2021年9月1日水曜日

[積読立読斜読] 『右大臣実朝』(太宰治、1943年)

 



『右大臣実朝』(新潮文庫『惜別』収録)。


著者初の歴史小説で1943年に書き下ろしの単行本として出版。実朝の家来(近習)が逝去から20年を経て語る回想形式。歴史資料として『吾妻鏡』(小説中では若干の改竄ありだそうです)と回想が交互に入る構成です。実朝のセリフだけ独立したセンテンスでカタカナで表記されていて印象的です。


私小説の短編から想像されるようなデカダンスな感じはなく、太宰が腰を据えて勉強し執筆した様子が作品からも理解できます。ただ読んでいてあまり面白くはありませんでいた。当方に歴史の知識が皆無なのも影響しているかも知れません。百科事典で「源実朝」の項を復習すると、政治にはまったく興味がなさそうで、和歌に嵩じて源氏の滅亡を傍観しているような頼りない人物に映ります。将来破滅型の人生を送る太宰自身の投影だったのでしょうか。


アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。

人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。




源実朝  1192‐1219(建久3‐承久1)(みなもとのさねとも) 


鎌倉幕府第3代将軍。歌人。1192年8月9日源頼朝と北条時政女政子の次男として鎌倉に生まれた。幼名を千幡(万)(せんまん)という。父頼朝の死後征夷大将軍に補任された兄頼家が廃されたため,1203年(建仁3)9月征夷大将軍の職を継いだ。


早くから京の文化にあこがれ,04年(元久1)後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とした。院政を執る後鳥羽上皇は実朝のこうした性向を利用して鎌倉幕府を制御しようとし,実朝もこれに応ずる意志をいだいていた。〈山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心我あらめやも〉の歌は上皇の書状を受けたときの作という。


しかし公武関係は在地支配権をめぐって根本的矛盾を蔵していたので,院政政権はひそかに討幕の計画を進め,これと幕府の実権をにぎる母政子や執権北条義時以下の御家人勢力との対立の中にあって,将軍実朝はしだいに孤立を深めた。


1217年(建保5)東大寺大仏殿再興の宋人陳和縁から自分が前世に宋国医王山(いおうぜん)の長老であったとの示唆を告げられると,感激して和縁に大船を建造させ,渡宋を企てた。この計画は進水の失敗によって挫折したが,なお御家人損山景倫(かつらやまかげとも)を宋に派遣しようとしたり,宋に仏舎利を求めたりした伝えもある。これらは実朝の孤独,絶望の深さを示すが,晩年しきりに官位の昇進を望んだのも,また同様な心境によると見られる。


その官位はすでに1209年(承元3)従三位,13年正二位,16年権中納言に昇っていたが,18年には一挙に権大納言兼左近衛大将から内大臣を経て右大臣へと異常な昇進をみた。これを憂えた大江広元の諫言に対して実朝は,源氏の正統は断絶するから,せめて家名を挙げておきたいと答えたという。


 このような苦悩多い生涯で,実朝が心を慰めるよすがとしたのは,和歌,管絃,蹴鞠などの京文化,とくに和歌であった。14歳ころから作歌を始め,18歳のとき歌壇の巨匠藤原定家の門に入り,定家は《詠歌口伝》を著して与え,また相伝の《万葉集》を贈った。実朝の作品は700首余が家集《金槐(きんかい)和歌集》などに収められている。大部分は当時完成した《新古今和歌集》の歌風による習作であるが,天成の豊かな感受性が流露し,また晩年の作とみられる異色の万葉調が含まれ,この点が近世の賀茂真淵や近代の正岡子規に注目され,和歌史上不朽の名をとどめた。1219年1月27日,右大臣昇任の拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際,兄頼家の遺子,同宮別当公暁(くぎよう)によって社頭で暗殺され,28年の短い生涯を閉じた。御家人のうち秋田城介景盛をはじめ100余人が殉(したが)って出家したところに,事件の衝撃の大きさを見ることができる。暗殺の背景にあったのは北条氏か三浦氏かなど,真相はなぞにつつまれている。⇒官打ち          目崎 徳衛


(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.