写真は2014年10月4日朝日新聞記事より
10月4日の朝日新聞記事「耕論」は「揺らぐ国民国家」として作家の佐藤優さんと、東京経済大学准教授の早尾貴紀さんによる論評。昨今の大きくは国家を超えた紛争や独立運動、イスラム国、スコットランド独立選挙(否決されましたが)、イスラエルとガザ地区、ウクライナの内戦はすべて、「国民国家の制度疲労」という補助線を引くと理解しやすいということです。
国民国家とは、世界大百科事典からの抜粋ですが、下記の通りです。
■国民国家(抜粋)nation state
共通の社会・経済・政治生活を営み,共通の言語・文化・伝統をもつ,歴史的に形成された共同体を基礎として成立した国家を一般に指す。この意味で民族国家とほぼ同意に用いられる。また,多元的分裂状態を克服して成立した統一的な絶対主義国家を含めて国民国家という場合もあるが,絶対君主に集中されていた権力・主権を,市民革命によって奪取した結果形成された国家を指し,その意味で近代国家といわれる。したがって近代国家という観念は,ふつう封建国家や絶対主義国家などに対置して用いられる。しかし,市民革命を経ることなく,対外的危機を契機として,あるいは,ヨーロッパに形成された近代国家をモデルに,国民国家が形成される例も少なくない。日本などもこの例である。(田中 浩) (C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
ほとんどの国民が日本人であり、かつ市民革命を経ないで近代国家が形成されたせいで、多くの日本人は国民国家と言われてもピンとこないかも知れません。昨今の国際紛争があまり理解できない原因でしょう。
佐藤優さんの論評の要旨は、国富をないがしろにした資本主義(=資本家)が格差を拡大し、国民の造反を招いた。造反には2つの流れがある。1つが超国家主義ともいうべき「イスラム国」の運動。もお1つが国家分割主義ともいうべきス民族・言語単位の独立運動、スコットランドの独立や、ウクライナの問題がこれにあたります。国民を顧みない資本主義と結託した国家に疑問を感じた人々の運動とし、佐藤優さんは、国民国家というシステムの微調整で解決可能だと楽観的です。
早尾貴紀さんの論評は専門のイスラエルの問題。国民国家をあまりにも厳格に適用しようとすることが、イスラエルという国家の特殊性であり、「国民=ユダヤ人」と自己規定していることにあるとして、多民族を受け入れるというイスラエルの国民国家の再定義が必要だとしています。
敬愛する内田樹さんは、かなり前から国民国家の危機について警鐘を鳴らしておられました。主な論調は、グローバル資本主義と国民国家の理念は基本的に相いれないものである以上、国民国家政府はあまりグローバル資本主義に肩入れしては困るということです。自民党安倍政権によるアベノミクスは残念ながらグローバル資本主義原理主義に陥っています。一番の問題は安倍政権があまりにも無自覚であるということを再三に渡って論破されておりますが、内田樹さん自身は政権にまったく期待されてません。
以下、大変長くなりますが、朝日新聞記事と、内田樹さんの論評を引用させていただきます。
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(耕論)揺らぐ国民国家 佐藤優さん、早尾貴紀さん(2014年10月4日 朝日新聞記事)
国民を統合する国家の枠組みが揺れている。中東では民族や宗教の対立が消えず、過激派組織が建国を宣言した。欧州やロシア、そのはざまで民族を結ぶ動きが続く。なぜ国家という器は不安定になったのか。国民との関係はどうなるか。
■貪欲な資本主義へ抵抗の芽 佐藤優さん(作家)
共産主義に勝利して、資本主義と資本家はあまりにも貪欲(どんよく)になりすぎました。資本の増殖に血道をあげ、過剰で不公平な競争を押しつけて、人の気持ちを顧みなくなった。その結果が、格差を極端にまで広げたいまの世界です。
たとえば、あれだけ石油が出る中東で、なぜ大勢の人がいまだに貧困にあえいでいるのか。どう考えたって、国際石油資本とそれに連なる王族や独裁権力者に富が偏在しているからですよね。
こうした状況を打ち破ろうと、二つの流れが出てきた。一つが、国家や民族の枠を超えたグローバルなイスラム主義によって克服しようという動き。イラク北部からシリア東部を占拠している「イスラム国」の運動がそうです。
もう一つが、いまの国民よりもっと下位のネーション、つまりもっと小さな民族に主権を持たせることで危機を乗り越えようという動き。近代化以降、ときには複数の民族を一つの「国民」に統合してきた従来の国民国家を、さらに純化する動きともいえます。英国からの独立を問う住民投票があったスコットランドがそうです。
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<帰属意識に変化> この二つの流れが、従来の国民国家の土台を揺るがせ始めた。いずれも、人々の帰属意識に変化が生まれているのです。
イラクの場合は、スンニ派のアイデンティティーが変容した。フセイン政権時代には、独裁下とはいえイラク人という国民意識が一応ありました。スンニ派かシーア派かは、それほど大きな問題ではなかった。ところが新生イラクでは多数派のシーア派が権力を握り、スンニ派は新政権に自己同一化ができなかった。そこに民族や部族を超えた存在として「イスラム国」が登場したのです。
彼らの理屈では、イスラム革命が成功して預言者ムハンマドの後継者によるカリフ制が確立すれば、みんな平等で豊かになる。成功です。失敗しても、殉教者はあの世で幸せになれる。これも成功です。どっちに転んでも成功する教義を作り上げ、行動させて問題を解決しようとしている。この世界観に、イラク人という国民意識を持てなくなったスンニ派の人々がなびき始めた。民族か、部族か、宗教か。人々の帰属意識は時代と状況で変化するわけです。
オバマ米政権は「イスラム国」への空爆に踏み切りましたが、本当に倒すには幹部をピンポイントで除去するしかない。そこでイランとの協調関係が生まれる可能性があります。自分たちに同調しない人を皆殺しにする「イスラム国」は、シーア派のイランにとっても脅威なのですから。
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<世界各地に火種> スコットランドでは、民族的なアイデンティティーが強まったことで独立の機運が盛り上がりました。人々が恐れたのは、このまま人材も資源も流出し、ロンドンに吸い取られていく未来です。人口530万の自分たちで回していったほうが豊かになれる、という計算もあった。1707年に併合されるまでスコットランドは王国だった、という記憶は300年程度では消えないんですね。イングランドとの格差が広がり、独自の言語も廃れ、軍事負担も過剰だ。こんな問題提起が噴出し、民族意識に火がついた。
ウクライナでは、親米欧勢力が権力を握った瞬間に深刻な間違いを犯した。言語政策です。ウクライナ語のみを公用語にすると言った。すぐに撤回はしましたが。19世紀以降、ロシア語化が進んだ東部と南部の人々は衝撃を受け、混乱につながりました。
民族の根っこにあるのが言語です。世界には何千もある。しかし国の数は、国連加盟国で200ほど。つまり一つのナショナリズムが成功して国家が生まれる陰で、膨大な数の失敗がある。いつ、どこで発火するかわからない潜在的なナショナリズムの火種は世界各地にあるのです。
ただ、国民国家のシステムはそう簡単に崩れるとは思えません。いまのところ資本主義に代わる仕組みはなく、資本主義は国民国家と相性がいい。そもそも国民国家の成立が均質の労働力を生み、資本主義を育ててきた。いま世界で起きているのは、現行システムの微調整だと見るべきでしょう。
(聞き手・萩一晶)
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さとうまさる 60年生まれ。85年外務省入省。在ロシア大使館勤務の後、本省の主任分析官などを歴任。著書に「国家の罠(わな)」「テロリズムの罠」「読書の技法」など。
■主権と民族、切り離すべきだ 早尾貴紀さん(東京経済大学准教授)
イスラエルという国家の特殊性は、「国民=ユダヤ人」と自己規定していることにあります。
フランス革命以降、欧州では、共通の文化的アイデンティティーをもつ「国民」を基盤とする国民国家化が進みましたが、その過程でユダヤ教徒は排除された。各地に住むユダヤ教徒は「ユダヤ人」という単一の民族だとされていった。ユダヤ人は、ある意味で近代につくられたものなんです。
欧州のユダヤ教徒も、「ユダヤ人」というアイデンティティーを取り込み、「ユダヤ人は一つの民族であり、独立した国家を持つべきだ」とイスラエル建国運動に結びつけていった。アラブ世界にもユダヤ教徒はいましたが、「アラブ系ユダヤ教徒」ではなく「ユダヤ人」と上書きされてしまった。
どんな民族にも、程度の差こそあれつくられた部分があります。日本でも、明治政府の成立時に、戸籍というかたちで「日本人」の外枠がつくられた。外枠は日本が植民地を増やすことで拡大し、敗戦でまた縮小した。我々がいまイメージする「日本人」は、1945年にできたものといえます。
講義で「自分が日本人だと認識する理由は」と聞くと、「両親が日本人」という回答が多い。「なぜそんな質問をするんですか」という反応もある。8月に札幌市議が「アイヌ民族なんてもういない」とツイートして問題になりましたが、アイヌや沖縄の人が「日本人」に上書きされてしまっている。マイノリティーの存在が目に見えなくなっているんです。
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<残る排他的意識> ガザ地区の問題は、イスラエルが「ユダヤ人国家」という自己規定ゆえに複数民族国家になれないことと深く関係しています。イスラエルには、ヨルダン川西岸地区の水資源や農地を確保し、入植地を拡大する意図がある。ただ、そこに住むパレスチナ人ごとイスラエルに組み入れると、アラブ系国民が多くなりすぎて、ユダヤ人国家という国是が崩れてしまう。
西岸地区は欲しいけれど、パレスチナ人を国民にしたくない。そこで離れたガザ地区を利用している。ガザを「流刑地」として、不都合なパレスチナ人の居住権を剥奪(はくだつ)して西岸地区から追放したり、ガザ攻撃の陰で、西岸地区へのユダヤ人の入植活動や土地の没収を進めたりしているのです。
今回のガザ攻撃の理由も、ガザ地区のハマスと西岸地区のファタハが和解すると、イスラエルにとって極めて厄介だからです。あくまでハマスは敵として、たたかなくてはいけない。西岸の人々に対して、刃向かったらガザのようになるというメッセージにもなる。
民族と国民にどう折り合いを付けていくのか。イスラエルも、建前としては寛容と多様性を掲げてきました。でもそれは、ユダヤ人国家という根幹を揺るがさない限り、マイノリティーの存在を認めるという「マジョリティーの視点からの多文化主義」です。
日本でも1990年代から、南米などから日系人の定住者が増え、「多文化共生」が唱えられるようになりました。しかし日系人は、経済的に役に立ち、政治的に無力である限りにおいてしか存在を認められない。現実には排他的な意識が残ったままです。それが在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのようなかたちで噴出する。
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<歴史を踏まえよ> 必要なのは、歴史と現実を踏まえた多文化主義です。アラブ人とユダヤ人は、長い歴史のなかで多くのものを共有してきた。日本も、中国や朝鮮、ロシアなどとの交流を通じて文化的アイデンティティーをかたちづくってきた。それを認めなくてはいけない。
長期的には、国家主権と民族を切り離していくことが必要です。いまは、主権と民族のアイデンティティーは一致すべきだと見なされている。でも、国家主権がなければ、自分たちのアイデンティティーが守れないわけではない。
近代の国民国家はたかだか200年の歴史しかありません。その枠組みがほころびてきているのに、しがみつこうとすることが、いま暴力として噴出している。イスラエルはその典型です。多文化の包摂が不可避である以上、国民国家が変容していくことを受け入れ、順応していくことが必要なんです。
(聞き手・尾沢智史)
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はやおたかのり 73年生まれ。専門は社会思想史。著書に「ユダヤとイスラエルのあいだ」、編著に「ディアスポラから世界を読む」など。
■国民国家とグローバル資本主義について(内田樹の研究室)
ある通信社から、選挙結果について、新政権がどのような方向をとるかについてコメントを求められた。
それについてこんなことを書いた。
大づかみに言うと、いま日本を含めて地球上のすべての人々は「国民国家とグローバル資本主義の利益相反」という前代未聞の状況を前にしている。
国民国家というのは、別に太古から存在したものではない。1648年のウェストファリア条約で基礎づけられた近代の統治システムである。
常備軍と官僚制を備え、領域内の人々は「国籍」というものを持ち、その領域に排他的に帰属しているという意識を持つ(それ以前、例えばカール五世はネーデルランドで生まれて、スペイン王で、神聖ローマ皇帝で、パリに住んでいた)。
国民国家が標準的な政治単位になってそろそろ400年である。賞味期限が切れかけてきたらしく、20世紀末になって脱領域国家的なグローバル資本主義が登場してきた。
ボーダーレスに人・モノ・資本・情報が激しく行き交うさまを人々はうれしげに言祝いでいるが、忘れてはならないのは、カール五世の場合がそうだったように、それらの交易で得られた富はもう国民国家の「国富」ではないということである
グローバル企業は単一の国籍を持っていないし、経営者や株主たちも特定の国家への帰属意識を持っていない。だから企業の収益は原理的には「私物」である。
グローバル企業は特定の国の国民経済の健全な維持や、領域内での雇用の創出や、国庫への法人税の納税を「自分の義務だ」と考えない。そんなことに無駄な金を使っていては国際競争に勝ち残ることができないからだ。
これからのち、政府は人件費を切り下げ、巨額の公共事業を起こしてインフラを整備し、原発を稼働して安価な電力を提供し、法人税率を引き下げ、公害規制を緩和し、障壁を撤廃して市場開放することをグローバル企業から求められることになるだろう。そして、私たちの国の政府はそのすべての要求を呑むはずである。
むろん、そのせいで雇用は失われ、地域経済は崩壊し、歳入は減り、国民国家の解体は加速することになる。
対策としては、ベタなやり方だが、愛国主義教育や隣国との軍事的緊張関係を政府が意図的に仕掛けるくらいしか手がない。気の滅入る見通しだが、たぶんこの通りになるはずである。(ここまで)
実際にはこんな過激なことは紙面に掲載できないとデスクが判断して、穏当な表現に書き替えられ、字数も減らされたものが掲載されるはずである。
以下、コメントについての解説。
政治史的文脈で言うと、「国民国家の頽勢期」に私たちは投じられており、その中で政治指導者たちは「グローバル資本主義」に軸足を置くか、「国民国家」に軸足を置くかで、ふらふらしている。
それは世界中どの国の政治指導者も同じである。
経済のグローバル化はある種の自然過程であり、これに適応しなければ、領域国家は「食い物」にされるだけである。
けれども、グローバル資本主義に加担すれば、遠からず国民国家そのものが瓦解する。グローバル資本主義には「国民経済」という概念がないからである。ある領域内部にすむ住民の福利を他のことよりも優先的に配慮するというのは国民国家にとっては「常識」だが、グローバル資本主義にとっては「たわごと」である。
さすがに国民国家が現実に政治装置として存在する以上、「国民のことなんか知るかよ」とは言い切れないので、弥縫策として「トリクルダウン」理論というものが動員された。
グローバル企業が収益を上げれば、その「余沢」が国民国家の貧乏人たちのところにも及ぶであろうというものである。
それを口実にして、「とりあえず国際競争力のある企業に国民国家の資源を集中させるために、国民は増税負担を受け容れ、賃下げを受け容れ、社会福祉や医療の切り下げを受け容れなければならないが、我慢してもらえば、いずれ『おこぼれ』が回ってくるだろう」という話で、ことが進んでいる。
「トリクルダウン」はグローバル資本主義と国民国家のあいだの本質的な矛盾を糊塗するための「詐欺的理論」であるが、現在のわが国の政治家は全員がこれを信じているふりをしている。
ほかに経済システムと政治単位の本質的な両立不能性を「ごまかす」手立てがないからである。
本気で「トリクルダウン」を信じている人たちは愚鈍である。
ほんとうは信じてないが、そういって国民をごまかして時間稼ぎをしている人たちは知的に不誠実である。
私たちが今なすべきなのは、「国民国家は賞味期限が切れかけているが、他に何か生き延びる知恵はないのか」ということをまじめに考えることなのだが、それだけは誰もしようとしない。
2012年12月19日 11:26 に投稿されたエントリーのページです。
■朝日新聞の「オピニオン」欄に寄稿(内田樹の研究室)
朝日新聞の「オピニオン」の5月8日紙面に長いものを寄稿した。
「日本の現在地」というお題だったので、次のようなものを書いた。
朝日新聞を取っていない人のためにブログに転載する。
日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。
「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。
それは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。
ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。
起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。
トヨタ自動車は先般国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないというコメントを出した。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからである。
外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国の)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。
原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
この「恫喝」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮して欲すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか?自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか?雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか?絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。
ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。
汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。
要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのは止めて欲しいと思う。
だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。
そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小化される。
ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。
日本のメディアがこの詭弁を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕する。
もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。
グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。
そのために国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民に飲み込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。
私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメリカの超富裕層からこれからもつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。
よいニュースを伝えるのを忘れていた。
この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。
2013年05月08日 12:30 に投稿されたエントリーのページです。
