2020年7月12日日曜日

[通読立読斜読] 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(坂井豊貴著、岩波新書、2015年)


旧刊で著者の坂井豊貴さんも存じあげてませんでした。

著書を読む契機は、朝日新聞の書評欄で坂井さんが勝間和代さんの「勝間式超ロジカ料理」を取り上げていたからです。(2020年04月25日付朝日新聞)。全国紙の書評欄に料理の実用書を取り上げるフットワークの軽さに敬服しました。

ご専門は経済学の「社会的選択理論」という難しそうな学問。本書は一般読者向けに「多数決」という意思決定の一方法を例にとり「社会的選択理論」の入門書のような体裁となっています。

例によって1章ずつスローリーディングで紹介。


<坂井豊貴プロフィール>
坂井豊貴 (さかい とよたか)
慶應義塾大学経済学部教授
1975年、広島県生まれ。アメリカのロチェスター大学Ph.D.(経済学)。市場や投票の制度設計で多くの国際業績をあげる。2014年に38歳で現職、15年に義塾賞。ベストセラー『多数決を疑う』(15年、岩波新書)は16年新書大賞4位。このほか、『マーケットデザイン』(13年、ちくま新書)、『マーケットデザイン入門』(10年、ミネルヴァ書房)など著書多数。

https://imidas.jp/author_data/g650


■はじめに
決定とは選択肢を最後の一つまで絞り込み、他の可能性をすべて捨てることだ

自由の特徴とは、拘束するものとされる者の一致にほかならない

自分のことは自分で決められる期待は、希望の発露の一種

「自分」でなく「自分たち」に適用したとき、それは民主制(デモクラシー)を求める思考の基盤となる

民主的でない投票(独裁者への対立候補が抑圧される・対立候補の支持者は投票できない等)はあるが、投票のない民主制はない

多数決を自明視する固定観念が悪い

人々は自由や人権や平等などの近代的諸価値を発明

本書の目的(テーマ)
投票の一形態である多数決の精査とその代替案を探索すること

「自分たちのことは自分たちで決める」(=民主制)のプロジェクトは今も進行中
約250年前に開始した主要人物、ジャン=ジャック・ルソーによる投票をめぐる議論を並走させ、物事を考える参照点として適宜用いる
理由①:社会的選択理論の萌芽にルソーが深く関係しており、学問的な相性が良い
理由②:投票について包括的な考察を行っている

いまだにルソーの議論は古びていないばかりか、近代的諸価値がときに羽毛のように軽く扱われ、また価値の過度な相対化がそれに拍車をかける今日において、新鮮でさえある。

私たちは依然として、ポスト近代を語れるほどの近代には達していないのだ。

<資料編>
多数決
たすうけつ

合議体,より広く集団ないし多数人の集合における意思形成の方法として多数決がとられるとき,超越的な権威が存在せず,それぞれの主張が価値的に対等であるということを原理上前提としている。その際,多数決に先行する討論によって,さまざまの主張が互いに説得し説得される過程を経たうえで多数意思が形成されることによって,より正しい解決に接近できるはずだという期待が維持されているところでは多数決は円滑に機能する。そのためには,互いに説得し説得される可能性,すなわち,考え方の互換性が存在していなければならない。今日の統治機構のなかでの多数決の機能をみると,裁判過程における陪審の評決のように,事実の認定をめぐって,陪審員たちのあいだには,たとえ困難ではあっても互いに説得し説得される可能性が残されている場合もある(アメリカ映画《十二人の怒れる男》は,1対11だった判断の分布が,その1人の説得の努力によって12対0に逆転していく過程を描いている)。しかし,多数決の最も主要な舞台というべき議会の活動についてみるならば,かつてのように,〈財産と教養〉を基礎として基本的に同質の土俵に立ったうえで議員自身の意見をたたかわせる討論の場は消滅している。

 1880年代のイギリス議会で,アイルランド問題が紛糾するなかで討論終結制が採用された(採決)が,議会での討論に対する信頼の崩壊がより全機構的にあらわれてきたのは,両大戦間期,とりわけドイツにおいてであった。そこでは,社会的緊張,とりわけ階級対立が議会に反映し,党議によってあらかじめ縛られた議員たちのあいだには相互説得による考え方の互換性は成立しなくなった。こうして,討論と結びついた議会での多数決,すなわち議会制民主主議が否定されて,討論ぬきの大衆の喝采による独裁が主張され,かつ,実現した。その時期に,討論にもとづく多数決の意味をあらためて位置づけなおし,その基礎のうえに議会制民主主義の擁護を説いたのが H. ケルゼンである。彼は,比例代表制のもとで,議会に対立的な利益が反映され,それらの間に妥協・調整をおこなうためのものとして討論を位置づけ,その際,少数が多数意思形成に及ぼす影響を重視して,多数決は〈多数・少数決原理〉と呼ばれるべきだという。ここでは,真理により接近するための討論→多数決にかえて,妥協のための社会的技術として討論→多数決がとらえられていることになる。その場合にも,後者がともかくも機能するためには,当事者間で考え方の互換性ではないとしても,多数・少数が入れかわりうるという立場の互換性が必要であった。今日の多数と少数が明日は入れかわることがありうるという前提があってこそ,妥協そのものが可能となるからである。その意味で多数決が実質的正当性をもつためには,多数を批判する自由と,選択の自由が保障されていなければならない。

 いずれにしても,議会における多数決は討論と結びつくことによって実質的正当性をもつことができる。統治機構における多数決は,大統領など行政府首長の公選や人民投票による決定など直接民主主義を標榜する諸制度の運用の場面でもおこなわれ,それらはいずれも,一定の条件のもとで,国民意思による統治という理念を実現する目的にとって効果的に機能しうるが,議会での討論を経過しつつおこなわれる多数決に期待される本来の役割を代行できるものではない。言論の自由と複数の選択可能性が保障されているかぎりで,これら直接的決定の方法のもとでも世論レベルでの討論はおこなわれうるが,議会レベルでの討論過程は依然として固有の意味をもちつづけるはずである。そのことが等閑視されると,討論の過程を切り落とし,多数意思の名によって権力をもっぱら正当化する状況が生ずることとなる。

 多数決による決定方法は,討論と結びつくことによって,その時点時点の少数者をも含めて,多かれ少なかれ共通に承認されるものとなるのであるが,つまるところは,その時点での多数者の前に少数者が屈服せざるをえないことを意味する。それゆえ多数決のルールが採用されるときには,多数による少数の屈服という基本的な関係を緩和させるための方策が,多かれ少なかれあわせ採用されることになる。通常の多数決が出席者の過半数(表決をおこなうためには一定の定足数が必要とされることが多いが)による決定であるのに対し,少数側をより保護するために,特別多数を必要とするという方式が用いられる(たとえば,日本国憲法は憲法改正の際の国会の発議について,衆参両院でそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成が必要だとしている)。一定のメンバーに拒否権の行使を認めることによって,多数決の効果を抑制する方法もある(国連安全保障理事会の拒否権制度は,常任理事国である大国の特権という実質をもつが,ひとつひとつの投票に限定して観察すれば,その投票の際の少数を多数決に対して保護するという意味のものとなる)。決定方式そのものの問題ではないが,裁判判決における意見表示制(日本の最高裁判所判決)は,それがない場合と比べると,少数側の見解を外部に表明させることによって一定の影響力を行使することを可能にする。また,そもそも多数決によって決定しえない事項を設けることによって,多数決の効果を限定する制度がある。立法府の多数の意思をもってしても侵害できないものとして人権を憲法上定めること,連邦制国家において連邦制原理をそのようなものとして定めることなどはこれに該当する。

 日本では〈多数の横暴〉が非難されることが少なくない。戦後の議会運営のなかでは,1950年代から60年代にかけて〈強行採決〉がくりかえされ,防衛,外交,治安,教育など価値の対立が激しい領域で,多数・少数関係の変動(政権交代)の現実的可能性がないという状況のもとで多数決が強行されたが,それに対しては,〈野党はもっと大人になれ〉という注文と,〈多数派の横暴〉を戒める声が同時に起こるのが常であった。そのような対応が一般的なのは,ひとつには全員一致をよしとする日本の風土が背景にあるからである。全員一致主義は当事者間の適正な妥協調整を促す働きをするが,その反面,異論を封じ込める大勢順応的な空気が支配するところではかえって少数意見の抑圧につながる。共同体的に編成された地域社会や職場社会など事実上自由に離脱できない社会関係での全員一致主義は,そのようなものとして機能し,〈根回し〉や〈話合い〉も,少数意見のくみあげよりはむしろ少数意見の公然化を事前に抑制する働きをする。それに対し,複数の意見が対立しあっていることが社会のあるべき姿とみる多元主義的世界観のもとでは,多数決による多数・少数関係の公然化はむしろ好ましいと考えられる。⇒議会                誇口 陽一

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<書評>
「多数決を疑う」書評 「選挙で勝ったから民意」の危険
評者: 武田徹 / 朝日新聞掲載:2015年06月14日

選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を反映しているのか? 社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方のルールをさぐる。…

多数決を疑うー社会的選択理論とは何か [著]坂井豊貴
 2000年の米大統領選では優勢だったゴアがブッシュに敗れた。支持者が重なる市民運動家ネーダーの出馬で票が割れた結果だった。
 多数決は必ずしも多数の意思を反映しない。いち早くそれに気づいた数学者ボルダはフランス革命前の1770年に修正案を提起していた。候補者が3人なら支持順で1位に三票、2位に二票、3位に一票を投じる彼の投票法は票割れに影響されない。冒頭の米大統領選で採用されていれば総得票数でゴアが勝ち、歴史は変わっていただろう。
 より正確に民意を示す集約ルールを模索するボルダ以来の社会的選択理論の取り組みを本書は紹介し、具体的事例について分析する。
 たとえば現行憲法96条は衆参両院で3分の2以上の賛成を得た改憲案Xに対して国民投票で過半数が得られれば現行憲法Yを改めてよいとする内容だ。だがそこで問われていない別の改憲案ZをXと競わせたらZが国民投票で勝っていたかもしれない。更にそのZとYを比べるとY、つまり現行憲法のままでよいとする人が多数となると「三すくみ(サイクル)」状態になる。
 こうして実は決定不能だったのに決めてしまう危険を回避し、本当の多数意見としての正当性を得るには約64%の支持がXに必要だと社会的選択理論では考えられている。それに照らせば国民投票で過半数の賛成を条件とする96条は、一部の世評とは裏腹に「弱すぎ」る。より改憲しにくい方向への改正が必要と著者は書く。
 本書が示すのは確かな検証を経ずに「多数決で決めたから民主的」「選挙で勝ったから民意」とする強引な姿勢がむしろ民主主義を壊す逆説だ。「右」「左」などの立場の違いを超え、誰もがその警告を傾聴すべきだ。読解に多少の数的処理力が必要だが、それは「自分たちのことを自分たちで決める」民主主義を守る知的コストだといえよう。
 評・武田徹(評論家・恵泉女学園大学教授)