2020年7月31日金曜日

[通読立読斜読] 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(坂井豊貴著、岩波新書、2015年)第3章 正しい判断は可能か

スローリーディング中の『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(坂井豊貴著、岩波新書、2015年)、本日は「第3章 正しい判断は可能か」を読みました。

フランス革命の思想的背景で今日なおその考察が新鮮なルソーの『社会契約論』をもとに「民主的な社会」とそのより正しい「社会的選択」方法を考察した章になっています。

P93
ルソーは民主的な社会の一つの範型とその原理を執拗なほど丁寧に描き出した。ではそれと異なる社会、例えば国民が直接立法するルートが皆無で、政治家の世襲が多く、巨大企業が政治に大きな影響力を持つ社会の政治体制は、いったい何なのだろうか。

と現代の日本社会への皮肉があります。

P93
私たちが「民主的」だと思っている社会は実際にはどの程度、どのような意味で民主的なのだろうか。

という著者の問いかけは、投票権を持つ私たち一人一人が常に自問すべき問題なのでしょう。

以下は当方の読書メモです。他の人が読んでもわかりません。スミマセン。




第3章 正しい判断は可能か

コンドルセの問題意識
多数決の判断が正しい確率

3人の陪審員がいて、結果が正しくなる確率を求める
正しい判断:「有罪が真実のときに有罪と判断でき、無罪が真実のときに無罪と判断できる確率」=v

陪審員3人で判断するほうが(v=0.68)、1人で判断する(
v=0.6)よりも正しい確率が高くなる

多数決のもとでは、正しい判断をする者が半数をわずかにでも越しさえすれば、結果が正しくなる。

陪審定理:陪審員の数が増えるにつれ、正確率は100%に限りなく近づく

(1)陪審員が平均的にコイントス(v=0.5)より正しい判断ができる
(2)判断に独立性が高い

という前提が必要となる

多数決をめぐる最大の倫理的課題は、なぜ少数派が多数派の意見に従わなければならないのか

P72
陪審の評決は「多数派の判断が正しい確率が高い」という理由が正統性を支えていた

法案の審議では、多数派の編段が一般意志に適う確率が高かった場合、どのような正統性を与えるのか

それを理解するためにはルソーの議論における、一般意志と立法について知る必要がある

それらの議論は、望ましい集約ルールが何であるかという探求を超えて、近代市民社会を支える根本理念を、私たちに再考させる

ルソーの『社会契約論』

どうすれば正当な、人間が奴隷にならない、自由にいられる社会を築けるのか
そのための手段が、互いを対等の立場として受け入れ合う「社会契約」である

ルソーの社会契約では、人々は一つの分割不能な共同体へと結合し、彼らはすべての権利を共同体に渡して一つに束ねる=契約行為

各人が契約する相手は「自分たち」
自分を含む契約当事者たちが構成する共同体=人民
束ねた権利=主権=立法権
人民に主権は属する=人民主権

この共同体は「一般意志」で運営される

P76
一般意志は、個々の人間が自らの特殊性をいったん離れて意志を一般化したもの
意志を一般化するとは、自己利益の追求に何が必要かをひとまず脇に置いて、自分を含む多様な人間がともに必要とするものは何かを探ろうとすること

法に従うことは、多数派の意志に服従することではなく、多数派が見つけた一般意志の判断に従うこと

一般意志は自らの意志なので、一般意志が定めた法に従うことは、自ら定めた法に従うことを意味する

人々の利害関係が鋭く意志が一般化できない対象は、そもそも投票の対象にならない

多数派の暴走防止策
(1)多数決より上位の審級を設ける
(2)複数の機関での多数決にかける
(3)多数決のハードルを過半数より高くする(満場一致)

社会契約の2種類の自由

一般意志を通じて自ら定めた法に従う:道徳的自由

定めた法の制約内で自らの意志のままに生きる自由:市民的自由

財産の再配分は、人々の福利厚生を改善するというそれ自体の目的を持つが、同時に、社会の紐帯を維持する強力な手段でもある

代表制と直接性の制度には隔たりがある
オストロゴルスキーのパラドックス