2024年5月4日(土曜日)~5月5日(日曜日)珍しく旅行。
高知に出かけました。板垣退助生誕の地の商店街で。
あまり詩的でない碑。坂本龍馬に比べて人気がないようです。
死生亦大矣
板垣の座右の銘「死生亦大矣(ししょうまただい(かな/なり))」は、『荘子』に引用されている孔子の言葉、「仲尼曰、死生亦大矣、而不得与之変。雖天地藿墜亦特不与之遺」よりとられたもの。生か死かは大きな問題かも知れないが、天地がひっくり返るようなことがあっても微動だにしない心のこと。
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一般社団法人・板垣退助先生顕彰会のHPより
板垣退助 1837‐1919(天保8‐大正8)
いたがきたいすけ
幕末・明治期の政治家。土佐藩出身。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。
維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民斤議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動展開の契機をつくった。4月帰郷して立志社を結成。75年大阪会議の結果一時参議に復帰したが,ほどなく辞職。78年9月立志社が中心となって愛国社を再興し,国会の開設を求める自由民権運動を推進した。81年10月自由党の結成にあたって総理に推され,翌年4月遊説途中の岐阜で刺客に襲われ負傷。このとき叫んだという〈板垣死すとも自由は死せず〉のエピソードは,彼の経歴中最も輝かしい時期の象徴である。
11月一部党員の反対をおしきってヨーロッパ諸国を外遊した。その経費は自由民権運動の弱体化をねらう政府筋から出されたといわれる。翌83年6月帰国するや自由党の解党を提起。党員の反対によって一時保留したが,党財政の窮乏化と下部党員の急進化がすすみ,84年10月党幹部は解党を決定。87年再三辞退したが認められず伯爵となる。90年立憲自由党に参加し,翌年一時離党したが復党して,党名を自由党と改称した際,総理となった。
95年自由党は第2次伊藤博文内閣と提携し,翌年同内閣の内務大臣にむかえられた。98年6月自由・進歩両党の合同により憲政党が結成され,同党を基礎として第1次大隈重信内閣が成立すると,これに内務大臣として入閣した(隈板内閣)。しかし,党内対立のため内閣はわずか4ヵ月で総辞職。
1900年憲政党の解党,立憲政友会の結成を契機として政界を引退し,以後社会事業にとり組んだ。輝かしい前半生に比べて寂しい晩年であった。
彼の監修による《自由党史》(1910)は貴重な史料の引用とともに明治前半期の政治史を論評したすぐれた史論として評価されている。⇒自由民権 大日方 純夫
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