2025年11月24日月曜日

[惹句どんどん] 柳田国男(民俗学者)


 

「先祖」は未来の子孫の幸福につながるような
「計画」を積み重ねる存在で、
その舞台が世代を越えて維持される「家」だった。


 

 「先祖」は未来の子孫の幸福につながるような「計画」を積み重ねる存在で、その舞台が世代を越えて維持される「家」だった。中核は「先祖」を神としてまつる考え方があったが、明治以来の国家指導層は国民への「同情」を欠いた人為的介入で、そうした古風な信仰を破壊した。




柳田国男  1875‐1962(明治8‐昭和37)

やなぎたくにお 


日本民俗学の創始者。兵庫県神東郡田原村嶋川(現,神崎郡福崎町嶋川)に,在村漢学者松岡操の六男として生まれる。柳田姓となったのは1901年に信州飯田藩出身の大審院判事柳田直平の養嗣子として入籍したことによる。1900年東京帝国大学法科大学政治科を卒業し,農商務省に入り,法制局参事官,内閣書記官記録課長等を経て,貴族院書記官長となり,19年退官。翌年朝日新聞社に入社し,24‐30年論説担当として社説を執筆。朝日新聞論説委員辞任後は民俗学の研究と後進の指導にあたりつつ,多くの著書・論文を発表する。その間51‐60年まで,国学院大学大学院で理論神道学の講座を担当する。柳田国男が民俗学的な内容に興味をもち,調査や研究を開始したのは1910年前後で,30歳代半ばになってからのことであり,学問としての体系を確立したのは還暦を迎えようとする1930年代である。

[新体詩人松岡国男]  幼少年期から本を読むことが好きであったが,また早くから和歌を作った。中学時代には歌人松浦萩坪(しゆうへい)(辰男)に入門した。第一高等中学校入学後は,新体詩を作るようになり,《文学界》に作品を発表し,1897年には仲間とともに詩集《抒情詩》を出した。このような活動の中で,田山花袋,島崎藤村,国木田独歩らと知り合い,親しく交流した。彼の新体詩の多くは恋愛詩であり,ロマン主義的傾向の強いものであったが,同時にしばしば現実の世をいとい,死後の世界や異なる世界をあこがれる感情がうたわれていることも注目される。1900年代に入ると自然主義文学の潮流が強まり,花袋,藤村などの仲間がその方向に進むにつれ,彼は詩作から遠ざかった。しかし,ヨーロッパの自然主義文学には強い関心を示し,作品も多く読んだが,自分自身で創作活動をすることはなかった。日本の自然主義文学には批判的態度をとりつづけた。

[農政学者柳田国男]  東大では農政学を専攻し,卒業後農商務省農務局に入ったが,同時に早稲田大学で〈農政学〉の講義を担当した。そして,その後10年ほどの間に農業問題や農業政策について多くの文章を発表した。農本主義の色彩が強かった当時の農学者や農政官僚に対して,社会全体の進展に適合した農業のあり方を求めようとする合理主義的立場からの主張は新鮮なものがあった。彼の主張は,中農を養成することで,利潤を追求する企業としての農業を実現することであり,その立場から当時は当然のことと考えられていた小作料米納制を批判した。しかし,彼の主張や提案はほとんど受け入れられることなく,農政学者としては挫折した。

[民俗学の開拓]  1908年夏に3ヵ月間九州へ旅行し,各地の山間奥地まで訪れた。そして〈数百年前の面影〉や〈純日本の思想を有する人民〉を発見した。とくに宮崎県の椎葉(しいば)村で古い狩猟方法を聞き感動した。さらにその年の秋には岩手県遠野出身の佐々木喜善(1886‐1933)から遠野地方に伝承されるさまざまなふしぎな話を聞き,魅惑された。この二つの体験を,それぞれ《後狩詞記(のちのかりことばのき)》(1909),《遠野物語》(1910)の2書にまとめ,民俗学の研究に踏み込むこととなった。初期の柳田国男の研究は,水田稲作に基盤をおく定住農耕民ではなく,山間奥地に住み狩猟や焼畑農耕に従事する山人(やまひと)や山間を移動する木地屋(きじや)のような職人集団に関心をもち,彼らの独自の文化を明らかにしようとしたものであった。しかし,この期の研究はもっぱら記録や地誌に出てくる断片的記述を資料としており,直接各地で伝承されている民俗を調査して資料化するという方法はまだ確立していなかった。

[民俗学の確立]  1920年代に入ると関心を平野部に住むごく普通の農民の生活に移し,30年代の前半に民俗学の方法論と学問的体系を確立した。日本社会が慢性的不況から昭和恐慌へと進んでいく危機的状況の中で〈なぜに農民は貧なりや〉という課題に解答を出せる実践的な学問として民俗学を確立しようとして,方法論の整備に努力した。その成果は《民間伝承論》(1934),〈国史と民俗学〉(1935),《郷土生活の研究法》(1935)に示されている。また方法論に対応した信頼度の高い民俗資料を集積するため統一調査項目による全国的調査〈山村調査〉(1934‐36)を実施し,さらに全国各地居住の民俗学愛好者を〈民間伝承の会〉(1935)に組織した。この確立期の民俗学の研究対象はごくありふれた各地の農民たちの生活であり,その主体を常民(じようみん)とした。常民の生活の歴史を各地の民俗の比較研究によって明らかにすることが民俗学の課題となった。その考えの基礎には,日本はもともと稲作に基礎をおく単一の民族であり,地域差は系統の相違ではなく,同じ一つの変化過程の各段階が残存しているものという認識が強く横たわっていた。彼の関心は多岐にわたるが,つねに中心にあったのは日本人の信仰の問題である。とくに日本人の神の本質は祖霊であり,人はすべて死後祖霊となって,永く子孫と交流するという祖霊信仰を追求し,《先祖の話》(1946)を著した。また日常生活の変化を世相史として把握し,生活感覚や意識を組み込んだ近代の歴史を説いた《明治大正史・世相篇》(1931),衣食住の変遷をそれを享受する人々の感覚から明らかにする《木綿以前の事》(1939)等を出した。晩年には,日本人の日本列島へ渡来してきたコースに最大の関心をよせ,南方から沖縄を経て列島に達したという主張を《海上の道》(1961)にまとめた。彼の著作の大部分は《定本柳田国男集》(全31巻,別巻5巻)に収録されている。 福田 アジオ


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