2025年12月10日水曜日

[俳風ジャスロタル] 12月9日(火曜日)源太郎 銀杏桜に 身を隠し


源太郎 銀杏桜に 身を隠し




仕事で周南市へ。物件名は「フローレンス毛利町桜通り」で桜の並木が見事です。

銀杏並木も有名です。時節柄、台湾からの「台湾五葉松」は触れられず。


2025年11月24日月曜日

[新聞記事] 11月24日(月曜日)朝日新聞・座標軸 外交の大局観欠いた首相発言(論説主幹・佐藤武嗣)


明治期の軍人、児玉源太郎ゆかりの地で「児玉神社」があります。

桂太郎、小村寿太郎と並んで「明治の三太郎」だそうです。

 



http://chiekostyle.seesaa.net/article/266233963.html

「千葉千枝子 旅のエクセレンス」より


児玉源太郎  1852‐1906(嘉永5‐明治39)

こだまげんたろう 


明治期の陸軍軍人。日露戦争時の満州軍総参謀長として陸軍作戦指導の中心人物。徳山藩士児玉半九郎の子で戊辰戦争参加後,兵学寮をへて将校となり,西南戦争では熊本鎮台参謀として谷干城を助けて熊本城に籠城。軍制改革では陸軍大学校創設運営の中心となってメッケルの戦術を導入し,参謀養成教育を確立する。日清戦争では陸軍次官兼軍務局長として大山巌陸軍大臣が軍司令官として出征中の軍政の責任者であった。第4代台湾総督として台湾の反乱鎮圧に成功,陸軍大臣,内務大臣,文部大臣を兼任後,対ロシア戦争に備えて参謀次長に就任。朝野ともに〈児玉の要〉という語が通用するに至った。1904年大将,06年参謀総長就任後病没。伯爵。視野の広い戦略家であった。             大江 志乃夫


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桂太郎  1847‐1913(弘化4‐大正2)

かつらたろう 


明治時代の軍人,政治家。長州藩士族の出身。早くより洋式銃陣を学び,戊辰戦争では長州藩第4大隊2番隊司令として奥羽を転戦。維新後大阪兵学寮に学んだが中退して1870年(明治3)ドイツに留学,一時帰国し陸軍大尉として明治政府に出仕,75年ドイツ公使館付武官として再びドイツに赴きドイツ軍政を調査・研究する。78年帰国,山県有朋陸軍縁に参謀本部独立を建言。参謀本部が設置されると管西局長となり,プロイセン軍制を範として軍制改革を推進した。91年第3師団長となり,日清戦争に出陣,軍功により子爵を授けられる。日清戦後,台湾総督,東京防御総督を経て,98年第3次伊藤博文内閣に陸相として入閣。そのあと第1次大隈重信,第2次山県,第4次伊藤の各内閣に留任した。この間,政党内閣の大隈内閣にたいしては閣僚として内部からの瓦解をはかり,また1900年の義和団事件では中国出兵を積極的にすすめ,列強の仲間入りを果たした。これらの活動を通じて桂は単なる軍人から長州閥の嫡子としての政治家に成長した。01年5月第4次伊藤内閣総辞職のあと後継首班におされ,山県系官僚を網羅して内閣を組織した。政綱に日英同盟締結の方針をかかげ,02年1月これを実現し,内閣の威信を高めた。その後日露関係の切迫するなかで,03年6月対露方針を決定,内閣を改造して開戦外交を展開,04年2月の日露開戦後は戦争遂行に全力を傾けた。戦争末期には政友会領袖の原敬と3度会談し,戦後には政友会総裁西園寺公望に政権を譲ることを条件に政府への協力をとりつけた。しかし日露講和条約に対する不満は日比谷焼打事件から全国的な非講和運動に発展し,その衝撃もあって05年12月には総辞職し,西園寺を後継首班に推薦した。以後いわゆる〈桂園時代〉と呼ばれる一時期が現出した。07年には日露戦争の功により侯爵となり,翌年には西園寺内閣のあとをうけて第2次桂内閣を組織し,対外的には10年に韓国を併合,その功により公爵に陞爵(しようしやく),対内的には社会主義・無政府主義者を徹底的に弾圧し,大逆事件では幸徳秋水ら12名を死刑に処した。11年首相を辞任し元勲優遇の詔勅をうけ元老となった。12年政党結成の構想をもって欧米視察に出発したがモスクワで明治天皇重病の報に接し急ぎ帰国。天皇の死後内大臣兼侍従長として宮中に入った。しかし同年12月二個師団増設問題で第2次西園寺内閣が倒れると,宮中を出て3度内閣を組織した。この行動は非立憲的であるとして護憲運動が全国に広がった。苦境に立った桂は政友会をきりくずし立憲同志会の組織を公表したが,結局13年2月民衆運動の革命化をおそれ総辞職した。その後政党組織化に力を尽くしたが,病をえて同年10月没した。政治家としての桂は,人心収攬にたけ,いわゆる〈ニコポン主義〉によって政敵を懐柔し,妥協によって難局をきりぬけたが,同時に長州藩閥を背景とする力の政治家でもあった。            由井 正臣


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小村寿太郎  1855‐1911(安政2‐明治44)

こむらじゅたろう 


明治期の外交官。宮崎の生れ。大学南校をへて第1回文部省留学生としてアメリカ留学。大審院判事をへて1884年外務省に転じたが,杉浦重剛ら国権論者とともに大隈重信外相の条約改正交渉に反対した。翻訳局長から臨時代理公使として清国に勤務し,日清開戦の方向に動いた。三国干渉後は弁理公使として朝鮮に勤務,閔妃(びんひ)殺害事件の善後策にあたり,96年5月日露で朝鮮内政を共同監督する小村=ウェーバー協定を成立させた。外務次官,駐米・駐露公使を歴任ののち駐清公使となり,義和団事件収拾の国際会議には日本全権となった。1901年第1次桂太郎内閣の外相に就任し日英同盟を締結,伊藤博文らの満韓交換論を押しきって対露開戦外交をすすめた。05年ポーツマス会議にはみずから全権として講和を成立させたが,講和条件を不満とする国民の非難を浴びた。帰国後は東清鉄道の日米共同経営案に反対して仮契約を解消させる一方,北京に出張して清国に遼東租借地,東清鉄道守備権などの権益を承認させて日本の南満州進出の足場をきずいた。08年第2次桂内閣の外相に就任,日露協約,韓国併合をすすめ11年には関税権の完全回復を内容とする条約改正に成功した。小村外交は大陸への膨張政策により特色づけられていた。

                        藤村 道生


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