2021年1月10日日曜日

[積読立読斜読] 『この世界の片隅に(上)』(こうの史代著、双葉社、2008年) 第2回 昭和19年2月 



<あらすじ>

昭和19年2月、呉の北條家でささやかな結婚式が挙げられ、すずの新しい生活がはじまる。

ウィキペディアより


<嫁ぎ先の北條家のある呉辰川地区>


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ウィキペディアより




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木炭自動車  

もくたんじどうしゃ 


車体後部に装備したガス発生炉によって木炭を乾留し,発生する木炭ガスを燃料とする一種のガス機関自動車。ガス発生炉の中で固体燃料を不完全燃焼させ,一酸化炭素を主成分とする可燃ガスをとりだし,冷却器,清浄器を通したのちガス空気混合器へ送りエンジンを作動させる。ガスを発生させるための固体燃料としては,木炭のほかに石炭,コークスなどが用いられた。フランスで開発されたものであるが,第1次世界大戦後,軍用自動車の重要性が認識されるに及び,日本でも石油資源の少ない国情を考慮して大正末に研究が開始された。その後,第2次大戦をはさむ昭和10年代から20年代にかけての一時期,バス,トラックなどの民間用として実用に供された。

                        中谷 弘能


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[画像]もんぺ

もんぺ  

山袴の一種。もんぺの名称が全国的に一般化したのは,第2次世界大戦中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてからである。それ以前は主として東北地方および一部農山村地帯の農民の労働着,あるいは日常の家着として男女にかかわらず着用されていた。語源については不明な点が多く,文献にもあまり見られない。宮本勢助は《山袴の話》(1937)の中で,山形とも米沢の人ともいう紋平なる人物がはきはじめたからとの説があるが,民間語源説にすぎないとしている。しかし現在各地方に残る名称を見ると,モンペ,モッペ,モツクラモッペ,ダフラモンペ,ガフラモンペ,ドフラモンペ,山形モンペ,マッカ,ユキバカマ,ユキコギなど多様である。《菅江真澄遊覧記》には,雪袴の語が見られ,日良野貞彦の《奥民図彙》には,男女農民のモッヘの着用図が描かれているが,現行のもんぺと同じかどうかはわからない。東北地方でもさして古い時代からの着用ではないらしく,むしろ裁付(たつつけ)や股の割れた股引を古くは〈もっぺ〉と呼んで着用していたようである。もんぺは,前後布,左右計4枚の布を用い,後ろ布は前布より5cm内外長くして前後の差をつけ,下半身の動作を楽にしている。後ろ布につける長大な三角襠(まち)が特徴で,この襠によってもんぺ全体が緩やかとなる。材料は,労働着には紺,黒無地,縞などの木綿が多く使われたが,第2次大戦後は大半が絣(かすり)木綿に変化した。日常着としては,絣木綿に加えてサージ,セルなどの毛織物,化繊地も用いられたが,外出用には絹物もあった。しかし,最近ではごく一部の農山村の老婦人に見られるのみである。なお,現行のもんぺは両脇の明きや紐結びでなく大半はズボン式となっている。⇒山袴            日浅 治枝子


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<灯火管制>

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防空演習  

ぼうくうえんしゅう 


空襲を想定して,被害を最小限にくいとめるためにおこなった訓練。日本での最初の灯火管制訓練は,1919年に横須賀でおこなわれた。本格的な灯火管制をともなった防空演習は,28年7月5~7日に大阪でおこなわれた。この演習は,総力戦準備のために国民総動員体制をつくろうとする軍部の意向を受けて,第4師団が主催しておこなわれたもので,独立歩兵2大隊,在郷軍人,青年団員が警備にあたるなかで,5分間の灯火管制などが実施された。市民には,光をさえぎるため家の窓などに暗幕をはるなどの協力が求められた。その後,29年には第3師団,愛知県,名古屋市の共催による防空演習が,また33年には第1回の関東防空演習がおこなわれるなど,防空演習は徐々に全国化,大規模化していった。それにともない,演習の基礎単位としての町内会や防護団が整備されるようになった。37年4月,防空法が公布された。これにより行政当局は市町村にたいし,空襲による被害を防ぐために防空計画の設定を義務づけることができ,また戦時体制のもとで国民の自由や権利を制限する権限を握った。町内会などの組織化にともない防空演習も大規模化し,灯火管制,消防,防毒,避難,救護などの訓練が日常的におこなわれるようになった。隣組単位で不意打ち軍官民総合防空訓練がおこなわれ,各自で防空ずきんを作ったり,バケツリレーをしたり,屋根の火の粉をはらったりした。しかしこれらの訓練は,B29による大規模都市爆撃にはまったく無力であり,人々は防空壕(シェルター)を各家で作ったりはしたもののたいした効果もなく,逃げのびるのがやっとであった。            芳井 研一


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<広島と呉の人口>

すずさんが呉に嫁いだのは昭和19年当時の呉市が海軍鎮守府として広島市と同等の人口であり、北條家は姑も夫となる人も海軍関係の給与生活者であり生活が安定していたからと想像されます。


2020年末の人口は広島市人口 1,194,879 (2020年末)、呉市人口 218,328 (2020年末)ですが、昭和19年当時は両市とも40万人で拮抗していました。






<交通事情>

昭和19年2月は広島市内電車は舟入本町までが開業。自家用車がなかったので市電と列車、木炭バスを乗り継いて嫁ぎ先へ。行程30km程度、2時間。


現在では車で自動車専用道路を使い24Km、30分程度。



<映画版での描写>






『この世界のさらにいくつもの片隅に 公式アートブック』(宝島社、2019年)では片渕須直監督の「その時代のごく普通な日常生活を描き出す」ための執念の時代考証により、鎮守府呉の姿が描かれています。


・昭和12年6月から戦艦大和を建造中で呉線からは呉港が見えないようにトタン塀で囲まれていた。

・呉駅では女子職員が改札をして、海軍警備隊が脱走兵を見張っていた

・広島駅から呉線に乗り換えるのだが、この時期は呉線が山陽本線を兼ねていて大阪方面行きの列車に乗ったと設定されている

・呉駅構内にも軍刀を差した軍人の姿が多い


<年表>