2023年4月9日日曜日

[積読立読斜読]『茶の本』(岡倉天心、夏川賀央訳、致知出版、2014年)

 [積読立読斜読]『茶の本』(岡倉天心、夏川賀央訳、致知出版、2014年)



縁あって参加している読書会(カフェダスティ―アーツ読書会)の4月の課題本。岡倉天心の『茶の本』。オリジナルは英語。


当方は再読。高校の確か倫理社会の夏休みの課題でした。高校生に『茶の本』を読ませたところで理解不能。


数年かかってもよいから、オリジナルの英文で読み、最低でも茶会に参加して、おそらく近い将来になくなるであろう「日本人のふるさと」を理解するように努めるべきでしょうか?

「ファスト教養」であってはいけないと自戒しています。


p59

翻訳というのは、つねに一つの裏切り行為です。


誰にでも簡単に説明できるようなものが、偉大な教義となりえるでしょうか?



室生犀星「小景異情」

小景異情―その二


ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの


裏千家の前家元、千玄室さんによる推薦文「日本人の心のふるさとを知るための書。推薦します。」


帯の文「全文をとことん読みやすくしました!101分で読めます。」


「いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ⑦」



<内容紹介>出版のサイトより

日本人の美徳を思い出させてくれる一冊


内容紹介

単なる茶道の本だと思って遠ざけている人も多いかもしれない。原題は「The Book Of Tea」、1906(明治9)年に、岡倉天心が外国人に向けて日本文化を紹介するために英語で書いたものだったが、ニューヨークで出版されるや、世界的なベストセラーにもなった。


岡倉天心は幕末に福井の武士として横浜に生まれ、維新後は西洋文化を吸収しながら美術の専門家として名乗りを上げていく。しかし、西洋を深く知るほどにそれと対極にある東洋、そして日本の素晴らしさに気づいていく。その象徴として見たのが茶の世界だった。


本書は同じ「いつか読みたかった日本の名著」シリーズの『武士道』でも分かりやすい翻訳で好評だった夏川氏が訳を手がけているが、原文の格調高さを損なうことなく、中高生にも理解できる日本語に置き換えている。ともすれば、いま日本人が忘れがちな日本人の美徳を思い出させてくれる、必読の一冊。



目次


第1章 茶碗に込めた人間力

第2章 茶の流派

第3章 道教と禅

第4章 茶室

第5章 芸術の鑑賞

第6章 花

第7章 茶人たち



<著者プロフィール>

夏川賀央(なつかわ・がお)氏プロフィール

1968年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。 大手出版社など数社を経て独立。会社経営のかたわら、作家として活躍中。人材プロデューサーとして各分野の異才たちを発掘し、ネットワークを通じた“非組織プロジェクト”で多くのビジネスをしかけ、成功させている。舞台裏での活躍が主だが、プロデュース、ペンネームなどでビジネス、自己啓発に多数の著書を送り込んでいる。 著書に『すごい会社のすごい考え方』(講談社)、『なぜ、仕事ができる人は残業をしないのか?』(SBクリエイティブ)、訳書に『武士道』(致知出版社)などがある。


https://xpress.jp/xpeople/interview_hontonostory/interview_natsukawagao



茶の本  

ちゃのほん The Book of Tea


岡倉天心の英文著作。1906年ニューヨークのフォックス・ダフィールド社刊。天心が生前に公刊した3冊の英文著作のうちの最後のもので,茶道の歴史,茶室,茶の湯に結びついた芸術鑑賞や花,茶の宗匠などについて述べ,その根本にあるとする東洋の美と調和の精神を説く。欧米人に対して,日本文化を紹介する案内書的性格をもっている。他の2著にくらべると沈静した叙述で貫かれ,ゆとりと同時に一種の諦念が感知され,晩年の天心の内面を反映している。刊行以来各国で翻訳されて読まれ,邦訳も多い。            原田 実


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岡倉天心  1862‐1913(文久2‐大正2)

おかくらてんしん 


明治期の美術指導者。越前福井藩を背景に横浜で貿易を営む石川屋勘右衛門の次男に生まれた。幼名角蔵のち覚三。幼時から英語を学び,漢籍にも親しんだ。東京外国語学校,東京開成学校をへて1877年東京大学文学部に入学,政治学,理財学などを学ぶが,そこでアメリカ人教師フェノロサに接し,その日本美術研究を手伝ったことが生涯を方向づけた。80年に文部省に出仕して音楽取調掛を命じられたが,まもなく図画教育調査会委員に挙げられ,古社寺宝物調査にもたずさわって,美術行政面に頭角をあらわしはじめた。またフェノロサが主宰する鑑画会に加わって新しい日本絵画の創造を唱導し,美術運動の指導者としての地歩も築いた。86年,東京美術学校設立を準備する図画取調掛の主幹を命じられ,フェノロサらと欧米を視察した。翌年帰国して東京美術学校幹事に就任。同校は89年,上野に開校し,天心は翌年校長になった。横山大観,下村観山,菱田春草,木村武山らが膝下で育っている。そのほか88年に臨時全国宝物取調局委員,89年には帝国博物館理事兼美術部長,そして高橋健三と諮って雑誌《国華》を創刊するなど,華々しい前半生の活動期を迎えた。新しい日本画の創造にあたって,極端な保守主義や欧化主義を排し,東洋の伝統をふまえて進取発展する道をとるというのが,天心の立場であった。こうしてその運動は順調に展開するかにみえたが,98年にいたって美術学校に校長天心を排斥する騒動が起こり,頓挫をきたすことになった。天才的で豪傑肌の天心の独断専行が一部の者の反感を買ったのである。職を退いた天心はその年秋,橋本雅邦をはじめ自分に従って学校を辞した教員らと谷中に日本美術院を創設,従来の運動をさらに活発に進めることにした。実際,開院と時を同じくし,日本絵画協会と連合で開いた共進会はすこぶる盛況であった。しかし好調は続かず,1901年ころには沈滞に陥り,天心も熱意を失った。以後の彼は美術運動の指導者というよりは思索の人と呼ぶのがふさわしく,また国外に出ることが多くなる。すでに1893年に中国に出張しているが,1901年暮にインドに渡り翌年秋まで滞在した。この間にビベーカーナンダと親交を結び,英文で《東洋の目覚め》を執筆した。これは生前出版されずに終わったが,《東洋の理想》が03年ロンドンで刊行されている。04年,大観,春草,六角紫水を伴って渡米,ボストン美術館東洋部の顧問になった。この年ニューヨークで出版した《日本の目覚め》は好評を博し,05年3月に帰国した。同年10月再び渡米,ボストン美術館東洋部長として毎年半年を同館で執務する契約を結び,以後ボストンと履城県五浦(いづら)の別邸とを行き来することになった。なお06年には衰微していた日本美術院を五浦に移している。五浦の天心は読書と釣りに日を送ることが多かった。活動舞台こそ海外にひろがったが,彼はむしろ失意の人であった。06年に出版された《茶の本》に,そうした内面を読むことができる。12年ヨーロッパ経由で渡米したが健康がすぐれず翌年4月に帰国。同年9月2日,赤倉の別邸で没した。天心の活動は多方面にわたり,しかも言動に矛盾が多いため,その全体像をとらえるのは容易でない。天心の全体像の解明は美術の面のみでなく,近代精神史・思想史にとっても依然課題であるといえる。《岡倉天心全集》全9巻がある。           原田 実


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