いつもながら美しい夜景
本日は女性が多く参加され10名の大所帯でした。
今月の課題書は岡倉天心の『茶の本』。この読書会では過去に『武士道』『代表的日本人』が取り上げられており、明治期に英文で書かれた日本の紹介本が揃ったことになります。
著者はほぼ同じ年齢で、いずれも薩長閥ではなく、佐幕藩の出身で、明治維新で強烈なアイデンティティ・クライシスに陥ったことが著作の動機というのが当方の見立てです。
特に岡倉天心が才が勝過ぎ日本に居場所がなくアメリカで出版でした。
「日本人論」は国民国家としての「日本」が揺らいでいる現代にこそ必要な領域なのですが、この3人のような剛腕な書き手が不足しています。
新渡戸稲造 盛岡(南部)藩(佐幕)
内村鑑三 高崎藩(佐幕)
岡倉天心 福井藩(佐幕)
内村鑑三 1861‐1930(文久1‐昭和5)
うちむらかんぞう
日本のキリスト教界を代表する一人。無教会主義の創始者。高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれ,有馬英学校その他に学んだのち札幌農学校(現,北海道大学)2期生となる(1877)。ここで W. S. クラークの感化を受けてキリスト教に入信した。卒業後は水産研究に従事したが,結婚に破れて渡米し,アマースト大学に学んだ。その学業は今日の一般教養程度のものであったが,総長のシーリー J. H. Seeley の感化の下に回心を体験したこと(1886)は以後の活動を決定した。自伝《余は如何(いか)にして基督信徒となりし乎(か) How I Became A Christian》(1895)は誕生から回心までの記録である。帰国後第一高等中学校(旧制一高)嘱託教員のとき,教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件として騒がれ,内村は世に住む所なきの苦しみを味わった(1891,内村鑑三不敬事件)。しかしその間に《基督信徒の慰め》《求安録》《代表的日本人》という名著が生まれた。さらに《万朝報》《東京独立雑誌》によって社会評論に健筆をふるい,足尾銅山鉱毒事件にかかわり,あるいは日露開戦に際しては非戦論を貫くなど,目ざましく活躍した。黒岩涙香,堺利彦,幸徳秋水らと理想団を結成して社会改良を志したこともある。1900年創刊の《聖書之研究》は伝道を著しく前進させた。第1次大戦終結前に始めた再臨運動は1年半で幕を閉じたが,これは内村の信仰を決めただけでなく,弁証法神学の台頭とならんで20世紀キリスト教のあり方を表したものといってよい。晩年の内村は聖書講義に集中して《羅馬(ロマ)書の研究》のような神学的傑作を生み,また塚本虎二,黒崎幸吉,藤井武,矢内原忠雄,三谷隆正,前田多門,南原繁ら多数の人物を育てた。
内村の波瀾に富む生涯とカーライルを好む強い個性とは,同時代の文学者,小山内薫,有島武郎,正宗白鳥らを引きつけ,かつ反発させたほどであった。しかし思想は個性につきるのではない。彼の思想の根底には世界史への関心があり,これと聖書理解とがいっしょになって,幅と厚みのある思想が形成された。初期の《地理学考》(のちに《地人論》と改題)や《デンマルク国の話》《興国史談》は,世界史的観点に立って文明の興亡を見,歴史的環境と地理的環境とを重ね合わせ,究極的には歴史をつくり,歴史によってつくられる人間そのものに関心をおくという魅力に富む方法をもっている。民族と民衆への同情と関心がこの歴史観の根本をなす。今一つの関心は進化論にあって,ここからして進化と飛躍を含む宇宙史が構想された。そしてこの宇宙史が人類史と重なり,かつ人間がキリストの十字架・贖罪から見られるとき,歴史は宇宙史と共に救済史として理解される。キリスト再臨を歴史におけるリアルなできごととして告げ,非戦論を終末的平和に結びつけ,また終末的教会としての無教会を唱えたことは,この歴史理解を離れてはない。内村の聖書理解は旧約・新約全部にまたがり,それを有機的全体とみなしたもので,キリスト教神学にいう創造と救済や律法と福音の両極的・動的統一をよくつかんでいる。彼はこれを〈真理は楕円形のごときものである〉という言葉で表し,歴史の預言的解釈をもちつづけた。晩年には無教会主義にもとづいて〈宗教改革しなおしの必要〉を唱えた。 泉 治典
上述の歴史観に加えて内村はまた地理学にも造詣が深く,札幌農学校へも地理学者になることを夢みて入校し,アマースト大学でも日本人留学生としては最初と思われる本格的な地学知識を身につけ,帰国後,旧制一高はじめ諸学校で地理,歴史を教えた。1894年 K. リッターはじめ多数の外国文献を用いて前述の《地理学考》を著し,〈地理学は一種の愛歌,哲学,預言書なり〉という前代未聞の概念規定で筆を起こし,西洋と東洋との仲介者,東西両文明を吸収融合することが,地理上より見た日本の使命であると結んだ。これ以外,明瞭な形での地理書の著述はないが,その門下に〈世界大〉〈世界の市民〉など雄大な思想を植えつけ,小国や未開地域への開眼を呼びかけた。 嶋田 右左男
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新渡戸稲造 1862‐1933(文久2‐昭和8)
にとべいなぞう
農業経済学者,教育家。南部藩出身で,札幌農学校に学び,札幌バンドの一人となる。1884年東大を中退し,アメリカ,ドイツの諸大学で特に農業経済学,統計学を学び,その間札幌農学校助教授になる。1901年台湾総督府に招かれ,糖業により統治の経済的基礎を確立。03年京都帝大教授,06年一高校長を経て,東京帝大教授となり植民政策講座を担当した。18年には初代の東京女子大学学長に迎えられた。また国際連盟事務局次長(1920‐26),ついで帝国学士院会員,貴族院議員となり,太平洋問題調査会の理事長として〈太平洋の橋〉になろうとした。彼は札幌時代における信仰上の懐疑と母の死の悲しみを,カーライルの《衣装哲学》のいう〈悲哀の中の慰め〉によって解決の方向を見いだし,クエーカーの神秘主義や人道主義で魂の安住を得た。そしてこの万人に内在する光への黙想の立場が宇宙の生命との一体を説く東洋思想に通じると考え,武士道を日本のよき精神的伝統とし,それを育成するものとしてキリスト教をとらえ,そこに東西文明の交流の方法を考えた。また,個性のある豊かな教養と確かな見識をもつ人間教育の重要性を唱え,大学では人間として苦しみ,そこで得た人間観,価値観を語り,一高では野心に満ちた学生,煩悶する学生に高遠な理想と自己反省を教え,一般社会では人間らしい世渡りの道と修養のたいせつさを通俗的に説いた。同時に地方の夜間学校教育,女子教育に深い関係を持ち続けた。《農業本論》(1898),《武士道――日本の魂》(英文,1899),《修養》(1911)などの著書がある。 土肥 昭夫
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岡倉天心 1862‐1913(文久2‐大正2)
おかくらてんしん
明治期の美術指導者。越前福井藩を背景に横浜で貿易を営む石川屋勘右衛門の次男に生まれた。幼名角蔵のち覚三。幼時から英語を学び,漢籍にも親しんだ。東京外国語学校,東京開成学校をへて1877年東京大学文学部に入学,政治学,理財学などを学ぶが,そこでアメリカ人教師フェノロサに接し,その日本美術研究を手伝ったことが生涯を方向づけた。80年に文部省に出仕して音楽取調掛を命じられたが,まもなく図画教育調査会委員に挙げられ,古社寺宝物調査にもたずさわって,美術行政面に頭角をあらわしはじめた。またフェノロサが主宰する鑑画会に加わって新しい日本絵画の創造を唱導し,美術運動の指導者としての地歩も築いた。86年,東京美術学校設立を準備する図画取調掛の主幹を命じられ,フェノロサらと欧米を視察した。翌年帰国して東京美術学校幹事に就任。同校は89年,上野に開校し,天心は翌年校長になった。横山大観,下村観山,菱田春草,木村武山らが膝下で育っている。そのほか88年に臨時全国宝物取調局委員,89年には帝国博物館理事兼美術部長,そして高橋健三と諮って雑誌《国華》を創刊するなど,華々しい前半生の活動期を迎えた。新しい日本画の創造にあたって,極端な保守主義や欧化主義を排し,東洋の伝統をふまえて進取発展する道をとるというのが,天心の立場であった。こうしてその運動は順調に展開するかにみえたが,98年にいたって美術学校に校長天心を排斥する騒動が起こり,頓挫をきたすことになった。天才的で豪傑肌の天心の独断専行が一部の者の反感を買ったのである。職を退いた天心はその年秋,橋本雅邦をはじめ自分に従って学校を辞した教員らと谷中に日本美術院を創設,従来の運動をさらに活発に進めることにした。実際,開院と時を同じくし,日本絵画協会と連合で開いた共進会はすこぶる盛況であった。しかし好調は続かず,1901年ころには沈滞に陥り,天心も熱意を失った。以後の彼は美術運動の指導者というよりは思索の人と呼ぶのがふさわしく,また国外に出ることが多くなる。すでに1893年に中国に出張しているが,1901年暮にインドに渡り翌年秋まで滞在した。この間にビベーカーナンダと親交を結び,英文で《東洋の目覚め》を執筆した。これは生前出版されずに終わったが,《東洋の理想》が03年ロンドンで刊行されている。04年,大観,春草,六角紫水を伴って渡米,ボストン美術館東洋部の顧問になった。この年ニューヨークで出版した《日本の目覚め》は好評を博し,05年3月に帰国した。同年10月再び渡米,ボストン美術館東洋部長として毎年半年を同館で執務する契約を結び,以後ボストンと履城県五浦(いづら)の別邸とを行き来することになった。なお06年には衰微していた日本美術院を五浦に移している。五浦の天心は読書と釣りに日を送ることが多かった。活動舞台こそ海外にひろがったが,彼はむしろ失意の人であった。06年に出版された《茶の本》に,そうした内面を読むことができる。12年ヨーロッパ経由で渡米したが健康がすぐれず翌年4月に帰国。同年9月2日,赤倉の別邸で没した。天心の活動は多方面にわたり,しかも言動に矛盾が多いため,その全体像をとらえるのは容易でない。天心の全体像の解明は美術の面のみでなく,近代精神史・思想史にとっても依然課題であるといえる。《岡倉天心全集》全9巻がある。 原田 実
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