2024年12月22日日曜日

[その他] 12月22日(日曜日)墓参 高陽墓苑

 実母、配偶者、当方で墓参。

高陽墓苑。

当家の父親、母方の祖父母・叔父・従弟、叔母の嫁ぎ先、

三家の墓所が同じ墓苑にあるので一緒にお参りします。


叔母の嫁ぎ先は周防大島の名家の出で

命名の書は松岡洋祐だったという、真偽は不詳ながら。



写真はイメージです。






松岡洋右  1880‐1946(明治13‐昭和21)

まつおかようすけ 


外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。32年には上海事変処理のため外務大臣特使として上海に派遣された。また国際連盟総会には首席全権として出席し,33年2月連盟における満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の“英雄”として右翼などに歓迎された。35‐39年満鉄総裁。40年7月に近衛文麿内閣の外相となるや〈大東亜共栄圏〉の確立を主張して,日独伊三国同盟を締結し,さらにソ連を加えた四国同盟を構想した。41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。その後は結核のため療養生活を続け,戦後 A 級戦犯に指名されたが,46年6月に病死した。                     芳井 研一


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