけある場所などは、知る人もなく、いかなる物か謎だけが残る。

 この例からも、自分の死後、見ることが不可能な世界のことを思って、何かを計画するのは、森羅万象、無駄であり意味がない。

原文

 飛鳥川あすかがはの淵瀬ふちせ、常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李たうりもの言はねば、誰たれとともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。

 京極殿きやうごくどの・法成寺ほふじやうじなど見るこそ、志留とどまり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿みだうどのの作り磨かせ給ひて、庄園しやうゑん多く寄せられ、我が御族おんぞうのみ、御門みかどの御後見おんうしろみ、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門だいもん、金堂こんだうなど近くまでありしかど、正和しやうわの比ころ、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院むりやうじゆゐんばかりぞ、その形とて残りたる。丈六ぢやうろくの仏九体、いと尊たふとくて並びおはします。行成かうぜいの大納言の額、兼行かねゆきが書ける扉とびら、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華ほつけだうなども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎いしづゑばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。

 されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟おきてんこそ、はかなかるべけれ。