2024年12月28日土曜日

[積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治三十五年 565—574

 

568 筒袖や秋の柩にしたがわず


569 手向くべき線香もなくて暮の秋


570 霧黄なる市に動くや影法師


571 きりぎりすの昔を忍び帰るべし


572 招かざる薄に帰り来る人ぞ


 



  [積読立読斜読] 『漱石俳句集』(坪内捻典編、岩波文庫)明治三十五年 565—574


565 山賊の顔のみ明かき榾火(ほたび)かな


566 花売に寒し真珠の耳飾


567 三階に独り寐に行く寒かな


568 筒袖や秋の柩にしたがわず


569 手向くべき線香もなくて暮の秋


570 霧黄なる市に動くや影法師


571 きりぎりすの昔を忍び帰るべし


572 招かざる薄に帰り来る人ぞ


565 一月一日の太良坊運座での作。

567 三階—ロンドンでの下宿先

568 572まで、「倫敦で子規の訃を聞きて」と前書。

12月1日付の虚子宛て手紙に記されたもの。子規の死は9月19日。筒袖—洋服。

正岡子規  1867‐1902(慶応3‐明治35)
まさおかしき 

明治の俳人,歌人,随筆家。本名常規(つねのり),幼名処之助(ところのすけ),升(のぼる)。別号獺祭書屋(だつさいしよおく)主人,竹の里人(さとびと)。松山市生れ。松山中学を経て東京の大学予備門に入学。予備門が校名を改称した一高を経て東大中退。1892年には日本新聞社に入社。社長の陸羯南(くがかつなん)とその交友関係から国粋発揮の思想的な影響を受けている。創作としては,少年期から漢詩を試み,のち和歌,俳句に手を染めた。小説にも関心をもち,大学在学中,夏目漱石との交流を通して新文学への理解を深めた。92年《月の都》を幸田露伴に見せ文壇への進出をはかったが,成功せず俳句に専心。明治初年から勢いを得てきた短詩否定の風潮の中で俳句の可能性を見きわめる決意を固め,新しい文学概念で俳諧を見直し発句を独立させて,一句の季節詩の俳句とした。日本の詩という自負をもち自然を対象として,洋画の〈写生〉を応用し,視覚によって現実の事物と密着する表現を定着させた。95年日清戦争を背景とした〈日本〉の自覚のたかまりの中で従軍,帰国の船上で喀血。病臥の生活を送り,《俳諧大要》を著すなど多くの革新事業を病床で推進した。97年から松山で創刊された《ホトトギス》を指導。98年には同誌を東京に移し,俳諧趣味を鼓吹する雑誌とした。また,98年からは短歌革新に着手,《歌よみに与ふる書》を《日本》に連載,《万葉集》の尊重を説き,実作では日常生活を写生した格調の高い作品を示した。別に,写生を文章にも応用して写生文を試み,《ホトトギス》誌上でも風物の写生的短文を募集した。写生文の中心は子規と高浜虚子で,子規の口述を虚子が筆記する中で精細な描写と洗練された口語文体が定着した。晩年には,写生の極致は〈自然〉にあるという幅広い考え方に移行したが,その手法を《墨汁一滴》(1901),《病牀六尺》(1902),《仰臥漫録》(1901‐02)など日録の随筆に生かし,病床の出来事を描写するほか,考証,評論などにも自在な筆運びを見せた。そこには病苦を裏面に押しやった平淡で奥行きの深い内容が見える。1902年肺結核で死去。彼の門下には,俳句では虚子,河東碧梧桐ら,短歌では伊藤左千夫,長塚節らが出て,その影響圏は非常に広い。〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉。                 松井 利彦

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