人間の運命はなかなか片付かないもんだな
夏目漱石『道草』より
八十二
「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」
健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」
「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」
百二
「片付いたのは上部うわべだけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆ほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他ひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好いい子だ好い子だ。御父さまの仰おっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこういいいい、幾度いくたびか赤い頬ほおに接吻せっぷんした。
