序章
総力戦と帝国日本
—貧弱な資源と経済力のなかで
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総力戦が求めるもの
大東亜共栄圏とは、一言でいえばエリア内での経済的時給をめざした圏域とも言える。
大東亜共栄圏の考えの背景
(1)第一次世界大戦後、各国で総力戦体制の構築が課題となった
(2)帝国日本は総力戦体制構築にあたり、経済面で英米などの先発資本主義国に大きく依存していた
帝国日本は、アジアでは軍事大国として英米と覇権を争う軍事力を持っていたが、(経済面では)その英米に依存するという矛盾した二面性を構造的にもっていた(江口圭一による)
帝国日本は、欧州の第一次世界大戦での総力戦を見て、
大戦中から戦時における総動員体制の準備を始めた。
総力戦
そうりょくせん
国家総力戦ともいう。総力戦は戦争形態の面からみれば,20世紀の帝国主義時代における現代的国民戦争の一形態である。それは旧来の武力戦のみの戦争と異なり,武力戦を中心としつつ軍事,政治,経済,思想,文化など国家の総力をあげての激烈かつ長期にわたる過酷な戦争であり,とりわけその国の経済力と国民の政治的,思想的団結力が決定的に重要な意味をもつ戦争である。そして総力戦を戦いぬくためには,国家総力戦体制,すなわち一国のすべての国民と物的資源を有機的かつ有効に組織,統制,動員し,現代戦争を遂行するために必要な一元的戦争指導体制を樹立することが緊急の課題となる。
総力戦として戦われた最初の戦争は,第1次大戦(1914‐18)であった。イギリス,フランス,ロシア,ドイツなどの参戦国では,食糧や物資の配給,生産統制などの戦時統制経済が実施されるとともに,国民を積極的に戦争に参加させるための政治的・思想的動員が行われた。このような経験をもとに総力戦を論じ,世界的に大きな反響をよんだのが,ルーデンドルフ(元ドイツ国防軍参謀次長)の著書《国家総力戦》(1935)であった。そして第2次大戦(1939‐45)は,第1次大戦をはるかに上回る歴史上未曾有の総力戦となり,膨大な人命と物資が失われ,国家統制は経済,政治,思想,文化などすべての分野に及んだ。総力戦体制の面からみると,第2次大戦時には民主主義型(アメリカ,イギリスなど),ファシズム型(日本,ドイツ,イタリア),社会主義型(ソ連)という三つのタイプが存在した。すなわちアメリカ,イギリスなどでは,基本的人権の部分的制限や行政権の肥大化などの問題をはらみながらも,基本的には議会制民主主義を維持しつつ総力戦体制が構築され,日本,ドイツ,イタリア3国では立憲主義や議会制民主主義の全面否定のうえにファシズム権力による総力戦体制が築かれ,ソ連では社会主義制度に基礎をおく総力戦体制が作られた。
日本では第1次大戦末期から陸軍を中心に総力戦の研究が始まったが,実際に総力戦体制が構築されはじめたのは日中戦争勃発後である。1937年の輸出入品等臨時措置法など3法と38年の国家総動員法の制定によって戦時国家独占資本主義が成立し,戦時統制経済が全面化した。さらに国家権力による国民の画一的組織化は,大政翼賛会や国民義勇隊などの官製国民運動団体の結成,青少年団,婦人会,在郷軍人会など既成の教化団体の育成と統合,学校制度の再編成,天皇制イデオロギーの注入などを通じて達成された。徹底した言論,思想,文化の統制も行われ,総力戦体制の研究ならびに軍官民の中堅指導者を再教育するための内閣直属機関として総力戦研究所(1940年10月1日~45年3月31日)が創設された。しかし大日本帝国憲法が定める分立的国家機構が障害となり,国務と統帥の矛盾をはじめとする支配層内部の矛盾と対立は解決されず,日本は一元的戦争指導体制を確立しえないまま敗戦を迎えた。⇒国家総動員 木坂 順一郎
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国家総動員
こっかそうどういん
国家の勢力下にあるいっさいの資源や機能を戦争遂行に最も有効に利用するように統制運用するための措置。帝国主義の時代にはいると戦争は強国,さらには国家群の間の大規模かつ激烈な総力戦となった。膨大な軍隊が動員され,銃砲,弾薬から軍艦,戦車,航空機など破壊力が強大で遠距離を攻撃しうる高度な兵器が大量に消費される消耗戦となり,前線のみならず軍需生産や輸送・通信等の後方勤務に人民と資材が全面的に動員された。政治・財政から科学や芸術までがこれに奉仕させられ,人民の日常生活のすみずみにまで統制が及んだ。戦闘員と非戦闘員との差異が弱まるのと対応して,封鎖や空襲など一般人民への無差別攻撃も始まった。こうしたなかで政府,軍部と結ぶ軍需資本家が肥え太る一方,耐乏と犠牲を強いられる人民の苦痛は増大した。自国民の戦意の維持高揚をはかり,敵国民のそれを圧倒し崩壊させようとする宣伝戦ないし心理戦争が重視された。国家総動員はこのように広範な分野にわたっており,その計画,実施を統括し国政全体との調整をはかることが必要となるが,その仕組みはさまざまである。
[ヨーロッパ諸国] フランス革命は国民を徴集した大衆軍隊を生みだし,つづく産業革命はこれに近代的装備を施すことを可能にしたが,第1次世界大戦の前夜でも精鋭の軍隊による運動戦で短期間に勝利を収めることが目標とされた。長期戦による全面動員には国民経済が耐えられないと考えられたのである。だが第1次大戦は大方の予想を裏切って長期にわたる大消耗戦となった。交戦各国ではとりわけ戦争3年目に国家総動員体制が確立した。イギリスでは自由党左派の蔵相ロイド・ジョージが労働組合の協力をとりつけて軍需生産を拡大し初代軍需相となっていたが,1916年11月には首相に任命され,労働代表を含む5大臣で戦時内閣を組織して強力な戦争指導をはかり,ハンキー Maurice Hankey の指揮する内閣官房が能率的な事務処理にあたった。新設の船舶,労働,食糧,国民兵役の諸省の大臣などには実業家が大幅に起用された。政府が直接に国民に働きかける一方,議会の役割は低下した。連合国の戦争指導と総動員体制を統合することも企図された。イギリスでは政治家が国家総動員を推進したのにたいして,ドイツでは軍人が担当した。封鎖されやすいドイツでは,開戦直後に実業家W. ラーテナウの指導下に戦時原料局が設立され,大工業家や銀行家の協力を得て工業原料の統制を軌道にのせていたが,1916年8月にはヒンデンブルクを参謀総長とする最高統帥部による軍事独裁が成立し,ルーデンドルフが参謀次長兼兵站総監として実権をにぎり,国家総動員を推進した。W. グレーナー中将を長官に戦時庁がつくられ,軍需産業界に巨額の融資をおこなうとともに,労働組合指導者の協力をとりつけて男子労働力の全面動員をはかる祖国補助勤務法を実行に移した。両者のバランスが考慮されたのである。だが経済統制が労働力や生活必需品に及び食糧不足が激化すると,戦時利得者への憎しみや都市と農村との対立は深刻となった。1917年には戦争の重荷にあえぐロシアで社会主義革命がおこるが,この段階では国民の戦意をつなぎとめることが総動員の課題となった。
第2次世界大戦では,その開始に先立って総力戦のための国家総動員の必要が,とくにファシズム諸国で力説された。ナチス・ドイツでは,1933年のヒトラーの政権掌握直後から失業対策と秘密再軍備のために統制経済が発足し,1936年には本格的な戦争準備をめざす4ヵ年計画がゲーリングを大臣として開始された。宣伝相ゲッベルスの手で大規模な宣伝による大衆操作がすすめられ,ニュルンベルクの党大会の演出と宣伝には著名な建築家,音楽家,映画監督らが動員された。だがヒトラーは電撃戦による短期戦をつぎつぎに積み重ねていくことをめざした。彼は全面動員で国内の社会的緊張が激化するのを好まなかった。長期戦のための全面的な軍需動員が開始されるのは,短期戦計画が独ソ戦で破綻して以後である。第2次大戦において国家総動員を最も徹底しておこなったのは,イギリスとソ連であり,消費財生産のきりつめ方や女性の徴集ぶりを見ても明らかである。
[日本] 日本での国家総動員への動きは,第1次大戦中から陸軍を推進力として始まった。陸軍は開戦直後に臨時軍事調査委員をおき,各国の国家総動員についても研究させた。1918年には寺内正毅内閣のもとで軍需工業動員法が制定され,戦時における軍需工場の管理・収用と労働者の徴用,平時の工場調査と軍需工業の保護・育成を規定し,その事務を統轄するため内閣総理大臣のもとに軍需局がおかれた。臨時軍事調査委員は永田鉄山中佐が中心に〈国家総動員に関する意見〉(1920)をまとめたが,永田ら中堅幕僚はルーデンドルフの総力戦論を学んで総動員体制の推進を企てた。さきの軍需局は国勢院に統合されたのち行政整理で廃止されたが,いわゆる宇垣軍縮では兵器の近代化と総動員態勢の整備がとりあげられ,1926年に陸軍省に整備局,翌年内閣に資源局がおかれ,国家総動員の準備にあたることとなり,資源局には陸海軍人も出向した。だが当時の陸軍は将来戦は長期戦になると判断したものの,日本の国力からみて総力戦は至難だとして,奇襲開戦と連戦連勝による短期戦を戦略の基本においていた。
世界恐慌と満州事変で〈非常時〉が激化すると,国防国家の建設をめざす軍部の動きも活発化し,1935年には政策統合にあたる内閣調査局がつくられ,軍部と革新官僚との結びつきが始まった。二・二六事件後には参謀本部の中枢を占めた石原莞爾(かんじ)らは〈満州国〉にならって首相のもとに強力な総務庁をおいて国政全般を指導させ,生産力拡充を目標に国家総動員を強行しようとした。しかし,海軍の反対によって,1937年に内閣調査局の後身の企画庁と資源局とが合併して企画院ができたが,物資動員(物動)計画など国家総動員の事務機関にとどまり,各省にたいする優越性はもたなかった。〈支那事変〉(日中戦争)が始まると軍需工業動員法がとくに発動されたが,1938年には戦時またはこれに準ずる事変に際し政府に国家総動員のための広範な命令権を認める国家総動員法が,議会の審議権を影奪するとの批判を押しきって制定された。だが戦争遂行と生産力拡充とを併進させることは困難で,国際収支の悪化や労働力不足などのネックにぶつかった。太平洋戦争の段階では資材や船腹の配分をめぐって作戦用と軍事生産用,陸軍用と海軍用などの分捕り合戦が激化し,統帥権の壁がその合理的な調整を困難にした。日本が全面的な軍需動員にふみきったのはガダルカナル敗戦後の1943年の初めからで,民需を無視したねこそぎ動員が強行された。11月には陸海軍の航空機生産を一元化するため,商工省と企画院に代えて軍需省がつくられ,軍需会社はさらに特別の優遇措置をうけた。だが基礎資材の生産はすでに低下する一方で,最重点の航空機生産もアメリカ軍の本土空襲に先立って1944年秋には減少に転じていた。統帥権をふりかざし軍の威圧ですすめられた国家総動員が,その内実のもろさを露呈したものといえよう。⇒統制経済 今井 清一
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永田鉄山 1884‐1935(明治17‐昭和10)
ながたてつざん
陸軍軍人。長野県出身。1911年陸軍大学校を優等で卒業後,ドイツに駐在して軍事研究を行った。16年デンマーク駐在,20年スイス在勤帝国公使館付武官となり,第1次世界大戦前後のヨーロッパの軍事情勢を学ぶなかで国家総動員の必要性を認識するに至った。帰国後,23年に参謀本部作戦資材整備会議幹事,陸大教官,26年に陸軍省整備局動員課長,28年に第3連隊長,30年に陸軍省軍務局軍事課長,32年に参謀本部第2部長,歩兵第1旅団長と,いわゆる統制派の中心人物としてエリート・コースを進み,34年に軍務局長に就任した。国民,産業,財政などを一体とした国家総動員体制の基礎をつくり,陸軍省を切り回していたが,35年,皇道派の反撃にあい相沢三郎中佐に斬殺された。⇒相沢事件 芳井 研一
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モンロー主義
モンローしゅぎ Monroe Doctrine
アメリカの対外政策の伝統的基本原則。西半球におけるヨーロッパ諸国の勢力拡張に反対する立場,またそれに関連して西半球における自国の優越を主張する立場をいう。1823年にモンロー大統領は,ヨーロッパの神聖同盟諸国がスペインから独立したラテン・アメリカ諸国に干渉して君主政を押しつけ,それらの国々を神聖同盟に結びつけようとしたことに反対し,また西半球においてヨーロッパ諸国が植民地を拡大することへの反対を表明した。当時アメリカにはヨーロッパ諸国による西半球への干渉を阻止する力はなかったが,それにもかかわらず,アメリカの立場を強く表明したのは,海軍力の優勢なイギリスがこれら諸国による干渉に反対していたことを政府当局者が知っていたからである。またアメリカが,たいした軍備をもたないのにモンロー主義への挑戦を受けなかったのは,大西洋の海上権を握っていたイギリスが他国の干渉に反対し,自らは西半球での政治的支配拡大の意図がなかったからである。
その後,アメリカ政府は西半球の問題に関して,しばしば〈モンロー大統領の主義〉を拡大解釈して自国の政策を正当化した。活発な領土拡張政策がとられた1840年代には,ポーク大統領はメキシコとの戦争に先立って,イギリス,フランスがカリフォルニア併合を妨げる工作を行うことを警戒し,モンロー主義を援用して,ヨーロッパ諸国はカリフォルニア問題に干渉する権利はないと主張した。19世紀末には,アメリカはモンロー主義を西半球における自国の政治的優越の主張のために用いるようになった。1895年にオルニー RichardOlney 国務長官は,ベネズエラとイギリスとの紛争に際して,アメリカはモンロー主義により西半球の事実上の主権者であると述べ,この紛争についてアメリカの調停に応じるよう要求した。また20世紀初め,セオドア・ローズベルト大統領は,カリブ海地域の小国がヨーロッパの債権国の干渉を招くおそれがあったため,モンロー主義の名において,ヨーロッパ諸国による干渉に反対し,西半球で国際的に迷惑を及ぼす国がある場合はアメリカにのみ干渉権があると主張した。
アメリカは,モンロー主義の名の下に西半球における覇権を主張する一方で,1889年の第1回汎米会議以来,パン・アメリカ主義を旗印として,ラテン・アメリカ諸国との関係を親密にする政策をとった。しかしカリブ海地域での干渉政策とモンロー主義による干渉の正当化は,しだいにラテン・アメリカ諸国の強い反発にあった。アメリカは1930年にはモンロー主義による干渉権を否定し,33年には米州諸国間の相互不干渉の原則を承認した。第2次大戦から戦後にかけて,アメリカは西半球防衛のためのラテン・アメリカ諸国との協力体制の形成に努め,米州外の国からの米州諸国に対する脅威に共同で対処することを提唱した。48年の米州機構は,大戦中からの協力関係を機構化したものである。こうした協力体制は,モンロー主義を汎米化したものといわれた。⇒カリブ海政策∥孤立主義 有賀 貞
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