2020年3月4日水曜日

[新聞記事より] 私のフォークソング史 ⑤~⑦

連載④が欠。後日投稿します。




[新聞記事より] 私のフォークソング史 ①~③

中国新聞に元広島フォーク村の「年寄」、的場民主さんが寄稿中。




[積読立読斜読] 『掃除婦のための手引き書』(ルシア・ベルリン著、講談社、2019)

県立図書館でみかけたので借りて読んでます。例によってスローリーディング中。

本日は「エンジェル・コインランドリー店」と「掃除婦のための手引き書」を読みました。いずれも著者の実体験をふくらませたような作品です。実体験は誰でもできるのですが、文章にしてかつ文学作品にできるのは稀有な才能です。


装丁は三番目の夫が撮影した著者近影。1963年の撮影とあります。この時代にたばこを吸っている女性の割合がどうなのかは知りませんが、世間体の枠にはまらない人生だったのは確かなようなまなざしです。


<内容紹介>
2013年にノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローや、短篇の名手レイモンド・カーヴァー、日本で近年人気が高まっているリディア・デイヴィスなどの名だたる作家たちに影響を与えながら、寡作ゆえに一部のディープな文学ファンにのみその名を知られてきた作家、ルシア・ベルリン。

2004年の逝去から10年を経て、2015年、短篇集A Manual for Cleaning Womenが出版されると同書はたちまちベストセラーとなり、The New York Times Book Reviewはじめ、その年の多くのメディアのベスト本リストに選ばれました。本書は、同書から岸本佐知子がよりすぐった24篇を収録。この一冊を読めば、世界が「再発見」した、この注目の作家の世界がわかります!

このむきだしの言葉、魂から直接つかみとってきたような言葉を、
とにかく読んで、揺さぶられてください
               ――岸本佐知子「訳者あとがき」より

彼女の小説を読んでいると、自分がそれまで何をしていたかも、
どこにいるかも、自分が誰かさえ忘れてしまう。
               ――リディア・デイヴィスによる原書序文
「物語こそがすべて」(本書収録)より

毎日バスに揺られて他人の家に通いながら、ひたすら死ぬことを思う掃除婦(「掃除婦のための手引き書」)。夜明けにふるえる足で酒を買いに行くアルコール依存症のシングルマザー(「どうにもならない」)。刑務所で囚人たちに創作を教える女性教師(「さあ土曜日だ」)。……自身の人生に根ざして紡ぎ出された奇跡の文学。


<書籍情報>
製品名 掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集
著者名 著:ルシア・ベルリン 訳:岸本 佐知子
発売日 2019年07月10日
価格 定価 : 本体2,200円(税別)
ISBN 978-4-06-511929-7
判型 四六
ページ数 322ページ
初出 「星と聖人」…「すばる」2017年10月号、「掃除婦のための手引き書」…『早稲田文学増刊 女性号』2017年9月、「わたしの騎手(ジョッキー)」…「AERA STYLE MAGAZINE Vol.32 AUTUMN 2016」。ほかは訳し下ろしです。

<著者・訳者紹介>
著:ルシア・ベルリン(ルシア・ベルリン)Lucia Berlin
1936年アラスカ生まれ。鉱山技師だった父の仕事の関係で幼少期より北米の鉱山町を転々とし、成長期の大半をチリで過ごす。3回の結婚と離婚を経て4人の息子をシングルマザーとして育てながら、高校教師、掃除婦、電話交換手、看護師などをして働く。いっぽうでアルコール依存症に苦しむ。20代から自身の体験に根ざした小説を書きはじめ、77年に最初の作品集が発表されると、その斬新な「声」により、多くの同時代人作家に衝撃を与える。90年代に入ってサンフランシスコ郡刑務所などで創作を教えるようになり、のちにコロラド大学准教授になる。2004年逝去。レイモンド・カーヴァー、リディア・デイヴィスをはじめ多くの作家に影響を与えながらも、生前は一部にその名を知られるのみであったが、2015年、本書の底本となるA Manual for Cleaning Womenが出版されると同書はたちまちベストセラーとなり、多くの読者に驚きとともに「再発見」された。

訳:岸本 佐知子(キシモト サチコ)
翻訳家。訳書にリディア・デイヴィス『話の終わり』『ほとんど記憶のない女』、ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』、スティーブン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』、ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』など多数。編訳書に『変愛小説集』『楽しい夜』『居心地の悪い部屋』ほか、著書に『なんらかの事情』ほか。2007年、『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞を受賞。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000311486

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)11/20 『秋』の部



『秋』の部

新蕎麦や鬼平気どる昼の酒
(しんそばや おにへいきどる ひるのさけ)「新蕎麦」


秋の水に映りし空を鯉泳ぐ
(あきのみずに うつりしそらを こいおよぐ)「秋の水」


女郎花庭のいつもの場所に咲く
(おみなえし にわのいつもの ばしょにさく)



古伊万里の青き景色に栗を盛る
(こいまりの あおきけしきに くりをもる)「栗」


リストラも斜めに笑い栗御飯
(リストラも ななめにわらい くりごはん)「栗御飯」


[新聞記事より] 公的年金、75歳から受け取り可能に 改革法案を閣議決定

2020年3月3日付、日本経済新聞。





2020年3月3日火曜日

[積読立読斜読]『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』 第7章 戦間期の軍縮会議と危機の外交



スローリーディング中の『日本近現代史 ―成功と失敗の歴史に学ぶ』(中公新書、2019年)から、本日は「第7章 戦間期の軍縮会議と危機の外交」を読みました。


著者の小谷賢さんはイギリス政治外交史が専門で、各国のインテリジェンスについての著書があります。

本章は、第一次世界大戦の犠牲が大きかったにもかかわらず、第二次世界大戦はなぜ起こったのかを、戦間期の各国の動きを概観して、教訓を得ようとするものです。

日本の事情と欧州の事情とは、若干違いがあります。



<著者プロフィール>
1973年京都市生まれ。立命館大学卒業後、ロンドン大学キングス・カレッジ大学院修士課程、京都大学大学院博士課程修了(学術博士)。2004年から防衛省防衛研究所戦史部教官。現在、英国王立防衛安保問題研究所(RUSI)客員研究員。専門はイギリス政治外交史、インテリジェンス研究。主著に『イギリスの情報外交―インテリジェンスとは何か―』、『日本軍のインテリジェンス―なぜ情報が活かされないのか―』、共著に『インテリジェンスの20世紀―情報史から見た国際政治―』、『世界のインテリジェンス―21世紀の情報戦争を読む―』、『名著で学ぶインテリジェンス』等がある。

新潮社のサイトより
https://www.shinchosha.co.jp/writer/3905/




第7章 戦間期の軍縮会議と危機の外交

はじめに(欧州における第二次世界大戦の起源の概観)

第一次世界大戦は1918年11月11日休戦協定によって終結
死者2,000万人の犠牲者
戦争を経験した国々はこのような大戦争を起こさないための協議をした


(1)集団安全保障体制の導入:ヴェルサイユ条約(国際連盟規約)、ロカルノ条約

(2)不戦協定:パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)

(3)軍縮国際会議


しかしわずか21年後の1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発

<原因>
(1)ドイツでヒトラー政権が誕生し対外膨張主義的な政策を志向
(2)英仏の不戦への消極的な態度がドイツの増長を招いた(イギリスの歴史家ティラーによる『第二次世界大戦の起源』)
(3)英仏独伊ソの指導者のパーソナリティー


第一次世界大戦後の国際制度

大戦の原因は、欧州における各国の勢力均衡策にあると考えられていた
アメリカのウィルソン大統領は国際連盟の創設を訴えた

欧州における戦後の平和は、敗戦国ドイツの犠牲の上に成り立っていた
(1320億マルクの賠償金(支払いは現在でも継続中)、領土・人口の喪失

<集団保障体制>
理論的に大国間の対立、潜在的敵国間では機能しがたい
強制力がなければ紛争に介入も難しい

<不戦条約>
何が侵略戦争かが明確に定義されておらず、条約としての効力は持っていなかった


軍縮会議の成功と挫折

戦間期には軍縮会議が多く開かれている
人道主義的な議論(毒ガスの廃止)
戦略的な議論(各国の武器の制限)…比較的うまく機能した→例:ワシントン海軍軍縮会議

しかし1929年に世界恐慌が起き、各国政府は国際協調よりも自国中心的な対応をとった

植民地の少ない日独は大きな影響(経済的損害を被った)
日本の世論は、1931年の満州事変を歓迎

1937年以降、海軍分野では無条約の状況が出現し、各国の建艦競争が激化した
(ワシントン体制の崩壊)

1932年からのジュネーブ軍縮会議は独仏の対立により破綻
ドイツはヴェルサイユ条約の制約から逃れたかった
独仏で国力に差があった(ドイツの工業地帯は被害が少なかった、フランスより人口が2,000万人多かったなど)
フランスはイギリスに安全保障の援助を望んでいたが、イギリスのマクドナルド政権は無関心であった

ジュネーブ会議における英仏の軍縮に消極的な態度は、ヒトラー政権のドイツに再軍備の口実を与えることになった


危機の外交

1933年から1934年が戦間期のターニング・ポイント

1935年、イタリアのムッソリーニ総統によるエチオピア進攻
国際連盟の集団安全保障体制は崩壊

1936年3月、ドイツはロカルノ条約を破棄し、非武装地帯のラインラント進駐を断行

この段階で英仏が協力すれば、ドイツ軍の侵攻は止められた可能性がある
この時期のフランスは国内の政情が不安定でドイツに対する断固たる政策が取れなかった

フランスの優柔不断な態度は周辺国を不安の陥れた(フランスの孤立)

英仏はイタリアへの接近を模索したが、独伊接近のほうがペースが速かった

1937年7月、日中戦争が勃発←計画されていたものではなく、偶然と機会主義が重なった結果
(1936年8月の「国策の基準」で南北併進の戦略を打ち出してはいた)
1936年11月25日調印の日独防共協定によって、欧州情勢と東アジア情勢はリンクするようになった

東アジアにおけるイギリスは、アメリカの支援なしには、単独で対日工作を取れなかった
蒋介石はアメリカへの接近を検討


第二次世界大戦の勃発

資料参照


おわりに

戦間期における欧州の国際関係から教訓を得ようとした著書
イギリスの歴史家・外交官、E・H・カー『危機の20年』
道義的なユートピアニズムが、権力的なリアリズムに代わる様子を危機感をもって論じた
戦間期の国際関係を規定したヴェルサイユ条約が敗戦国ドイツにとって不合理だったのも原因


1930年代後半の各国の動きは展開が早く、同盟が機能するには時間がなかった

ヒトラーが各国の先手を取り、英仏は常に後手にまわった
(民主主義国は政策決定までに時間がかかる)


<資料編>
国際連盟  
こくさいれんめい League of Nations

国際平和の維持を目的として第1次世界大戦後設立された国際機構。第2次大戦の勃発によって形骸化し,戦後国際連合にその任務をゆずって消滅した。

[成立]  平和維持のための国際機構という構想は古代ギリシア以来繰り返し提唱されてきた。さまざまな分野の国際協力は国際関係の緊密化とともに19世紀後半以来発展したが,戦争と平和という高度に政治的な問題には及ばなかった。大規模な常設の国際平和維持機構の必要は,第1次大戦の惨禍によって初めて痛感され,1918年1月ウィルソン・アメリカ大統領の〈平和のための14ヵ条〉の中にとりあげられた。かつてのユートピア思想はようやくここに現実の課題となった。戦後開かれたパリ講和会議はウィルソンの主張を基礎に国際連盟憲章を作成し,これをベルサイユ条約その他の講和条約の一部とした。連盟は従って法的には20年1月10日,ベルサイユ条約発効とともに成立した。戦勝国および招請された中立国計42ヵ国が原加盟国となったが,最大の役割を期待されたアメリカが国内における孤立主義の台頭により不参加となり,連盟の力を少なからず弱めることとなった。なお本部所在地はジュネーブ,初代事務総長はイギリスのドラモンド James EricDrummond(1876‐1951)であった。

[任務]  連盟の第1の任務はいうまでもなく平和維持であって,その根底には,従来の勢力均衡論に代わって台頭した集団安全保障 collectivesecurity の思想,つまり戦争は当事者のみならず連盟全体の重大関心事であり,全員の努力によって防がねばならない,という考えがあった。憲章10,11条はこの思想を宣言し,12~15条は解決困難な紛争は仲裁裁判,司法的解決(このために常設国際司法裁判所を設置),または連盟理事会の審査に付すべきこと,16条は以上に違反して戦争に訴えた国に対して全員が協力して経済制裁(および若干の補助的軍事措置)を加えることを定めている。また紛争を未然に防ぐため,軍縮(8,9条),条約と国際協定との公開(18条)が約された。連盟の第2の任務は,平和維持の前提となる公正な国際関係および人道的諸問題のための国際協力である。憲章の規程は簡単で,人道的な労働条件(このために国際労働機関が設置される),交通の自由,保健衛生などの課題を列挙したにすぎないが(23条),平和維持の分野に比べ,この分野では相当の成果をあげた。そのほか特殊任務として,戦敗国旧植民地等の統治をいくつかの国に委任して監督する委任統治があった。

[機関]  連盟には中央に総会,理事会,常設事務局があり,さらに自主機関として常設国際司法裁判所と国際労働機関,また補助機関として多くの専門機関と諮問委員会があった。中心は総会と理事会で,若干の分業はあったが,ともに連盟関係事項すべてに及ぶ権限をもった。総会は全加盟国が1国1票で参加し,通常毎年9月に会合した。中小国の意見を反映して,より原則的・理想的であった。理事会は常任理事国と非常任理事国からなり,通常年数回会合し,その機動性を生かしておもに政治問題にとりくんだ。大国の意見を反映して,より現実的・妥協的であった。常任理事国は当初イギリス,フランス,日本,イタリア,のち1926年にドイツ,34年にソ連も連盟加入と同時に就任,33年に日本とドイツが,37年にはイタリアが脱退,39年にソ連が除名された。なお総会,理事会とも原則として決議は全員一致によるが,現実にはとくに総会で相当緩和して運用された。

[盛衰]  連盟の歴史は4期に分けられる。1923年までは生成期(第1期)であって,連盟主要機関のすべてが整備されたが,ヨーロッパで戦後処理に関する問題が続出し,連盟は十分な威信を確立するに至らなかった。しかし24年以後ヨーロッパも安定に向かい,イギリス,フランス,ドイツは連盟中心外交を唱え,連盟は国際政治の中心となった(第2期)。しかし31年満州事変から36年イタリアのエチオピア併合にかけて,連盟は難局を迎える(第3期)。前者についてはリットン調査団を派遣し,その報告に基づいて事態収拾をはかったが,日本はこれを拒絶して連盟から脱退した。後者については初の経済制裁を実施したものの,石油等の重要物資に及んでおらず,また主要国のイギリス,フランスが消極的であったため侵略を阻止しえず,イタリアの併合宣言後制裁を解いてしまった。これは連盟にとって致命的な打撃となって,以後の第4期には,アジアとヨーロッパで紛争がいっそう拡大したにもかかわらず,連盟に対する期待は著しく弱まり,39年第2次大戦の勃発とともに,連盟の活動は事実上停止された。

[連盟と日本]  第1次大戦の主戦場から遠く,むしろその受益者であった日本には,平和への強い理想主義的取組みはみられなかった。日本は連盟の構想に対して冷淡であり,日本の行動が制約されることへの懸念から,その不成立ないし機能の限定を望み,次いで連盟中に有利な地位を占めることをめざしたにすぎなかった。実際,連盟成立過程での日本の関心は,旧ドイツ領赤道以北太平洋諸島の受任統治国となることと,結局失敗に終わった人種平等原則の挿入の二つに限られていた。しかし連盟が成立すると,ヨーロッパに利害の少ない唯一の常任理事国として,第1・2期の活動には比較的公平な立場から貢献したといってよい。理事会における石井菊次郎,事務次長としての新渡戸稲造,杉村陽太郎,常設国際司法裁判所における安達峰一郎らの活動は広い信頼を得た。しかし東アジアの問題に関しては,日本はかたくなに連盟の行動を排除して自国の利益を貫こうとした。その結果が満州事変と連盟脱退であり,日本は連盟崩壊の口火を切ることになった。                     北岡 伸一

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ロンドン軍縮会議  
ロンドンぐんしゅくかいぎ 

ワシントン海軍軍備制限条約(1922)の有効期間満了が近づいたため,マクドナルド・イギリス首相の提唱で,イギリス,アメリカ,日本,フランス,イタリアの五大海軍国がロンドンで開催した会議(1930年1月21日~4月22日)。

 1927年6~8月に開かれた5ヵ国によるジュネーブ軍縮会議は,長い海岸線防衛用に主力艦を重視するアメリカと,世界にまたがる帝国防衛のために小型巡洋艦に制限を加えまいとするイギリスの対立が鋭く,暗礁にのりあげていた。これを受けたロンドンの会議ではイギリス,アメリカがともにその要求を取り下げた。日本は対米70%の大型巡洋艦を要求したがいれられず,結局小型巡洋艦と駆逐艦についてイギリス,アメリカの70%,潜水艦は均等という条件で,大型巡洋艦に対するワシントン条約の比率(60%)適用を受諾した。この結果4月22日にイギリス,アメリカ,日本の間で,ロンドン海軍軍備制限条約が締結された(有効期間6年)。地中海の制海権を争うフランス,イタリアは話合いがつかず,参加しなかった。同条約の協定保有量は表のとおりである。この会議では,ワシントン条約による1931年からの代替建造が36年まで延期され,イギリス,アメリカ,日本が主力艦を1年半以内にそれぞれ5,3,1隻廃棄して,保有量をイギリス,アメリカ各15隻,日本9隻にすることも取り決められた。

 この条約は現有量と協定保有量の差が小さく,そのうえイギリスの主張で〈エスカレーター条項〉(第21条,非締約国の新艦建造で安全を脅かされた締約国は,他の締約国に通告のうえ必要な艦艇を増加でき,他の締約国もそれに比例して増加できる)が設けられたため,軍縮の効果はあまり大きくなかった。同条約の期間満了を控えて,1935年末から再びロンドンで会議が開催されたが,すでに日本は1934年に,36年末をもってワシントン,ロンドン両条約による制限が終結することを通告しており,またベルサイユ条約に違反してドイツは有力な海軍国になっていたため,意味のある合意の基盤は失われていた。36年末ワシントン,ロンドン両条約の失効とともに,各国は激しい建艦競争をくりひろげた。⇒統帥権干犯問題
                        納家 政嗣

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ジュネーブ軍縮会議  
ジュネーブぐんしゅくかいぎ 

(1)1927年ジュネーブで開かれたアメリカ,イギリス,日本3国による海軍軍縮会議 NavalConference。アメリカ大統領クーリッジがワシントン軍縮会議で除外されていた補助艦(巡洋艦,駆逐艦,潜水艦)の数・トン数を制限しようと提議した。しかし,フランス,イタリアが参加を拒絶したうえ,会議では英米間が対立したため,なんの効果もなく閉会した。日本からは斎藤実,石井菊次郎が全権に任命された。⇒ロンドン軍縮会議
(2)国際連盟が規約第8条(軍備縮小)に基づいて1932年2月から34年末まで,59ヵ国の参加を得てジュネーブで開催した全般的軍備縮小に関する会議 Disarmament Conference。連盟は1925年12月に軍縮会議準備委員会を設置した。30年12月になって同委員会で軍縮条約の概要(軍事予算の制限,兵役期間の制限,常設軍縮委員会の創設など)につき,条件つきながらいちおう合意が得られたため,連盟理事会が開催を決定した。この軍縮会議では,国際連盟警察軍(フランス),特定攻撃兵器全廃(イギリス),兵力一律削減(アメリカ)などの提案があったが,いずれも合意にいたらなかった。32年7月になって会議は,(a)一般民衆への空中からの爆撃禁止,航空機数の制限,(b)特定規模以上の重火器,戦車の制限,(c)化学的戦争手段の制限,を内容とする決議案を表決に付した。41ヵ国の賛成が得られたものの,これもソ連,ドイツの反対にあい,会議はゆきづまりを見せた。その後もイギリスがヨーロッパ軍縮案を提案し,フランスも2段階軍備制限案を作成したが話合いはつかなかった。もともと世界的な不況,東アジアにおける満州事変,ドイツにおけるナチス勢力の台頭などの難しい環境下での会議であったが,最大の障害となったのは,ベルサイユ条約の束縛を脱しようとするドイツと,ドイツの再軍備に反対し,それを認める前に確固たる国際安全保障体制を求めるフランスの対立であった。33年10月14日,ドイツが軍縮会議と国際連盟を脱退し,その後のイギリスの独仏調停も失敗したため,同会議は34年末以降再び開かれることがなかった。
                        納家 政嗣

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ミュンヘン会談  
ミュンヘンかいだん 

1938年9月29日,ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー,イギリス首相 A. N. チェンバレン,フランス首相ダラディエ,イタリア首相ムッソリーニの四大国首脳会談。翌30日未明,チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する,いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ,イタリアに対してとってきた,弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和(ゆうわ)政策のピークであった。

 1938年3月,ドイツがオーストリアを併合すると,チェコスロバキアは直接ドイツからの脅威を受けることになった。すでに前年11月5日,ヒトラーは秘密会議で,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画という〈遺言〉を明らかにしていた(〈ホスバッハ覚書〉に記録)。チェコスロバキアと相互援助条約を結んでいたソ連は,危機収拾のための国際会議を提案したが,イギリスはこれを拒否した。4月下旬にはチェコスロバキアでは,ドイツの意を受けてズデーテン・ドイツ人の自治を要求する親ナチス運動が激化した。こうしてズデーテン問題はにわかに国際化したが,イギリスは,チェコスロバキア政府の一方的譲歩による解決を働きかけ,ついに9月初めには,後者はズデーテン・ドイツ人の要求を受けいれるにいたった。しかし自治よりも領土そのものを要求していたドイツはチェコスロバキア政府への攻撃を強め,両国関係は緊迫した。チェンバレン首相は,集団安全保障方式よりも個人外交による危機管理に頼り,9月15日,22~23日の2度にわたってヒトラーと会談し,フランスを誘ってズデーテンの割譲をチェコスロバキア政府に迫った。ドイツとの対決を何よりも恐れていたチェンバレンは,ヒトラーの決意の固さを知って,いっそうドイツに対する宥和を強め,9月27日,ムッソリーニを通じて国際会議の斡旋を依頼し,ミュンヘン会談が開催の運びとなった。

 10月1日,ドイツ軍はズデーテン地方を占領し,チェコスロバキアは最も重要な戦略的拠点を失った。ソ連はズデーテン危機の全局面を通じて交渉から排除され,さらにチェコスロバキアおよびフランスとの相互援助条約も有名無実となり,国際的孤立のなかで新しい安全保障の方向を模索せざるをえなくなった。イギリスの宥和政策がナチス・ドイツに対する恐怖と無力さに発していることを見抜いた小国は,中立主義を宣言するか,せまい民族主義的衝動に身をまかせた。たとえば,ポーランドとハンガリーは,チェコスロバキアから,それぞれテッシェン地方(10月),南部スロバキアおよび南部ルテニア(11月)をもぎ取った。反ファシズム人民戦線を象徴していたスペインの国際義勇軍も11月には撤退した。しかし四大国の和解も幻想にすぎなかった。チェンバレンが〈わが時代のための平和条約〉と自賛したミュンヘン協定も,翌39年3月,ヒトラーのチェコスロバキア解体によって,わずか6ヵ月にして〈ほご〉と化した。⇒第2次世界大戦                      平井 友義

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第2次世界大戦
(より抜粋)

[チェコスロバキア解体]  ヒトラーの次の目標はチェコスロバキアであった。チェコスロバキアの内部では,ドイツ系住民が多く住むズデーテンで,ズデーテン・ドイツ党がヒトラーの第五列として自治要求を掲げ,チェコスロバキア政府を揺さぶっていた。オーストリアの〈併合〉を静観していたイギリスも,ドイツのチェコスロバキア侵攻には警戒をみせていた。1937年11月にイギリスのハリファクスがヒトラーを訪問し,平和を維持するためにドイツに植民地や東方進出に譲歩する提案を行っていたが,チェコスロバキアの解体を認めるものではなかった。それ以後もイギリスはズデーテン問題の平和的解決を申し入れてきたが,ヒトラーにとってこのような姿勢はイギリスがチェコスロバキアについて介入する意思を示しているものと映った。そのなかでヒトラーは,軍に作戦行動(〈緑色作戦〉)の検討を命じると同時にイタリアの支持を取り付けようとし,38年5月上旬イタリアを訪問し軍事同盟の締結を提案したが,イタリアはそこまでドイツに傾斜することには躊躇(ちゆうちよ)していた。他国の対応が必ずしも明らかでない状況のなかで,5月20~21日にかけてウィークエンド危機といわれる事件が発生した。ドイツ側の演習に対して,チェコスロバキアは部分動員をかけ,イギリス,フランスはドイツに厳重警告を発したのである。イギリス,フランスの介入をみてヒトラーは対英接近をあきらめ,5月下旬には10月1日を期限とする軍事作戦を命令した。9月上旬ズデーテン問題をきっかけとしてチェコスロバキアは危機に陥った。このなかで,チェコスロバキアに侵攻しようとするドイツと,交渉によって事態に収拾をはかろうとするイギリス,フランスとの緊迫した対応が展開された。ズデーテンをドイツに割譲することを取り決めたミュンヘン協定が締結された9月30日まで,ヨーロッパは戦争か平和かの瀬戸際に立たされたのである。

 この〈ミュンヘン危機〉あるいは〈9月危機〉といわれる国際危機は,ヒトラーの脅しのまえにイギリスとフランスがチェコスロバキアを犠牲にして平和を維持したものとして宥和政策の象徴とされているが,当時ヒトラーは敗北感を抱いていたことに注意する必要がある。ヒトラーはイギリス,フランス,イタリアの3国の介入によってチェコスロバキア解体という目標を妨害されたと感じたのである。10月に入りヒトラーは残部チェコスロバキアの解体を考えはじめた。一つは,残部チェコスロバキアにかけられた国際的な保障を切り崩すことであり,無力感にとらわれていたフランスに接近し,12月6日には独仏共同声明が出されイギリスを牽制した。二つめはチェコスロバキア内でのチェコとスロバキアの対立を利用することであり,1939年3月14日スロバキアを独立させ,同じ日チェコスロバキアの大統領ハーハを脅しボヘミア,モラビアを保護領とすることに同意させ,翌15日ドイツ軍はプラハに入り,ここにチェコスロバキアは解体された。

[戦争の勃発]  9月危機以降,イギリスは本格的に戦争準備を開始した。イギリスの防衛力強化をはかるとともに,敗北主義にとらわれドイツと接近しかねないフランスへも軍事援助の申入れがなされ,両軍の協力も強化された。その一方,ドイツもイギリス,フランスとの戦争を想定しはじめ海・空の軍事力増強がなされた。イタリアはこのなかにあって,戦争準備の遅れと国内の強い反戦感情から戦争を回避しながらも外交上の成果を達成しようとした。しかし,1938年秋のフランスへの強硬要求も失敗に終わり,39年3月のスペイン内戦の終結もイタリアの成果とはならず,なんらかの行動が必要となり,4月アルバニアに侵攻した。それに対してイギリスは直ちにギリシア,トルコへの軍事援助を申し入れ,イタリアは孤立化の恐れに直面し,ドイツに接近し,5月22日鋼鉄条約が締結され,ドイツとイタリアは軍事同盟関係に入った。しかし戦争準備が不十分であることは明確であり,8月ドイツから参戦要請がなされると,イタリアの指導者は参戦派と中立派に二分され,結局8月25日非参戦の通告を行った。

 チェコスロバキア解体後,焦点はポーランドに移された。1938年秋よりドイツはポーランドにダンチヒ(現,グダンスク)の返還等を要求しており,39年3月には一層の圧力をかけ,4月上旬に侵攻作戦(〈白色作戦〉)の準備を開始した。それに対してイギリスは,3月31日ポーランドの安全を保障する声明を発表した。イギリスとドイツはソ連接近を開始した。4月より徐々に軌道にのりはじめたソ連とイギリス,フランスの交渉は,双方が相手は自国だけをドイツと戦わせるのではないかと疑いながら進められたためほとんど進展をみせず,その一方,5月より開始された独ソ交渉も進展をみせなかったが,ソ連の安全保障の懸念から,またドイツの対伊関係の不調から8月に入り急速に進み,23日独ソ不可侵条約が締結された。おりしも8月上旬ダンチヒをめぐりドイツとポーランドとの関係は極度に悪化しており,8月23日ヒトラーは26日に予定した攻撃命令を出した。しかし,25日にイタリアから非参戦の回答とイギリス,ポーランド間の相互援助条約締結の知らせが届いたため,攻撃命令を取り消し,イギリスと再度交渉をもった。しかし,それも失敗したため,31日攻撃命令を下し,9月1日ドイツ軍はポーランドに侵攻した。第2次世界大戦の勃発である。


日独防共協定  
にちどくぼうきょうきょうてい 

1936年11月25日調印された日本とドイツの対共産主義協定。正式名称は〈共産インターナショナルに対する日独協定〉。コミンテルンの活動に対抗するため,相互協力と情報交換,国内共産主義活動の弾圧を約束した本文・付属議定書,一方の国がソ連と開戦した場合には他方の国はソ連に有利となるいっさいの行動を控えることを協定した秘密協定からなる(付録に交換公文が付随)。協定締結をめざす交渉は正規の外交ルートの外側,すなわち駐独陸軍武官大島浩とナチ党のリッベントロップとの間ではじまり(1935年5~6月ころ),協定原案のめどが立ったのちに正式の政府間交渉へと移され,最終的には武者小路公共駐独大使と特命全権大使リッベントロップとの間で調印された。日本側の主たるねらいは仮想敵国ソ連に関する情報の入手,対ソ戦時にドイツをしてソ連を牽制させることにあり,協定内容を秘密にしておくことを望んだが,ドイツ側が公表を強く希望したため,日本側の意図は付属議定書・秘密協定に盛り込まれるかたちになった。防共協定には第三国の参加を奨励することがうたわれていた。日本側はイギリス,オランダに加入を求めたが失敗に終わった。イタリアは積極的に参加を求め,37年11月6日に防共協定と付属議定書に原署名国として調印,参加した。38年夏から防共協定を対ソ・対英仏の軍事同盟にまで強化しようとする動きが日独伊3国の間に生まれ,日本ではそれを強硬に要求する陸軍と,対英仏軍事同盟には否定的な海軍・外務省が外交路線の選択をめぐって激しく対立しあった。いわゆる防共協定強化問題である。⇒日独伊三国同盟           永井 和

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2020年3月2日月曜日

[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)10/20 『秋』の部

引き続き安西水丸さんの俳画集より。

水丸さんは夏の俳句がお得意のようですね。




『秋』の部



七夕や昔ばなしに節度なく
(たなばたや むかしばなしに せつどなく)「七夕」


立秋やうたたね女のふくらはぎ
(りっしゅうや うたたねおんなの ふくらはぎ)「立秋」


新生姜酢漬のびんや肌の色
(しんぎょうが すづけのびんや はだのいろ)「新生姜」


ポケットの穴に指ふれ九月の雨
(ポケットの あなにゆびふれ くがつのあめ)「九月」


さざ波や鰯の肌のそのままに
(さざなみや いわしのはだの そのままに)「鰯」

[その他] 身を粉(こ)にして働きました





勤務先のマンションの庭ホウキです。

このマンションは外周が長く、庭ホウキを使う時間が長いです。

5カ月ちょっとで3分の2ぐらいにすり減ってしまいます。

新しいホウキと比べると感慨深いですね。


[自分史のレッスン] 四番目の孫 誕生



3月2日(月曜日)午前6時30分、私たちの次女に男子誕生。

次女にとっては二人目の子どもで、次男になります。

母子ともに元気でひとまず安心しました。

私たち夫婦にとって、四番目の孫になります。

もう自分史ではなくて、他人の歴史となってます。

名前はもう決まっていて、「直志(なおゆき)」君といいます。


2020年3月1日日曜日

[積読立読斜読]『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』 第1章 立憲革命としての明治維新

引き続き『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』(中公新書)をスローリーディング中。本日は「第1章 立憲革命としての明治維新」を読みました。

「憲法制定」に重点を置いた明治維新概論で非常に読みごたえがあり、読書ノートも膨大なものになりました。



非西洋諸国で独力で憲法を制定して長期間維持できたのは日本のみであり、明治政府の指導者は国制の設計にあたり、立憲制=議会制(代議制)を導入させると同時に、国政を担う国民の創出という共通認識があった、という重要な知見を得ました。

大久保・木戸亡き後、国政の設計という視点で伊藤博文の評価が高く、明治憲法の草案の中心となった井上毅も評価しています。

「立憲革命としての明治維新」は裏返せば、早急な憲法改革は厳に慎むべきであるという、現自民党政権への批判とも受け取れました。

この筆者に歴史講義を依頼した当時の自民党の懐の深さを感じました。


<著者プロフィール>
瀧井 一博(たきい かずひろ、1967年生 )は福岡県生まれ。京都大学法学部卒。法制史学者。専門は主に国制史、比較法史。国際日本文化研究センター教授。

筆者は法制史が専攻で、明治憲法を中心とした近代日本の国制(国のかたち)の成立と変容が中心研究課題。

第1章 立憲革命としての明治維新

世界史にとっての明治維新

日本の明治維新以来の近代化を客観化し(2018年は明治維新150年)、そこから世界の他の歴史に繋げられ、また何が寄与できるかという知的資源を編み出すことが重要。

この章では、明治憲法の制定に至る立憲制度の受容・生成の過程を概説し、そこから日本憲法史の世界史的意義について試論する。

19世紀において、立憲制度とは、国民の政治参加を保障する議会制度の存立と不可分であったので、本章においては、立憲制=議会制(代議制)として、同義語に用いる。


公儀輿論―立憲体制導入の前提

1868(慶應4)年の五箇条の御誓文に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と議会制の導入が掲げられていた。当初の原案では「列候会議ヲ興シ」とされていたが「会議」に変更された。

維新の指導者の間では天皇主権・国民代表機関(議会)の創設は共有されていた。岩倉具視は1869(明治2)年に行った提言の中で「議事院」の創設を説いている。

議会制度の採用には時間がかかり、帝国議会の開設は1890(明治23)年であり、20年以上の時を必要とした。

廃藩置県は、公儀輿論体制の制度的確立という観点から見れば、その頓挫

転機となったのは岩倉使節団
参加した大久保利通、木戸孝允が、ともに立憲制度の採用について意見書を著した


岩倉使節団と憲法制定への旋回―木戸孝允と大久保利通の立憲論
木戸孝允の立憲論
当初は天皇と政府による有司専制として、国家を担言える国民の創出を待って、独裁から君民同治へと斬新させる

大久保利通の立憲論
欧米各国の多様な国制は、それぞれに歴史的背景があり、どれが優れていると一概に判断できない
その国の政治の仕組みとは、その国の文化や国民性といった所与の条件によって自ら形作られたもの
日本の環境と政治風土にあった国制の確立が重要

木戸と大久保は憲法の制定という大方針で意見が一致していた

木戸も大久保も存命中に立憲制度の成立を目にすることはできなかったが、実現にこぎつけたのは伊藤博文


伊藤博文と明治憲法の制定

日本の立憲国家への歩みは、明治政府の指導者たちによってまず官主導として始まり、征韓論政変後、板垣退助ら在野の勢力による自由民権運動(国会開設運動)が起こり、官民双方からの立憲化の運動が起こった

明治憲法制定への画期となったは明治十四年の政変
政府内でイギリス流の議員内閣制を提唱する急進的な大隈重信は、汚職事件にも連座し、大隈一派は政府から追放

内からの大隈意見書、外からの自由民権運動による政府批判により、明治政府は勅諭によって1890(明治23)年の国会の開設と、先立つ憲法の制定を公約

政府内では井上毅を中心に、プロイセンに範をとった、君主主義的な憲法構想を作成すると同時に、憲法を実際に機能させるために不可欠な憲法附属法(皇室典範、議員法他)も起草された

憲法を機能させるための全体的な国家制度の設計は、伊藤博文による「滞欧憲法調査」(明治15)でヨーロッパの憲法調査が反映されている

伊藤博文の一連の改革
(1)宮中改革(天皇に立憲君主としての教育)
(2)内閣制度の導入(太政官制度を刷新、国民が誰でも大臣になることができる)
(3)官僚制の整備
(4)帝国大学の設立(官僚養成機関)


世界史的遺産としての明治立憲制

明治維新の革新性についてはさまざまな評価がある

(1)植民地化の脅威をはねのけて国家としての独立を維持した独立革命・民族革命と見なす
(2)廃藩置県や四民平等といった重大革命を成し遂げて統一的主権国家を樹立した国民革命と見る

筆者は、明治維新を立憲革命として捉えている。明治22年の大日本帝国憲法の成立をもって、20年以上に及ぶ長い革命のプロセスとして、明治維新を捉えるべき。

非西洋世界で憲法を制定したのは、チェニジア(1861年)、オスマン帝国(1867年)があるが、いずれも長続きせず、憲法停止を余儀なくされた。

(1)長期的視野
木戸、大久保らの政治指導者は、立憲制度の導入に漸進主義をとった

(2)国民国家という前提
立憲制度とは国民の政治参加を保障する制度
国の政治に責任を負う国民という主体の確立施策にはさまざまなものがある
「歴史主義の宣揚」は、岩倉使節団、伊藤博文に共通した認識

西洋世界では国ごとに政治制度・社会の仕組みは異なるが、歴史主義が基本的な思潮であり、歴史を共有する国民が法や制度の担い手であるという認識は共通

(3)憲法の相対化
伊藤博文は、憲法の運用には、有機的な制度の連環が必要と考えた

(良い面)実際に議会政治が始まると藩閥政府との対立をもたらしたが、やがて政党政治が定着、議員内閣制への制度的変容の兆しもあった

(悪い面)昭和期に入って、世界的な反議会主義の潮流のなかで日本も全体主義と総力戦体制に取り込まれていく

日本憲法史は正負の側面があり、日本は憲法史の歴史的経験を踏まえて、これから立憲制度を導入しようとする国、うまく機能していない国、に対して、なにがしかの助言ができる立場にある。


<資料編>

大日本帝国憲法  (だいにほんていこくけんぽう )

1889年2月11日発布され,90年11月29日より施行され,形式的には1947年5月2日まで存続した憲法典で,〈明治憲法〉あるいは〈旧憲法〉とも呼ばれる。

[制定過程]  明治維新にあたり政府は五ヵ条の誓文,政体書を出し政府組織を整えるとともに,版籍奉還,廃藩置県,身分制の廃止,徴兵令,地租改正等によって近代国家としての体裁を形成していった。しかし,西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるためには,富国強兵政策を推進する一方で,文明国にふさわしい近代法典を整備する必要があった。法典の中心をなす近代憲法制定の動きは1874年の民斤議院設立建白書に触発されたが,政府は急速な憲法制定を望まず漸進主義をとった。翌年設立された元老院がこの方針の下で憲法案の作成にあたり,ベルギー憲法,プロイセン憲法に範をとった〈日本国憲按〉が78年にできたが,その立憲的傾向は岩倉具視などのいれるところではなかった。
 他方,明治10年代に活発化した自由民権運動の中からは,イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな憲法私案(私擬憲法)が発表されたが,もとより政府の採るところではなく,自由民権運動自体がやがて抑圧されていった。
 しかし,〈明治14年の政変〉により〈国会開設の詔〉が出され,これによって1890年を期して国会が開設されることになり,それまでに憲法も制定されることになった。そこで伊藤博文が渡欧し,主としてドイツ,オーストリアでグナイスト,シュタインについて憲法制度の取調べを行った。帰国後,伊藤はレースラーの意見を参考にしつつ,井上毅,伊東巳代治らとともに憲法案を起草し,その成案は1888年に設置された枢密院の諮詢を経て,89年2月11日,大日本帝国憲法として公布された。しかし,公布に至るまでその内容は国民にはまったく秘匿されていた。

[内容]  (1)基本的特色 大日本帝国憲法は,西欧諸国の近代憲法の体裁を一応とっていたが,君主権の強いドイツ型立憲君主制を範とし,それに日本独自の天皇中心の国家観を加味したものであっただけに,絶対主義的色彩を強く帯びていた。このため旧憲法は,議会を設けるなどの立憲的要素と絶対主義的要素の両要素からなっており,しかも後者が顕著なので〈外見的立憲主義〉との評価が与えられている。旧憲法は上喩と7章76条からなる簡潔なものであるが,天皇が制定した欽定憲法であり,その改正発案権は天皇のみにあり,発布の際の勅語では永遠に不滅な〈不磨の大典〉として位置づけられていた。実際,日本国憲法制定まで一度も改正されることがなかった。なお,皇室に関する事項については,皇位の継承等を含めて,別に皇室典範が制定され,宮務法の最高法規とされており,政務法の最高法規とされた旧憲法とともに二元的法体系がとられていた。

(2)天皇 第1章が天皇であり,それは17ヵ条という比較的多くの規定で構成されていることに示されるように,天皇は旧憲法の中核であった。〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉(大日本帝国憲法1条)とされて天皇は主権者であるとともに,元首として統治権を総攬した(4条)。この天皇の地位は天孫降臨の神勅によって根拠づけられていたので,〈天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス〉(3条)との規定から文字どおり天皇を現人神(あらひとがみ)とみる解釈を生む一方で,国家に対して強い宗教性を与え,神道の国家宗教化をもたらした。天皇は憲法の条規により統治権を行使したが,立法権は議会の協賛によって,また広範な大権は原則的に国務各大臣の輔弼(ほひつ)によって天皇がこれを行い,司法権は天皇の名によって独立の裁判所がこれを行った。他方,天皇は皇室の長として皇室事務を統裁した。

(3)統治構造 天皇の下で統治権の行使に関与する機関は帝国議会,国務大臣,裁判所の3機関分離制をとっていた。立法に協賛する機関として帝国議会が存在したことは旧憲法の立憲的側面の最たるものであるが,天皇に議会が関与しえない独立命令権(9条)などの副立法権が認められていたことや,公選による衆議院と基本的に対等なものとして皇族,華族,勅任議員などからなる貴族院が設置され国民の意見を抑制していたことなどに非立憲的側面が表れている。大権・行政権を輔弼する国務各大臣は天皇によって任命され,天皇に対してのみ責任を負うものとされており,内閣総理大臣は同輩中の首席にすぎず,その権限は弱かった。また,統帥大権や栄誉大権などには国務大臣の輔弼が及ばないなど,その権能には限界があった。他方,財政権については議会の責任追及を免れうるよう配慮されており(63,67,71条),非立憲的要素が加重されている。司法権の独立は大津事件(1891)などをとおして一応守られていたが,軍法会議といった特別裁判所や,行政事件を終審として扱う行政裁判所(行政裁判)が設置されていた。
 以上の立憲的な機関のほかに,天皇の諮詢にこたえて重要な国務を審議する枢密院が設けられていたが,枢密顧問官は勅任であり,国民の統制は及ばなかった。また,憲法外の機関として,天皇を常時輔弼する内大臣や,次期内閣総理大臣を天皇に推薦した元老などがあり,事実上政治に関与した。軍は慣習法的に認められていた〈統帥権の独立〉によって天皇以外の何ものにも制約されない立場にあった。このように,旧憲法下には非立憲的機関が複雑に存在し,天皇以外にこれらを統括するものはなく,各機関が各個に無責任になりがちであった。

(4)権利 旧憲法は一応表現の自由などの権利を認めていたが,それは西洋の近代憲法における基本的人権のような自然権的・前国家的な権利ではなく,天皇が恩恵的に〈臣民〉に与えた後国家的権利にすぎなかった。実際に,信教の自由を除いて,いずれも法律によって制限できるか,法律の範囲内において認められる権利であった(〈法律の留保〉)。〈法律の留保〉のない信教の自由についても〈安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限〉(28条)において認められる権利であったから,現人神たる天皇ひいては国家神道(靖国神社,伊勢神宮)を礼拝することが臣民に強制されることになった。
 なお,非常時には,天皇はこれらの権利を全面的に停止することができた(非常大権)。また,皇族・華族などの特権身分を設けたので,平等原則に関する一般的な規定はない。
[解釈と運用]  絶対主義的・立憲的の両面をもつ旧憲法の解釈において,天皇大権を強調する方向で理解しようとする穂積八束,上杉慎吉ら(神権学派)と,立憲的側面を中心に理解しようとする美濃部達吉ら(立憲学派)との対立があった。両者は,〈国体〉概念を憲法上認めるか,天皇は統治権の主体であるか,天皇を神格化するか,大権行使に議会の参与は許されるか,輔弼は大権行使の要件であるかなどの点で鋭く対立した。この結果,神権学派によると,神格化された天皇が具体的決断を行い,他の機関は天皇の決断を助ける存在でしかないことになるが,立憲学派は,国家の最高機関である天皇とともに議会を直接機関として位置づけることによって天皇の地位・権能を相対化し,憲政の議院内閣制的運用を期待した。また,後者では国務大臣の輔弼に実質的拘束力が期待されていたので,現実の政治は議会の信任に基礎をおく内閣によって行われ,天皇はその上部に権威として存在することが構想されていた。

 旧憲法の実際の運用において,大正デモクラシーの時期から立憲学派的理解が有力となり,議会主義に重点をおく政党内閣制の時代が実現した。しかし,昭和に入り軍部の勢力が強まると政党内閣制は崩壊し,立憲学派的理解も批判の的となり,1935年の〈天皇機関説事件〉を契機に政治的・物理的に圧殺された。また,立憲学派でも肯定されていた〈統帥権の独立〉によって内閣等が軍令事項に口をはさめない一方で,陸・海軍大臣は武官でなければならないという〈陸海軍大臣武官制〉(軍部)によって軍は公然と政治に口をはさめるばかりか内閣の進退をも左右できたので,昭和になっての軍部の独走を制度的にも許すことになった。しかも,陸軍・海軍を唯一人統括できる天皇が軍令機関の輔弼に対して消極的に対応する状況の下では,各軍の独走を制約するものは何もなく,結局は歯止めのないまま全面戦争に突入することになったのである。権利についても,治安維持法や治安警察法などの権利制約立法が乱立し,実態的に権利はなきに等しい状況があった。そして,法律規制事項を大幅に命令規制事項にした1938年の国家総動員法によって旧憲法の立憲的要素は実質的に払拭された。⇒天皇
                        横田 耕一

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伊藤博文  1841‐1909(天保12‐明治42)(いとうひろぶみ)

明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換をはかったが失敗した。幕府の第1次長州征伐に対する藩首脳の処置に反対して高杉らと挙兵,藩内戦に勝利して藩の主導権を握り,幕府との武力対決に備え諸改革を進める中でとくに武器の輸入や他藩との交渉の任に当たった。

 1868年(明治1)外国事務掛として明治政府に出仕し,参与兼外国事務局判事,兵庫県知事を歴任,翌69年には陸奥宗光らとともに中央集権化構想を含む政治改革案を建白し,木戸孝允の下で開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔に転じ民部少輔を兼任,鉄道建設や貨幣制度の改革を推進した。さらに71年には遣外大使岩倉具視の副使となって米欧に出張(岩倉使節団),その間に同行した大久保利通の信任をえた。73年帰国,政府内で問題化していた征韓論争では岩倉・大久保らを支持して征韓派を退け,その後の政府改造により33歳の若さで参議兼工部縁に就任した。75年には前年の台湾出兵に反対し下野していた木戸の政府復帰のために大阪会議を斡旋し,漸次立憲政体に進むとの詔勅や,元老院・地方官会議の新設など,政治体制の一定の改革を実現した。

 78年大久保の横死後,内務縁を継いで政府の中枢に位置し,明治14年の政変では進歩的な立憲政体を構想する参議大隈重信とそのグループを政府から追放するとともに,90年の議会開設を約束する詔勅を出して自由民権運動の鎮静化をはかった。1882年に渡欧してプロイセンの憲法ならびに諸制度の調査に当たり,帰国後,華族令の制定をはじめ立憲体制への転換に対応する一連の制度改革に着手した。

 85年12月内閣制度を創設して初代首相に就任し醍長両藩出身者を中心に第1次内閣を組織した。議会開設に備えて官僚組織を整備し,市制,町村制など,地方名望家層中心の地方制度確立をはかるとともに,小学校令から帝国大学令に至る一連の学校令を制定して戦前における基本的な教育体系を整えた。また,87年外相井上馨の下で進めてきた条約改正に反対する声が政府内からおこり,さらに民間からも旧民権派などを中心に大同団結運動,三大事件建白運動が高まると,改正交渉を中止し,井上外相を辞任させるとともに,12月には保安条例を公布して反政府運動を弾圧した。この間,伊藤首相と井上毅,伊東巳代治,金子堅太郎らの手によって大日本帝国憲法,皇室典範ならびに憲法付属の法典の起草が進められていたが,それらの審議のため88年4月には枢密院を新設し,伊藤は首相を辞任して議長に就任,各草案の審議を主導した。

 帝国議会の開会に当たって,90年には初代の貴族院議長となり,山県有朋・松方正義両内閣が民党からの攻撃に直面した議会の運営に助言を与え,92年にはみずから政党結成をも企図した。同年8月組織した第2次内閣は閣僚に元勲層を網羅する強力内閣として民党と対抗,翌93年には懸案の軍艦建造費を詔勅によって実現した。さらにこの内閣の条約改正に反対する対外硬運動の高まりに対しては再度衆議院を解散して交渉を続け,ついに94年7月日清戦争開戦の直前に日英通商航海条約を調印し,法権と一部税権の回復に成功した。また日清戦争に際しては強引な開戦外交を展開し,一応挙国一致の態勢による戦争指導に成功するが,95年日清講和条約の調印直後に三国干渉をうけて遼東半島の還付を余儀なくされ,再び対外硬派の批判をうけることになった。そのため軍備拡張を中心とする戦後経営の実現が必至の課題となり,第9議会では自由党の支持をとりつけて膨張した予算案ならびに関連諸法案を通過させ,閉会後には自由党総理板垣退助の入閣を実現した。さらに進歩党の指導者大隈重信を入閣させて挙国一致内閣をめざしたが,閣内不統一となって96年8月総辞職した。

 98年1月伊藤は第3次内閣を組織し,自由・進歩両党との提携を策して失敗,第12議会に提出した地租増徴法案が両党の反対で否決されたため衆議院を解散した。その一方で政党結成に乗り出すが,山県らの強い反対にあって挫折し,6月総辞職した。その後,清国を遊歴して帝国主義諸列強によって租借地や利権が獲得されている実態を直視して帰国,国内体制の強化を緊急の課題であると認識し,政党結成に着手,1900年9月には伊藤系官僚と憲政党を中心に立憲政友会を創立して総裁に就任した。10月政友会幹部を閣僚として第4次内閣を組織したが,第15議会に提出した増税案がその政党内閣的な色彩に反発する貴族院各派の反対に直面し天皇の詔勅によってかろうじてその難局を切り抜けた。しかし次年度の財政政策をめぐって閣内対立し,01年5月総辞職した。これ以後,政友会総裁として桂太郎内閣との折衝を任とする一方,元老として日露協商の可能性を打診するため訪露するが,政府の推進する日英同盟の交渉が先行して予期した成果は得られなかった。また,野党化した政友会と桂内閣との利害対立が表面化し,伊藤が推進した妥協策はかえって党内の紛糾を増幅することになり,03年7月総裁を辞任して枢密院議長に就任した。続く開戦前の対露交渉から講和に至るまで日露戦争の全局面を元老の一人として最重要政策の決定に関与し,戦後の05年12月には新設の韓国統監府の初代統監となり,韓国の保護国化を進め,07年のハーグ密使事件を契機に皇帝を譲位させ,内政権を大幅に削減するとともに軍隊を解散した。しかし朝鮮民衆による義兵闘争は高まり,日本政府内にも併合の早期強行論が台頭する中で09年6月統監を辞任,枢密院議長に復帰した。同年10月日露関係の調整のためロシアの蔵相ココフツォフと会談すべく渡満,26日ハルビン駅に到着直後に韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

 伊藤は幕末の激動の中で貧農の家から身をおこし,明治藩閥政府の官僚として権力の階梯を上って位人臣を極めた。その間,藩閥間の対立を調停したり,敵対していた政党とも提携するなど,妥協性を発揮し,また,国際通をもって自任し対外政策の面では複雑な国際関係を顧慮してつねに慎重な対応を示した。元老中では明治天皇の信任厚く,明治国家が当面していた困難な内外政局を藩閥官僚層の頂点にたって処理したその政治的手腕は凡庸でなかったといえる。  宇野 俊一

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明治14年の政変 (めいじじゅうよねんのせいへん)

明治14年(1881)10月,醍長藩閥政府の専制的な体制を固め,天皇制立憲国家への道を確定した政変。その具体的内容としては,(1)開拓使官有物払下げの中止,(2)10年後の国会開設の公約,(3)参議大隈重信一派の追放などがあげられる。

 1879年末から翌年にかけて,伊藤博文,井上馨以下の諸参議は憲法意見書を奏上していた。そのころ,自由民権運動もしだいにその基盤を広げるとともに,80年3月の第4回愛国社の大会を国会期成同盟へと改組し,国会開設を運動の主要目標にしはじめていた。太政官に提出された〈国会を開設するの允可を上願する書〉には,天賦人権論にもとづく参政権,徴兵義務・地租納入にともなう政治的権利の獲得,財政危機の克服,国権の確立等の実現のために国会を開設せよ,とうたわれていた。政府は集会条例(1880年4月公布)によって運動の取締りを強化したが,同年11月の第2回国会期成同盟の大会は,その団結や実力養成を標榜するとともに,政党組織や憲法案の研究が課題とされ,豪農商層を中心とした民権運動はいちだんと国会開設要求を強めつつあった。

 1881年1月,伊藤博文,井上馨,大隈重信の3人の参議によるいわゆる熱海会議がもたれた。自由民権運動に対応して,国会開設や新聞発行などをめぐって意見が交わされたのである。しかし,具体的構想については必ずしも意見は一致しなかった。伊藤,井上の慎重論に対して大隈は急進論を唱えていたからである。その大隈が,督促によって3月,左大臣有栖川熾仁(たるひと)に憲法意見書を提出した。この大隈の意見書は,すでに出されていた他の諸参議の官僚的漸進論に対立的な急進論で,基本的には欽定憲法を認めてはいたものの,イギリス流の政党内閣制を主張し,ただちに憲法を制定し,82年末から83年初めにかけて国会を開け,というものであった。執筆には福沢諭吉門下で大隈のもとにあった矢野竜渓(文雄)があたっていた。6月,太政大臣三条実美を通じてこの大隈意見書を借覧した伊藤は,君権の放棄だと大隈を非難し,右大臣岩倉具視と結んで,皇室の基礎を強固にし,天皇の大権を確立する国家組織の方針を固めた。そのためにも大隈とその背後にあるとみられた福沢一派の交詢社系をたたき,醍長藩閥体制の強化を図らなければならないと考えた。そこに開拓使官有物払下事件が起こったのである。開拓長官黒田清隆は,政府がそれまで10年間に約1400万円つぎこんできた開拓使の官有財産を無利息30ヵ年賦38万円という不当な安値で,醍派の政商五代友厚らの関西貿易商会に払い下げようとした。これは開拓使内部で黒田が,醍摩出身の開拓大書記官安田定則らに北海社という新会社の設立とそれへの払下げという形で検討させていたものであった。この払下げが民間にもれるや,藩閥政府攻撃の世論は高まり,民権運動は激しさを加えた。政府部内には大隈が反対していたから,矛先は大隈攻撃に向けられ,いわゆる大隈陰謀説が流された。大隈は醍長藩閥打倒のために河野敏鎌農商務縁らと謀り,輩下の官僚に働きかけて福沢ら三田派と通謀し,後藤象二郎,板垣退助ら土佐派の民権家と気脈を通じ,政商岩崎弥太郎(三菱)に資金を出させ,陰謀をはかっている,というのである。当時,すでに伊藤と大隈の対立は不可避になっていた。醍派(黒田・西郷従道ら)と大隈との間にも対抗関係があったから,開拓使官有物払下事件をきっかけに,それらが表面化したのである。大隈に対する醍長派の対立・緊張関係が,伊藤と黒田とを結びつけ,大隈追放劇としての明治14年の政変を進行させた。

 政府は開拓使官有物の払下げを中止するとともに,大隈の罷免,1890年を期しての国会開設を約束した詔書の発布という三つの措置に出た。それはおりから高まる自由民権運動を弾圧するためにも必要な政治的処断だった。1881年10月12日,大隈が参議を免じられ,一派と目されていた農商務縁河野敏鎌,駅逓総監前島密,判事北畠治房以下,矢野文雄(統計院幹事兼太政官大書記官),犬養毅(統計院権少書記官),尾崎行雄(同),中上川彦次郎(外務権大書記官),小野梓(一等検査官),島田三郎(文部権大書記官),中野武営(農商務権少書記官)らも相ついで罷免され,あるいは職を辞した。そして,10年後に国会開設を約束する詔書は,岩倉―伊藤ラインの懐刀として活躍した井上毅がいうように,それによって多数の人心と中立派を政府側にひきつけ,また,反対派には抵抗を呼び起こして敵と味方とを明確にせしめるという政治的意図が秘められているとともに,政府反対派へは,〈処スルニ国典ヲ以テスベシ〉と弾圧を明確に宣言していたのである。

 この明治14年の政変の意義としては,次の諸点が指摘できる。第1に,自由民権運動の展開が国会開設をもはや不可避の課題として政府を追いつめていたこと,そして,政府内の不統一や財政政策の破綻が暴露されて,政府は10年後の国会開設の明示を余儀なくせしめられ,政変は立憲制への画期となった。第2に,その反面,政府はこれを機に藩閥体制をいっそう強固にした。大隈の罷免後ただちに太政官制が改正され(10月21日),太政官と諸省の分離も中止され,再び参議は諸省の縁を兼任した。また,太政官中に強力な権限をもつ参事院が設置され,伊藤が参議兼参事院議長となって,醍長藩閥政府の陣容が整えられた。第3に,政変の背後には政商ブルジョアが存在し,それが一定の政治的影響力をもちはじめた。また,この政変を機に大隈財政は松方財政へと変わり,商人資本の産業資本への転化がなされはじめた。第4に,翌82年の朝鮮の壬午軍乱(壬午の変)以降の対外緊張と相まって,国家権力の専制的軍国主義的体制強化が急速に推進された。かくして,一方では立憲制への方向を打ち出しつつも,他方では専制的軍国主義的な体制の強化が促進され,明治14年の政変は近代天皇制国家確立への大きな画期となった。        田中 彰

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大隈重信  1838‐1922(天保9‐大正11)(おおくましげのぶ)

明治維新から大正期にかけて,財政・外交にすぐれた手腕を発揮した政治家。佐賀藩の上級士族の家に生まれ,幼少から藩校弘道館で漢学を学び,のち蘭学に移り,ついで長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英学を学び世界的な視野を開いた。幕末の政局で,彼は尊攘派として長州藩の外国船砲撃事件(1863)を支持し,1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしたが捕らえられ,王政復古のときも藩主に討幕出陣を勧めたが入れられなかった。68年(明治1)新政府の成立と同時に徴士参与職として外国事務局判事となり,キリスト教徒処分,贋貨処分などの外交を担当した。このあと外国官副知事,会計官副知事,民部大輔,大蔵大輔,大蔵省事務総裁,地租改正事務局総裁,大蔵縁,参議などを歴任し,鉄道・電信の建設,工部省の設立や幣制改革,地租改正,秩禄処分などを主宰し,1881年(明治14)までいわゆる〈大隈財政〉を展開した。また,三菱汽船会社を助成し,三菱財閥との関係を深めた。しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,醍長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。96年進歩党を結成して党首となり,第2次松方正義内閣の外務大臣となったが,98年6月に板垣退助と憲政党を結成して日本最初の政党内閣(隈板内閣)を組織した。しかしこの内閣は,醍長藩閥ならびに官僚グループの抵抗と党内の自由,進歩両派の対立から,みるべき政策を展開することなく10月に瓦解した。1907年に党首を辞して早大総長となり,著述や講演などの文化活動を続けた。第1次護憲運動後の14年立憲同志会を与党として第2次大隈内閣を組織した。この内閣は,成立後まもなく第1次世界大戦への参戦を決め,翌年中国に二十一ヵ条を要求するなど,日本を軍国主義と中国侵略へ導く役割を演じて16年10月辞職した。葬儀は国民葬として行われた。                中村 尚美

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井上毅  1844‐95(弘化1‐明治28)(いのうえこわし)

明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10‐20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72‐73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナード,レースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩みつづけ,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。            長尾 竜一

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[積読立読斜読] 『水丸さんのゴーシチゴ』(ぴあ、2018年刊)9/20 『夏』の部

引き続き安西水丸さんの俳画集より。

この七句で『夏』の部が終わりますので、いつもの投稿より句数が多いです。

最後のビーチボーイズの句は季語がありませんが、水丸さんにとって「ビーチボーイズ」は当然のように夏の季語なのでしょう。

危うい不倫(?)の句「夏痩せと恥じらいし背の白さかな」がよいですねえ。




『夏』の部



夕焼けを背おいて富士の黒さかな
(ゆうやけを せおいて ふじのくろさかな)「夕焼」


短夜や夢のほころび縫い合わせ
(みじかよや ゆめのほころび ぬいあわせ)「短夜」


佐原なる小江戸歩きや遠花火
(さはらなる こえどあるきや とおはなび)「遠花火」


夏痩せと恥じらいし背の白さかな
(なつやせと はじらいし せのしろさかな)「夏痩」


十五歳昼寝のなかの漂流記
(じゅうごさい ひるねのなかの ひょうりゅうき)「昼寝」


蛍ゆらゆら少年微熱の日
(ほたるゆらゆら しょうねん びねつのひ)「蛍」


光る歯のビーチボーイズはよろしくと
(ひかるはの ビーチボーイズは よろしくと)

[新聞記事] 見出しを読み解く 英国ハリー王子とメーガン妃の王室離脱


"Harry and Meghan: Do the disturbing origins of 'Megxit' mean we should stop using it?"

「ハリー王子とメーガン妃:『メグジット』という言葉の不穏な起源。この言葉はもう使うべきではないのか?」

2020年3月1日(日曜日)付け、朝日新聞別冊Globe連載記事。

英王室のハリー王子とメーガン妃は1月、英王室からの「離脱」を表明しました。

"Megxit"という造語は英国のEU離脱"Brexit"にかけて作られた造語ですが、記事によるとこれは今回の表面の際にできた造語ではなく、メーガン妃の出自をめぐって王室から追い出そうとする一部の人が作った造語だそうです。

下世話な興味では、王室離脱して収入はどうするのか、という点ですが。


2020年2月29日土曜日

[WGC] LLビーンのトートバッグ



大型のと小型のを収納とかに使ってます。右側のは20年ぐらい使用。

死ぬ時もこれだけで良いです。禅の「頭陀袋」かも。